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アセンション『E.A.S.T』コミュのひふみ神示 『二日ん(じしん)の巻 その二

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ひふみ神示 第十七巻 地震の巻 第四帖(381) 昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)

 同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる。同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる。生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである。生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。一時的に満たすことはできても、長くは続かない。この情態の原理は、地上人にも、反影している。生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない。総ては��の��を中心として��の姿を形成しているのである。��と��とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。しかし、この場合も��は��であり��は��である。これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである。悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。許されているから存在し行為し現われているのである。この場合の悪は、悪にあらずして��の��であることを知らねばならない。即ち、道を乱すが故である。地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。その根底力をなすは歓喜である。故に、歓喜なき所に真実の愛はない。歓喜の愛は、これを愛の善と云う、歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、��となり、��と集約され、その集約の��の中に��を生じ、更に尚��と弥栄ゆる。生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身耐え得ぬこととなる。地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。霊人も子を生むが、その子は歓喜である。歓喜を生むのである。

ひふみ神示 第十七巻 地震の巻 第五帖(382) 昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)

 全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。故に、歓喜が生ずる。本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、それは何れもが弥栄である。これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、そこには地獄的なものはあり得ない。川上で濁しても川下では澄んでいるのと同様である。要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのである。この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念する処に地獄を生ずるのである。善を思念するが故に、悪を生み出すのである。一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である。生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総ては��である。��は��であり��であり、��と集約される。故に、これらの総ては無にして有である。人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。悉くの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。歓喜に審判なく、神に戒律はない。戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。このことは神自らを切断することである。裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべてはこれ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない。行為は結果である。思念は原因である。原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。生前の霊人は、生後の地上人を生む。地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む。��は��となりて廻り、極まるところなくして弥栄える。以上述べた処によって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。されば、常に歓喜に向ってのみ進むのである。これは只、霊人や地上人のみではない。あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである。生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずる。地上に於ける総ては、そのままにして生前なるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活がある。地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像の如く感覚されるものである。しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ。時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。

ひふみ神示 第十七巻 地震の巻 第六帖(383) 昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)

 霊界人は、その向いている方向が北である。しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。中心は、歓喜の中の歓喜である。それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、その向っている方向が中心であることを理解しなければならない。故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである。地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。各々が独立していて、他からの障害をうけない。しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。それは、霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である。地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものである。映像として真実であるが、第一義的真理ではない。故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのでない。内質に於ては同一であるが、現われ方や位置に於いては相違する。故に、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。霊人の中では太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長していると云う、地上人には理解するに困難なことが多い。要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、且つうけ入れて生活しているのであるが、其処にも、それ相当な歓喜があり、真実があり、生活がある。歓喜のうけ入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することに於ては同様である。歓喜すればこそ、彼の霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼と云い、かかる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、且つ感じ、考えるのである。しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。霊界に於ては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。何故ならば、思念による思念の世界につながる故である。現実的にみては折り重なって、この霊人たちが生活するとも、全然その感覚外におかれるために、その対象とはならない。地上人に於ても原則としては同様であるが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交する。交叉混交はしても、同一方向には向っていない。そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてくるのである。

ひふみ神示 第十七巻 地震の巻 第七帖(384) 昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)

 地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には、霊界の順序があり、法則がある。霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。その秩序、法則、統一は、一応完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである。これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もある。しかし、これこそ善を生かして、更に活力を与え、悪を浄化して必要の悪とし、必然悪として生かすのである。生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。本来悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である。一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。更に一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ない如く、地上人に到りては極めて稀であることを知らなくてはならない。悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは原因の世界より伝えられたる一つの因果であると云う平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べた処で明白となり、己を愛するは、先ず悪の第一歩なりと考える、その考えが悪的であることを知らねばならぬ。来るべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。しかし、それが最高の理想郷ではない。更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなければならぬ。

ひふみ神示 第十七巻 地震の巻 第八帖(385) 昭和二十年九月十日〜昭和二十年十月三十日間(1945年)

 生前の世界に、霊人が生活している。山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなす��が歓喜していた、その��が生後、地上世界にうつされて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、その結果が、死後の世界につづき、死後の世界の様相は��の原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、その��を幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的��に向って弥栄する面と、外的、地上的に進む��と、その交叉融和することによって更に生み出され弥栄する��と、その各々が各々の立場に於て、すすみ、呼吸し、脈うち、生命していると同時に、全体的にも生命し、歓喜し、弥栄している。而して、その現われとしては、和せば和するほど相離れ、遠ざかりつつ生長する。また、生命の大歓喜として湧き出ている。故に、地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、霊人により育てられると同時に、人々により生み、人々により育てられ、歓喜されるのである。かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、何れも��の形に於けるが如く同一形式のものではあるが、同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。新天新地新人はかくして、生れ、呼吸し、弥栄える。しかし、新人と生れ、新天新地に住むとも、その以前の自分の総ては失わない。只その位置を転換されるのみである。地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてるが、その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。その状態よりも尚一層、そのままであって何等の変化もないと思える程である。蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、それは大いなる喜びである。何故ならば、大歓喜なる大神の中に於て、大神のその質と性とをうけつぎ呼吸しているからである。総てのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する。歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ない。故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、真理はなく、生命はない。生前の霊人が地上人として生れてくるのも死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。歓喜は行為となる。行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。只考えたり意志するのみでは萌え出でない。生命しない。只意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではない。霊界に於ては意志することは直ちに行為となるのである。地上人にありては物質によりて物質の中に、その意志を行為することによって始めて歓喜となり、形体を為し弥栄えるのである。生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、その中間の三段階を加えて七つの段階に先ず区別され、その段階に於て、その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしい所に集まり、自ら一つの社会を形成する。自分のふさわしくない環境に住むことは許されない。否、苦しくて住み得ないのである。若しその苦に耐え得んとすれば、その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。例えば、愛の歓喜に住む霊人は、その愛の内容如何によって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。故に、生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、自分と調和する。山も川も家も田畑も、そこに住む霊人たちも、動物も植物も鉱物も、総て自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚する。故に、その性質は生後にも続き、地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのである。しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。死後の世界もまた生前と同様であるが、一度物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである。而して、永遠性をもつ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。


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