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マルクス研究コミュの疎外論復活に向けて

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 最近講義で若きマルクスの疎外論に触れると、学生の反応が大変いいのです。やはり環境問題や資源枯渇の問題など、文明論的な問題意識と共鳴するらしいですね。それに労働疎外という点でも、労働現場の問題などに関心が強いらしいのです。派遣労働など労働市場の二重構造などでの疎外に重大な関心を寄せているのです。
 小林多喜二の『蟹工船』が人気を呼んでいるという記事を読んだことがありますが、21世紀になってなお、過労死や労働環境の劣悪の問題で苦しまなければならないということは、どういうことでしょう。

 疎外論は1970年代になって急に下火になり、まだ本格的には復興していませんが、ぼちぼち復興の機運は大きくなっているようです。疎外論的アプローチにとういう有効性や可能性があるのか、自己疎外論を現代批判に活用する場合のメリットとデメリットをしっかり見定めなければと思うのですが、皆さんの活発なご意見を聞かせてください。

 以下は疎外論復興に向けての私の1990年代のはじめごろの見解です。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/sogairon/sogaironmokuji.htm

コメント(132)

 道草さんは商品性の成立と人間性の成立を別別に捉えておられるからそのように言われるわけです。

 しかし自己意識の成立と他者の発見、対他関係の成立は別問題では有りません。それは実は交換の成立と相即していたのです。それゆえ私的所有の問題は人間存在の根源的な問題であり、認識の成立、言語の成立もみんな相即しているのです。

 ですから疎外を無くし、私的所有を克服するというのは、実はニーチェ的なスケールで、人間を過渡として捉えるべき根源的な問題だったのです。

 それをマルクスは今日・明日にも起こりそうな革命の問題と直接同一視してしまったところに勘違いがあったわけです。でもそれは常にラジカルに人間の有り方や生き方に反省を迫ってきますし、いつも魂をリフレッシュさせてくれる問題提起ですので、大いに現代的意義があると思われます。
> のぶりんさん
はじめまして。
「形式として生まれた制度が本質的なものを見えなくしてしまう事態そのもの」おお、赤信号のたとえはすごく…(わかりやすいと書くと、「「難解なマルクス・にも関わらずわかるエリートたる私」という看板を掲げて飯を食ってるためにマルクスがわかりやすいと困る人」に怒られること必至なんだよな)…しっくりきます(笑
疎外の明示的で簡潔な定義を示してくれる人ってすごく少ないんですよね…。
のぶりんさんは狭義の疎外定義、広義の定義、両方受け入れてらっしゃると考えてよろしいでしょうか?
世には嫌な大人がいて、「マル経」をとことん馬鹿にしたり、ろくに哲学を勉強してもないのに(曰くそもそもそんな時代錯誤なガクモンは勉強する必要がないそうです)人間本質をめぐる議論を切り捨てたりしちゃうのです。ぷんぷん。
そういう人は広義の定義を「そんなの誰にでも当てはまるじゃない意味ナッシング」と斥けようとします。違うんだよ、誰にでも当てはまる・だから・人間本質の仮説として一定の有効性を持つのだよ…。
>やすい先生
「しかし自己意識の成立と他者の発見、対他関係の成立は別問題では有りません。それは実は交換の成立と相即していたのです。それゆえ私的所有の問題は人間存在の根源的な問題であり、認識の成立、言語の成立もみんな相即しているのです。 ですから疎外を無くし、私的所有を克服するというのは、実はニーチェ的なスケールで、人間を過渡として捉えるべき根源的な問題だったのです」
そ、そうだったのか!…やっぱり。うん、ぼくも前からそうじゃないかと思ってました、みたいな。
ラカンやレヴィ・ストロースともモロに共鳴してますね!
っていうかまあレヴィ・ストロースはマルクスを勉強してるし、ラカンに構造主義のアイディアを吹き込んだのはレヴィ・ストロースだし、当たり前なんだけども。
この辺りは大好きな問題圏です、うひょー!
hyoroさん

 まあ、マルクスをヒントにしていろいろと思索をめぐらす、というのも悪くはないでしょう。

 ただ、マルクスのテクストにそくしてマルクスが疎外という言葉で何を言いたかったのかをはっきりさせる必要があると思います。あるいは、マルクスが疎外という言葉をつかって書いていないとしても、マルクスの理論の一契機を疎外論としてくくって説明することにはこのような意義があるんだということを、マルクスじしんのテクストの包括的読解に基づいて提示するのがマルクス研究のやるべきことだと思います。私自身、試論的に自分の見解を展開した論文はあるのですが、師匠ともいろいろと議論になっていて、これからいろいろと再検討していかなければならないと思っています。

 ただ、私自身は疎外という言葉を振り回すのではなくて、マルクスの思想をトータルに理解することが大事だと思っていますので、当面は別の主題を研究することになりそうです。

 私が一つの参照枠にしているのは、渡辺憲正さんの議論です。『近代批判とマルクス』という本をぜひ読んでみてください。
みやさん

「マルクスの疎外論」と言ってもそう簡単じゃないんですね。
なんとなくだけどわかりました。
今日『近代批判とマルクス』を図書館でさがしたのですが、市内の図書館には置いていないようです。
きっと読みますが、もうすこし先になりそうです。
>94
>「のぶりんさんは狭義の疎外定義、広義の定義、両方受け入れてらっしゃると考えてよろしいでしょうか?」

※よくわからないんですけど(爆)、僕の理解の仕方は非常に安直なものでして、そういう意味ではマルクス本人の考えていた疎外とどこまで近いのか、微妙なところがあります。

本当のところを言えば上記のみやさんのコメントが正しいのだと思います。
マルクスの思想においては疎外というのは何だったのかということでしょうね。

僕個人は、単純にマルクスの思想を換骨奪胎して思索を深めたいのだろうと、今は認識しています。みやさんのコメントを読んでもう少し真摯にマルクスを読まねばならないなとは感じているんですけどね。
 hyoroさん、道草さん、人間起源論の論文が消えているのです。『プロメテウス2号』に掲載した「人間起源論の構造構成」という論文です。元の原稿もみあたりません。ショックですね。また書かないといけないのかな。それに関説しているのは「人間論の構造構成」です。
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/ningenron/kouzou.htm
古いのですと『新しい人間論の試み』とくに「第七節、人間起源論の試み」ですね。これは『駿台フォーラム』に掲載したもので分かりやすくなっています。
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/ningenron/kokoromi/7.htm
なおPDF版の『やすいゆたか著作集』の第二巻と第三巻と第四巻にもいろいろ収録してあります。

それからhyoroさん、道草さんには是非私の代表作『資本論の人間観の限界』に挑戦していただきたいですね。これは私が一番シャープだった頃のもので、自分でも信じられないぐらい次々ひらめいて書きました。若い人が読むと刺激になるのではないでしょうか。支離滅裂だという感想が返ってくるかもしれませんが。
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/shoin/genkai.pdf
これはPDF版だけれど10秒で出ました。
 ついでいうと、交換が商品を生むのではありません。特定の交換の様式が商品を生むのです。したがって、人間本質から交換を説明するのは誤りです。それではスミスと同じになってしまいます。マルクスはこういうタイプの議論を徹底的に批判しました。

 この点に限れば柄谷さんは正しい。ただ、彼は交換様式の違いが生産関係の違いからうまれることを理解できない。ならぜなら、生産関係を生産手段の所有関係だと誤解しているからです。したがって、特定の生産の様式が商品という生産物の形態を生むことになります。

 以上は資本論をきちんと読めば誰でも理解できることです。ただ、既存訳にはいろいろと問題があるのでlきちんと読むこと自体が簡単ではありませんが。既存の解説書としては大谷禎之介先生の『図解 社会経済学』をおすすめします。
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/shoyuu.htm
「所有の二つの意味ーヘーゲルとマルクスの比較研究」(日本哲学会編『哲学25号』所収)この論文は、まだ三十歳直前だったと思いますが、一応認められた論文です。この時期は疎外論払拭の立場に立っていましたが、所有と交換の関係にふれていますのでご一読願います。
 交換や所有という概念をどう定義して使うかは、デリケートな問題ですが、人間とは何か、いかに成立したかを解き明かすには最もキーになる概念だと思います。もっとも直立二足歩行したら既に人間になったと考えるとだめですよ。猿の一種から人類が進化したことと、人間の誕生は全く別問題ですから。
道草さん、人間が身体的に動物的存在であり、動物的衝動に基づいて行動することは、実験の結果を見るまでも無く、日々我々が体験していることですね。ただ動物的な存在であるだけでは人間ではないということです。

 言語的行動を合理的ということで捉える前に、動物と人間の存在構造の違いを先ず明確にしない限り、どうして人間存在が出現したのかが解明されないということです。言語というのは主語・述語構造を持ち、対象を実体・属性的に捉えて、表現し、認識を成立させているわけです。動物のように生理的表象に対して刺激ー反応、反射や条件反射で対応するのではなく、客観的な事物や事象として捉え返しているわけです。動物は事態の連鎖でしかないのに対して、人間は世界を事物や事象の集合として捉え返すことができ、そこから法則的な認識も行なえるようになるわけですね。

 それは何をきっかけにして生じたのかということで、自己意識の成立の契機が問われるわけです。それを対他関係の発見つまり、自己と他者が互いに自立した意識として対峙しあうきっかけが問題なのです。それを動物的な関係でなく行うようになったきっかけが交換ではないかということです。

 自己意識あるロボットが人間だと言うのは、世界を事物や事象の集合として捉え、自己意識と意思や主体性をもって行動する限り、人間ではないという根拠はないからです。是非『長篇哲学ファンタジー 鉄腕アトムは人間か?』をお楽しみください。
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/shoin/atom.pdf
道草さん

間違いです。交換が商品を生むのではありません。価値形態論ははじめから商品を前提した議論なので反証になりません。大谷先生の本をきちんと読めばわかると思います。
まあ、ここで全部説明すると長くなるので読んでくださいということです。それにマルクスの商品の定義は明確で誤解のよちはないでしょう。学ぶ気があれば学べばよいというだけの話です。道草さんは折角ここまでいろいろと考えているのだから、マルクスの考えをまずきちんと理解してほしいのですね。資本論でいえば物神性論のところを読んでみてください。大谷さんの本を参考にすれば理解できると思います。
すみません、ちょっと離れていたら大分議論が進行している…。
とりあえずぼくが拾うことができた文脈について簡単にレスします。
?98のぶりんさんの「「換骨奪胎」ではなく「真摯な態度」も大事だよね」
これ問題意識としてはぼくもこれでも一応ちょっと気にしてますし、すごいわかるんです。たぶんみやさんもテクストに慎重に向き合うべきということに高い優先度を置いてますよね?
のぶりんさんやぼくや道草さんはたぶんマルクスの術語をどんどん他の分野にも適応していくことに寛容なおちゃらけ派です(一緒にしてすみません)。
いま二つの根拠があります。バルトのテクスト理論なんかを経由してくると「マルクスが本当に言いたかった唯一にして絶対の正しい意味」みたいなものの実在性を信じることができないこと。「厳密な読み」というのは「叶わない夢」であると思います。
もうひとつは「やってみなくちゃわかんねえよ」という気持ちがあること。一般に言葉というのははじめから完璧にその意味を把握したあとに使われるものではありません。使っているうちに「あ、これってこういう意味だったんだ」と段々わかってくるというように「行為が目的に先立つ」、順逆が転倒した形で構造化されているのです。
でも、それでもみやさんの態度が正しいです。マルクスの言葉に忠実に慎重であるべきでしょう。但し、その忠実さ、慎重さなるものの内実を決めるのは個人であるべきです。ぼくたちが共有できるのはマルクスへの敬意だけです。
?100やすい先生の関連論文の紹介
すみません、まだぜんぜん読んでないです。ちょびちょび読んでいきます。
もうマルクス主義者がマルクスを読むというスタンスはアナクロじゃないでしょうか? 四十年以上前でもマルクス解釈は百人百様でした。それぞれが自分の解釈が正しくて、その解釈が正しい考え方だと言い張るわけです。自分の解釈が正しいと断言する人は、その主張が正しい主張だと主張しているわけですね。マルクス主義者は大概そういう態度だったと思います。マルクスが誤っているということはなかなか言えなかった。スターリン批判では足りないから、三浦つとむなどは『レーニンから疑え』なんて論陣を張っていた記憶があります。

 私は自分はマルクスは大いに尊敬していますが、距離があると考えていましたので、自分の解釈打ち出す場合には、こういう読み方も可能ではないかという形でしか提起できなかったのです。 

 今では、マルクスと自分の同一性と差異を明確に出来なければ、ただのマルクス解釈に終わってしまって、生産的な議論にならないと思います。このトピックは疎外論の復権のトピックですが、マルクスの疎外論を正確に理解すると共に、その限界も明らかにして、21世紀の疎外論を構築するという方向を打ち出していくのがいいのではないでしょうか。

『改訂疎外論再考ノート』に収録している「追論 疎外論とネオ・ヒューマニズム(新稿)」が私の最新稿です。新展開を心がけている見本ですね。たたき台にしていただければ幸甚です。
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/tuiron.htm
道草さん
{先ず人間が労働して必ず資本家に収奪されるかというとそうじゃない。
先進国という国で生きている人の中では自分も豊かになっている場合もある。}

 疎外論は主体のあり方を問い直す議論です。資本家だって労働者の疎外された姿だという立て方なのです。労働者の窮乏化も、労働災害も、長時間労働も、働いても喜びが感じられないという現実もみんな自分たちが,日日再生産しているのではないか、己自身のあり方を問い直し、どうすれば主体性を取り戻して、労働や労働生産物を己自身として感じるようにできるのか考えようという議論なんです。

 「疎外」という言葉から、労働者の惨状みたいな受け止め方をされているのかもしれませんが、そういうのとは視角が違うのです。貧しいとか、苦しいとか搾取されているとかが問題になる場合、労働者はつい資本家のせいにしたり、資本主義体制のせいにしたりして、己を被害者として捉えてしまいますね、それではウサギ小屋状態だから、せめて馬小屋や牛小屋ぐらいに改善しろとか言っているのと同じなのです。

 マルクスが求めているのはあくまで自由人の連合として社会であって、自分たちで責任を持ち、よく話し合い、力を出し合い、協力し合う共同社会を作ろうというわけですから、この資本主義の非人間的な社会も、何か全く己に責任が無いかのように被害者意識だけではだめだというのです。

 つまり主体的な人間ならば、日々こういう現実を生み出しているのは、自分自身の疎外された有り方であり、自分自身ではないのか、己の有り方を問い直し、そこから脱出しようとする責任はあくまで自分自身にあるということなのです。

 こういう問いかけの仕方が、特に20世紀後半の高度産業社会で主体性の喪失が嘆かれている中で共鳴を呼んで疎外論が一世風靡したわけです。そしてその事情は21世紀になってますます深刻化しているのではないかということですね。そういう主体としての人間性の危機が問題かどうかということで、疎外論の復権の是非が議論されるべきです。
やすい先生へ>
そうですね。ですからやすい先生の議論は、物象化論にいくのではなくて、あくまで自己疎外論を見つめなおそういうことなのだと思います。

人間という主体が価値を本来創造するはずでして、それを創出する時に当然ながら外化が起こると僕は考えています。
つまり価値を外の対象として何か形にしなければならない。
形にならなければ人間は何かが何かであることを認識できないでしょうから。

で、形になってしまった瞬間に、そこからもう疎外は始まると僕は思います。

廣松渉の物象化論というのは優れた議論でしたが、やはり最終的にその解決を社会の変革に求める。で、やはりそれは限界があると思うんですね。

草野球というのは審判がいない。審判がいないから、プレイヤーたちの判定でセーフかアウトかを決める。でも審判がいないから弊害もある。
じゃあ審判を作ろうかという話になる。すると今度は審判がいることによる弊害も出てくる。今のは誰が見てもアウトと思っても審判がセーフという可能性も出てくる。」

じゃあ制度のせいにして、審判を全部廃止にして皆殺しにしたらいいのかと(笑)。
まあ、そういうわけじゃないだろうと。

僕は草野球で皆がルールを決める判定に参加できる仕組みをその時その時でつくっていかなければいけないと思います。
社会の責任にするということは誰かのせいにするということでしょう。だから審判のせいにしたりもできる。でも自分が疎外を生み出したり、価値を生み出したりする主体なのだと思うことが今重要なことで、僕がやすい先生に共感したのはそこらへんだと思っています。

少々議論が離れました。続くコメの人は無視しても構いませんので議論をお願いしたいと思います。
道草さん

 さすがですね。道草さんが引用してくださった箇所は極めて重要な箇所です。

 ただ、それは商品の定義ではありません。資本論第一巻レベルでは労働生産物としての商品だけを扱いますので(ただ労働力は別ですが)、価値という属性をもつ使用対象のことを商品と呼びます。

 道草さんが引用された部分は、「ではなぜ使用対象は価値という属性を持つのか?」という問いにたいする答えあたる部分です。この部分に関しては、資本論の該当箇所、さらには大谷先生の解説をくわしくよめば理解できることだと思います。

 そして、このことをしっかり理解できさえすれば価値形態論も理解でき、価値形態論がわかれば交換過程論もわかります。そうすると、資本論第一巻を理解するための基礎的理解が打ち立てられたことになります。じつは既存の研究の多くは道草さんが引用された文章の意味をしっかり理解できていないのでおかしくなっているわけです。

 公共財の話ですが、第一巻ではまだ国家は部分的にしかでてきてませんから、さしあたり第一巻の次元では考えることができません。

 また、マルクスは価値のない商品の存在を指摘しているだけではなく、まさに第三章で主要な考察の対象としています。これについてはすでに指摘したので、道草さんもご存じだと思いますが。
 上記の書き込み、「ではなぜ使用対象は価値という属性を持つのか?」ではなく、「ではなぜ使用対象が価値という属性を持つのか?」としたほうがわかりやすいと思いますので訂正します。
のぶりんさん 少々誤解があるのではないでしょうか。

 マルクスは商品生産に伴う疎外を私有財産の運動として捉え返し、私有財産を止揚する革命を通して解決しようとしたわけですね。その疎外は労働者にとっては大変苦しいものでして、外化を伴うので疎外は必然的だということで済まされないわけです。この疎外はどうしても克服しなければおれないほどの過酷な疎外だということです。

 それでマルクスは、その疎外は労働者が自分自身の労働によって自ら再生産しているということを自覚させ、自らの疎外された有り方の反省に向かわせようということです。そのことで労働者は自ら疎外されないあり方を求めて主体的に、考え行動するだろうと考えたわけです。

 のぶりんさんは、ヘーゲルの労働外化論の立場から疎外の必然性を了解されます。それは資本主義的な耐え難い疎外の問題とは時限が違うでしょう。その上で疎外のできるだけ少ない方法を皆で見つけていこうというスタンスですね。それはいいのだけれど、解決を社会変革に求めないという言い方をされる。これは誤解の元ですね。みんなで話し合って決められる形にしようということですから、のぶりんさんの仰っておられることは抜本的な社会変革であり、革命なのです。
道草さん

 前の書き込みで第三章とかいたのは第三巻の間違いでした。すみません。三巻についてはまだ私の勉強の途上なので不正確なところもあると思いますが、よろしくお願いします。

 ところで、土地や有価証券の価格が価値から乖離しているのは、資本論の理論構成上まったく問題ないと思います。価値と価格の一致というのは、価格が価値の表現であることから来ているわけで、本来、商品でない土地や有価証券が価格の運動のなかにはいってくると、もはや現象形態としての一致はないと考えて良いと思います。ただし、それらの価格の運動をつうじて、価値、すなわち対象化された抽象的人間的労働の配分が行われていることは事実ですので、価値とは関わりがあります。したがって、価値は流通から生み出されませんが、利潤が流通によって生み出されるとしても矛盾はありません。ところが、なぜ生産と関わりなく、土地や資本が地代や利子を生み出せるのかと言えば、資本主義的生産関係があるからで、価値生産と不可分に結びついているわけです。このことを理解するには、三巻の最後のあたりの話が大事です。私の理解もまだ不正確ですが、これから正確にしていきたいと思います。
疎外って二種類あるという話しをちょっとしてましたけど、広義の疎外(=能動的・主体的に構成したはずの観念を、神格化し絶対視したために、今度は反って私自身がそのふるまいを規程されてしまう逆説的構造)を考えるにはヘーゲルを学ばないわけにはいかない。
それで長谷川宏さんのヘーゲル入門と、バタイユのヘーゲル読解をちょっとだけ学んでました。
疎外から回復した状態をヘーゲルは「絶対知」と呼んでいたんですね。「絶対知」ってカミサマのことかと思ってました。
あるいはコジェーヴはこれを「人神」と呼んでいる。つまり、疎外からの回復とは現人神になるってことですね。変なところに繋がりましたね。
道草与作です。公務員時代の羽振りのよかった頃を思い出しますが疎外や物象化についてブックリストを求めています
函館中央図書館で検索してあるものでお願いします
安楽死について論じていましたがうつ病のある状態でそう言うことを求める状況があると言うことです

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