ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

森田童子の世界に堕ちろうコミュの「うたの旅人〜森田童子「ぼくたちの失敗」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「森田童子」は偽名である。
しかし、本名はいまだに明らかにされていない。人前では黒いサングラスを絶対にはずさなかったので、素顔をさらしてこともなかった。
当時、新しいアルバムが発表されるたびに彼女にインタビューしていた音楽ジャーナリストの富沢一誠さん(59)によると、デビューするまでの遍歴が、固有名詞を交えて事細かに語られることはなかった。
「52年、東京に生まれる。学園闘争の渦中にあった高校時代、ラジオの深夜放送でサイモン&ガーファンクルを聴いていた。70年に高校を中退、暇にまかせてふらふらと旅にでる。72年夏、友人の死を知らせるはがきが届いたのをきっかけに、めまぐるしく疾風のように通り過ぎていった青春を振り返って歌い始めた」
これが、公表された実人生のほぼすべてだ。ただ、富沢さんの記憶から離れないのは、「ありのままの青春」を歌ってはいないのだと、次のように打ち明けられたことだった。
「私の歌は『思い込み』なんだよね。友だちとこんな風に別れたなあ、というのではなく、こんなふうに別れられたらなあという願望。その願望を歌って、それを青春として『思い込む』んだよね・・・・」
森田さんが発表したアルバムのプロデュースを手がけた松村慶子さん(現・ライブハウス「RUIDO」会長)は、デビューする約1年前、知人の紹介で自作曲のデモテープを持参してきた彼女は、人前で歌うつもりは、まるきりなかったという。
「本人は髪型をポニーテールにして、どこにでもいる少女のような印象でした。でも作品には、聴いているとイメージの扉を開かれて慰撫されるような唯一無二のフィーリングがあったので、絶対に何かある、これは行ける!と直感しました。ただし、その独特の世界は本人が歌わないと響いてこないので、あんたが歌ったほうがいいと説得したんです」
サングラスは心ならずも、みずから表現者となるための武装だった。「私に対しても、ほとんど私語を発しない。浄化された世界を表現した作品に自分の生活感をにじませないために、余計なことは聞いてもらいたくないと思っていたようです」

ライブハウスの旗手とうたわれるようになったデビュー3年目の77年6月、豊島公会堂(東京都豊島区)での東京初のコンサート「童子像」は、ついに定員約800人の会場から約300人もの観客があふれ出してしまった。地下の歌姫として大学生を中心にカリスマ的な人気を博したが、高橋さんは「童子さんには意地でも地上に這いあがるまいという強固な意志があった」という。
引退を宣言することなく、音楽活動を休止したのは83年末だった。
デビュー当時の所属レコード会社の宣伝プロデューサーだった市川義夫さんは、「80年代になると、もう自分の居場所はないと思ったのか、新曲を作らなくなった。その意味では、溶けていくように消えていなくなったというのでしょう」と心残りをあらわにするのだった。
「ぼくたちの失敗」が、テレビドラマ「高校教師」の主題歌になってヒットしても、再び歌おうとはしなかった。彼女の消息を知る人を介して、その真意を問う対話がしたいと打診してもらった。だが、とても親しかった人との唐突な死別とみずからの病で「手紙すら書けないほど憔悴している」という返答があった。
危ういバランスでつなぎとめられている世界が、まだそこにあった。」(2010/05/22付「朝日新聞」e1ページより)

コメント(1)

2010年の朝日新聞の記事から5年‥‥
今はどう過ごされているのでしょうね
気になります。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

森田童子の世界に堕ちろう 更新情報

森田童子の世界に堕ちろうのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング