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カトリック月寒教会コミュの神父様の『お説教集』

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カトリック月寒教会の神父様から寄稿戴き、このコミュにおいて
大変貴重な「お説教」を掲載させていただける恵みを頂きました。

不定期の掲載ですが、仕事等で教会に行くことが叶わなかった人には
大きな励みとなるでしょう。

ご多忙の中、お時間を割いて原稿を整えてくださった神父様に
心より感謝を致しつつ、じっくりと「お説教」を噛み締めたいと
思っております。

信者の方には、神様と教会へ心寄せる安らぎのひと時として
未信者の方には、キリスト教への理解と教会の扉を開いて
生のお説教に触れるきっかけとなることを心からお祈りしております。

コメント(4)

「説教(A年 四旬節 第3主日)サマリアの女

ヨハネ4:5-42

 これほど感動的な話を秘めている福音書は魅力的です。これほど長く、キリストとの会話を細かく記しているのはヨハネ福音書の特徴です。

見える水と霊的な水
 はじめ、サマリアの女とキリストの話はちぐはぐです。女は水の話をし、キリストは水を求めながら、すぐに見えない水の話に移るのです。女は水の話のつもりでいろいろ聞きますが、キリストの目は、はるかかなた、霊的な水を見ています。キリストは女に水を求めながら、ご自分の水を与えようとなさるのです。いいえ、聖人たちの美しい解釈によりますと、女がご自分に近づくために、ご自分から女に近づき、女に霊的な水を与えるために、反対にご自分から水を求めたのです。そうしないとサマリア人はユダヤ人に近づくこともなく、女は男に近づくこともなく、罪ある人が聖なるラビに近づくことがないからです。

罪の女に近づく
 女は身持ちのよい人ではありません。正午に水を汲みに来た、ということ自体、誰も来ない時間帯を狙って、隠れるように来たことを意味している、と聖書注解者たちは教えてくれます。なぜキリストは、知っていながらこのような女に近づいたのでしょうか?「わたしは失われたものを探すために来た」と言われたキリストの心を表しています。99匹の羊を置いて、失われた一匹の羊を探しに出かけられるのです。キリストにはこの女性が、キリストの与える聖なる水を飲み、キリストの流される血によって罪が許され、罪を離れて聖なる者となってゆく未来の姿が見えたのかもしれません。

キリストの知られざる食べ物
 弟子たちが帰ってきました。このときのキリストの表情がまた私たちの感動を呼ばないでしょうか。「ラビ、食事をどうぞ」と勧める弟子たちにキリストは「わたしにはあなた方がたの知らない食べ物がある」と答えます。キリストは疲れたのでサマリアの井戸端に座ったのではなかったでしょうか。長い旅のために、空腹だったのではなかったでしょうか?しかし、「あなた方の知らない食べ物がある」とおっしゃったキリストの表情は、すでに食べ物を食べた人のようです。すでに満たされた人のようです。おん父のみこころを行ったことで、キリストはすでに満たされたのでした。食べ物のことを忘れて、キリストはおん父を見つめ、いま罪の生活から救われて美しくなろうとしている女の心を見つめて、満たされています。
 キリストは女に、見えない水を与えようとされましたが、弟子たちにも、見えない食べ物を与えようとされます。それはおん父のみこころを行うということです。キリストはこれによって満たされたのでした。おん父は、ご自分の教えを生活の中で実行する人々の心に特別な恵を与え、愛と喜びで満たしてくださるのです。 (次レスに続く)
キリストの知られざる飲み物
 女は去り、町に行ってしまいました。このときのキリストの表情に私たちは引き付けられないでしょうか。キリストは心が満たされています。キリストはのどが渇き、水を求めたのではなかったのでしょうか。女はキリストに水を与えず、水がめをそこに置いたまま去っていったというのに、キリストの表情はあたかも水で潤された人のようです。そうです、女はキリストに水を与え、渇きを癒したのです。なぜなら、キリストは人にご自分の生きた水を与えることによって、渇きが癒されるからです。キリストは人の渇きを癒すことで、ご自分の渇きが癒されるのです。なぜなら、人の心が美しくなることへの渇き、人が神の愛を知り、その愛によって満たされることへの渇きのほうが、のどの渇きよりもはるかに大きいからです。ですからこの女が癒されたことによって、キリストの心も癒されたのです。

キリストに癒されることがキリストを癒すこと
 私たちもキリストの渇きを癒したいでしょうか?それなら見える水を差し上げる必要はありません。私たちがキリストによって癒されるとき、キリストは癒されるのです。キリストの生きた水を飲み、キリストの流したおん血によって許され、キリストの与えようとするご自分の体、ご聖体を受けて私たちが満たされるとき、キリストの心は満たされます。キリストの渇きは、私たちに溢れるほど与えたいという渇きだからです。だから私たちはキリストのために何か差し上げるだけでなく、キリストから限りなくいただきましょう。いただいて満たされ、いただいて癒されましょう。遠慮してはいけません。喜びに心を奪われていた、今日のキリストの表情を忘れてはいけません。

渇いている人に飲ませることが、キリストに飲ませること
 また私たちはキリストの渇きを癒したいでしょうか?それなら、目に見える飢えた人に食べさせ、渇いている人に飲ませましょう。キリストはおっしゃいました。「これら、最も小さな人の一人にしたことは、わたしにしたことである」。それゆえ飢えた人を満たし、渇いた人に飲ませるなら、私たちはキリストを満たし、キリストの渇きを癒しているのです。私たちが自分自身の受ける分を減らし、自分自身の楽しむ分を減らして貧しい人、困窮している人に分かち合うなら、キリストはあたかもそれをご自分に対してしたことのように受け取られます。それはこの四旬節にふさわしい生き方です。世界の貧しい人、また身の回りの貧しい人、困っている人、苦しんでいる人、孤独な人、愛されていない人に目を向け、手を伸ばし、この人々のために苦労するなら、キリストはあたかもご自分に対してなされたかのように受け取られます。

まとめ
 今日は、キリストがサマリアの女に水を求め、逆にこの女にご自分の生きた水を与えようとなさった感動的な話を見ました。キリストは与えようとするために、ご自分からまず求めてみます。キリストは求めながら与え、人の渇きを癒しながらご自分の渇きが癒されます。私たちもキリストから溢れるほど飲ませていただきましょう。そうすれば、キリストの渇きが癒されるに違いありません。また苦しんでいる人、困っている人、渇いている人に手を差し伸べ、世話をしましょう。そうするなら、キリストがあたかも、ご自分が食べさせてもらい、飲ませてもらい、助けられているかのように受け取ってくださるのです。

(M)
「説教(聖木曜日)弟子の足を洗う

ヨハ13:1-15

 今日は聖木曜日、ご聖体とミサの制定記念日です。最後の晩餐は世界で一番初めのミサです。また司祭職の制定日でもあります。今日は典礼の指示の中に、説教の中でミサの制定と、司祭職の制定と、兄弟に愛について説教するようにと書かれています。

過ぎ越しの祭りの制定
 第一朗読では昔のイスラエルの民が、彼らを虐げるエジプトから脱出する前の晩のことが読まれました。この脱出の前に子羊をほふって食べなさいと言います。その血を取って、家の鴨居に塗りなさい、と言います。これはイスラエルの民がそれ以降ずっと行って大切にしてきた過ぎ越しの祭りとなります。なぜ過ぎ越と言うのか、それは、その夜天使たちがエジプトの全土を巡って、すべての人の長男を打って殺し、家畜の初子も殺すが、家の鴨居に羊の血が塗ってある家だけは殺さずに「過ぎ越し」てゆく、と言ったからでした。なぜ羊の血だったのでしょうか。日本の門松のように、何らかの植物でもよかったし、あるいはそんなものなくても、すべての人をご存知の神は一人一人を見分けて過ぎ越してもよかったのではないでしょうか。しかしそれには意味がありました。やがて来るものの予型、前表、前触れをお示しになろうとしたのでした。なぜ酵母を入れないパンだったのでしょうか、それには意味がありました。なぜ急いでいるときに特別な仕方で子羊を食べたのでしょうか。それには意味がありました。そんなに急いでいるなら消化のいいものを食べればよかったのに、なぜ子羊だったのかと聞きたくなります。しかしそれはやがてわかることになります。将来、約束されたメシア、つまりキリストがこられる時、すべての意味が明らかになります。

過ぎ越しの祭りの完成―ミサ
 つまり、私たちはキリストが十字架上で血を流したことを、この昔の過ぎ越し祭の、子羊の血を重ね合わせながら理解します。私たちはキリストをほふって食べたのです。子羊の血を鴨居に塗って、イスラエル人が死を免れたように、キリストの血を塗ることを意味する洗礼を受けるものは、霊魂の死を免れ、人間の肉体の後に来る第2の死、地獄の死を免れることになるのです。傷のない子羊,の意味は、第?朗読が言うように、何の罪もない神の子羊であるキリストのことを言っています。そして、旧約では子羊を焼いて食べる過ぎ越しの祭りを祝ったように、今日、この聖木曜日、キリストは新たな過ぎ越しの祭り、つまりミサを制定なさいます。そこでは神の子羊であるキリストご自身がいけにえとして捧げられるのです。過ぎ越しの祭りは、ミサに取って代わられました。羊よりはるかに尊い捧げ物が完成したのです。本当に罪を取り去ることができるささげ物が完成しました。それがキリストのささげ物、ミサ聖祭です。それゆえ、旧約の過ぎ越しの祭りは廃止されたのです。 (次レスに続く)
キリストが私たちを洗うことー洗礼
 先ほど、キリストが弟子たちの足を洗ったことにちなみ、洗足式を行いました。あなた方も足を洗いあうようにとキリストはおっしゃいます。主はおっしゃいます。「わたしがあなたを洗わないなら、あなたと何のかかわりも持たないことになる」。これはある意味で洗礼を意味しています。キリストは水で私たちを洗い、洗礼を授けるのです。洗礼を授け、わたしたちの罪を洗い流します。キリストが十字架上で流されたおん血によって、わたしたちの罪は許され、そのおん血の効果は洗礼の時によって与えられるので、キリストが弟子たちを洗い流しているとき、象徴としては水で洗い流していますが、実際にはご自分の血で洗い流しているのです。そしてキリストと深く結ばれ、神と深く結ばれるので、「わたしが洗わなければ、わたしとあなたは何の関係もなくなる」と言っているのです。

私たちも洗い合う
 キリストは私たちが負うべき罪の罰をご自身が代わりに十字架の上で負ってくださいました。それゆえ、私たちも互いに洗い合わなければならないとおっしゃる時、他者の弱さや他者の罪をその人に代わって私が負い、また兄弟の苦しみや隣人の貧しさを、その人と共に自分も背負うことを意味しています。なぜなら、私たちが背負うべきであった背負いきれない罪や弱さや貧困をキリストが背負い、私たちが受けるべきであった恐ろしい罰を、キリストが代わりに受けてくださったからです。
 それゆえ私たちは兄弟の弱さを背負います。兄弟の弱さや失敗があるでしょう、また仲間の苦しみや試練も目にするでしょう。どんな時にも優しさと親切をもって助け合い、ある時は忍耐し、ある時は許し、その人の弱さを覆うならば、私たちは人の足を洗うことになります。キリストは今もわたしたちの罪を許し、努力しながらも失敗して汚れてしまう私たちを洗い続けてくださっています。そしてわたしたちの成長のために、いろいろな欠点を大目に見て、見過ごしてくださいます。見過ごすだけでなく、代わりに背負ってくださいます。ですから私たちも互いに同じようにしあう時、キリストに倣う者となるのです。(M)

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