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真田昌幸コミュの真田の三男坊

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幸隆の三男なのになんで昌幸が後を継いだのでしょうか!?
長男の信綱に子供はいるのに…
個人的には幸村が出て来たからいいんですが、ちょっと不思議に思いました。
あと、次男の昌輝!!
信長の野望では覇王伝しか見たことありません!!なんで〜〜!?

コメント(5)

さて、確かに気になりますね。
例えば信綱の子どもがあまりにも幼すぎた、
あるいは信綱の子は側室の子だった…などでしょうか。
昌幸の子に幸村が出たというよりは、
それ以前に、昌幸は武田晴信から「わが両目のごとき」とまで
言わしめたほどの武将です。
なので名跡を継ぐだけの実力者であったことは確かです。
武藤氏も昌幸が入らずも途絶えることはなかったですしね。
昌輝に関しては、ただ単に信長の野望では武将数に限界があったか、
あるいは史料が足りなすぎたってことではないでしょうかね。
残念ながら長篠の戦にて信綱・昌輝二人とも戦死してしまいました。上田市真田町にある信綱寺に兄弟の墓があります。真田家家臣白川勘解由とその弟白川某(名前は不明)が信綱、昌輝の首級を持ち帰り、この寺に安置しました。
真田幸隆には5人の子供がいて、上から信綱、昌輝、昌幸、信尹、高勝の順でした。このころ昌幸は武藤氏の養子に出されていて、武藤喜兵衛を名乗っていました。
それまでも、川中島の戦いを始め、相州(相模国:神奈川県)三増峠の戦いや、豆州(伊豆国:静岡県)韮山の合戦、三方ヶ原の戦いなど信玄の主なる戦には必ず出陣して戦功を上げていて、小助さんのおっしゃるとおり、「わが両目のごとき勇士」と称えられたほどです。
長篠の合戦から甲府へ戻った勝頼が、上杉や北条に対する備えとして上州(群馬県)吾妻郡をしっかり押さえるためにも、利根郡への新たなる侵攻の拠点にするためにも当時29歳と武将として油が乗ってきていた昌幸に白羽の矢が立ったと考えるべきではないでしょうか。
はじめまして、歴史バカと申します。

ところで、真田信綱・昌輝の戦死後昌幸が家督を継いだのは、信綱・昌輝の子達が幼かったからではないでしょうか?
幼子が家督を継いだことで、真田家中が乱れたり、それを原因に武田家中が崩壊することを阻止しようとしたかもしれません。

また、信玄公・勝頼公の側近として使えていた昌幸は、勝頼公の時には、参謀的な役割を果たしていたことから家督を継ぐように勝頼公が命じたのではないでしょうか?
初めまして。

皆さんに聞きたいのですが昌幸の軍の強さって信玄に影響されたからなんですかね?それとも、武田信玄流+真田隆幸をミックスして自分なりにアレンジした結果なんでしょうか? 寡兵で徳川を破るのは凄いですが。 徳川も武田流?の軍略を採用してたんでは?と疑問が残ります。意味不明ですいません

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