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佐世保市立黒島中学校コミュの凄いね☆黒島の中学生

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パソコンで黒島の事を検索していたら修道士の方が書かれた文章がありました。。



【 黒島の祈り 昔も今も 】
 
●島の人の心は温かい
 皆、家族と一緒です
 
 テレビのスイッチを入れと、いきなり黒島の天主堂(長崎県)が出た。島の中学生が解説していた。「黒島はいい所です。こころ温かい島です」。中学生の名前は松本くん。黒島中学校の全校生徒は13人だが、松本くんは、少年の主張全国大会に出場し、幾つもの難関を突破し、最終的には東京で審査委員長賞を受賞したという。
 作文の概要は、こうだ。妹が屋根から落ちて、大怪我を負った。島に医者は居ない。漁船で町の病院に運ばれた。妹思いの兄、松本くんは心配する。ところが翌日から心配の輪は島じゅうに広がり、「大丈夫ね」と誰からも声をかけてもらった。島は家族のよう、こんな良い島はない・・・。
 孤独死や、老人が捨て置かれる世の中で、温かい社会が望まれる。その願いが松本くんの心のこもった弁論を受賞に盛り上げたのだろう。
 黒島の人口は600人。その大部分がカトリック信者。西海に浮かぶ信仰の島に限りない魅力を感じた。島で土、日曜日を過ごしてみよう。早速、軽を運転して1人で出かけた。佐世保市・相の浦からフェリーに乗る。土曜の午後に、島に着いた。
 岸壁に、史跡保存会の大村正義(71歳) さんと、妻の良子(67歳)さんが出迎えてくれる。松本くんの家は岸壁のすぐ傍にあった。お母さんから話を聞いた。「先生の指導がよかったから、子どもの才能の芽を出してくれた。親も安心している」。受賞はさすがに、びっくり。「今まで努力した甲斐があったのね」
 正義さんが松本くんに連絡をとってくれた。正義さんは中学校の代行員をしており、松本くんをよく知っている。すぐ連絡がついた。男子中学生たちが4人、今夜の民宿で待っていた。
 黒島中学校の男子生徒は、この4人だけだという。松本くんが3年生で、後は2年生。「黒島はどんな島?」「作文に書いた通りです」。弁論の下書きを見せてくれる。
 「ぼくの命を育んだ環境は、とても恵まれていると気づいた。生きることは、自分のためであると同時に、両親や家族、見守ってくださる人たちに恩返しすることだと、ぼくは思う」
 全国大会で賞を勝ち取ったとき、「審査委員長の松本零士さんから賞状をいただいて、握手もしました。努力は、自分を裏切らない」と松本くん。
 話しているうちに、「もう、要理とミサの時間です」と、4人は腰を上げた。「みな、信者?」。連れ立って、教会へ向かった。
  
 
●平和を願い名を付ける
 苦しみの中に安らぎを

 島の地形から言えば、ほぼ中央、十字路の近くに、壮麗な天主堂が建っている。明治35年建堂の赤レンガ造り、立派である。堂内に入ると、一瞬、子どもの頃の思いにタイム・スリップする。昔のままの教会の形式がそのまま残る。コウモリ傘の木製天井を、巨大な柱が支える。壁の中程に回廊。これが珍しい。聖体拝領台も、天蓋のついた説教台も懐かしい。雰囲気自体が文化財だ。子供も、ベール姿も、高齢者たちも、熱心に祈っている。
 18世紀、外海の信徒たちが住み着いて、迫害もなく、殉教者も出ないで、無事・平穏に信仰を守ってきた。明治6年、信仰が自由になると、フランス人宣教師マルマン神父が島に着任して、天主堂を建てた。
 マルマン神父は初めの頃は、五島の堂崎の周辺で宣教し、一時期、奄美大島で働き、教会を建てるために黒島へ来た。島最大の恩人だ。
 ミサ後、宿に戻った。12月なのに、島の宿は暖かだった。平和で、事件も事故も全くない島。駐在さんも常住しない。週に2度、巡回する。
 次の日は日曜日。ミサで1日が始まる。若い司祭の説教は、朗々と心にとどいた。ミサ後に、大村正義さんから、いつもながらのガイドを受けた。天主堂だけでも長い説明が必要だ。
 ワゴン車で、細い道を、『信仰復興の地』から、島内を巡り、最後はカトリック共同墓地に至り、『マルマン神父の墓』で祈った。
 私には島全体が家族のように思えた。家族ならば、幼児も居り、老人も居る。働く人もいる。「信徒の中で一番若い赤ちゃんは誰ですか?」
 「雑貨店の赤ちゃんです」。島に雑貨店は5軒。その中の1軒、天主堂に近い店に、生後40日の淳平くんが居た。お土産を買いに行き、淳平くんに出会う。かわいい赤ちゃん。修道士が幼児の顔を覗くのも珍しい。
 淳平くんの兄は一平くん(4歳)。二人に『平』と付けたのは「平和になるように」と、お父さん。
 キリスト教は『癒し』と『赦し』だと思う。神の御子イエスが幼児となって御誕生になった。赤ちゃんを見れば誰でも癒される。そして十字架の苦しみが、赦し。その後に復活がある。淳平くんの成長と幸せを願った。
 ところで年幼い者が居れば、最高齢者が居る。「それは誰だろう?」と尋ねれば、99歳の三次郎さんが居た。明治44年の生まれ。霊名はドミニコ。自宅に訪ねると、まだまだお元気で、「歩いて、さるく」。30歳で、フィリピン戦線へ。「終戦の声を聞いたときが一番うれしかった、ハ、ハ、ハ」と笑う。長生きの秘訣を聞くと、「神さまの生かしてくださるなら、栄華をしても、苦労しても、捧げて今まで来たとです。酒一杯、飲むわけじゃ、なし。ご飯1つです」と素朴に語った。
 島で働く人は半農半漁。生計は決して楽ではない。苦労が多かった。平戸から20歳で嫁にきた正義さんの妻、良子さんは、棒の両脇にカガリを付けて、水や芋を運び、苦労した。「イナイモノ」という。「いなう」とは担う。担かつげば、肩が痛んでくる。
 「イエスさまの十字架を思うと、肩の荷の重さが無くなった。本当に、ふしぎです。私どもには罪がある。苦しむのは、当然。イエスさまは罪が無いのに苦しまれた。子供にも苦しいときは、イエスさまの十字架を考えなさい、と教えてきた」
 人生は苦難の連続だ。思いがけない試練もくる。信仰が試されるのだ。 「夫妻にとって、大きな困難、ありましたか?」
 正義さんは若いころ大きな漁船を持ち、養殖も手掛けていたが、42歳のとき不運にも潜水病にかかった。関節がエソ状態になって、崩れてくる難病だ。発病以来、30年近く、入院・手術を8回も繰り返している。今でも毎月1回、必ず大学病院へ通っている。正義さんは多くを語らないが、手で体じゅうを抑えていた。
 「カトリックの信仰のおかげです。苦しみのなかにも安らぎがある。神を信じて、お祈りをする。苦しいときは必ず、心を散らしながらも祈っています」と、妻の良子さん。
 最近は2トンの小さな舟に乗り換え、夫妻で夕方、海に出ていた。朝方、帰って、採れた魚を鮮魚船へ渡す。それも5、6年前から出漁していない。正義さんは中学校の代行員で働き、良子さんは訪問ヘルパーで、利用者のお宅を回る日々がつづいている。
 

●油断をしない生き方
 天主堂を泣かせるな
 
 近年は世界遺産候補の呼びかけで、黒島を訪ねる観光客や巡礼者が増えてきた。正義さんは史跡保存会として、案内役を引き受けている。
 その彼が、心底、心配することが有ると言う。それは島の信徒の信仰の盛り上がりだ。
 今はまだ、昔のように教会で祈りや賛美歌が絶えない。告白も、毎日、何人かは必ず居る。高齢者は信仰に熱心だ。この高齢者が居なくなれば、教会はどうなるか。信心はどうなるか。
 いくら立派な教会があっても、その中で祈る人が居なければ、もぬけの殻で値打ちがない。それで有っていいのか。正義さんは語句を強めて言う。
 「案内していても、建物の案内ではなくて、心の、タマシイの信仰を伝えたい。案内人の願いであり、務めです。お祈りする人間が居てこそ、この教会です。それを忘れるな」
 さらに、正義さんは言う。「自分は『油断』を考えている。油断は、アブラを、タツ、と書く。『祈りのアブラ。断はギセイ』です。祈りのアブラと、犠牲を払って、子どもや孫たちにまで、この教会を見守って行ってほしい。これが私が一番、大切にしている言葉です。その意味を含めて、『油断』しないように言っている。この言葉を大切にしている」と決断を示した。
 正義さんは以前に信徒会長を勤めたことがあり、その雰囲気が身辺に漂っていた。
 フェリーが出る時間に合わせて、シスターの修道女院を訪ねた。創立は明治13年。始めの頃は『おんな部屋』と呼ばれた。現在、10人のシスターが奉献生活をしている。シスターたちから、古い写真を見せてもらった。
 マルマン神父は明治45年8月に神に召されたが、亡くなったとき神父は机の上にラテン語で次の言葉を残した。
 「からだが亡くなるとき、霊魂に天国の光栄が与えられるように祈ってください」
 マルマン・フェルヂナン神父はカトリック共同墓地で眠っている。

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