ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

中島今朝吾コミュの佐々木到一

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
衝撃南京戦では第16師団歩兵第30旅団・旅団長
本支那(国民党)通の軍人、軍閥嫌い、本庄繁と険悪

■上海派遣軍(朝香宮鳩彦王あさかのみややすひこ)
 →第16師団(中島今朝吾・中将)
  →歩兵第30旅団(佐々木到一・少将)

■歩兵第30旅団(佐々木到一・少将)(定員 7,569名)
 →旅団司令部(定員 75名)
 →歩兵第33連隊(野田謙吾・大佐)(定員 3,747名)
 →歩兵第38連隊(助川静二・大佐)(定員 3,747名)

■歩兵第33連隊(野田謙吾・大佐)(定員 3,747名)
 →

1886年(明治19)1月27日
愛媛県松山市生まれ
広島県立一中卒。
1905年(明治38)11月
陸軍士官学校卒業(18期)
1906年6月
歩兵少尉(歩兵第11連隊)
1911年
第五師団から満州の独立守備隊に転属
1917年(大正6)11月
陸軍大学校卒業(29期)
1918年
青島守備軍
1919年
シベリア派遣軍司令部
歩兵第71連隊中隊長
1922年
広東駐在武官
1926年9月
中佐に昇進。
北京駐在日本公使館附武官補佐官
1928年05月03日 済南事件
1928年05月11日 日本軍、済南占領
1928年06月04日 張作霖爆殺事件
1930年8月
大佐に昇進。
1934年12月
満州国軍政部最高顧問に就任。
1935年3月
少将に昇進。
1937年12月
第16師団の歩兵第30旅団を率いて、南京城外下関に突入。
1937年12月13日 十二月十三日の日記
1937年12月16日 十二月十六日の日記
1937年12月26日 十二月廿六日の日記
1938年01月05日 一月五日の日記
1938年3月
中将に昇進。
1941年4月
予備役編入。
1945年7月16日
第149師団長(満洲)
1955年5月30日
戦後、シベリア抑留を経て撫順に収容、拷問死(脳内出血)


【参考文献】

小川雄三 『済南事件を中心として』 山東新報社 1928年
参謀本部編 『昭和3年支那事変出兵史』 巌南堂 1930年


コメント(5)

「日本陸軍と中国」 戸部良一(著)  講談社選書メチエ
戸部良一『日本陸軍と中国──「支那通」にみる夢と蹉跌』

日本陸軍の「支那通」、つまり中国問題のスペシャリスト、
彼らは主観的には日中提携を模索しながらも、
結果的にはむしろ正反対の行動を取ってしまったのはなぜなのかを考察する。

彼ら陸軍「支那通」の方が外務省よりも深く中国に潜り込んでいたため、
それが場合によっては二元外交を引き起こしてしまった。
世代的に旧「支那通」と新「支那通」に分けられる。
中国には近代国家を形成する能力はない、という認識は内藤湖南をはじめ
当時の日本のシノロジストに多く見られ、それは旧「支那通」の基本認識となっていた。
対して、新「支那通」は辛亥革命以降の中国ナショナリズムの動きに共感、
彼らが近代国家を作り上げるのを手助けした上で日中提携を図ろうという意図もあったようだ。

だが、やはり日本側と中国側とでは思惑が異なる。
日本の大陸侵略に対する中国側の反発は厳しい。
本書で焦点の当てられる新「支那通」の佐々木到一は済南事件で暴行を受け、
危うく命を落とすところだった。日本に戻れば国民党のまわし者と言われ、
中国では日本陸軍のまわし者と不信感を持たれる。
期待を寄せていた国民党の蒋介石が特務機関を使って反対派を弾圧、党や軍を
私兵化していることも国民革命の理想を失った旧態依然たる堕落だと彼は受け止め、
旧「支那通」の認識レベルに戻ってしまう。
佐々木は中国に裏切られたと感じた。中国をよく知っていたからこそ欠点が目につき、
体感的な憎悪から対中強硬派に転じてしまった。
もちろん、現在の後知恵からは一面的な理解に過ぎないと言ってしまえるが、
対外的な認識の難しさを感じさせる。

ものろぎや・そりてえる
http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-49ea.html

【佐々木到一の満洲観】

『満州統治ノ深憂(続々篇)』

民族協和が満州国の原理であるとすれば、
建国に参加する各民族が国家の構成分子であることを自覚しなければならないのに、
大多数の日本人はこの自覚が足りない。
日本人は日満間の条約によって保障された恵まれた立場と、
先進国・指導国としての優越感をもって臨んでいる。
要するに、満州国を植民地視する誤った観念から脱却していないのである。
それは日系官吏だけに限らない。日本人全部がそうである。
満州国人に対する優越感、干渉癖、横車、理由のない凌辱、根拠のない嫌疑などに、
それが現れている。

『日本陸軍と中国 「支那通」にみる夢と蹉跌 戸部良一』166頁より




『対満州国政治指導に関する所感』

(満州国は)建国以来5年を経て、国内の利権の大部分が日本人に掌握され、
表面上は独立国家でありながら、満州国は急速に植民地化しつつある。
この現状に目を向けずに独立国家という建て前を言っても、それは自己欺瞞にほかならない。
民族協和も所詮、民族闘争をたくみに緩和する以外の何ものでもない。
こんな重大問題を軽々しく放言すべきではないが、満州国は独立国になり得ないし、
日本人も満州国人にはなり切れないのが現実である。

『日本陸軍と中国 「支那通」にみる夢と蹉跌 戸部良一』174頁より

佐々木到一少将私記 

「南京戦史資料集」 P270-276 南京戦史編集委員会編、偕行社、1989年


十二月十三日

(略)
前述する如く午前十時我支隊の軽装甲車が最初に下関に進出して完全に敵の背後を絶ち
又我歩兵は北面 の城門全部を占領封鎖して敵を袋の鼠とし、
少し遅れて第六師団の一部が南方より江岸に進出し、
海軍第十一戦隊が遡江して流下する敵の舟筏を掃射しつつ午後二時下関に到着し、
国崎支隊は午後四時対岸浦口に来着した。
其他の城壁に向かつた部隊は城内を掃蕩しつつある。
実に理想的の包囲殲滅戦を演じてゐるのであつた。

此日我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、
装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば我支隊のみにて
二万以上の敵は解決されてゐる筈である。

午後二時頃概して掃蕩を終わつて背後を安全にし、部隊を纒めつつ前進和平門に至る。
その後捕虜続々投降し来り数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。
多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば兵ならずとも「皆やつてしまへ」と云ひ度くなる。
白米は最早一粒もなし、城内には有るだらうが、俘虜に食はせるものの持合せなんか
我軍には無い筈だった。

和平門の城壁に登つて大元帥閣下の万歳を三唱し奉る。
此日天気快晴、金陵城頭到る処旭日旗のへんぼんたるを見て自然に眼頭が熱くなった。
中央門外に舎営、美しき寝台あれど寝具なし、南京米を捜し出してくる。(今夜はゆつくり睡られるぞ)
(略)


十二月十六日

命に依り紫金山北側一帯を掃蕩す、獲物少しとは云へ両聯隊共に数百の敗兵を
引摺り出して処分した。
市民ぽつぽつ街上に現はる。
(略)


十二月廿六日

宣撫工作委員長命ぜらる、城内の粛清は土民に混ぜる敗兵を摘出して不穏分子の陰謀を
封殺するに在ると共に我軍の軍紀風紀を粛清し民心を安んじ速に秩序と安寧を恢復するに在つた。
予は峻烈なる統制と監督警防とに依つて概ね廿日間に所期の目的を達することができたのである。


一月五日

査問会打切、此日迄に城内より摘出せし敗兵約二千、旧外交部に収容、外国宣教師の手中に
在りし支那傷病兵を俘虜として収容。
城外近郊に在つて不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関に於いて処分せるもの
数千に達す。
南京攻略戦に於ける敵の損害は推定約七万にして、落城当日迄に守備に任ぜし敵兵力は
約十万と推算せらる。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

中島今朝吾 更新情報

中島今朝吾のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング