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北朝鮮拉致被害者の早期帰国を!コミュの2009.3.26 救う会連続集会44・金賢姫氏と語ったこと(p2/3)

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2009.3.26 救う会連続集会44・金賢姫氏と語ったこと(p2/3)

■西岡 力氏のお話

面会があった日に韓国にいらしたホン先生がきょう会場にいらしているので、先生にも後ほどお話を伺いたいと思います。

★北朝鮮の証言の真実と嘘。

配布された資料に「1」,「2」,「3」とフェードがありますが、1は『忘れられない人』に書かれていたことが主だと思います。「2」、にある「コ・ヘオク」という名前について、北の言うことは皆嘘だと思っていたが、そうでないこともあることを認識しました。金賢姫氏も田口さんはコ・ヘオクと呼ばれていたと話していたので本当だったのだと解った。リ・ウネという名前との関係をもう少し聞きたかった。

北は田口さんについて、工作員が身分盗用を利用する対象者を1987年6月29日に宮崎県宮崎市青島海岸で本人(田口八重子さん)と会って、○○○に3日間なら観光に行きたいと意向を示したことから特殊工作員が身分を偽装するために連れてきたと言っています。当時、乳が張っていてそれを絞っていたという母親が、3日なら観光旅行に行きたいわと言ったと。それが北朝鮮の公式のいい触れでありまして、耕一郎さんはお母さんのことを覚えていないわけですよね。お母さんは自分を捨てていったと北朝鮮は言っているわけです。母親を奪っただけではなくて愛情までも踏みにじる、人格をも踏みにじるような人だと思っておりますけれども、本の上だけでなく、(直接金賢姫氏から当時の話を聞けたことで)八重子さんが耕一郎さんやお姉さんのことを愛していたのだということを確認できたことは大変意義あることだったと思います。

(金賢姫氏との面会は)母親との空白を埋めることでもあると耕一郎さんはおっしゃっていましたが、北朝鮮の酷い嘘だということが確認できたことはよかったと思います。
そして改めて北朝鮮の嘘の酷さに怒りを禁じえません。

★915病院について

915病院について、拉致被害者のための病院というような伝え方がされましたが、拉致被害者のみならず工作機関のための病院です。915というのも、日付からきています。何年かの9月15日に何かがあって名前としてつけられたということです。915病院は、金正日○○大学の若干南のほうにあり、工作員および教官が利用する病院です。蓮池さんたちや地村さんたちもそこを利用したそうです。

横田めぐみさんに関する一番はじめの情報は、915病院に入院していた安ヨンジュンさんではない、別の工作員からの情報によるものです。

今回新たにわかったことは、北朝鮮の出してきた情報にあった「コ・ヘオク」という名は本当に田口八重子さんにつけられた名前であり、北の出す情報全てが嘘ではなかったということです。

★3人の関係、消息について

「2」の、83年に田口八重子さんと(金賢姫氏が)別れてから何ヵ月か経ったあとに指導員により顔だけ会わせてもらったということですが、田口さんが金賢姫氏と別れるのが83年3月、そして金賢姫氏は83年の6月まで別の招待所でスッキと一緒に訓練を受けていたとのこと。そしてその年の7月から最初の海外実習に行くことになる。それから、顔を見たのが何ヵ月後ということは83年3月から6月の間?顔を見た状況がどこでどのような状況だったのか詳しく聞きたいところである。

「3」つめの85年1月について、スッキという人物が出てくるが、前々回でしたか、田口さんと金賢姫の問題を私がここでお話したときに、田口さんは金賢姫を教え、横田めぐみさんはスッキを教え、金賢姫とスッキは同じ時期に日本人に化ける教育、正確には日本人と中国人に化ける教育を受けさせられていた。日本人化教育と中国人化教育を、この2人は受けています。スッキがいつめぐみさんから教育を受けていたかは定かではないが、今回の面会で明らかになったのは、84年の年末にはたぶん一緒に居たということ。そしてここでもうひとつ明らかになったのは、めぐみさんとスッキだけが一緒にいたのではなくて、八重子さんも一緒にいたということ、3人が一緒にいたということです。

今までは、田口さんは金賢姫氏、めぐみさんはスッキ(の教育係)だと思っていたのですが、田口さんとめぐみさんが住んでいる招待所にスッキもいる。ということになっているわけです。で、色々と過去の情報を調べてみると、NHKや産経新聞が報道した内容によると、被害者が平壌の南にあるチュンハグンのチュンヨンジの招待所で、めぐみさんと八重子さんとスッキが一緒に暮らしているのを見たと言っているという証言が伝えられています。その証言と金賢姫氏の言っていた証言は合いますので、間違いないだろうと(思います)。電気事情が悪くて寒いところというのは、チュンハグンのチュンヨンジだと思われます。

地村さんは、その後チュンハグンチュンヨンジの招待所に79年11月に入る。蓮池さんは80年の9月に入る。そして田口さんとめぐみさんとスッキは、84年の12月に見られている。

田口さんは81年3月から83年3月まで金賢姫氏と暮らしていたわけですね。で、83年3月から84年末までどこにいたのか?金賢姫氏の証言は(自分が海外から)帰ってきたところ、年末に3人が一緒にいるのを見たということですから、いつから一緒に居たかということはわかっていません。84年の年末に3人(田口さん、めぐみさん、スッキ)で居たということだけは確認できたのですが、この3人がいつからそこにいたのか?いつまで居たのか?は不明です。しかしスッキは85年1月から、めぐみさんや田口さんと別れて金賢姫と合流していますから、85年1月にはすでに3人一緒に居なかったことは確かです。蓮池さん達は、いつからというのを知っているはずですし、もう少しそのへんのところ詳しく、チュンヨンジでどういうことがあったのか?(以下聞き取れず)

もう一回、スッキとめぐみさんの関係について言いますと、僕らは漠然と81年の3月から83年の3月まで、田口さんが金賢姫氏と暮らしていた時期に、めぐみさんも別なところで(スッキと)一対一で暮らしていたのではないかと思ったのですが、どうもそうではないらしい。そこも金賢姫に聞いてみないと解らないです。この3人で暮らしていた時期はめぐみさんがスッキに教えていた時期なのか、それ以前にもあったのかなかったのか?

金賢姫の前の本によると、81年3月から83年3月に金賢姫が日本人化教育を受けた時、スッキは金正日○○○○で工作員の教育を受けていたと、だから私は嫉妬されたと書いてあります。そのへんのことも嘘じゃないと思うのですが。スッキと金賢姫は80年から一緒に行動していまして、スッキと金賢姫が別れるのは2回しかない。81年3月から83年3月。金賢姫が田口さんと会っていたときの20ヶ月別れている。それから84年の7月から12月まで。金賢姫が最初の海外実習に行ったときも別れている。私は前者のほうでめぐみさんに付いていたと思うのですが、今回の証言で後者かと思う。(少なくとも)84年末に会ったというピンポイントだけは明らかになった。いつから(一緒にいたのか)ということは明らかになっていないので、めぐみさんのポラロイド写真を見せてもらったとか、めぐみさんが一緒にいるとき入院したとか、そういう話を(金賢姫が)スッキから聞いたと言っていますが、それはいつ聞いたのか、(それが解れば)その写真がいつの写真で、めぐみさんが入院していたのはいつのことなのか、解ると思う。
もうちょっと色々と聞きたいなと思う。ただ、ヒントになることは沢山あったと思う。

★田口八重子さん生存説の裏づけ

そして87年1月から、(金賢姫氏が)マカオから帰ってきて、2月、10月のときに招待所に生活していた運転手に聞いたという話ですが、北朝鮮は86年の7月に田口さんは死亡したと発表しています。だからこの時期が微妙な時期なわけです。死亡したと発表した時期の話である。で、87年2月から3月頃、運転手から田口さんがどこかへ連れて行かれたと言っているわけですけれど、それがいつなのか、86年の7月以後であれば死亡の時期に生きていたという証明になるわけで、そのことについて金賢姫氏が運転手からどういうふうに聞いているのか、そこのところをもう少し具体的に聞きたいところです。

帰国した被害者の証言によると、田口さんは86年の春に腰の痛みで入院していると。で、めぐみさんはそこで田口さんと一緒に暮らしていたのがひとりになってしまった、そのあと韓国人拉致被害者の○○○さんがめぐみさんの招待所に顔を見せるようになり、そのあと2人は恋愛して結婚したといえば繋がりますが、田口さんについて言うと、86年春の入院と、86年7月に北朝鮮の死亡説と、○○○○○ 時期の関係をはっきりすることで北朝鮮の説を覆すことに成り得るのではと思います。

★田口八重子さんの「結婚」について

それから、86年に拉致被害者たちが結婚させられたということ、「田口さんが」ではなくて、拉致被害者たちが、ということです。これは記者会見でも彼女は話していますね。テレビの字幕では86年に田口さんが結婚させられたというように翻訳され、見ていた人はそのまま理解したかもしれないが、韓国語を聞いていると“「結婚たちを」させられた”
とあり、主語を省略して目的語を複数形にする韓国語の特徴から判断すると、「拉致被害者たちが結婚させられた、と聞いた」ということであり、田口さんが、とは言っていません。で、その「たち」の中に中国人もはいっていたようです。実は中国人拉致被害者については、金賢姫さんは飯塚さんに会う直前に月刊朝鮮の○○○さんに新しい証言をしていたわけです。つまり、84年の5月から6月に、中国から拉致された○○さんから中国語を習った。マカオから拉致された中国人被害者も教官をさせられていたことが解った。結婚させられた被害者がこの○○さんであるか否かは確定できないが、そこも金賢姫氏に聞いてみたい。
マカオから2人拉致されたという話がある。
○○○○(人名が続くので読み取りにくいところが多々あり省略)

★拉致した人を工作員教育して失敗

(先ほど飯塚繁雄さんから)配布資料には書いていないけれど重要な事実として紹介されたこととして、最初は拉致して連れてきた人間を洗脳して工作員として使おうとしていた事実がある。よど号グループはある意味でそうなった。彼らは自分で行ったのですが。ところがヨーロッパ人を拉致してヨーロッパに送ったら逃げてしまったと。そこも具体的に、いつ逃げたのか聞きたいところですが、思い当たるのはレバノンの人。ヨーロッパで電話をかけさせたら逃げたということ。レバノンの女性4人は拉致されたあとスパイにさせられる予定だったらしい。教官としての訓練ではなくて、暗号の解読のしかたなどの訓練を受けたという。洗脳されたと思ってヨーロッパまで連れて行ったところで逃げられ、拉致された人間は簡単には洗脳されないと理解したようだ。で、教官(として利用すること)になった。ストーリーとしては辻褄が合う。

70年代後半に工作機関の中でどういうことを言われていたのか、金正日が76年に工作員の現地化教育を徹底的にするために拉致をしろと命令したという証言は、ひとりの元工作員がしているのですが、金賢姫さんはまさに現地化教育の第一号だったわけですから、教官達から「お前達の教育は金正日の指導によって始まった」ということを絶対聞いているはずなのです。そのへんのことを聞くことによって拉致の規模や人数とか、どの程度やったかなどもう少し詳しく解るかもしれない。もう少し詳しく聞きたいところだ。

それから、「テキコウブ」「テキコウチ」のことですが、人民軍にテキコウキョクというところがあり、テキコウブ、テキコウチというところはない。
(以下、音声&録音不明瞭の為聞き取れず省略)



★金賢姫との会見当日の状況について

 −−−−−−−−−−−−−−−←(金屏風)
 
 ※  ○ ● ○  ★     ※日本政府関係者
                 ○飯塚繁雄氏 ●金賢姫氏 ○耕一郎氏
                 ★韓国政府関係者
       ○          ←(大きな丸テーブル・卓上に花)



飯塚重雄氏:
韓国政府関係者は時々金賢姫の近くへ寄ってきて耳打ちしていた。

西岡 力氏:
あるところの情報によると、正確な確認は取れていないが、金賢姫氏は田口さんのことのみ主に話し、他のことは言うなと口止めされているという話しもある。
問題の中身についてもあいまいになったり、日本に来て欲しいと伝えたときも「イエス」とも「ノー」とも言わなかった。しかし繰り返し「協力する」という発言はしていた。
拉致議連の総会で、議連の先生がたにお願いしたのですが、衆参両院の拉致特別委員会で参考人として(金賢姫氏を)呼んで欲しいと伝えました。
(会場から拍手が起こる)
警備の問題もありますが、立法府が必要としてすれば日本側が警備をするでしょうし、彼女が旅券法違反の容疑者であるという日本の中での法的立場もあるので、立法府がそちらの都合で呼ぶときに色々なことがかなり深く明らかになると思いますし、そして、一番いいのは5月6日の国民集会に出てきてもらえれば一番いいなと思っていたのですが、そのためにも今言ったような細かいことも聞いていけるよう今後密に連絡できるようにしていきたいと思って、関係者に色々と頼んでいるところであります。

(耕一郎さんがまだ到着されないようなので)

ホン先生にお話を伺いたいと思います。ホン先生、前の方(壇上)へどうぞ。
ちょうど同じ時期に韓国にいらした、早稲田大学のホン先生です。


■ホン先生(早稲田大学教授)    

私は拉致問題については詳しくなくて、皆さんからのお話を聞いて勉強をしている者です。今回、たまたま同じ時期に韓国に行っていました。韓国の世論がどうだったのかということは関心がありました。(途中雑音多く不明瞭のため省略)
韓国では、金賢姫氏は偽者ではない、という報道がみられました。拉致が金正日の指示したのではないとか金賢姫氏が偽者であるとか、かつての報道に対し訂正謝罪したのかどうかわからないが、会見に対する疑惑報道などは無かったと思う。

金賢姫氏が田口さんの家族と会うための報道をするためには、韓国のテレビ局は自らが間違った報道をし、間違ったほうに導こうとしたこと、謝罪すべきだったと思う。しかしそれをしませんでした。あえて連絡がないから書けなかった、金賢姫が10年以上ぶりに姿をみせたという簡単な報道になってしまった。

私の印象では、金賢姫氏はすごく負担を感じていたのではないだろうか、以前から、自分の家族に会いたいとか、日本にも行きたいという話をしたことがあると思うが、日本政府の要請によって韓国当局が(金賢姫氏に)会うようにと伝えられたとき、説明責任のような負担を感じたのではと思う。限られた時間の中で家族にできるだけ伝えようということに集中したと思う。だから本当はそれらの負担を感じないで会える機会があれば、よかったのにと思う。
(中略)
私の推測ですが、彼女もまた北にいる家族や友人を守らなければならないという意識があると思う。自分が全て話せば(自分の家族や知人が)被害を受けるであろうことも少なからず意識していると思う。という印象を受けました。


【Q】(会場からの意見)
金賢姫氏の面会で新たに思ったのが、日本政府は一体何をしてきたのか?ということです。今まで(政府関係者は)8回くらいの面会しているわけですよね。その中で、91年には拉致被害者として政府が認定していたわけで、金賢姫さんが書いた本の中にも、拉致被害者の記述がありながら、日本政府も聞いていたはずで、スッキという名前が出ています。
スッキを教えていた女の子が居たこと、その女の子はおとなしい子で○○的に弱いところがあるということも明らかになっている。そこまで知っていたということであれば、日本政府が90年代前半にスッキを教えていた女の子に関し非常な関心を持たなければならなかった。でも持たなかった。もしくは気が無かった。そのへんの責任というのは明らかにしないといけないと思います。
このときもしスッキを教えていたのがめぐみさんであると、名前はわからないにしても拉致被害者であるということは(知っていただろうし)、そこからめぐみさんという名前を探れば、90年代の前半、彼女は20代の前半ですから工作機関の中枢に入る一歩手前だったのかと、そのときにこの拉致問題とめぐみさんの救出を訴えられたら返してくれた可能性もあるわけです。それを思うと政府の怠慢というか、外交の関係者とか警察関係者か解りませんけれど、拉致被害者に関して(真剣に取り組む姿勢が)ないとか、関心をもっていないとか、そういうとことが顧みられて非常に腹立たしい思いをさせられている。
(以下音声不明瞭なので省略)

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つづく。
次は、飯塚耕一郎さんにお話を伺うことに。

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