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生活保護者の集いコミュの「親ガチャ」という言葉が、現代の若者に刺さりまくった「本質的な理由」 若年層に拡がる宿命論的な人生観

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https://gendai.ismedia.jp/articles/-/87010

不満感から不安感へ
親ガチャという言葉が示唆するように、今日の日本社会では経済格差の固定化が進みつつある。しかしその一方で、とくに若年層を中心に生活満足度や幸福感は高まっている。矛盾しているかのように見えるこの二つの現象の裏には、日本社会がすでに山登りの時代を終え、いまや高原化しているという実情がある。経済格差の固定化もその帰結の一つであるし、期待値が低下してきた理由の一端もここにある。

しかし、近年の満足感の高さの背後にあるのは、このような成長率の変化だけではない。そこには人間関係の変化もある。そびえ立つ山を見上げながら登っていた時代には、明確な理想や目標を掲げやすかったが、高原を歩くようになった現在では、ただ闇雲に進んで行けるような行先を措定しづらい。それが人間関係のあり方に変化をもたらしているのである。

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明確な目標を掲げ、その頂上へ向かってひたすら山を登っている最中には、一緒に歩んでいる仲間がすぐ隣りにいたとしても、その視線はいっこうに気にならない。みながそろって眺めているのは山の頂だからである。

しかし、その山を登りきって高原地帯へ足を踏み入れた途端、隣りを一緒に歩いている仲間の視線が気になり始める。周囲を見渡してこれからどこへ向かって歩めばよいのか分からなくなり、では隣りの人はいったいどこを見ているのか、どこへ進もうとしているのかと、互いに探り合うようになるからである。ここに、高原社会に特有の不安が生じてくる。その不安は、高原化がある程度進んだ後に誕生した若年層のほうが大きいと考えられる。

近年、若年層の幸福感が増している大きな理由としてしばしば挙げられるのも、この世代で突出している人間関係の満足度の高さである。高原社会の訪れとともに、彼らの人間関係は、かつてほど組織や制度にきつく縛られなくなり、不本意な関係を強制されることが減ってきた。個人の好みに応じて自由なつながりを築きやすくなり、局面に応じてそれを切り替えることも容易になった。

山頂を目指していた時代には、人間関係は固定的なほうが効率も良かったが、高原地帯を歩み始めると、人間関係は流動的であるほうが様々な状況に対処しやすい。近年のネット環境の急激な発達が、この傾向をさらに後押ししている面もある。

このような人間関係の流動化にともなうその自由度の高まりが、生活満足度の上昇に寄与しているのは間違いない。しかしそれは同時に、人間関係がかつてより不安定で揺らぎやすいものになったことも意味している。

組織や制度に縛られずに、付きあう相手を自由に選んでもよいという状況に置かれているのは、自分だけではなく相手もまた同様だからである。自分が相手を選ぶ自由の増大は、相手が自分を選んでくれないかもしれないリスクの増大と表裏一体である。そもそも人間関係への関心が高まっていることに加え、このようなリスク感覚の高まりもまた、現代に特有の不安に追い打ちをかけている。

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内閉化する人間関係
昨今の若者や子どもたちは、人間関係に対するこのような不安を少しでも減じようと、同質的な志向をもった仲間内だけで人間関係を狭く固く閉じようとする傾向を強めている。少なくとも表面的には、そのほうが人間関係は安定しやすいと感じられるからである。その結果、これほどネット環境が発達した時代であるにもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、調査データを見るかぎり、若年層の人たちが新しい友人と出会う場は狭く少なくなっている。

社会学者の研究グループである青少年研究会が実施する「都市在住の若者の行動と意識調査」によると、友だちと知りあったきっかけとして、学外での出会いを挙げた10代の若者は、2002年より2012年のほうが少ない。友人と知りあった場所をすべて挙げてもらい、その数の平均値をとってみると、それもこの10年間で低下している。それだけ交友範囲が狭まってきているのである。

もちろん、インターネットの普及で多種多様な人間がつながりあうことが容易になったのは事実である。ネットを利用して交友関係を広げている若者もたしかに存在する。YouTubeなどの動画投稿サイトで、世界へ向けて自己表現を試みる若者もしばしば見かけるようになった。しかし他方では、ネットがあるからこそ同質的な仲間どうしで固まり、時間と空間の制約を超えて、その同質的な仲間どうしでつながり続ける若者が増えているのも事実である。しかも数としては後者(同質な仲間でつながる若者たち)のほうが相対的に多い。

ところが、こうして人間関係が内閉化していくと、異なった社会環境の人たちと自分を比較することが難しくなる。その結果、自分がたとえ劣悪な社会境遇に置かれていたとしても、その現状に対して、努力すれば報われる機会を社会的に剥奪された結果であると自覚しづらくなる。むしろ当人たちは、それを自分自身の至らなさゆえと捉えたり、宿命のようなものと考えたりするようになっていく。

こうして期待値がさらに低下し、それが皮肉にも彼らの幸福感をさらに高めている。今日、とりわけ格差化が激しい若年層において、しかし満足度が非常に高いのは、このような比較対象の同質化も背景にあると思われる。



獲得属性と生得属性
もっとも、現在の若者たちが彼らなりの居場所を確保し、そこで幸福感を感じとっているのなら、それはそれで結構なことではないかと考える人もいるかもしれない。しかし、現実はそう単純なものではない。

現在の若者たちが閉じた世界を生き、その結果として自らの人生に過大な期待をかけなくなっているとしたら、彼らを取り巻く社会環境が悪化しても、生活への不満はたしかに募っていかないだろう。しかし、そうして期待値が低くなった分だけ、今度は自らの人生に対して宿命論的な見方が募っていきやすくもなる。親ガチャという言葉には、まさしくその心性が投影されているように思われる。

各国の調査機関が参加して定期的に実施している「世界価値観調査」には、人生を自由に動かせると思う度合いを尋ねた項目がある。その日本のデータを見ると、1990年から2005年にかけては平均値が上昇していたことが分かる。しかし、2010年には大きく下降し、2019年にはやや持ち直したものの、2005年の値には戻っていない。年齢層別に見ると、高年層より若年層のほうが、残された人生が長い分だけ平均値は高いが、それでも経年変化は全体と同じ傾向を示している。この現象はいったい何を物語っているのだろうか。
今日では、さまざまな局面で多様性が尊重されるようになり、かつてより自由な生き方を選択しやすくなった。にもかかわらず、人生は自由になるという感覚にブレーキがかかっているとすれば、近年の経済格差の拡大やその固定化が理由の一つと考えられるだろう。親ガチャという言葉が使われるようになった背景にもそれがあった。

また同調査には、勤勉に働いても人生に成功するとは限らないと思うかと尋ねた項目もある。統計数理研究所の「日本人の国民性調査」と似た設問だが、日本のデータを見ると、そう思う人は2000年代に入ってから若年層を中心に急増している。裕福な家庭かどうかで受けられる教育は大きく違うため、それが自分の人生を左右すると考えてもおかしくはない。

しかし、親ガチャという言葉の含意をここで再び想起してみたい。そこで嘆かれていたのは、人生の運不運ではなく、出生の運不運である。ガチャのレバーを引いた時点で結果はすでに出ている。これからの人生を運次第と捉えているわけではない。これから運不運が分かれるのではなく、もうすでに決定されていると感じられているのである。

人生をすごろくに例えることは従来からあったが、親ガチャがそれと決定的に異なるのはこの点である。そこで問題視されているのは、これからの時間ではなく、これまでの時間である。換言すれば、「獲得属性」ではなく、「生得属性」に目が向けられているのである。



親ガチャの落とし穴
学生たちの会話にしばらく耳を傾けていると、身長ガチャ、容姿ガチャ、顔面ガチャといった言葉も結構な頻度で聞こえてくる。いずれの言葉も、生まれもった身体特性を対象にしている点に共通性がある。

じつは親ガチャにも似たような面があって、生まれた家庭が経済的に裕福かどうかだけではなく、頭の善し悪しや才能もそこには含まれている。それらを親からの遺伝で決まる生得的な資質と捉え、自分の人生を規定する大きな要因とみなしているのである。ここから推察されるのは、生まれつきの資質や属性によって人生は規定されると考える若者が増えているという事実である。
これまで私たちは、自らの努力で獲得した能力を重視する社会を築いてきた。学歴を含めた資格が評価されてきたのも、その能力を証明するものだったからだろう。しかし生得的な属性からの解放は、いったい自分は何者なのかという不安をかき立てるようにもなった。

とくに昨今では、能力や資格の評価基準も容易に移ろいやすく、自分を指し示す安定した物差しとはなりえなくなっている。社会の高原化にともない、明確で安定した実現目標を措定することが困難になったからである。だとすれば、評価の動揺しやすい社会的能力や資格よりも、むしろそれらを規定するとみなされる生得的な資質や属性に重きを置き、そこに自分の人生の拠り所を置こうとするようになってもおかしくはない。

〔PHOTO〕iStock


したがって、このような人生観は、現代社会の特徴の一つでもあるアイデンティティの揺らぎを少しでも抑え込みたいという願望の表われともいえる。生得的な属性は、改変が困難で固定性が強いがゆえに、見方によっては安定した基盤とも感じられやすい。人間関係を内閉化させることで、居場所の確保とその安定化を図ろうとする心性とまったく同じである。

もちろん、そこに生育家庭の経済状態が影響していないわけではない。むしろ近年はその比重が高まっている。しかし、ここで留意すべきなのは、経済格差の固定化が進む中で、それもまた不変不動の生得属性の一部と捉えられがちになっているという事実である。

本来、経済的な劣悪さは社会制度によって補正されるべきものである。しかし、遺伝的な資質と同じような生得属性の一部と思い込んでいくと、それを社会制度の設計ミスによるものとは考えづらくなってしまう。社会的な格差は深刻化しているにもかかわらず、その劣悪な社会環境に対して反旗を翻そうとすることもなく、ただ淡々とそれを受け入れていきがちになっている背景には、このような心性の広がりがあると考えられる。



もちろん、現在の日本に山登りの時代を再び取り戻すことなどできるはずもない。高度成長期を憧れるような復古的な心性は、時代錯誤もはなはだしい。しかし社会の流動性が増し、ネット環境も充実した今日であれば、内閉化した人間関係を外に開いていくことは可能なはずである。社会制度のあり方に関心を寄せ、その改革を図る機運を高めるためには、まずそこから事態の改善を図っていくべきだろう。

経済的な格差だけが問題なのではない。そもそも遺伝的な資質や才能とみなされるものですら、それを花開かせることができるか否かは、じつは生育環境のあり方に大きく左右される。すべてが生得属性で決まるわけではない。多種多様な他者との出会いの中でその本質に気づくことこそ、親ガチャに潜んだ落とし穴を回避するための有効な手立てになるのだと思う。


筑波大学教授
土井 隆義
TAKAYOSHI DOI

1960年、山口県生まれ。社会学者。筑波大学人文社会系教授。著書に『若者の気分―少年犯罪〈減少〉のパラドクス』『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』 『キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像』『つながりを煽られる子どもたち―ネット依存といじめ問題を考える』など多数。

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