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1954年あたり!?に生まれてコミュのむかしは良かった・・のかな?

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 先日、ある知人とのティータイム会話から−−

 最近の子どもたちは可哀想である、という。

 なぜと言うに、せっかくこの大自然地上に生まれてきて、自然の良さも、地上の生物人間同士の楽しい遊びや会話、あるいはけんかやもめ事も経験しないでいると思えるから、だと。
 インターネットの「うんうん」「そうそう」ほどの眉ひとつ動かず心も揺れぬ会話や、覆面仮名の論争など痛くもかゆくも恥ずかしくもなかろうに、と。
 なんでまたそんな程度で、子どもまでが憎んだり妬んだりして刃傷沙汰を起こすのか。たった一度の人生これ一つっきりの命を、みずから捨て去る自殺をつのったりするのか、と言う。

 地上の生命体のひとつとして、春先の田畑の耕しと早苗植え込みから始まる収穫物の手入れの様子も身をもった苦労も知らないで、木々の枝葉の萌え出るころの心うきうき気分も感じないなら、あるいは黄色や白やピンクの野の草花の匂いも、その咲きほこる草原の風もあびていないなら。

 やがて一斉に茂り山野をおおった緑のトンネルのしたをスキップしたりしながら、葉陰からきらりと差し込む木漏れ陽の輝きさえ目にしたことがないままなら。
 それが秋になれば、多くの収穫の作物果実がとれて、口いっぱいほうばったり。林の木々は焼け焦げたような枯れ葉になって、北風にぱらぱらと舞い落ちるころに、人のこころもどこか寂しく沈み、渡り鳥のむれを見仰げば詩歌の一節も口にしたくなるのに。

 犬猫はもちろん、鳥類の体毛のあの柔らかい可愛らしさをつい抱いてやりたくなって手を差しのべたり、生まれたばかりの愛くるしい赤子への思いやりも味わえないで大人になるとは。
 生き物みなに共通の糞尿の臭いや世話はもちろん、怪我や病気の苦しみを共有することもないだろう。ときには愛犬の死にも出会うだろう。それはカネで買うことなどできない心が生命の尊さに触れる何よりの体験であろうに。

 元々そういうものの多くのことは、昔はごく普通に生活の場で経験していて、あまりに当たり前であってことさら意識することもなく育った。だのに今にして思えば、何物にも代え難い心の栄養であったことを感じる、と言う。そういう価値観が深層にしっかりと根をはっていて、今話すに聞くに思うに感じるに、生きることのほとんどの基準になっている様なのだ、と。

 それが今、子どもたちはそうした日常当たり前に経験すべきはずのいっさいから、まるで故意に隔離された拷問の様な生活をしている。なにせそういう辺地を、今、人の住むところとは誰も考えていないのではないか。そういうことのいっさいを抜きにして取り払われた子どもの育ち方というものが、いったいどういう育成実験結果として現れるのか。
 公害や害毒の食料の危険さもさることながら、精神的環境の荒廃の現実は、自分たちの世代にはとても考えられない。
 なにせ、そうした山野の風景を生きる環境として、あるいは遊び場にして、一番安上がりな、しかしそれ以外は無い中で生き物の生活をして育ったのだから。

 そうは言うが、都会にはありとあらゆる人間が同居している。当然ながら多くの出会いがあろう。珍しい世界の品も人間も知り合おう。それこそが人類が同居するすがたではないか、と言うだろうか。現代は科学技術の時代なのだから、精密なカラー写真の雑誌も、高精細映像もあるではないかと言うだろうか。
 電柱の林や見上げれば蜘蛛の巣の様な電線の黒いひもだらけも。どこを見ても色とりどりのけばけばしい笑顔絵や形さまざまな看板の抽象画の美術館と思えばよいと言うだろうか。
 自動車の騒音や排気ガスのなかを縫って遊ぶとは言いながらも、それは世界先進国の当然の姿。スポーツを考えても、サッカー、テニス、スイミング、バレーボール、バスケット、野球、ソフトボール、マラソン、そのほか陸上競技のほとんどのコートやグランドの整備配備は、とても昔の状況などとは比較のしようもないではないかと笑われようか。
 心、文化というけれど、昔は人間が個人家庭で知的に遊ぶための目を見張るような大型スクリーンに5.1チャンネルサラウンドで、ドラマや音楽を楽しめたかと問われるかもしれない。

 だが、ジリつく太陽と抜けるような青空に、やがて入道雲があらわれて、向こうのおにぎり山の頂に金色に突き刺さる様な稲妻のギザギザ光がおちたときの、地面が動転するような地響きや、バケツでかけられたかと思うほどの豪雨に打たれ全身びしょぬれを自分の肌は生で実経験している。
 あるいは、猛烈なうなりをともなった地吹雪のなか、父の帰りを案じてみれば、雪だるまの様に雪まみれで帰宅した父親の目玉で笑う顔に喜んだり。その翌朝のふっくらふんわり銀世界に照り返す陽光を見たり、深呼吸したあの鼻の穴で感じたすがすがしい冷気と、静寂さのなかの小鳥のさえずり声はさまざまなのだ。

 すると、昔のどんな遊びも、現在の緻密で自然な動きを表示しながら、信じられないような複雑な挙動を各自一台のテレビ画面に示すゲームは無かっただろうというだろうか。サブウーファーの部屋をも揺らす地響きの低音は、身も心も戦場に居るような実在感臨場感があるぞと。まさか鬼ごっこやちゃんばら、メンコにビー玉とは比べようもなかろう科学技術の成せる技だと。なにせ現代っ子は科学の子、おもちゃも勉強もハイテクノロジーなのだと。疑問はインターネットの画面の先に問えば良いと。

 しかしながら、夏の蝉の合唱の林に踏み込んで、クヌギの大木を幼い足で蹴りつけて耳を澄ませば、こずえの方からぱらりと落ちてくるのは……。期待と興奮のなか落下するものを耳で追いかけて、落ち葉や雑草のなかを見れば、仰向けになって複数の黒い足でもがいているクワガタやカブト虫。その大きさに興奮をおぼえて、どうにか掴みあげたときの悦びは分かるまい。
 林の先の沼に出かけて、手製竹の釣り竿をふって釣り糸をたらせば、しばらくののち、山かげが映る水面に、手作りのとんがりウキを中心にして、まるい小波の輪が幾重にもひろがり始める。ひいた!
 じっと目をこらしてウキの動きに見入る。やがてウキを水面下にまで引き込んでくぐる。その糸の先にどれほどの大魚がかかっているかと想像をひろげるその一瞬の高揚感は今でもよみがえるほど。竿をたてるときの、魚が右に左に逃げようとする泳ぎのぐいぐい引く力に、圧倒されつつ釣り上げる手応え。
 そうした無料代価であるのに、血肉になってしまうほどの価値あるものがいっぱいだったわれら世代の日々の溢れる幸せ感を、このほかどう話せばよいものか分からない、と。

 −−だから、昔は良かった、ということになるのでした。
 まあどちらもの、イイとこ取り、をしてゆくのがこの先の文明人の知恵なのでしょうかね。
 そう言いながらも、どこか人間離れした現社会に、しばし言葉を失ったのはやはり老心のたわごとなのかもしれません。まさに詮無きことか・・

−*−


「鶏」:飼い鶏を裁ち切って喰らう
http://www.telejapan.com/~af/aka/htm_bun/niwatori1.htm

「肉塊」:狂牛病に牛を飼った頃を思う
http://www.telejapan.com/~af/aka/htm_bun/niku1.htm

「うさぎ」:野うさぎを罠にかけようとして
http://www.telejapan.com/~af/aka/htm_bun/usagi1.htm

「風の匂い」:蛇がカエルを
http://www.telejapan.com/~af/aka/htm_bun/kazen1.htm

「犬二匹に猫一匹 人間が三人」:ペットあれこれ
http://www.telejapan.com/~af/aka/htm_bun/essei111.htm


コメント(1)

確かに、自分の子供の頃と比べると、都会に住んでいる子供は
自然に触れる機会が皆無であると感じます。
我が娘達(小学生)が、夏休みに仙台の親類の家に遊びに行って、目一杯自然に触れ、大喜びで帰ってきました。

振り返って、自分の子供の頃はと言うと、そんなに自然に触れていたかというと、そうでもナイ。しかし、原っぱで遊んだり
今ほどの規制もなく、結構自由に遊んでいた。勿論、TVだってそれほど見てはいなかった。

今の子は、その点では子供の自由度がないような気がします。学校に行くにも「通学路」は決められ、自宅の近くにどんな場所があるかも知らない子が多い(冒険が規制させれている)。確かに危険は昔より多いかもしれませんが。

いろんな意味で、今の子はかわいそうだと思います。

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