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サロン文化人類学コミュの病気にはどのような意味があるのか

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prayasさんの日記より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=685199928&owner_id=670375


「病気は学びであって魂が成長をとげる為に必要なレッスンなのだ。」というニューエイジ的な考えがある。しかし、病気の原因を精神的な側面にだけ還元してしまうと、行き過ぎた自己批判をもたらすこともある。自分を責めてしまうのだ。たしかに病気には感情的、精神的側面もあるだろう。だが、それは数多くある神話の一つにすぎない。病気にどのような意味があるのか単純に決めつける事はできない。

以下、ケン・ウィルバーの『グレース&グリット』から引用

1.キリスト教原理主義
病気は基本的に、何らかの罪にたいして神の下したもうた罰である。
病気がひどいものであるほど、その罪は言語道断なものということになる。

2、ニューエイジ
病気は学びだ。あなたが病気になったのは、あなた自身の霊的成長と進化を続けるために、そこから学ばねばならぬ重要なことが何かしらあるからだ。精神だけが病気を起こす。それを癒せるのも精神だけだ。

3、西洋医学
病気とは基本的に、生物物理学的要因によって生じる生物物理学的混乱である(ウイルスからトラウマ、遺伝的傾向や環境における引き金となる要因まで)。あらかたの病気では、心理的または霊的な治療について悩む必要はない。なぜならそういった非正統的療法は、通常役に立たないし、実際、適正な医学的治療から患者を遠ざけることにもなりかねないからだ。

4、カルマ理論
病気は悪いカルマの結果である。つまり過去世での何らかの非道徳的な行為が、現世において病気という形となって実ったのだ。病気は過去の悪行のあらわれとしては「悪い」ものだが、病気のプロセスそのものが、過去の罪を燃やし尽くし、きれいにするという点では「いい」ものだ。つまりこれは浄化なのだ。

5、心理学
ウッディ・アレンいわく、「怒ったりなんかしないさ。そのかわりガンになるんだ」。これは、少なくともポップ心理学においては、抑圧された感情が病気を引き起こすということを意味している。つきつめると、病気は死の願望ということになる。

6、グノーシス派
病気は幻影だ。現象宇宙は夢であり影であり、幻影の世界から自由になるとき、人ははじめて病気からも自由になれる。それは夢からの目覚めであり、幻影の宇宙を超越した「ひとつ」のリアリティを探すときでもある。〈スピリット〉だけがリアリティであり、〈スピリット〉の中に幻はない。

7、実存主義
病気それ自体には何の意味もない。したがって、それに付与する意味は個人が自由に選ぶことができ、当人はそうした自らの選択に責任を負えばいいだけだ。人は有限にして死すべき存在であり、病気を自らの有限性の一部として受け入れることだけが、正しい態度だ。たとえその病気に個人的な意味を付与しているさなかにあっても。

8、ホリスティック医学
病気は身体的、感情的、精神的、そして霊的な要因から成り立っている。そのいずれも分けて扱うことはできないし、無視することもできない。治療には、これらすべての次元が含まれるべきである(だが実際には、これがしばしば「オーソドックスな治療の回避」と読み替えられる。たとえそれが助けになるかもしれないとしても)

9、魔術
病気は報いである。「わたしは病気になって当然だ。なぜなら誰それが死ねばいいと思ったからだ」「あまり優秀であってはいけない、きっと何か悪いことが起こるぞ。」などなど。

10、仏教
病気はこの現象界にあって、回避しがたい出来事だ。なぜ病気があるのかを問いかけるのは、なぜ空気があるのか問いかけるようなものだ。生、老、病、死はこの世の現象である。これらの現象はみな移ろい行くもの(無常)であり、苦であり、また誰にでも公平に訪れるものとして位置づけられる。悟り、すなわち涅槃を純粋に覚醒することによってのみ、病気は究極的に乗り.越えられる。なぜならそのとき、この現象界そのものもまた超越されるからだ。

11、現代科学
病気が何であれ、それには特別のひとつ、ないしいくつかの理由がある。それらのうちのいくつかは必然的であり、その他はランダムないし純粋な偶然による。どちらにしても病気には何の「意味」もない。あるのは偶然と必然だけだ。



病気になると自分になにか落ち度があったと、自分をせめることがある。しかしあらゆる生物が病気になる。病気になった動物や植物も心がけがわるかったのだろうか?

仏典によるとゴータマ仏陀は酷い下痢に悩まされた。仏典を文字通りに受け取れば、仏陀は多分豚肉を食べて食中毒になったのだろう。仏陀は神通力で回避したり、たちどころに回復させたりはしなかった。結局、ゴータマ仏陀はクシナガラで痛みと苦しみの中で息絶えた。仏陀が豚肉の食中毒で死んだのでは格好が悪いのだろう。仏陀が食べた「スーカラ・マッダヴァ」がキノコだとする説をとなえるものは多い。

聖ラーマクリシュナは、喉の激しい痛みのある喉頭癌で死去した。
ラマナ・マハリシは夜間、村中に響く悲鳴をあげて苦しみ、それが続いたのち胃癌で亡くなった。
聖フランチェスコは血を吐き、痛みとひどい苦しみの中で息絶えた。
聖ベルナデッタは骨の癌か結核で亡くなり、ルルドの泉を掘り当てたが自身の病気には奇跡は起きなかった。
クリシュナムルティは膵臓癌でこの世を去った。癌と知ったとき「私はどんな悪い事をしたのだろう。」と彼は呟いた。


病気で亡くなった聖人は山ほどいる。中には聖人が罪人と同じ病気で死んでは困ると考える人々もいた。そこで、解釈も山ほどある。いわく「前世で犯した罪やカルマを相殺したのだ。」「まわりの人のカルマを引き受けたのだ。」まるで聖人はカルマを吸うスポンジのようだ。「苦痛の中でも神を失わないことを教えるために方便として病気になった。」「最後に自我を焼き尽くす為にわざと病気になったのだ。」「病気で死んだのは彼らは真の聖人ではなかったからだ。」などなど

解釈はともかく「こころがリラックスしていれば病気にならならない。」「病気になるのは心に問題があるからだ。」は、かならずしも正しい考え方とはいえないだろう。

●引用・参考文献

ケン・ウィルバー
『グレース&グリット―愛と魂の軌跡』春秋社
http://mixi.jp/view_item.pl?id=462252
http://mixi.jp/view_item.pl?id=462254

ラリー・ドッシー
『癒しのことば』春秋社
http://mixi.jp/view_item.pl?id=1094228



コメント(24)

追加します。

11、マルクス主義
生活が破綻した状態、経済的な意味での生産能力を失ってしまう状態、そんな状況を作り出す原因のひとつが「病気」である。
>ノリタケさん

なるほど。
医療人類学、文化精神医学・トランスパーソナル精神医学では、どういう見方になるんでしょう?


近代精神医学のマルクス主義的分析ごっこは、以前やったことがあるんです。

【写真追加】認知療法考
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=927661589&owner_id=1665264


最近の人類学の動向はわかんないのですが、一時期、近代医学の病気と伝統的な病気とがどのように混じり合い、また区別されているかなんて研究がなされてました。近代医と伝統医は互いの領分を棲み分けつつも、行政が近代医学の積極的普及を通じてその棲み分けに介入していく、という例が多かったように記憶しています。

文化精神医学などは全くの門外漢なので、知りませんあせあせ
大病についてはわかりませんが、私の経験則に照らすと、風邪なんかは、体の自然なバランス回復欲求ではないかと。

要するに、疲れがたまって休みたくなるとかかる、と。

ヘタに治すと休めないためか、レイキとか「手当」が効きませんし。

クラブメッドにいた頃は、半年間ぶっつづけで休日がない、シーズンに一回か二回、風邪引いたり胃痛でぶっ倒れたりしてました。

OL時代は、逆に土日の度に、鼻炎でダウンとか。

きっと大病は、体の声を聞かずに、休ませてやらない/体を虐め続けるとなるのでしょう。

香港に来て、今にして思えば、明らかに冷房病なのに、給料欲しさにやめずにいて、2年目に甲状腺機能更進症にかかってびっくりしました。それでもやめずにいたら、さらに3年目に、子宮内膜症発覚。病気らしい病気をしたのはこの二つが初めてで、保険の払い戻し請求したのも初めてです。

以来、ほとんど大きな病気はしてません。

子どもの場合は、病気の意味は、免疫の獲得だと思ってます。

長男は赤ん坊の頃、病気の百貨店みたいでしたが、ホリスティック医学にずいぶんお世話になって、自力で回復する力がつき、おかげさまで、二人ともえらい丈夫に育ってます。

もちろん、急性の病気と怪我は、現代西洋医学に分がありますから、細菌性の扁桃腺炎(抗生物質)と指の手術(これは兄弟二人とも)はお世話になりました。

また、快復に関して、脳卒中をサバイバルした脳科学者のJill Bolte Taylor博士の解説(My stroke of insight 邦訳『奇跡の脳』)がおもしろいです。(何本か日記に書いているのでよろしかったら。)
『癒しのことば―よみがえる「祈り」の力』に触発されて、日記を書いちゃいました。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1175436429&owner_id=7211499

よろしかったら、ご参考までに。

さらに、それこそマイミクの非戦さんの日記に、

> マイミクのシナジーさんが、「 病気にはどのような意味があるのか」という面白い日記をご紹介なさっていて、『グレース&グリット―愛と魂の軌跡』(ケン ウィルバー著)という本からの引用なのですが、ざっと書評を読んだだけでもよさそうです。
>
> http://mixi.jp/view_item.pl?id=462252
http://mixi.jp/view_item.pl?id=462254
>
> > とくに障害を持ったままの人は、 a stroke survivor あたりのほうが受け入れやすいかもしれません。
>
> 確かに、博士は治ったのになんでおまえは…なんて言われてしまっては、患者さんも立つ瀬がありませんものね。
>
> 人間ってやつは、どんな素晴らしいメッセージ(ジル博士の執筆動機の一つ、患者さんに対する接し方をよくしてもらいたい)に接しても、本末転倒させてしまう生き物(左脳的)だな〜、と辟易します。
>
> 実際、ウィルバー夫妻にも、”「人生の現実を作っているのは自分♪」だの、カルマがどうだの、なんて言う人がいて、二人はかなり傷ついたようです。”
>
> 右脳好きな人も、悪気なく/よかれと思って、凶器をふるってしまうわけです。

と書き込んだのですが、私もカルマと言い放ったヤツと絶交したことがあります。

病気じゃなくて、飼い犬の毒殺事件でしたが。

もちろん、前世の因縁じゃなくて、今生の原因によって引き起こされたもようです。(いきさつは、2009年05月18日の日記にちらっと書いた通り。)

田辺保さんのお訳しになられたパスカルの祈りの言葉です。
病の善用のための祈りと呼ばれています。
キリスト教を外側から見られる皆様と内側から見ている私との
違いを感じます。

「神様、この病気をどうぞ良いようにお用いください。

どうかこの病気のためにくじけないようにして下さい。

私はあなたの教会にもあまり行けませんし、人々のためにも尽くせません。

私があなたにお捧げできる賜物はこの苦しみだけです。

この苦しみをひっさげて、あなたの許に参ります。

あなたもお苦しみになりました、でもあなたの苦しみに比べれば私の苦しみは何でもありません。

でも、あなたの苦しみに良く似たこの苦しみを、どうかあなたが御目をかけてください。

これだけをあなたの前にお祈り致します。」
>眠り猫さん

文化人類学って、内側から見ている人の意見がなければ成立しないんですよ。内がなければ外もない、ということです。


>ヨセフさん

パスカルって確かカトリックでしたよね。ヨセフさんもカトリックの信者でしょうか? パスカルの言葉からは「信仰の証としての病気」というような考え方が窺えるのですが、どうでしょう。
ベルグソンが言っている物の本質を外側から
見て分かるものなのかという単純な疑問です。

少し前の、研究者である
田辺保さんた森有正はプロテスタントです。
信仰の本質的な点については違いはありません。

信仰のない人でもパスカルを読めば何か感じると
思うのですが。
あの、「キリスト教」ではなく、あくまで「キリスト教原理主義」ですから。
聖書に書いてある言葉通り信じる、アメリカ南部・中西部の福音派・聖書根本主義派とかじゃないでしょうか?
ラプチャー(空中携挙)を信じ、核戦争を待ち望んじゃったりする人たちですね。
『核戦争を待望する人びと―聖書根本主義派潜入記』(朝日選書)
http://mixi.jp/view_item.pl?id=286232
「福音主義」と「福音派」はニュアンスが違うようです。門外漢の私には難しい…あせあせ(飛び散る汗)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425434164

私自身は、イエス・キリストの教えをパウロが歪めてしまったのではないか、と感じています(徹底的に調べていませんので、あくまで私の勝手な印象です)。
旧約と新約でのGODは異質感を覚えますね。


仏教も方便論などで様々な宗派に分かれていますからね。
「神仏習合」の日本仏教は「仏教」なんでしょうのか?(^_^;)
如来蔵思想・本覚思想に関しては、現在、どういう評価がなされているんでしょう?

ノリタケさんが仰っている、

>文化人類学には内も外もない。

これはつまり、ヨセフさんが持っておられる内側の視点と、僕たちが持っている外側の視点を明らかにしあった上で、議論を進めていけばいいということだと思います。

この場こそ、文化人類学なのでしょう。
すみません、パウロじゃなくて、マグダラのマリア(グノーシス派?)と対立していたペテロかな…?

この辺り、正直、よく分からないんです(-.-;)

原始キリスト教は、どんな教えだったんでしょうね?
死海文書、「異端」文書、ユダの福音書などから再構成された場合、一体どういった教えになるんでしょう。

御意。

サロンのトップを再確認しますと、

> 他の参加者がその書き込みに対し、ある特定の物差しを適用して評価する(ネット上の議論で多い)ようなことはせず、むしろ新たな視点を数多く提示することで、多様で全方向的な物差しを持ち込み、その意見のブラインドサイドを明らかにし、補強していくという方法を採る。

ヨセフさん、新たな視点をありがとうございます。
カスタネダの著作問題やオウム事件で、宗教人類学の「内体験重視」にも疑問が投げかけられましたからね。

今は、その反動が来ていると思います。

学術的な実証主義からは、カルロス・カスタネダの著作は問題点が多いと思いますが、「メタ物語」としては良くできているんじゃないでしょうか。

○学会などの懐疑主義の人たちは、昔ファンで「ガックリした…許さん!」という動機もあるみたいですね。

「実話」として出したのは問題でしたが、その「戦略」が多くの人を惹きつけ、影響を与えたんですよね。

私もハマりました。
ライアル・ワトソンにも。



その後、「実話」と名乗るフィクションの濫造には辟易してますが。
精神世界・ニューエイジ系・自己啓発系には多いですね。

トピに直接関係ないことばかりで、すみませんあせあせ(飛び散る汗)
以後、自重します。

> トピに直接関係ないことばかりで、すみません
以後、自重します。

何とおっしゃる、シナジーさん!

大いなる道草精神こそ、当サロンの真骨頂…と、確か、副管理人さんもおっしゃってたような。

再び、トップから。

> しかし精神全体のしくみも、外界の出来事も、通常、因果の連鎖が循環するリカーシブ(回帰的)な形式を持つものだ。そこにリニアルな把握形式を持つ意識が押し当てられた場合、データのサンプリングにどのような偏向が生じるかは明らかである。すなわち、意識にすくい上げられるものが、自己や外界のシステムの全マトリクスからではなく、出来事の循環回路の一部だけを切り取った「弧」からのデータに限られてしまう。意識の狭く鋭い「注意」が、回路全体から「弧」を切り取って、それがすべてであるかのようにしてしまうのだ。・・・こうした目的意識が陥りやすい偏狭な見解を矯正することに、(智)wisdomと呼ばれるものの本質がある、と言えるようだ。

(グレゴリー・ベイトソン)

それと、ヨセフさん、

私も、ノリタケさんやシナジーさんのご質問の答えが知りたいです。よろしかったらご回答くださいませ。
マイミクの大宮信光さんの日記

マウスの行動的絶望って
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1181109905&owner_id=3472200

のコメント群がおもしろいです。

ニーチェによる「ロシア的宿命論」云々も。

大宮信光 2009年05月30日 17:05
進化の視点からみた病気:病気はなぜあるのか
小 山 高 正

   (略)

(3)悲しみとうつ病

 北アメリカの若い成人の死因で、交通事故に次いで多いのは自殺である。合衆国の若い成人のおよそ10パーセント近くが、深刻なうつ病を経験したことがある。さらに、その頻度は、多くの工業国で過去数十年のあいだにゆっくりと上昇しているようで、およそ10年間で倍になっている。[(3), pp.326]

 何かを失ったあと、人々は、どう違ったやり方でふるまえば、適応度を高めることができるだろうか?まず第一に、…悲しみは、喪失の原因となっているかもしれない現在の行動をやめるようにどう気づける。第二に、通常の人間の傾向である楽天主義を、この際はわきにどけておいた方が賢明かもしれない。

 抑うつが本当に消えるのは、その人が長く追求していた目的を完全にあきらめ、自分のエネルギーを別の方向に向けるようになったときであることは、昔からセラピストのあいだで知られていたことである。/高揚した気分と落ち込んだ気分とを感じる能力は、現在の機会が好調なものであるかどうかに応じて、資源の振り分けを調整するメカニズムであるようだ。もしも儲けがまったくないなら、エネルギーを無駄に使うよりは、じっと座っていた方がよい。[(3), pp.328]

 こんな遺伝子がなぜ遺伝子プールの中に維持されているのだろうか。[(3), pp.330-332]

�. 創造性(有名なアイオワ作家クラブのメンバーの80パーセントは、何らかの気分障害を経験したことがあるそうだ。)
�. 抑うつは無意識のうちの屈従の信号(抑うつ状態は、人々がヒエラルキー逃走において勝つことができず、しかも、より権力のある人物に負けたくないときに生じやすい。…それで、上位者からの攻撃がさけられるのではないか。)
�. 抑うつは、遠い祖先の時代にあった冬眠に対する反応の名残(季節性障害SADは圧倒的に女性に多いので、繁殖を制御する何らかの反応ではないか。)


 現代の新規な環境の中には、抑うつと自殺をもっと増やすような要因があるのだろうか?・・・マスコミュニケーションと地域集団の崩壊。テレビ、映画に代表されるマスコミは、たくさんの人を巻き込んだ競争集団を作り、誰もが世界で一番の相手と戦わなければならない。自己評価、パートナー評価が低下する。テクノロジーによる社会集団の崩壊は、独房社会を作り出し、競争させられている。ますます多くの人が、支え合える集団のいる場所をえるため、友達、アルコール依存症者の集まりのようなプログラム、あらゆるものに対する支援グループ、サイコセラピーなどに求めている。宗教に走るのも、それが集団を提供してくれるからである。[(3), pp.333-334]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ー
http://rc.moralogy.jp/ronbun/9.html
今ふと思ったんですけど、病気にどのような意味「があるか」よりも、病気にどのような意味「を見出しているのか」の方が、問いとしては面白いような気がしました。

だからどうやと言われても、答えられへんのですが(苦笑)
私は宗教についても文化人類学についても素人ですが、みなさんの活発な意見交換を拝見させて頂いております。

No.9のコメント

> 私が言っているのは、なぜ、忌み嫌われる病が、悪魔の所業でなく、神の属性になるという宗教、神話が多いか?という点に、地域も時代も異なる人々が、病と言う物を、不可避な死の前提としてとらえていたのでは。という推論を立てただけです。

に対して、

(ほとんど無神論であり、いろいろなことが勉強不足の私の勝手な想像ですが、)宗教や神話の成り立ちが、人間にとって、自分に到来した、納得できない数多くの困難を自分自身に納得させるために、「神」の存在が必要だったのではないでしょうか?

その最たるものが「病」であり、特に、不治の病は、死の前座段階として、どうしようもなく、本人が受け入れたくなくても受け入れざるを得ないものであり、それゆえに、「悪魔の所業」とするわけにはいかず、「神の属性」とせねば、せめて心だけは救われたい、という願いから生じている気がします。

私は病気というのは、やはり自己要因と外界要因の両方があるように思います。すべてがカルマだとして回収するやり方はやはり行き過ぎであるような気がします。

ただ、自己要因と外界要因というものも厳密には分けられないような微妙なものもあるような気がしますし、ウイルス性のものであっても、人によって発症する人とそうでない人がいるというのも突き詰めて考えてみれば意外と不思議な感じもします。

不思議と言えば、この「ウイルス」という存在自体が「生物」と「非生物」の境界的な存在です。ふつうの生物と違い、自分自身では自己複製機能を持たないということで「生物ではない」とされるのですが、かと言ってふつうの物質である「酸素」や「岩石」に「感染した」という言い方はしないという意味で、ふつうの物質とも違うように思います。実際、ウイルスにはRNA型とDNA型があり、RNAやDNAといった存在自体、単純な物質とは言い難い「生物」と「非生物」の境界的な存在だと言えます。

何が言いたいかというと、「健全な私」という「自己」と「何らかの病の要因」という「非自己」の境界に、なぜか「生物」と「非生物」の境界的な存在である「ウイルス」が、病の最も具体的な要因として関わっているということ自体にも、私は何だか不思議さを感じるわけです。

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