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マルクス研究コミュの『資本論』の人間観の限界

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PDF版を作成して,いつでも一冊の本として読んでいただける様になりました。
随分読みやすくなりましたので、下のサイトでお読みくださって、ご批評をお寄せ下さい。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/genkai.pdf


本著は,保井温(やすいゆたか)著『人間観の転換―マルクス物神性論批判―』(青弓社1986年刊)を改題して、掲載したものです。

連続して掲載していきますから、ご批判、ご感想を活発にお寄せください。


  目次



はじめに

マルクス物神性論の意義と隈界

マルクス人間観の限界と「人間観の転換」

第一章 商品論と人間観

第一節 冒頭商品論の意義

資本制的富のエレメンタルな形態

量への還元と近代科学の成立

モナド社会論と冒頭商品論

冒頭商品論と仮現の論理

冒頭商品論とマルクス物神性論

第二節 商品の二要因―効用と価値―>

使用価値と交換価値

「価値」の一般的な惹味について

生産物の属性としての価値〔1〕―マルクスのベイリー批判―

生産物の属性としての価値〔2〕―生産物と使用価値の混同―

第三節 労働の二重性と物神性論

投下労働価値説と社会的必要労働時間

抽象的人間労働の膠質物(ガレルテ)としての価値

労働の二重化の意味

価値と労働量

 

第四節 人と物の抽象的区別の止揚としての価値

生産物と価値の二元論

労働と生産物の抽象的区別の止揚としての価値

社会的物の主体性

人間の抽象的実存としての価値

商品としての人間1―人間の歴史的本質としての商品性―

商品としての人間2―商品人間の価値意識―


第二章 労働価値説の再構成

第一節 労働過程論再考

マルクスの労働概念について

マルクスの労働図式

身体の延長としての労働手段

身体的労働から生産的労働へ

第二節 価値増殖過程論再考

「抽象的人間労働」と価値形成過程

価値形成過程と疎外された労働

対象化された労働と生きた労働

価値形成の主体について

労働力商品の特殊性について

第三節 価値移転論再考

第六章「不変資本と可変資本」の課題

いかに価値移転するか

価値移転論とマルクス物神性論

価値移転論批判と〈人間観の転換〉

第四節 特別剰余価値の源泉問題

相対的剰余価値の概念

生産過程で強められた労働

労働の複雑化と強められた労働

労働の集約化による特別剰余価値の生産

機械の改良と特別剰余価値

特別剰余価値論と物神性論


第三章 蓄積論と疎外=物神化論

第一節 資本蓄積過程論の課題

労働価値説としての資本蓄積論

資本主義的蓄積の一般的法則

本源的蓄積論の課題

第二節 資本蓄積過程論と疎外=物象化論

後期マルクスの疎外論の特徴

資本蓄積過程論における疎外論

第三節 本源的蓄積論と所有論

本源的蓄積=生産手段の収奪と所有

das individuelle Eigentumの再建問題

社会的所有の論理

第四章 生産価格論の問題点

第一節 生産価格論の要約

第二節 生産価格論の問題点

転形論争の盲点

平均利潤への利潤率均等化の論証問題

搾取率一定の仮定の問題

第三節マルクス物神性論と生産価格論

価値法則と生産価格論

生産価格論の中の物神性論の叙述

資本としての人間


第五章 資本の物神性と「人間観の転換」

第一節「三位一体的定式」に関連して

「収入の三源泉」について

資本物神性論における関係と物の二元論

第二節 マルクス物神性論から〈人間観の転換〉へ

骨化の論理

人間的自然の価値産出



あとがき


コメント(132)

----------“das individuelle Eigentum”の再建問題--------------------

□この収奪者からの収奪、直接生産者による生産手段の所有の再建をマルクスは次のように説明しており、これが未だに大きな論議の種になっている。

□「資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの白然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生み出す。それは否定の否定である。この否定は(労働者の)私有を再建しはしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とするdas individuelle Eigentumを再建する。すなわち、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とするを再建するのである。」(791頁)

□(労働者の)とあるのはフランス語版『資本論』で追加されたものである。論争はdas individuelle Eigentumをどう訳すかという問題と、その再建によって生産手段に関する所有が再建されるのか消費財に関する所有が再建されるのかという問題である。

□ドイツ語の常識に従って「個人的所有」と訳すと、生産手段に関する個人的所有が再建されるのは、生産手段に関する共同占有や協業、社会的所有という表現となじまない。だから、生産手段は共同占有、消費財は個人的所有だという解釈になる。この解釈はエンゲルス、レーニンの解釈であり、林直道がその忠実な継承者である。

□この解釈の最大の問題点は、資本主義では労働者の個人的所有がなくなるという解釈になってしまうことである。特に林直道は『史的唯物論と経済学』(下)『史的唯物論と所有理論』(大月書店)で、資本制社会での労働者階級の消費財に関する〈無所有〉を強調している。たしかにプロレタリアートの窮乏化や失業の危機等を勘案すれば、比喩的に〈無所有〉の強調は有効である。プロレタリアート対ブルジョワジーを無産者対有産者と解する際、所有対象は生産手段と消費財の双方を想い浮べて当然である。

□とはいえ、経済学的には賃金労働者は自己の労働力を売って最低限の生活資料を購入することによって存在することになっている。だから生活手段(消費財)については、労賃という自分の所得で購入できるのだから個人的な私有である。たとえ宵越しの金は持たないとしても、毎日の生活資料を私有できなければそれは資本家に飼育されている奴隷と同じである。労働者自身が自己の労働力を私有していることも主張できなくなる。

□〈個人的所有〉と訳せば、生産手段にも生活手段にもあてはまらないのだから、〈個体的所有〉と訳し直してみたらどうかというのが『市民社会と社会主義』(岩波書店)における平田清明の提案である。

□平田は本源的蓄積論の論理展開からみて、第一の否定が直接生産者からの生産手段の収奪なのだから、第二の否定、すなわち否定の否定は、直接生産者と生産手段の結合を意味する筈だとする(この点は長砂実と一致)。

□その際、所有は労働者全体の類的結合を意味し、そこでこそ個体は真に自己を実現できるから、この社会的所有が即ち個体的所有なのだというわけである。

□この見解は生産手段に関する所有であるという点ではマルクスの本源的蓄積論の展開からみて説得力を持つ。しかし、個人を個体と訳し変えたところで意味が変わるわけではない。個体即類体ならば個人即社会とも言えるわけで、社会的所有=個人的所有でよいことになる。個人主義=社会主義という表現も可能だ。

□しかし、個体と類体の直接的一致に基づく所有論は、個人と社会の矛盾が積極的に定立されていない以上有効な議論とは言えない。社会的所有は諸個人が自らの個人的(個体的)性格においては所有主体たりえず、ただ社会的(総体的)性格においてのみ所有主体たりえることを意味している。

□もちろん、社会的所有は構成員の主体的な所有でなければならず、その意味では、所有主体としての諸権利が充分尊重されなければならない。社会主義社会の官僚主義化は、社会的所有の個体的担い手である諸個人の所有主体としての固有の市民的諸権利を侵害する傾向を持つ。その意味では「個体的所有論」の存在は無視できない。

□他に、福富正実は『共同体論争と所有の原理』(未来社刊)で、「個人」は一個の身体を持つ一人の人間のことではなく、集団としてのまとまりを「個人」と解する。というのは、ゲルマン共同体での“das individuelle Eigentum”は私有ではない家父長家族による集団的所有を意味していたから、再建されるのも社会的所有の一形態である「集団的所有」を意味するのだとするのである。

□この議論も本源的蓄積論の展開からみて妥当ではないし、個人と集団を、これ以上分割不能な単位としての共通性から同義と置き、その上で「個人的所有」=「集団的所有」とされるのも飛躍が大きい。福富の論旨に沿えば「個人的所有」とせず「不可分割的所有」とするべきだろう。「個人」と表記する限り、一人の所有と解さざるを得ないから。

□長砂実「社会主義にかんする古典的諸命題の現代的意義」(汐文杜『唯物論』創刊号)は、「労働者と労働条件の本源的統一」の再建として把握しながら、やはり「個人的所有」と表現する。その理由は、最初に定立された個人的所有が、私有という性格を持った個人・家族的規模での「労働者と労働条件の本源的統一であったから、その再建だから個人的所有と表現されていると解釈するのだ。しかし、再建される場合にそれは個人的、家族的規模を超えて社会的所有にたっていることを長砂も強調するのだからやはり「個人的所有」という翻訳は妥当ではない。

□だれでもドィツ語のわかる人は“das individuelle Eigentum”も「個人的所有」と訳すか、せいぜい「個体的所有」と訳すのが関の山である。しかしそれらの訳は、マルクス自身の本源的蓄積論の主旨に合致しない。

□マルクスが混乱した論理展開をした可能性も考えられるが、そう断ずる前に、別の訳によってすっきりした解釈が可能ではないかどうかよく考慮すべきである。

□私の試論的解釈は、“das individuelle Eigentum”を「不可分離的所有」とする解釈である(拙稿「“das individuelle Eigentum”の翻訳問題」〈『立命館文学第373・374号』所収〉参照)。

□“individuelle ”の原義が「不可分離な」という意味であることは、ラテン語に当るindividuusが、「個人の」の意味ではかえって常用されておらず「不可分離な」という意味が日常的な意味であったことからも容易に想像がつく。

□“das Individuum”のラテン語individuumの意味も「個人」よりも「原子」であり「分割不能なもの」である。だから「不可分離的所有」という解釈は、少なくとも原義的には不可能ではない。だが、現代語としては「個人的所有」と解されて当然で、「不可分離な所有」として通用するわけではない。“das unteilbare Eigentum”と表記した方が誤解がない。

□だがマルクスが〈不可分離〉〈分割不能〉を表現するのによりを選好したとするにはそれなりのわけがある。それはライプニッツ『単子論』の影響が推察できる『ユダヤ人問題について』でのモナド社会論である。市民は無窓の不可破壊のアトム・モナドとして表象されていた。個人=アトム=不可破壊なものという原義連関は強く印象づけられていたと考えられる。

□もう一つの理由はかけ言葉的発想である。ゲルマン共同体は家父長家族による"個人的所有。が成立していたとマルクスは分析している。この特徴は各家族が土地を自己の定在、テリトリーにして、土地と未分化、不可分離であることである。「個人的所有」を表わす“das individuelle Eigentum”がそのまま「不可分離な所有」をも表わしていることにマルクスは興味を覚えたのではないだろうか。

□それに“das individuelle Eigentum”自体が二義性を持つ。へーゲル『法の哲学』では所有は、排他的占有ー使用ー譲渡を契機にする私的所有に他ならない。

□しかし、私的所有は、人間と自然の分離、人と人、人と物、物と物の分離を前提にしている。人間と自然が未分化に融即している状態が以前にはあった筈で、自己の定在、身体として自然と関わる仕方が、本源的な意味での所有である。

□マルクスは『経済学批判要綱』の「先行する諾形態」の部分で、この本源的な意味での所有を「一、所有とは生産(労働)である。二、所有とは共同存在への帰属である。三、所有とは自分のものとしての生産条件に対する意識された関係行為である。」(拙稿「『所有』の二つの意味」日本哲学会編集『哲学』25号所収参照)と分析している。

□へーゲルの展開した私的所有からみれば、本源的な意味の所有は、他者を前提にしていないから自立的な意志の行為とは言えず、従ってそもそも所有ではありえない。

□逆に本源的な意味に照らせば私有は所有の解体、否定に他ならない。両者には歴史的な転化は認められるものの全く異なる概念である。だから「所有」としても一体どちらの意味なのか文脈上定かでない場合は「私的」や「本源的」を上につけるか、「私有」「固有」等と表記して区別すべきである。

□私有発生は、交換発生と相即的で未開のプナルア婚後半期と推量されるが、それ以後の所有が私有でしかないというわけではなく、本源的な意味での所有対象との一体性、不可分離性、固有性は今日まで根強く残っている。たとえ市場で商品として買い入れた私有物でも愛着性が強ければ固有としても意識される(不純度はあるとしても)から「不可分離な私有」という表現も不可能ではない。

□“das individuelle Eigentum”の再建という場合の第一の否定で否定されたのは「自分の労働にもとづく“das individuelle Privateigentum”」である。

□第二の否定はそのうちの私有は再建しないが、“das individuelle Eigentum”を再建するとマルクスは叙述している。

□第一の否定は本源的蓄積を意味している。つまり直接生産者からの生産手段の剥奪、収奪である。小商品生産者は、生産手段を「個人的に私有」していたと同時に、生産手段と一体的に結合していた。つまり「不可分離な所有」「固有」の関係にもあったわけである。

□本源的蓄積の歴史的意義は小商品生産者の所有の個人的・家族的な規模の限界を打破して、資本家のもとに資本を蓄積し、生産規模の拡大、分業、協業の発展を促したことである。

□それはしかし、直接生産者から生産手段を剥奪し、生産者に対して疎遠な物的威力として対立させることでもあった。「個人的私有」「不可分離な所有」の両方を本源的蓄積は否定、解体したのである。第二の否定、否定の否定は、後者のみを再建する。直接生産者と生産手段の社会的規模での本源的統一を形成するのである。


----------------------社会的所有の論理----------------------------------


□“das individuelle Eigentum”のうち再建されるのは「不可分離な所有」即ち直接生産者と生産手段の本源的統一だとしたら、そして「個人的所有」は再建されるのでないとしたら、「個人的所有」が解消されるのかというとそうではない。

□資本主義社会でも社会主義社会でも生活手段が「個人的所有」であることに変わりはない。だから再建されるまでもないのである。ただ社会主義社会では生産手段は個人的に所有するのではなく集団的に、或いは国家的に所有するのである。

□だから諸個人がその所有主体としての自己を主張しようとすれば、その権力を担う主体にまで自己を昂めなければならない。個人として自己にとどまりながら社会的所有の主体となることはできない。

□もちろん、社会も階級も人類も諸個人を離れてあるわけでなく、諸個人に内在するものである。その意味では社会や類は諸個人として実現される。とはいえ、それには諸個人が自己の抽象的な個人性の殻を打ち破り、社会、階級、人類の主体としての自己を自覚しなければならない。だから社会的所有の主体化、その真の化肉は、人間観の転換を伴わなければならないのである。

□生産手段が社会的所有でも生活手段は個人的私有の段階が社会主義社会である。生活手段が個人的私有であるのは、労賃として得た貨幣で消費財は購入可能であり、生産は少なくとも消費財に関しては商品生産であるからだ。だから人々は限られた貨幣で消費財を入手しなければならないので、互いに排他的に財を占め合わなければならない。

□生産手段の私有のみならず生活手段の私有も止揚してはじめて新しい共同杜会が実現する。共同生産と共同消費は表裏一体であって、共同消費は実現していないのに、生産が完全に共同化することはありえない。

□しかし、否定の否定によって一挙に生活手段の私有まで廃棄することは不可能である。なぜなら、私的、個人的利害によって生きてきた人々にとっては、労働のいかんに関わらず平等に分け合えば、怠け者が得をすると考えて仕事に身が入らたくなるし、労働に応じ分け合うとしても、今度はその評価をめぐって確執が収まらない等私的利害に基づくイデオロギー的制約から容易に抜けきることはできない。

□生活手段が私有である限り、人々は生活の為に働くのであり、家族のために身を粉にして働くのである。家族はやはり人々の依り処であり、価値の源泉である。安易に家族を解体すると人々はペシミズムに陥り、無気力になる。

□家族にとってはやはり労働力は最低限の生活費を得るために企業に毎日売られる商品である。その企業が労働者総体の所有、経営であるか否かにかかわらず商品なのである。家族生活は労賃によって経済的に支えられている。その分人々は私的な利害を形成し、形而上学的な価値世界に充足する。しかし社会主義社会はこの家族的世界の絶対化を止揚し、生活手段を労賃によらずに共同で消費するようにしなければならない。少なくともその方向性が明確でなければならない。

□ただし、共同消費は大食堂で一緒に食事し、画一化された部屋に住み、制服に身を包むことを決して意味しない。それぞれの個別性から生じる様々な個性的な欲求の充足、能力の開花のために共同で生産し、消費するのでなければならない。

□「個人的かつ不可分離な所有」が生活手段に関する所有の特徴となる。これは所有対象との切断、排他性、価値への抽象、交換可能性を特徴とする個人的私有とは全く異なる。

□だから、個人的私有の充実への欲求を刺激する形で、価値法則を最大限に利用し、企業経営を私的原理で活性化しようとする試みは、あくまで妥協的措置であるべきで、生産力第一主義から生産力さえ上昇すれば共産主義の土台が形成されると考えるのは正しくない。生産力の発達はそれを上廻る欲望の肥大化をもたらし、私的原理でそれがなされた場合は、富の不平等化をもたらし、社会矛盾を激化させ、やがてそれが所有形態を桎梏とするようになり、生産も行き詰まることになる。

□共同体思想は元々近代化的な生産力主義ではない。つまり有り余る富の生産による富の平等を目指す思想ではなかった。むしろ足らざる富を分ち合う思想であった。富を人間と抽象的に区別して、有り余る富による欲求の充足を構想することに根本的な誤謬がある。

□富はそれ自体人間の定在であり、我々はそれを自己自身の定在する姿として引き受けなけばならないのである。富を獲得するにせよ、富から切断されるにせよ、我々が富との関わり方によって社会的生活のあり様を規定されるのである。

□自己を身体としての自己として捉え、身体以外の他の諾個人および諸事物を他者として対象的に把握し、関わり合うことから出発しながらも、自己はそれにとどまることはできない。家族との関わりを反省すれば、我々は私的所有のもとでは家族の私的利害に基づく行動原理で価値判断を行うことがいかに多いかわかる。

□その場合、自我は単なる自己の身体から生じるのではなく、家族としての自我に発達している。そのために個的身体的自我は抑制されることが多い。同様に職場や組織の中でもそれぞれの社会的自我に昂まらなくてはならない。その際、個的・身体的自我、或いは家族的な自我との矛盾や確執は避けられない。

□より大なる自我に昂まるためには、より小なる自我の抑制と超克が迫られる。しかし、ただ一方的により小なる自我が我慢すればよいのではない、より小なる自我を包摂すべき全体は、その中でのより小なる自我の目的、利害の実現を通してのみ可能なのである。しかし、そのことはより小なる自我の抑制とその超克を必要でなくするのではない。

□このことは、人間的自然としての生産物との関わり方においても現われる。人間はそれによって対象的な自然となるのであり、自己を自己の外に立つ対象として見出すのである。生産物と切り離された抽象的身体は、観念的な存在でしかない。人間は自己を自己の非有機的身体として自然として見出さなければならない。かくして、労働者は生産手段を自己の身体的生産力の中に包摂するのである。

そこでは、もはや身体部分だけが自我であるとは言えない。自我の欲求や意識、判断等が生産諸連関から規定されるのである。だから「否定の否定」による「不可分離な所有=本源的所有」の再建は、人間的自然としての自己の自覚に導くものである。その意味では『経・哲』段階での非有機的身体としての人間的自然の論理、『先行する諸形態』の「本源的な所有」の論理には、人間観の転換が大きく成長しようとしていたと評価できるのである。
-----------------第四章 生産価格論の問題点------------------------------

------------------第一節生産価格論の要約 --------------------------------

□『資本論』第一巻、第二巻では抽象的人間労働の膠質物としての価値が価格変動の標準としての役割を果していることが仮定されていた。しかし第三巻に入って「利潤」概念の分析を転機にして、この価値と価格の一致の仮定は却下され、価格は〈投資額十平均利潤〉である〈生産価格〉を基準に決まるとされ、そしてこの生産価格は剰余価値がマイナスにならない範囲で決まるとされる。つまり、その範囲内ではあるが価格と価値の乖離が定式化されるのである(第三部第二篇第九章164〜181頁参照)。

 とはいえ、マルクスの場合、この乖離は投下労働価値説の否定を意味するわけではない。市場全体では総価値(総労働時間)は総価格と一致するという総量一致の命題がある。つまり、労働に基づいて形成された剰余価値がそれを搾取する資本家間で分配される際に、投資額に比例すると考えるのである(168〜169頁)。

 もちろん、第一巻、第二巻でも価値は価格の標準にすぎず、常に価格は価値と乖離しながら価値を中心に上下しているのである。生産価格論では、価値は価格の標準の役割を生産価格に譲る。生産価格が価格の標準として、いわば「価値」になる。価値に取って替るのである。だから価値の生産価格への転形といわれる(177〜178頁)。

□価値が価格の標準でなければ、労働によって価値が形成されていても、それで価格が決まるわけではなくなるから、労働が価値を形成するといっても形式的な同義反復になってしまい、経済現象の説明のための現実性に欠けることになりかねない。

□それに剰余価値がプラスになるように価格が決まるというのも、費用価格を超えて生産価格が決まらなければ利潤が得られないというのと同趣旨である。だから価値法則によらねばならない必然性はない。

□結局総量一致命題だけが価値法則として有効だということになる。ところが、この総量一致命題も不変資本の価格を価値に還元することが困難になるので(価格と価値は乖離しているのだから)、論証に無理が生じるといわれている(『論争、転形問題』東大出版会、参照)。

□かくして、価値論は価格を論証するためには有効ではないという議論が出ており、価値論の役割を搾取理論に限定する傾向がマルクス経済学者の中でもみられ始めている。
□まず、マルクスの生産価格論を要約することからはじめよう。

□第一巻の資本蓄積論では蓄積の発展に伴い資本の有機的構成に占める不変資本の割合が増加するという傾向が指摘されている。だから生産性の向上のために労働の集約化や生産手段の改良行って相対的剰余価値を増大させても、その結果、資本構成に占める不変資本の割合を大きくしてしまうことになる。当然、投資額に対しての剰余価値の割合は小さくなり、投資効率が悪化する。

□ところで、資本家の投資目的は、投資額に対して少しでも多くの利潤を得ることである。そこでマルクスは

剰余価値÷労賃=剰余価値率(=搾取率) と剰余価値÷費用価格=利潤率

を区別する。つまり、利潤率を剰余価値の費用価格(不変資本プラス可変資本)に対する割合と規定し、資本家はただこの費用価格に対する剰余価値としての利潤を最大限に追求するだけであるとした(第三部第一篇「剰余価値の利潤への転化」参照)。

 第一巻は資本の生産過程のみを対象としていたから、個々の資本の投資効率の違いまでは、絶対的及び相対的な剰余価値の生産を検討したり、剰余価値の資本への転化を扱う際に問題にできなかった。ただ資本が剰余価値を搾取して蓄積を遂げていくという資本の本性だけを描けば足りたのである。

□ところが「第二巻」で資本の流通過程を対象にし、回転率等を勘案して投資効果を検討し、資本の循環を問題にした上で、「第三巻」で〈資本主義的生産の総過程〉を展開するとなると、資本間の競争による、資本の現実的な行動が対象化されざるを得ない。

□そこで、不変資本の割合の違いによる利潤率の格差が問題になる(第八章151〜163頁)。最大限利潤の獲得のみを目的とする資本は、少しでも利潤率の高い処へ流れようとする。

□ところが資本が過剰になると商品量が膨張して価格が低落し、利潤も下がることになる。逆に不変資本の割合の高い部門からは資本が流出するので、生産量が少なくなり、かえって価格が上昇し、利潤率もよくなるというわけで利潤率の平均化傾向が存在するとマルクスは考える(167頁)。

□つまり、マルクスは不変資本の割合が大きければ、利潤率は不利な筈だが、資本間の競争がこれを調整し、結局、不変資本の割合の異なる部門間で利潤率の格差は存在しないと考えるのである。

□生産価格論における利潤率の格差は、各商品部門の格差の問題である。同一商品部門内での不変資本の割合の大小は、利潤率の大小に必ずしも相関しない。何故なら、可変資本の不変資本への変換は、技術革新による生産性の向上を意味する場合が多いからである。

□それを行わなければ競争相手に特別剰余価値の獲得を許容し続けることになる。特別剰余価値は例外的に高い生産力の普及によって消減する。そのことによってその商品部門全体の不変資本の割合は、他の商品部門よりも大きくなる。それぞれの商品生産部門で相対的剰余価値の生産が進展し、不変資本の割合はそれぞれに大きくなる傾向にある。だが、当然、機械化、自動化等の生産手段の改良によって生産性を向上させ易い部門とそうでない部門とが存在する。その割合は様々である。
□不変資本の割合の如何に関わらず、利潤率は競争、資本流動によって等しくなるとするマルクスは、では不変資本の割合の増加は利潤率の低下に導かないと考えているのかといえばそれは全く反対である。

□ただ同じ時期に並存している不変資本の割合の様々の資本間で利潤率の格差は生じないとしているだけである。結局のところ総資本としては不変資本の割合の増加は、利潤率の傾向的低下をもたらさざるを得ない(第三巻第三篇「利潤率の傾向的低下の法則」参照)。資本間の競争によって、その負担が均等化すると考えているのである。

□利潤率の平均化は、価格を費用価格(不変資本十可変資本)に平均利潤を上乗せしたものを標準に変動するように導く。つまり生産価格(不変資本十可変資本十平均利潤)を形成する。

□ところで商品の本来の価値は〈不変資本十可変資本十剰余価値〉であるから、生産価格の商品価値からの乖離は〈平均利潤−剰余価値〉となる。この乖離分がプラスの資本は価値以上に商品を売っていることになり、マイナスの資本は価値以下に売っていることになる。この乖離分を特にマルクスは命名していないので便宜上「乖離利潤」と名付けておこう。

□マルクスの論理に従えば、不変資本の割合が大きけれぱ大きい程、この乖離利潤は大きくなり、可変資本の割合が大きけれぼ大きい程小さくなる(マィナスの乖離利潤が大きくなる)。

□もちろん総計すれぱ総資本では乖離利潤はゼロである。だから総価値=総価格である。不変資本の割合が平均の部門ではやはり乖離利潤はゼロとなり、価値と価格は一致しているとマルクスは考えている。

-------------------第二節 生産価格論の間題点--------------------------

-------------------------転形論争の盲点-------------------------------

生産価格論をめぐってマルクス経済学の内外で活発に論争が展開されている。残念ながらこの論争を整理する能力がない。ただ論争の盲点になっていると思われる点を少し指摘しておきたい。

□「転形論争」は、価値が生産価格にとって代られる、価値の生産価格への転形が正しく証明されているかどうかという形で展開されている。転形はいわば事実として前提され、より正しいその証明を求める傾向が強い。本来なら、価値と生産価格が本当に乖離するのかどうかが議論されるべきである。

□不変資本の割合が増加しても、何らかの条件が利潤率の低下を相殺、補填して、平均利潤率を維持する場合にだけ、資本構成が高度化しうるのではないか。従って、生産価格論では価値からの乖離、乖離利潤の存在を説くのは早計ではないかという疑問をまず立てるべきである。

□マルクスは決して、生産価格論で生産価格が価値から乖離することを実証したわけではなかった。あたかも価値と価格が乖離して当然のような先入見を持っていると、問題なのはマルクスの事実説明の仕方であって、乖離の事実についての指摘ではないように思われ勝ちである。

□価値と価格の一致は第一巻でも法則的なものにすぎない。個々の商品交換の事例では、ほとんどの場合、乖離しているわけだ。だから個々の取引における乖離の事実は、生産価格論におげる乖離の事実とは全く次元が異なる。

□生産価格論における乖離は、価値の生産価格への転形であるから、〈費用価格十平均利潤〉が市場における価格変動の中心として機能していること、なおかつ、それが価値とは乖離していることを実証しなければならない。マルクスは計算方法については、詳しく説明しているが、それを経済統計によって裏づけているわけではないのである。

----------------平均利潤への利潤率均等化の論証問題----------------------


□平均利潤へ利潤率が均等化するという法則にも問題がある。

□現実の利潤率の格差がどこから生じているのかが明らかでなければならない。不変資本の割合はその一因かもしれないが、他にも原因がある筈である。他の場合も同様に均等化するのか。とすると、資本をどの部門に投資しても同じ利潤が得られることになるが果してそうか。各生産部門ごとに部門内の平均利潤率を示す表があって、これらがほぼ等しくなっているという例証が欲しいところだ。

□利潤率の均等化を促すように資本が流れることが、生産価格形成の前提である(第十章182〜209頁)。ところがいったん生産価格が形成されると利潤率は等しいから資本は流れないことになる。

□とすると不変資本の割合の大きいところでは利潤率が低かったので資本が逃げる。生産量が減って、価格が上昇する。その結果、平均利潤の水準に達したのであるから、そこで固定しなければならない。だから常に供給が過少の状態で固定することになる。逆に、可変資本の割合の大きいところでは供給が過剰の状態で固定することにたる(205〜206頁)。

□もしそんなことになれば、供給が過少の場合には、たとえ利潤率が低くても、価格を下げて薄利多売でいけば、同部門の競争相手に勝てるので、価格は下がる。

□逆の場合は、供給過剰のべースが累積すればやがて売れ残るようになり、ますます価格を下げることになるので、生産が手控えられ、価格は上昇することになる。

□このように正常な均衡状態に復しても資本構成比は以前のままだろうから、資本構成比による利潤差を解消するように価格が費用価格十平均利潤に落ち着くとも、それを基準にするとも断定できない。

□このような競争による転化論のもつアポリアの指摘に対しては、生産価格が成立する平均利潤率のもとで社会的需給が一致するのであり、価値にもとづく需給一致の状態から不均衡な生産価格へ歴史的に転化するのではないとする反論がある。

□しかし、それでは資本構成比の違いによる利潤率の格差があって、それを解消するように資本が流動するという論理は成り立たない。資本構成比の違いによる利潤率の格差を論じる段階では、価値による均衡が前提されていたのだから、その状態から資本が流動すれぱ、当然不均衡に陥る。

□そこで、最大限利潤の追求という論理からだけ平均利潤の形成、生産価格の成立が説かれることになる。しかし、それでは労働価値説にもとづく価値法則の展開をふまえて、そのうえで、競争原理によって価値が生産価格に転化し、価値から価格が乖離するという体系的な展開にならないから、イデオロギーとしてはともかく、経済学としての一・二巻の意義がなくなってしまう。

□また、不変資本の割合が大きければ生産設備も大きいと考えられるから、資本量も大きい。すると、生産設備を放棄して資本が移動することは赤字でない限り少ないから、費用価格分は必ず再投資される。

□マルクスは搾取率の部門間格差はないと仮定しているから、可変資本の割合が少ないので、自由に移動できる剰余価値の費用価格に対する割合も小さい。つまり不変資本の割合が大きいために利潤率が低い部門から、可変資本の割合が大きいために利潤率の高い部門への資本移動は大して望めない。

□その反対に、可変資本の割合が大きければ、生産設備も小さい手工業的なものが多いと考えられる。したがって資本量も小さいだろう。それ程、再投資する必要はないわけだ。そのうえ、可変資本の割合が大きいから利潤が大きいことになっているので、その分、資本は他部門に移動可能である。

□儲かるなら、同部門に利潤をどんどん再投資すればよさそうである。しかし再投資するにもたいした設備はいらない。職人を増せばよいのだがその供給源は知れていて、大して増すことはできない。それゆえ可変資本の割合が大きいため利潤率の高い部門から、不変資本の割合が大きいので利潤率の低い部門への資本の流れは大いに望めることになる。

□だからマルクスの予想とは反対方向にも資本は流れるわけで、必ずしも、資本の流れで利潤率が均等化するとは言い難い。

□それにマルクスの論法では、利潤率の高い可変資本の割合の大きい部門に資本が流れると生産過剰に見舞われるので利潤率が低下することになるだろうが、それは、その部門で既成の資本に対抗して新資本が競争的に参入する場合である。

□利潤率の高い資本への投資は、更に価値生産性を昂めるために有効に使われるかもしれない。これに対して利潤率の低い資本は、資本の流出のために価値生産性を昂めることができず、さらに利潤率を下げる場合も考えられる。

 
----------------------搾取率一定の仮定の問題--------------------------

□次に不変資本の割合が大きくなると利潤率は小さくなるという仮定も疑ってみよう。搾取率がどの部門でも同じだとすると、可変資本の割合が大きい程、費用価格(不変資本十可変資本)に対する剰余価値の割合が大きいわけで、利潤率が高いと言える。

□問題は搾取率一定の仮定である。もし、不変資本の割合が大きい部門は、その代り搾取率も高くて、利潤率の低下を相殺するならどうか。

□「それぞれ違った量の生きている労働を動かす諸資本が(その大きさに応じてー筆者)、それぞれ違った量の剰余価値を生産するということは、労働の搾取度即ち剰余価値率が等しいということ、または、そこにある相違が現実的または想像的(慣習的)な補償理由によって均等化されたものとみなされるということを、少なくともある程度までは前提する。このことは労働者たちの間の競争を前提し、またある生産部門から他の生産部門への労働者の不断の移動による均等化を前提する。」(184頁)

□「このような不断の不均等の不断の均等化(利潤率及び剰余価値率=搾取率の均等化−筆者)がますますはやく行なわれるのは、

(一)資本がいっそう可動的な場合、すなわちある一つの部門や場所から他の部門や場所に資本をいっそう容易に移せる場合であり、

(二) 労働力をある部門から他の部門へ、またある生産地点から他の生産地点へいっそうはやく動かせる場合である。(中略)

□第二のことは次のようなことを前提する。労働者が一つの生産都門から他の生産部門に、またはある生産地点からどこか他の生産地点に移動することを妨げるような法律をすべて廃止すること。

□自分の労働の内容に対する労働者の無関心。すべての生産部門の労働ができるだけ単純労働に還元されること。労働者たちの間の職業的偏見がすっかりなくなること。最後にそして特に、資本主義生産様式への労働者の従属。これについてこれ以上詳しく述べることは、競争に関する特殊研究に属する。」(206〜207頁)

□搾取率に部門差がないという仮定は、労働者間の自由競争、労働力の流動性が高いことを前提している。そのうえでマルクスは、搾取率の低い方に労働者が流れることを仮定している。

□しかし、搾取率の高い程、労働者が嫌うとは限らない。搾取率を高めるために労働時間を延長したり、労働の強度、密度を昂めたり、その他労働条件を悪くすれば、たしかに労働力が逃げ出したり、組織的抵抗にでたりすることが考えられる。そうでない限り、搾取率の高低は直接、労働力の逃避につながらない。

□労働者の最大の関心は賃金である。賃金は労働力の再生産費、要するに家族の生活費によって規定されている。だから労働者にすれば、最低限度の文化的な生活ができる費用を保障されればよいわけで、どれだけ搾取されているかには大した関心は示さない。

□労働の複雑度に差がなければ、その労働力再生産費にも差がないと考えられるから、労賃は等しいと仮定できる(ここでは具体的な賃金体系に関する検討は省略する)。ところで労働の複雑度が違う場合はどうだろう。

□複雑労働は単純労働に還元でき、搾取率が等しいとすれば、複雑度と賃金が正比例する筈である。つまり二倍の複雑度を示す労働は2倍の労賃を得れる筈である。実際には、労働者は生活費のために働くのであるから、2倍の労働の複雑度を維持できれば、労賃は1.2倍でも1.5倍でもよい。複雑度と生活費が比例するという統計はない。

□これは19世紀には思いも及ばないことであったが、労働の複雑度に比例して労賃を出せば、賃金格差が大きすぎて、単純労働者の相対的な窮乏感を強めることになり、資本主義体制の維持にマイナスである。

□かえって、賃金はできるだけ平等な生活給にし、格差は少なめにして、名目的に差をつけることにし、栄誉心をくすぐる程度でけっこう精神的な刺激になるのだ。

□そこで、複雑度の高い労働を多く含む部門の搾取率は高くなる。熟練度の高い労働が機械に代替され、単純労働が機械の補助をする場合は、搾取率は他の条件を捨象すれば低くなる。

□逆に単純労働が機械に代替され、機械の操作、管理、修理、改良等の技術的労働が主たる部分を占めるようになると、搾取率は高くなる。前者は産業革命期の合理化の特色を示し、後者はオートメ化期の合理化を示す。

□マルクスの論理では、労働が単純労働化して、無差別になるから搾取率が一定化するという想定があったのかもしれない。これまでのところ、労働は単純化の傾向だけでなく、分業の展開で多様化の傾向も見せており、新たな複雑労働も多く出現している。

□労働の複雑度は、労働者の労働の価値生産性によって決まるのであり、賃金の格差によって決まるのではない。賃金格差は労働の複雑度からだけ生じるのではないから、賃金格差から推量するよりずっと複雑度は多様なのかもしれない。

□仮に、〈費用価格十平均利潤=生産価格〉が成立しているとしても、搾取率が一定でないとしたら、乖離利潤(=平均利潤−剰余価値)を想定しなくてもよいのではないかとも考えられる。不変資本の割合が大きいことによる利潤の不利は、搾取率を上げる様々な工夫で相殺されているのかもしれない。

□例えば、極端な例で考えてみると、一方の資本は不変資本と可変資本の割合が1対9で剰余価値率(=搾取率)が百%である。これと同じ利潤率をあげるためには、他方の資本の労働の複雑度は何倍でなければならないか。他方の資本の労働者の給与が2倍で、労働者数は9分の1、つまり不変資本対可変資本は8対2とする。

□この場合、前者に対して後者の労働の複雑度は約5.5倍でよい。労働の複雑度と資本の回転率が正の相関関係にあれば、複雑度はもっと低くてもよいことになる。

□この程度の労働の複雑度の格差がありうるのかありえないのかの判断は読者にまかせる他ない。経済上の統計を掲げることができないので机上の空論でしかないが、残念ながら『資本論』も計算方法を示しても実際の経済統計を示していないのである。

□もしこの程度の格差が可能ならば、たとえ費用価格十平均利潤に生産価格が決まるとしても、それは費用価格十剰余価値に等しくなり、価格は価値から乖離していることの論証は失敗している。

□搾取率一定は生産価格の価値からの乖離を論証する方法的前提である。マルクスはこれを労働力の流動化と単純労働化傾向からの帰結と考えたのである。そういう形での労働の抽象化が、労働からの労働条件の疎外を産み、それが生産価格の価値からの乖離として現われるという後期マルクスの経済学批判としての疎外論がここにも見出される。

---------------第三節 マルクス物神性論と生産価格論----------------------

-------------------価値法則と生産価格論---------------------------------

□マルクスは利潤率均等化を価値法則よりもより直接的で、より強力な法則と考え、両法則を同時に充すように生産価格が形成されるというようには論理化しなかった。両法則は矛盾し、価値と価格は乖離して、価値法則は、総量一致命題として、乖離幅の制約として機能することになる。

□では何故マルクスは利潤率均等化法則を価値法則よりも強力と考えるのか。それはいわゆる資本の論理に基づいている。

□費用価格部分はもちろん生産価格を構成する。問題は剰余価値部分である。小商品生産の場合は、剰余価値部分も直接生産者のものになる。だから価値からの生産価格の乖離は、その限りでは問題にならない。

□ところが資本制のもとでは、賃金労働者は剰余価値部分に関われないので、その部分は資本家が資本の論理に基づいて処理することになる。

□投資の目的は、剰余価値の取得自体ではなく、最大限利潤の追求であるから、平均利潤を獲得できる形にしか資本は動かないと考えるわけである。つまり、剰余価値全体を各資本家が投資額の割合に従って分け合うという理屈である。

□だが、この理屈は、たしかに資本家の事情を説明しているが、それが市場で需給関係の一致点、変動の基準点になりうるかどうかは別問題ではなかろうか。

□平均利潤を獲得できるように資本が利潤率の悪い方から良い方に流れることによって利潤率が均等化するという論理は先述したように説得力がない。

□また利潤率は悪くても、生産効率がよいから薄利多売にして資本の回転を速くすれば利潤量は多くなるわけで、必ずしも平均利潤率をプラスした乖離利潤つき生産価格が必要なわけではない。

□それに投資総額に対して平均利潤を求める傾向は小商品生産でも資本制生産でも本質的に変わるわけではないのだ。小商品生産でも剰余価値分は価格変動の起り易い部分であり、費用価格を割らないように直接生産者が売り手の場合は価格の下限を費用価格に置くのである。

□その点資本制生産における資本家も全く同じである。もちろん、小商品生産の場合は、おしなべて可変資本の割合が大部分を占めているから、資本構成比による利潤率の差は問題にならない。

□その点、大工業の発展は不変資本の割合増による利潤率低下をもたらすように思われる。しかし、現実には、資本構成比による利潤率の格差は見当らない。それは何故かという問題はたしかに存在する。マルクスはこの利潤率均等化を価値法則からの逸脱と見なしたわけである。

□しかし、平均利潤を得られなければ投資しない、或いは投資したくないという資本家の願望や、資本の傾向は理解できるとしても、だからと言って自動的に平均利潤を不変資本の割合が高くても得れるわけではない。

□マルクスはそれを直接混同して論じているのだ。資本構成比が高いために平均利潤が得られなければ、資本構成比を低くするか、その商品部門ではそれは不可能ならばその低い利潤で頑張るしかない。

□マルクスはその商品部門の競争資本が減るから供給が少なくなり価格が上昇するとするが、それはしかし、生産価格が価値の転形であるという立論からずれることになる。

□供給が少なければ残った資本が同じ資本構成比で生産を増して、利潤率は変わらないが利潤量は増大させると考えるのが正当である。

□もちろん低い利潤に満足する筈はない。絶対的・相対的剰余価値の生産の向上のための様々な努カ、工夫がなされ、資本構成比の高いことによる利潤率の低さを克服できた資本が結局はその商品部門を制することになる。

□その際に、資本構成比が高いので利潤率が低くなるからその分乖離利潤を上乗せしようとすれば、逆に費用価格十剰余価値でも利潤があるのだから、それで売ってくる資本との競争に負けることになる。

□具体的な平均利潤を得るための努力はむしろ価値法則に沿って行われるのであり、それは第一巻、第二巻の延長上でもよかったのではないか。マルクスの理屈では、生産価格は価値の代替として機能するのだから、乖離利潤の想定にはもっと慎重であるべきだった筈である。いかに幻想的であれ価値機能を果すものを労働以外に求めるのだから。

□生産価格を論じる段階では、価値法則の土俵上で平均利潤を求める資本の傾向を説くべきである。資本構成比による利潤率の不利を解消する傾向は、市場の論理としてはあくまで価値均衡に従って行われるが、自由競争は集中、独占に転化し、公正な価格形成は往々にして阻害され易い。

□資本構成比の高い資本は規模が大きいから、利潤率の低さをカバーしようとして、独占価格を設定したり、不公正な価格操作を行って平均利潤を確保しようとする。その段階で価値からの乖離を問題にしても遅くはないのではなかろうか。マルクスの論理には資本の流動性からだけ自動的に平均利潤が保障されているような錯覚がある。資本の論理はそれ程甘いものではないだろう。



------------------生産価格論の中の物神性論の叙述----------------------

□マルクスを単純に投下労働価値説に立つ者とのみ捉え、価値法則が貫徹すればマルクスにとって都合がよいので、乖離を妥協的に認めた生産価格論などは苦しまぎれの言い訳だと受け止めるのは全く的はずれである。

□逆にマルクスは価値からの生産価格の乖離を、彼自身の経済学の方法論的な立場から求めているのであって、乖離の帰結は強引ですらある。生産価格論がマルクス物神性論から由来することは次の各引用から全く明白である。先にまとめて引用しておこう。

□「資本のすべての部分が一様に超過価値(利潤)の源泉として現われるということによって、資本関係は神秘化される。とはいえ、利潤率を通じての移行によって剰余価値が利潤という形態に転化される仕方は、すでに生産過程で起きている主体と客体との転倒がいっそう発展したものであるにすぎない。

□すでに生産過程でわれわれは労働のすべての主体的な生産力が資本の生産力として現われるのを見た。一方では価値が、すなわち生きている労働を支配する過去の労働が、資本家として人格化される。他方では逆に、労働者が単に対象的な労働力として、商品として現われる。

□このような転倒された関係からは、必然的に、すでに単純な生産関係そのものの中でも、それに対応する転倒された観念、移調された(ずれたー筆者)意識が生じるのであって、この意識は本来の流通過程の種種の転化や変更によっていっそう発展させられるのである。」(55頁)

□「資本の各部分は一様に利潤を生むという理論的見解は、一つの実際上の事実を表わしている。産業資本の構成がどうであろうと、たとえば、それが4分の1の死んだ労働と4分の3の生きている労働とを動かすのであろうと、4分の3の死んだ労働と4分の1の生きている労働とを動かすのであろうと、すなわち一方の場合には他方の場合の3倍の剰余労働を吸収しようとも、言い換えれば3倍の剰余価値を生産しようとも、――労働の搾取度が同じならば、またどちらの場合にも生産部門全体の平均構成だけが問題なのだから、どのみち消えてしまう個々の相違を無視すれば――どちらの場合にも産業資本は同じ利潤を生むのである。

□視野の広くない個々の資本家が、自分の利潤は自分または自分の部門が使用する労働だけから生まれるのではないと思うのも当然である。これは彼の平均利潤については全く正しい。

□この利潤がどこまで総資本すなわち彼の資本家仲間全体による労働の総搾取によって媒介されているか、この関連は彼にとって完全に神秘なのであるが、しかもブルジョワの理論家である経済学者たちでさえ、今日までそれを明らかにしなかったからなおさらそうなのである。

□労働を――といっても一定の生産物を生産するために必要な労働だけでなく、使用する労働者の数をも――節約して、死んだ労働(不変資本)をいっそう多く充用することは、経済的には全く正しい操作として現われ、もともとけっして一般利潤率や平均利潤を侵すものではないように見える。

□そうだとすれば、どうして生きている労働だけが利潤のただ一つの源泉だと言えようか?なぜならば、生産のために必要な労働の量を減らすことは、ただ単に利潤を損わないものに見えるだけではなく、むしろある事情のもとでは、少なくとも個々の資本家にとっては、利潤を増すための一番手近な源泉として現われるからである。」(177〜180頁)

□「生産価格は平均利潤を含んでいる。われわれはこれに生産価格という名を与えた。それは、アダム・スミスが自然価格と呼び、リカードが生産価格または生産費と呼び、重農学派が必要価格と呼んでいるもの――といっても彼らのうちだれも生産価格と価値との区別を展開しなかった――と事実上同じものである。なぜならば生産価格は、長い期間について見れぱ、供給の条件であり、それぞれの特殊な生産部門の商品の再生産の条件だからである。

□また、商品の価値が労働時間によって、つまり商品に含まれている労働量によって規定されることに反対するその同じ経済学者たちが、なぜきまって生産価格を市場価格の変動上の中心として論じるのかもわかるであろう。

□彼らにそのようなことができるのは、生産価格が、商品価値のすでに全く外化された明瞭に無概念な形態だからであり、つまり競争のうちに現われているとおりの、したがってまた卑俗な資本家の意識のなかに、したがってまた卑俗な経済学者の意識のなかにあるとおりの形態だからである。」(208頁)

□「しかし競争によっては示されないもの、それは生産の運動を支配する価値規定である。価値こそは、生産価格の背後にあって究極においてそれを規定するものである。これに反して、競争が示しているのは次のものである。

□(一)平均利潤。これは、種々の生産部門にある資本の有機的構成にかかわりなく、したがってまた、与えられた搾取部門で与えられた資本によって取得される生きている労働の最にもかかわりがない。

□(二)労賃の高さの変動の結果としての生産価格の上昇と低下――この現象は、商品の価値関係とは一見全く矛盾している。

□(三)市場価格の変動。この変動は、ある与えられた期間の商品の平均市場価格を市場価値にではなく、この市場価値から偏っていて非常に違っている市場生産価格に引き戻す。

□すべてこれらの現象は、労働時間による価値の規定にも、不払剰余労働から成っている剰余価値の性質にも矛盾しているように見える。つまり、競争ではすべてが逆さまになって現われるのである。表面に現われているとおりの、経済的諸関係の完成した姿は、その現実の存在にあっては、したがってまたこの諸関係の担い手や代理人たちが、この諸関係を明らかにしようとして抱く観念のなかでも、この諸関係の内的な、本質的な、しかし蔽い隠された核心の姿およびそれに対応する概念とは非常に違っており、またそのような姿や概念に対して実際に逆さまになっており、反対になっているのである。」(219頁)

 以上が生産価格論の中に出てくる物神性論の直接的な叙述の主要部分である。価値の唯一の源泉は労働者の生きた労働であるという労働価値説の立場と、価値が物の属性として現われることによって、労働から自立し、資本として自己運動するというマルクス物神性論が一体的に主張されている。生産価格が価値から乖離する生産価格論はその当然の帰結なのである。

□生産価格論における物神的倒錯は、資本が利潤を生むという一見自明な現実である。利潤は投資額(費用価格)に比例して形成される。もちろん利潤も費用価値を上廻る部分だから剰余価値の費用価格に対する割合のことである。ところが競争が利潤率の均等化をもたらすので、費用価格に比例して利潤が形成されることになる。

□マルクスは搾取率一定の仮定に立っているうえ、剰余価値は労働者の労働だけが形成しているから、剰余価値は費用価格に比例しない。だから利潤と剰余価値は乖離することになる。

□この乖離幅が大きいと、利潤が労働によって形成された剰余価値の転形であることは隠蔽されてしまう。つまり、利潤をもたらしたのは労働だけではないように思われる。不変資本の割合が多くても利潤率が同じならばその分は不変資本部分の働きだと思われることになる。

□そしてそう思うのも無理はないとマルクスは言うのだ。なぜなら剰余価値部分は総資本によってまとめられ、投資額に比例して利潤が割り当てられるのと同様の結果を競争がもたらすからだとする。

□この競争原理に関するマルクスの説明は、利潤率差による資本移動、搾取率差による労働力移動が平均利潤率及び搾取率一定をもたらすとするが、それは先述したように説得力がなく強引である。それに裏づけの経済統計がないのである。

□だから、マルクスは価値と生産価格が全く乖離して(もちろん剰余価値がマイナスにならない範囲で)いる事実から出発したかのごとくであるが、むしろ、労働から、従って労働時間としての価値から自立しているかのように資本が運動するので、資本の自已増殖となり、それにそって価格の標準自体が価値から乖離したところに落ち着くことになるという仮定から出発している。

□つまり労働から疎外された対象化された労働が、労働とは外的な物の属性として生きた労働と対立する結果、価値として自己増殖する、これが資本の物神性である。

□だからかえってマルクスに言わせれば、死んだ労働の方が価値を増殖すると思い込まれる。可変資本を節約して不変資本におき変えた方が利潤をより多く生みだすと思われるのである。しかし、この利潤は本当は剰余価値の転形である以上、可変資本の割合の減少は総資本としての利潤率の減少を結果する。だから価値法則を無視したツケは総資本としては回ってくる。

□資本の物神性は、資本家をもあざむく、生産性を向上させるために不変資本の割合を増加させようと努力すれぼする程、労働を行う労働力を減少させてしまって、結局は利潤の本体である剰余価値を減少させてしまう。マルクスはこの論理に相当自信があるらしく、総資本の利潤率の傾向的低下法則として定式化してしまった。だがマルクス死後既に百年以上経過したがそれを裏づける傾向は見られない。

□利潤率の傾向的低下法則も、資本構成比による利潤率格差を是正する運動が乖離利潤を伴う生産価格を形成するという仮説に基づいたものである。資本の労働からの疎外、資本の物神性に由来しているのだ。たしかに不変資本の割合増加は利潤率を下げる契機である。しかし、それは抽象的な意味でそうなのであり、実際に不変資本の割合が増加すれば利潤率が下がるというわけではない。

□不変資本の割合を増加させる場合には、それによって生産性が向上するなりして利潤率が維持される前提がなければなかなか増加させようという気になれないだろう。

□ところが新鋭機採用によって、特別剰余価値を得るために不変資本の割合を大きくしていた場合には、例外的な生産力の普及によって、その商品生産部門全体の不変資本の割合が大きくなるし、特別剰余価値もなくなる。そうなれば当然、その商品生産都門全体の利潤率が他部門に比して低くなる筈だが、実際には不変資本割合比格差による利潤率格差はないというのがマルクスの注目した事態である。

□しかし、不変資本の割合が大きくなればそれだけ労働の集約化が進み、個々の労働者の労働はより単純化しても、集団的には複雑度は飛躍し、従って搾取率も昂まる。これは既に「特別剰余価値」を論じる際に言及した。

□その他既述した価値法則にもとづく事態の説明も可能であったろうに、マルクスはあえて、物神性論によって価値法則を踏みはずしたのである(なおマルクス生産価格論をマルクス物神性論の展開として把握しようという研究は未だ緒についたばかりである。注目すべき業績としては、W.J.ボーモル「価値の転形ーマルクスの「真意」(一解釈)」〈『論争・転形問題』所収、東大出版会〉があげられる)。



----------------------資本としての人間--------------------------

□マルクスは生産価格論に物神性論から接近することによって、価値からの乖離が実証すべき事項ではなくて、説明されるべき前提になってしまった。そのため資料面での裏づけが甘く、説得力に欠ける。

□説明の前提になった様々な仮定も机上の空論になるような仮定が多い。実際それらの仮定が本当に成立し、搾取率も一定で、利潤率均等化法則も価値法則よりも直接的にはより強力に作用し、乖離利潤を伴う生産価格が価値の転形として成立しているならば、資本主義社会の構造分析として論理的には非常に見事な構成である。

□社会の経済構造それ自体が労働の搾取によって成り立っていながらそれを隠蔽して、自己展開の論理の中に転形する働きをするわけで、その中にある意識はこの転形による歪みを逆に正常とみなすのである。構造の全体的な力、全体化的な力が意識を包摂することによってより強力となり、それが構造の前提となる(この分析視角は、高橋洋児『物神性の解読』勁草書房参照)。

□マルクス『資本論』は資本主義経済を構造として捉えようとしたところに画期的な意義がある。その面を強く指摘しているのがアルチユセール『資本論を読む』(合同出版)である。

□『甦えるマルクス?・?』で初期の自已疎外論的なヒユーマニズムと後期の構造認識を対立的に捉えるアルチユセールは、『資本論』中に展開されている労働から労働条件が疎外される疎外論や物神性論をヒューマニズムの残滓として除去しようとしている(Louis Althusser:Lenin and Philosophy and Other Essays,NLB, London, 1971, p.86〜92)。

□また、アルチュセールと比較すれば廣松渉は物神性論を自己疎外論から区別して、マルクス物神性論こそが構造認識を可能にするとする(『資本論の哲学』日本評論社)。

□だがマルクス『資本論』自身が構造成立を労働からの疎外論によって基礎づけており、労働と資本、価値と価格の疎外、乖離等が構造を織り成しており、またそれ故に特有の矛盾を抱え込んでいることになっている。

□だから、マルクスの構造的認識は、自己疎外論=労働疎外論と切り離せないのである。このことはアルチュセールのようにヒューマニズムを切って構造認識を採ったり、廣松渉のように疎外論と物神性論を対立させたりすることはマルクスの解釈としては一面的であることを示しているといえよう。

□アルチュセールがヒューマニズムと科学=構造認識の対立について語るとき、抽象的、理念的な人間の立場から現実の重層的な矛盾の構造の把握への視点の転換が目指されている。

□実は、そこで見出される構造それ自身が人間の疎外された現実だというのがマルクスの立場である。アルチュセールは構造認識こそが社会的諸関係のアンサンブルとしての人間把握だと考えてはいるが、しかし、構造それ自身を人間として把握しているわけではない。

□マルクスも構造に人間の疎外された現実を見出しながらも、構造と人間の抽象的区別に立ち停っている。そこがマルクスの人間観の限界なのである。

□『言葉と物』(新潮杜)でフーコーは「人間の終焉」と「言語の支配」を説くが、この場合フーコーのいう「人間」とは近代的自我、抽象的個我である。人間を身体及びそこに宿るコギトの枠組の中で理解している限り、意識や社会を全面展開できないのは固より自明である。

□人間を身体的諸個人としてのみ把握しておいて、そのうえで自然との物質代謝や、生産物との関わり等を説くから、人間と事物、人間と社会構造の抽象的対立の形式が超克できないのである。

□「人間」はむしろ存在のカテゴリーである。その定在には人間的自然(人間の非有機的身体及び諸個人の身体―三木清の用語を使えば「交渉的存在」―)のすべてが含まれる。

□それら人間体(人間の定在)の関わり方、存在様式こそが人間の現存であり、人間関係に他ならない。それを基礎に意識的諸関係が生起するのである。

□もちろん意識的諸関係なしに物質的土台もないのではあるが、かと言って意識的諸関係が物質的諸関係の意識であることは否定できない。その意味では意識は物質の意識である。

□意識中枢が身体内にあることは、意識の個我性、恣意性を支えるが、身体自身が人間的諸連関によって物質的にも意識的にも規定されている以上、それが社会的連関自身の意識、意識対象自身の意識でもあることを否定することはできない。

□意識内部におけるこの個我性と、意識が意識された対象の意識への現われであるという対立、主観の能動性と受動性の対立が主観・客観的認識を構成する。

□この認識図式の問題では、認識自体がこの対立図式の運動であり、またその成果である面は正当に評価すべきだ。だが主客図式を固定的に捉えると論理的意識の生産としての認識過程の考察では、労働過程論での議論のように、個我のみに絶対的な主体性を付与することになりかねない。

□認識主体としてのコギト、内在的理性と、認識手段及び認識対象という図式では、はじめからコギトが形而上学的実体として前提されてしまう。それでは身体中心主義でおわってしまう。

□身体は核ではあっても身体だけに主体性、能動性があるのではない。あくまで人間的自然全体を構成する人間的自然すなわち諸生産物(身体も含め)の相互連関が人間的諸関係及び人間的意識のコードを形成するのである。

□もちろん、私的利害によって諸個人の恣意的な意識や行動が形成され、コギトの自由な意識がいかに闊歩しても、それは全体的連関から形成されているコードの枠組の中でのコードヘの従順及び反撥にすぎない。

□人間を身体的諸個人に限定して、人間的諸事物及びその連関をあくまで人間でない物、人間のたんなる手段、対象でしかない物、死んだ物としてのみ把握すると、真の意味で疎外や疎外の克服も語れないし、物化や物象化も倒錯でしかない。

□自我は身体にとじ込められ発展性を喪失する。実際の人間たちは、自分を決して身体としか捉えないのではなく、自分の造り出した生産物の中にも、自分の服装その他の所有物の中にも、自分が関係する他人たちや諸事物への影響を通して、それらの他人たちや諸事物の中にも見出しているのである。

□その場合に、自我へと統合された諸事物が、自我の意識内容と関連を形成しているのであり、その意味で意識は諸事物の反省である。それによってまた諸事物は社会的連関を形成する。だから身体的諸個人に自我を限定し、自我の定在領域としての人間を身体にのみ限定するのは、まさしくイデオロギー的人間概念にすぎない。

□このような「人間観の転換」によってこそ、マルクスの格闘した問題を批判的に継承できるのである。

□本源的蓄積がもたらしたのは、労働者と生産手段の分裂、対立であった。労働者は単なる裸一貫の労働力に、生産手段は資本家の専有(ひとりじめ)物になってしまった。生産手段から切り離され、抽象的な労働力でしかない労働者は固より労働主体にふさわしく振舞える道理はない。

□生産手段も労働力と結合しない限り生産手段ではありえない。このような分裂の土俵の上では、労働者のみが価値産出の主体であるという主張は一面的である。

□生産は労働の諸要素が相互に働きかけ合って行なわれる。諸要素を結合させて機能させる力は、諸要素を価値に還元させることによって統合する資本である。

□資本は従って諸要素を抽象的に対立させることによって、外的に結合する力である。それはまた労働の諸要素が他の要素と抽象的に対立することによって、かえって他の要素に引きつけられ外的に支配し合う関わり方、関係である。

□諸要素は価値関連、資本関係として生産的な存在になる。価値規定、資本規定は決して事物に外的な社会関係から与えられる規定ではない。このような観点は価値と事物の二元論である。

□経済学が対象にしている事物は社会的な物であって、それ自身社会連関を取り結ぶ主体である。だから、価値として存在するということは、その事物が価値として他の諸事物と関わることに他ならない。だから、価値も資本も事物の存在性格なのだ。諸事物が価値として関係し合って、別の諸事物を価値として産出するとき、価値が価値を産出しているのであって、その限りで、価値や資本は自己増殖するのである。

□マルクスの場合は、価値や資本の自己増殖を労働価値説と矛盾したものとして理解したために、労働によって形成される価値と、資本の自己比例的増殖を示す生産価格は乖離するとされたのである。しかし固より両者は同じ事態にすぎないから、もし、資本総額に比例するように生産価格が形成されているとすれば、労働によって価値もそれだけ形成されている筈である。

□もちろん、価値や資本の自己増殖という現象を流通過程で問題にする場合は、自己増殖の根拠としての生産過程の営みが隠蔽される。その意味で金の成る木的な商品、貨幣、資本に対する物神崇拝が生じることはたしかである。そのことから生産過程での資本としての諸事物の価値の自已対象化、可変資本としての労働力の価値の自己増殖的対象化等という形での把握まで物神崇拝と決めつけるのは早計である。

□資本としての統合のもとで人間は外的な統一を回復しているのであって、人間力として生産し、価値増殖しているのである。

□しかしその際、労働力と生産手段は全くの他者として関係するため、労働力のみが人間=主体であって、生産手段は事物=客体でしかないという図式が成立する。

□身体も他の生産物によって生産された生産物であり、その意味で事物=客体である。生産手段も身体の意識活動や身体外の物化された意識諸形態を通して目的意識的活動を担っているという意味では主体=人間の定在なのである。

□生産物をあくまで人間の他者として物対人の対立図式に固執すれば、物の世界はますます巨大化して人間との対立は深まり、やがて物によって排除されることにもなりかねない。実際、見ようによってはもうその過程は既に進行しつつある。人間観の転換が迫られているのである。



やすい先生の論文、ていねいに読ませていただいています。

すごいですねえ。何も言えません。

身体って延長できるんですよね。

ちょうど車の運転手さんが、ミリ単位で見事にバックで車庫入れするみたいに、ステアリングから車体の一部まで自身の身体の延長になるんですよね。

ということは人間の身体性というものは、動物の身体のゲシュタルトと自ずと異なってきますよね。なんだかメルロ=ポンティみたいですけど(笑)。
のぶりんさんへ

 コメントありがとうございます。若きマルクスは非有機的身体という言葉で、身体器官を構成していないけれど、人間の生命活動の不可欠な部分を構成している事物を表現しました。エンゲルスは道具を身体の延長としてとらえたのはよく知られていますね。

 それでも『資本論』では人間と事物の抽象的区別に固執して、彼の独特のフェティシズム論を展開したわけです。そこに彼の人間観の限界があるというのが、拙著のテーマです。つまり、人間をとらえるときには、個体的な身体やそこに宿る魂や人格に限定しがちなわけです。社会もそういう身体的、個我的な人間によって構成されているかに見なしがちです。だから商品としての机が社会関係である価値関係を示したら、机が踊りだしたと狂気のごとくいうわけですね。

 私は経済関係で人間をとらえる場合は、人間は自己の本質を事物に対象化しているのだから、事物として社会関係を結んでいるのだと捉えるべきだと考えます。それがヘーゲルの「労働=外化」論のテーマだったわけです。つまり身体的、個我的な人間論だけでは説明できないということですね。社会的諸事物の関係として経済的人間関係を捉えるべきだということです。つまり経済学では、人間概念が転換しているということですね。そのことに気付かないものだから、方法論的に失敗があるわけです。

 ですから身体が物に延長されるという視点だけでは、身体主義にとどまっていますから、エンゲルスと同じ水準に退行する恐れがあります。身体も社会的諸事物も経済関係においては商品として存在する人間だという視点が必要なのです。
----------------第一節 「三位一体的定式」に関連して----------------------

------------------「収入の三源泉」について------------------------------

 マルクス物神性論の全展開を『 資本論』 全三 巻の叙述にそって検討し、その方法論的意義を明らかにする課題は到底この小著で果しうるものではない。「第五章」には全三巻のまとめに当たる第三巻、第七篇「収入とその諸源泉」第四八章「三位一体的定式」を素材にし、マルクスの人間観の間題点を再確認し、また人間観の転換による『 資本論』 再構成の足がかりを明らかにしたい。

 「三一位一体的定式」とは「所得の三源泉」に関する「資本―利子、土地―地代、労働―労賃」の図式である。マルクスはこの図式を典型的な物神崇拝にもとづく図式とみなしている。

□何故なら、本来の労働価値説なら、労働がすべての価値の源泉であるから、労働と区別された資本や土地が価値を産出するわけがない。ところがこの図式では労働は労賃しかもたらさないことになっている。

□とすると、地代は土地の働きから生じることになり、利子(利潤)は資本から生じることになる。資本は労働から区別されて不変資本でしかないから、生産手段が自らの働きで利潤をもたらすことになる。

 俗流経済学は、労働の価値即ち労働の凝結量と、労働力の価値即ち労働カの再生産費 (= 労賃)を混同する。そのため、労働者は労賃分しか価値を産出していないことになるのだ。

□だから、これに対する資本は、生産手段と同一視され、生産手段として利子(利潤)を産出するように思われる。これは土地が地代を産出するというのと同様の物神化であるとマルクスは考えている。

 このような物神化が現われるのは、労働条件が労働から疎外され、労働から独立した形態をとっているからだとしている。つまり、労働条件は、労働条件でしかないものとしては、労働者の労働を成り立たせる契機にすぎない。いかに労働に大きな貢献を為すとはいえ、それ自身が労働しているわけではなく、従って価値を産出しているわけでもない。しかし、労働から疎外されていると、労働条件の役立ち、機能が、労働者の労働と同様に価値を形成するかに思われるのである。

 かくして、収入の源泉を俗流経済学が観れば、資本が利子(利潤)をもたらし、土地が地代をもたらし、労働が労賃をもたらすという現実が、そのまま自然に無批判に受け止められることになる。だが、それは疎外された現実であって、土地や生産手段を物神化的に倒錯した結果であるとマルクスは批判するのである(822〜834頁)。

 マルクスの考えでは、価値を産出するのは労働者の労働だけであり、しかも、商品生産社会に限らわる。特に資本が利子を生むのは資本制社会に限られるのだから、生産手段や土地が自然的性格から利子や地代を生むわけはないのである。

□つまり、マルクスは生産手段や土地が価値を生むと考えること自体、生産手段や土地の自然的性格が価値を生むと倒錯していると批判しているのである。

□そこでマルクスは、ブルジョワ経済学は資本主義社会にしか適用できない歴史的カテゴリーを、事物の自然的性格として把握して超歴史的カテゴリーにし、永遠化すると批判する(832〜834頁)。

 ところで、マルクスの論法では、生産手段が資本として規定されるのは、資本制社会においてだけだから、生産手段が利子を生むという把握は資本を超歴史的に捉えるイデオロギー的誤謬だという帰結になる。

□しかし、生産手段が歴史的には資本として規定されているのだから、その歴史の中では、生産手段が利子(利潤)を生むという表現は、それだけで永遠化、超歴史化だという批判は当らない筈である。

 では、どうしてマルクスにとっては、生産手段が利子(利潤) を生むという表現が、生産手段の自然性格が利子を生むという認識に基づいていることになるのだろう。それは、生産手段にとって資本という規定性は、社会関係から投映された規定性にすぎず、生産手段それ自体は、物としては資本ではないとマルクスが考えていたからに他ならない。

□『資本論』の生産過程論で、生産手段(土地も含めて)が機能するのはあくまで労働過程に限定されるのであり、価値形成過程には機能しない。だからマルクスによると価値移転も労働過程で労働者の具体的有用労働が生産手段を生産物につくり変えることによって行っているのである。

□だから価値形成過程では、労働者の抽象的人間労働は生産手段から生産物に移転しつつある価値と実体的同一性によって一つになり、生産物に価値を対象化するのである。生産手段は生産物を作り上げる際の源泉の一つであり、「素材的富すなわち使用価値」の母である。

 つまり、マルクス流には労働だけが素材的富をつくるのではなく、生産手段も一緒につくるのである。これに対して、価値形成はあくまで労働の領域であって、生産手段は労働をしないとされているから、全く価値形成には加わらない。

□ところが、資本としては、生産手段が労働に伍して価値を形成するかに思われる。それは、過去の労働の成果としての生産手段には、多くの価値が付着して、社会的に大きな力を発揮するように資本制社会では見えるからである。

□この労働から疎外され、労働から独立した自己増殖する価値としての資本は、生産手段、労働条件の姿をとって現われるので、資本の自己増殖作用が生産手段の営為であるかに倒錯視されるという構造になっている。

 資本は物ではなくて、むしろ社会関係である。資本は物の姿をとって現われることによって生産過程を統合し、自己増殖を遂げていく過程である。だからあくまで生産手段の外的な規定なのであり、生産手段それ自身は資本ではないのであるとマルクスは主張しているのだ(822〜823頁)。

-----------------資本物神性論における関係と物のニ元論-----------------------

 資本は概念的には自己増殖する価値であり、実体的には対象化された抽象的人間労働の膠質物だとマルクスは考えている。

□つまり本質において資本とは資本家が労働者を支配する力の大きさ、搾取関係なのである。この関係は、生産手段が労働者から収奪されて、労働者に疎遠に対立しているという姿になって現われなけばならない。従って、資本は資本家の所有下にある生産手段として現われるし、労働力を買い上げる労賃として現われる。

 そこで資本は不変資本や可変資本になり、物の属性として現われる。しかし、マルクスの物神性論では、資本は蓄積された、対象化された労働にすぎず、つまり、労働を支配する社会関係であって、それが生産手段に投映付着しているだけだから、生産手段それ自身は資本ではないということになる。

□この論理では社会関係が事物に投映して、資本関係を映し出しているが、事物それ自体は社会関係ではないから、事物を資本と捉えるのは物神崇拝だということになる(824〜826頁)。

 社会関係は資本―賃労働関係を根本にする人間関係、搾取関係であるから、本来事物の関係ではないとマルクスは考える。この関係は、関係それ自体としては存在できないから物的定在を持つ必要があり、人々は関係を物の属性に置き換えて、物の属性として倒錯的に了解し、関係に包摂されることになる。

 しかし、我々が問題にしている社会関係=人間関係は経済的な人間関係である。経済関係は社会的な物の生産―流通―消費の循環過程であり、諸個人がそれに関与できるのも、社会的物として規定性においてである。社会的な物が相互に生産・流通・消費し合っている関係に他ならない。

□だから、元々 、現実的な身体的諸個人の社会関係があって、それが素材的富に社会関係を反映することによって、社会関係が物的関係に置換される( Quidproquo )のではない。逆に、社会的な物が互いに取り結ぶ関係が人間関係、社会関係に他ならないのである。

 つまり社会関係は決して社会的な物に対して単に外在的な関係ではありえない。関係とは関わりであって、その事物の在り方を示すのである。その事物が資本として他の事物を支配したり、創造、流通、消費している限り、それはその事物自身の社会的な働きである。

□ところがマルクスは、物は人間ではないから、主体として社会関係を取り結んでいると見なすのは擬人的な物神崇拝だと批判する。

 人間が経済的な社会関係を取り結ぶということは、その媒介としての物の社会的規定によって左右される。だから物を含まない人間の社会関係が物に投映するという図式には無理がある。

 マルクスの論理は、資本としての社会関係は人間関係であるから事物自体の関係ではないという二元論である。しかし、事物自体といっても経済学の対象は社会的な物であって、人間的自然における有用性と、商品社会における価値を持って存在している事物である。それゆえ、人間に対する支配力、規制力を持っている事物であるから、人間関係を持って当然なのである。その限りで人間化しているのだから。

 結局、マルクスは人間を身体的諸個人として捉え、社会関係を身体的諸個人の関係としてのみ経済領域まで把握しようとするから、経済的な諸事物が社会関係を取り結ぶことはありえないように思われるのである。

□つまり、人と物の抽象的区別に固執するために、物の歴史的、社会的規定は、物自体の規定ではなく人間関係の特殊時代的な反映にすぎないとするのである。

□そうすれば社会と物は結局、二元的である。だが、社会的な事物は各歴史時代にはその時代にふさわしい社会関係を取り結び、その社会の中で再生産されるのだから、社会的規定なしでは、歴史的社会的に存立できない。歴史的社会的規定も社会的な物にとっては重要な規定である。

 もちろん、関係を捨象した即自的な規定とは違って、価値規定や資本としての規定は、商品関連や資本制社会の諸関連の中での規定である。だからその事物自体の規定ではないというのはその意味ではトートロジーである。

□廣松はいわゆる物を関係の項の実体化に基づく倒錯と考えるから、物の社会的属性を倒錯とするマルクス物神性論を賞揚する。

□ただし、マルクスの場合、事物の属性として自然的規定性を認め、これを超歴史的に把握した上で、社会的規定性は、人と人の関係から事物に外的に付与、付着しているという二元論的な問題構成なのである。だから事物は自然的な関係において主体的に存立しえても、社会的な関係においては主体的ではありえないという立場なのである。

 このような間題設定は、逆に見れば、マルクスが物の果たす重要な社会的役割、その客観的な自立性=自律性、それによる人間社会の諸矛盾、その中に巻き込まれて、逆に物が主体化して人間が非主体化する現実をリアルに厳しく見据えていたことを証左している。

 ただし、マルクスは人と物の抽象的区別に固執する立場から、物が人間社会で社会的規定を得て、物や人に対して社会的支配力を発揮する事態を擬人的倒錯=物神崇拝として批判しているのである。

□しかし、人と物の抽象的区別への固執は、かえって、生産者と生産手段の本源的統一の回復、非有機的身体としての人間的自然の把握、自然史の最高段階としての人間の立場と矛盾している。それは人間的自然の分裂を固定して、身体以外の人間の定在を非人間的事物として固定しているからである。

 あらゆる事物も関係において成立するのであり、常に対立物との関わり方として、対立物に対してのみ存立している。対立物なしにその物自体が対立物より先在するわけでもない。

□その意味であらゆる事物は事態の統合であるという事的世界観はうなずける。しかし、同時に事態が統合されて対立物の統一として互いに関係し合う事物として対立する契機なしには事態はいかなる事態でもありえない。その意味ではやはり、世界は事物から構成されている。

□従って弁証法的唯物論は、事物を形而上学的実体としてそれだけで捉えたりはしない。常に事態の統合として関係する主体=弁証法的な実体として捉える。だから事物の規定自体が対立物との統一、対立物に対する対立、否定、相互浸透、対立物への移行を表現している(エンゲルス『自然の弁証法』参照)。

 人間概念も身体を人間として捉えるだけでなく、むしろそれだけでは人間との対立物、人間の環境にすぎない非人間的諸事物に、人間は自己の本質を表現し、自己の現存在を事物として定在させるのである。

□かくして、人間はたんなる身体的存在にとどまらず、むしろ、事物を人間化する。人間関係自体が単なる身体的諸個人の関係にとどまらず、人間化した諸事物の関係となり、それに伴って諸個人の意識も人間化した諸事物の関係が土台となり生じるし、この土台に規制される。

□そしてこの現実の経済的諸事物の運動連関が意識の主体になっているように法則的には意識が形成されるのである。かくして、人間を身体に限定して捉えていたのでは、経済学的認識は成立しえないことがわかる。


ーーーーーーー第二節 マルクス物神性論から〈人間観の転換〉へーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーー骨化の論理ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

□マルクスは資本の物神性を論じるに当って「骨化」という表現を使っている。この表現は、マルクス物神性論による『資本論』総括部分にあたる第四九章「三位一体的定式」の後半部分(835〜839頁)に集中している。

□「現実の生産過程は、直接的生産過程と流通過程の統一として、種々の新たな姿を生みだすのであって、これらの姿ではますます内的な関連の筋道はなくなってゆき、種種の生産関係は互いに独立化され、価値の諸成分は互いに独立な諸形態に骨化されるのである。」(836頁)

□これは『資本論』第二部(第二巻)の流通過程が流通の諸事情を通して価値が実現されなければならないことで、価値が労働とは関係ないものによって生じる外観、即ち流通から価値が生じる外観を呈することを指摘したうえで、第三部(第三巻)では流通都面が競争という性格を強く帯びることで、様々な資本の諸成分は互いに関連性を失って、独立的形態に骨化するというのである。

□この場合の骨化は資本が生産的関係として生きた全体性を失うことによって死んでしまって骨になる、つまり物化するという意味だろうか?

□次に「骨化」は「利子生み資本」に関して語られる。

□「企業者利得と利子とへの利潤の分裂は、剰余価値の形態の独立化を、剰余価値の実体、本質に対する剰余価値の形態の骨化を完成する。

□利潤の一部分は、他の部分に対立して、資本関係そのものからはまったく引き離されてしまって、賃労働の搾取という機能からではなく、資本家自身の賃労働から発生するものとして現われる。

□この部分に対立して、次には利子が、労働者の賃労働にも資本家自身の労働にもかかわりなしに自分の固有な独立な源泉としての資本から発生するようにみえる。

□資本が最初は、流通の表面では資本物神として、価値を生む価値として現われたとすれば、それが今度はまた利子生み資本という姿でその最も疎外された最も独特な形態にあるものとして現われるのである。

□したがってまた、「資本-利子」という形態は、「土地-地代」と「労働-労賃」とにたいする第三のものとしては、「資本-利潤」よりもずっと首尾一貫的でもある。というのは利潤ではやはりまだ起源を思わせるものが残っているが、それが利子ではただ消えてしまっているだけではなく、この起源にたいする固定した反対の形態に置かれているからである。」(837頁)

□「剰余価値の形態の独立化」とは剰余価値の転形である「利潤」や「利子」が「剰余価値の実体、本質」つまり労働や労働時間の規制を受けないで「利潤」や「利子」自身の論理で、自ら価値を生むかに現われることを指す。

□利潤や利子も元はといえば剰余価値であり、抽象的人間労働の膠質物である。ところが利潤や利子は、労働者の労働から生じるのではなくて、資本家の労働や、資本自身の利子生みの本性から生じるように現われる。

□元は労働の生きた連関であったのが「骨化」してあたかも無機質からできていて、有機質すなわち労働からできていないかに現われる。

□何か労働とは別の価値を生み出す物になるのである。「膠質物」からさらに「骨」になるのである。「膠質物」はまだ有機質である労働それ自体の固まりであって、それが物に付着している状態である。

□そのことによってその物を価値として現象させるけれど、それが労働から成ることは価値関係の反省によって認識可能である。ところが、物の属性として現象することによって、労働から形成されていることが隠蔽され、労働量との相関が歪められてしまう。

□価値法則は大枠でしか機能しなくなり、資本量それ自体から価値が直接増殖するように現象する。だから資本は、もう既に労働自体の純粋な固まりではなく、無機質を多く含んで物化したものとして、即ち「骨化」して登場するのである。

□「骨化」は労働からの資本の「独立」に対応しており、死んでしまって運動しなくなるというニュアンスではない。むしろ資本制社会の骨格を、資本法則としての最大限利潤追求法則を構成するのである。それぞれの資本は、直接の労働に基づく価値増殖過程から独立に、自らの利殖本能を発揮するのである。

□次に地代が土地から生じることが「骨化」の完成とされる。

□「最後に、剰余価値の独立な源泉としての資本と並んで、土地所有が、平均利潤の制限として、そして剰余価値の一部分を次のような階級の手に移すものとして現われる。

□その階級というのは、自分で労働するのでもなければ、労働者を直接に搾取するのでもなく、また利子生み資本のようにたとえば資本を貸し出す際の危険や犠牲という道徳的な慰めになる理由をこねまわしていることもできない階級である。

□ここでは剰余価値の一部分は直接には社会関係に結びついているのではなく、一つの自然要素である土地に結びついているように見えるので、剰余価値のいろいろな部分の相互に対する疎外と骨化の形態は完成されており、内的な関連は最終的に引き裂かれており、そして剰余価値の源泉は、まさに、生産過程の別々の素材的要素に結びつけられた種々の生産関係の相互に対する独立化によって、完全にうずめられているのである。」(837〜838頁)

□マルクスの地代論では土地の自然的条件が富(使用価値)の生産性に寄与するために、生産費が節約され、最劣等地との投資額との差額が差額地代として規定される。

□マルクスは最劣等地に投資する賓本も平均利潤を得れることを前提としているから、差額地代は平均利潤をこえた超過利潤の転化したものとしているのである。

□超過利潤の源泉は、土地の豊度等の自然条件である。それらは土地に付属したものであって、地主の投資による土地改良等の結果ではない。借地農による土地改良の成果は、土地に属していることを理由に、地主のものとされ、契約改更の際には地代に加算される。

□だから、土地がもたらす超過利潤は労働の質的向上や、資本による生産条件の改良等の社会的なものによるのではなく、もっぱら自然力白体によって生じるのである。したがってマルクスはこれを虚偽の社会的価値とする。

□マルクスは生産価格をこえた超過利潤の源泉として生産諸条件の改良による特別剰余価値の他に、自然力の違いによる虚偽の社会的価値を考えているのである。

□特別剰余価値は強められ、累乗された労働によって形成されるが、虚偽の社会的価値では、労働は強めない。労働は父、大地は母であるから、母なる大地の方の力が強いだけである。

□マルクスは労働価値説だから、土地の豊度の差が労働を強めることによって価値生産性を昂めるとは考えないのである。

□だから「虚偽の社会的価値」は労働の実体を持たない。それ故、これは、競争を通しての市場価値のレベルの「価値」である。この実体を欠いた価値は総価値には含まれないから、他の生産物と相殺されることになる。

□とはいえ、農業生産物の場合は資本の有機的構成が低位だから生産価格形成のときに価値以下に評価されているから、虚偽の社会的価値の加算で乖離利潤の絶対値が少なくなる場合も考えられる。しかし、両者にきちんとした関連性はないから、ますます価値法則に価格を規制する力がなくなるのである。

□地代は、土地自身から生じる外観を呈するので、労働との関連はないように思われるのである。しかし、マルクスの論理では地代も超過利潤の転化したものである以上、総価値(総労働時間)=総価格という総量一致命題によってやはり労働者の労働が形成した剰余価値の一部分を実体にしているのである(ここでは総量一致命題の再検討は行えない)。

□だから、やはり、土地が地代を生むという表現は物神崇拝に基づいていることになる。土地の自然性が社会的価値を生むことになるのだから、一切、労働や資本から独立に、骨化されて捉えられているとマルクスは考えたのである。

□「資本-利潤、またはより適切には資本-利子、土地-地代、労働-労賃では、すなわち価値および富一般の諸成分とその諸源泉との関係としてのこの経済的三位一体では、資本主義生産様式の神秘化、社会的関係の物化、素材的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接的合成が完成されている。

□それは魔法にかけられ転倒され逆立した世界であって、そこではムッシュー・ル・カピタルとマダム・ル・テルが社会的な登場人物として、また同時にはただの物として、怪しく騒ぐのである。このようなまちがった外観と欺瞞、このような、富の種種の社会的要素の相互にたいする独立化と骨化、このような物象の人格化と生産関係の物象化、このような日常生活の宗教、およそこのようなものを解消させたのは古典派経済学の大きな功績である。

□というのは、古典派経済学は、利子を利潤の一部分に還元し、地代を平均利潤を越える超過分に還元して、この両方が剰余価値でいっしょになるようにしているからであり、また流通過程を諸形態の単なる変態として示し、そして最後に直接生産過程で商品の価値と剰余価値を労働に還元しているからである。」(838頁)

□資本主義社会で生活していくためには、経済的な収入が必要である。貨幣を持っていれば、資本を提供することで利子が得れる。土地を持っていれば、土地を貸して地代を得れる。一切資産を持っていなければ労働を提供して、労賃を得ればよいのである。この三種類の方法は、互いに独立していて、資本、土地、労働のそれぞれに固有な本性から別々に生じるような問違った外観を示している。

□これに対して古典派経済学は、利子、地代を利潤に、利潤を剰余価値に、剰余価値及び商品価値全体を労働に還元してこの物神崇拝を批判した。

□マルクスは古典派経済学の労働価値説の立場を高く評価しながらも、その一貫性の欠如を批判している。要するにマルクスの立場は、労働者の労働が全ての価値の根源なのであるから、資本や土地の価値創出に果たす主体的役割を認めたり、資本家や地主の収入を合理化するような議論は、一切、物が人格化して、労働し、価値を産出しているという擬人的倒錯だと批判しているのである。

□たしかにブルジョワ俗流経済学が労働連関から説明するのを怠り、あたかも各要素が相互に独立して運動しているかの外観だけを扱っているのに対するマルクスの批判は鋭いものがある。

□この外観がどうして生起するのか、独立化、骨化のメカニズムは何かという観点から経済学を批判するところに『資本論』の真骨頂があり、それ故、経済学批判としての意義がある。

□それだけに経済学批判の方法論が重要である。その際マルクスは労働者の労働が価値の全源泉であり、資本制社会は資本家階級が労働者の労働を搾取して蓄積し、それによって搾取体制を強大化する体制であり、矛盾が構造的に発展するという観点から捉えた。

□そして、搾取され蓄積された労働は、労働者から外在的な物と結びついて、物象的な力として労働者に敵対する。しかし、価値は労働時間の固まりであるから、結局価値は資本の労働に対する支配を物象化したものにすぎず、物自体は価値の素材的担い手になっているだけで、価値ではないとするのだ。こうして、価値(労働時間の凝固=労働時間比=労働の社会関係)とそれが物的外皮とする事物の抽象的区別に固執することによって、物が価値として評価されたり、物が価値を創出するとみなすことを物神崇拝とみなすのである。



やすいゆたか事典から抜粋します。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/jiten.htm

1945年生まれ
1971年:立命館大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了

 学部時代から若きマルクスの『経済学・哲学手稿』の自己疎外論に傾倒していた。人間の商品性を自己疎外の観点から批判的に超克しようというのが梯経済哲学に入門した動機だった。

 しかし院生時代に廣松渉の疎外論から若きマルクスは脱却したという議論に影響され、修士論文は人間の商品性を疎外として捉えるのではなく、歴史的本質として捉え返すことになり、「人間=商品」論を唱えた。

 つまり人間の成立の契機を交換の発生に求めた。交換によって人と人が対他関係になり、人と物、物と物も対他関係になって、はじめて生理的な刺激ー反応関係から脱却したとしている。表象は反応のための刺激でしかないのではなく、客観的な事物の現われとされ、その状態や性質をさまざまに表現する必要から主語―述語構造をもった言語が成立し、知覚から認識に発達し、無限に知が蓄積されることになり、文明の発生につながることになる。

  その観点から労働概念を捉え返した修士論文『労働概念の考察』を仕上げた。もちろん人間を商品とみなすこの議論は、その批判的超克を目指しているにもかかわらず、学会発表でも理解されることなく、かえって反発をかうことになる。

 その後塾講師などをしながら研究を続ける。大学院時代の学友らと経済哲学研究会を結成、マルクス文献の原書購読と研究交流を続ける。

 廣松の物象化論を批判した『広松渉『資本論の哲学』批判』を経済哲学研究会刊で1880年に35歳で自費出版した。これが廣松渉本人からは無視されるも、鷲田小弥太の紹介で大阪唯物論研究会で発表し、三重短期大学の非常勤講師に推薦される。そして立命館大学の非常勤講師にも採用される。

 三重短期大学の教員と共著で『人間論の可能性』を北樹出版が1983年に出版、「『商品としての人間』の可能性」を展開した。人間の商品的性格を説いた。人間の本質を価値としてして捉え、かえって交換価値が真の価値とされない価値意識の逆説的構造も解明した。人間が商品であるだけでなく、商品も人間であるという人間概念の拡張にも乗り出している。労働は身体だけでなく機械も一緒におこなっているとしてはじめて経済的な価値生産の構造が解明できるとし、機械を含めた人間概念への人間観の転換を説いた。

 この間、マルクスの経済学批判期の疎外概念の使用を丹念に調べ上げた結果、マルクスが疎外論を払拭していないことを確認し、疎外論の有効性も再評価する。(「疎外論再考ノート」参照)これも踏まえて本格的にマルクスの『資本論』を批判した『人間観の転換―マルクス物神性論批判』を青弓社から1986年に出版した。

 これは未だに当人が代表作と自認しているもので、『資本論』を方法論から全面的に大上段から批判した唯一の著作である。つまりマルクスは労働者の抽象的人間労働のみが価値を生むということを定義的に仮定して、不変資本つまり機械などが価値を生むように見えるのを物神性的(フェティシズム的)倒錯として批判する方法をとっている。

 そして物である商品が人間の価値関係を結んだりすることを物が人間になっているフェティシズムと批判しているのである。つまりマルクスも社会的諸事物も包括して社会関係が成立していることを認め、商品が人間社会の要素となっていることを認めながらも、それをフェティシズム的倒錯として高踏的に批判しているのである。しかしそれでは経済関係を説明しきれなくなるのであり、それを保井温はマルクスが人間を身体的な存在に限定していることからくる「人間観の限界」として批判した。すくなくとも経済関係を捉えるときには人間は全商品を包括するものとして捉えなければならないのである。

 人間を社会的諸事物や人間環境を包括して捉える視点は『経済学・哲学手稿』の「人間的自然」の概念や、「人間の非有機的身体としての自然」の概念にもある。しかし価値を生むのは労働者の労働のみにするという搾取論的観点から人間概念を再び狭くしてしまったのである。(「マルクスの人間論http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/marxningen/mokuji.htm」参照)「人間観の転換」によって生産手段も包摂しても搾取理論は成り立つことを論証したのである。
 

 生産者は作った生産物が売れないと、生産にかかった費用が回収できませんね。再生産ができません。そこで消費者に気に入ってもらうために、へりくだるわけです。つまり商品にそれだけの有用性と価値があっても、だから売れるとは限りません。笑顔で接して、ありがとうございますといって感謝の気持ちをこめて売らないと、同じ品質と価格なら、買う方は、愛想のいい方の品物をえらぶものなのです。
 売り手と買い手という関係では、売り手は売れなければ困るので、愛想よくするのは当たり前です。一応市場ではお金を払う人には誰に対しても売る義務がありますが、買い手は、気に入った人から買えばいいわけです。それによく売れるときはえらそうにして、売れなくなったらへりくだるでは、客が付きません。
 武家の商法みたいに売ってやるでは、商売は成り立たないのです。別に権力関係でへりくだっているわけではありません。
 交換関係は相互支配です。その意味では対等ですね。戦時中の買出しは、売ってもらいに行くのですから、買い手がくりくだって当然です。売りに出かけるのとは違いますからね。
 略奪は権力性ではなく、外部から暴力的に奪い取るのですから、日常的には権力関係にないわけです。強制労働は権力支配関係の中で発生します。

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