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小栗虫太郎コミュの「没頭」する世界解読――書簡的試論パトグラフ

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>「館ミステリー」一般にとっての<近代>をうむ「没頭」の閉システム性、 あるいは言語そのものという閉システムの持つヴェルヌ的な耽溺への志向、 そういうものから黒死館を見ることは可能でしょうか?  法水の言葉を引くのであれば
>「黒死館と云う祭壇を屋根にしている−人生そのものが、すでに悪魔的なんじゃありませんか」
>という言葉がぴったりくると思います。
>クルト・ゲーデルが不完全性定理を発表した1931年という年のわずか三年後にこの閉システム(あるいはエーコやボルヘスであるならば「館」は「図書館」となりますが)としての近代そのものを揺るがすアンチ・ミステリである『黒死館殺人事件』が「館ミステリ」として書かれたことは非常に意味のあることだと思います。

>林不木さんの文章に関連するかどうか怪しい所ではありますが、
>拙文をネタに少し意見をいただけたら、と思います。


 どうも。以前にも書き込んでいただき侘しい界隈に一つの鬨声と、とんかつさんには感謝しております。

 ただ私は戦前の所謂探偵小説のみしか知らず、その後の新しい潮流は一切存じ上げませんので、舌足らずの部分が大いにあり、偏向を免れ得ない文章による主張となりますので、御容赦していただきたいです。とはいえ、まだまだ若いので浅学による影響も大きいでしょう。平に平に。

 今回は、自らの論を打ち消す又は飛び越すような観点から書いていきたいと思います。

『<近代>をうむ「没頭」の閉システム性、 あるいは言語そのものという閉システムの持つヴェルヌ的な耽溺への志向、 そういうものから黒死館を見ることは可能でしょうか?』

 勿論でしょう。

 そもそも「館ミステリー」やその他も含め推理小説、ミステリー、ミステリ、探偵小説など様々に形容される物語様式は、その解剖(=推理と解明)される宿命により、常に開かれてしまうものとして存在していると思うのです。

 この運命論を解釈するのに一番適切なのが『さかしま』の物語展開でしょう。なぜ人工楽園がデ・ゼッサントが最も忌避した俗世の侵蝕によって壊れていったのか……この鋭利なストーリーテリングはユイスマンスの冷徹なセンスを暴き出し、また殺人が聖性化された祝祭場所である、かの物語様式の基本的なアーキタイプも指摘し得る援用が可能でしょう(ボルヘスの人生も、軍政による影響が俗世の侵蝕という意味では似ていますね)。

 とすると、没頭という意味では最初から門戸が開いた黒死館は適さないと思われるのです。こと多くの探偵小説は他人が介在する以上、そもそも殺人事件と銘打つ以上、閉鎖への聖化はできないのです。

 反対にマンディアルグやサドの城が、多数から小数へと減算的に当初からの哲学性思想性を完結するという意味では完全な閉鎖性を持ちます。『ソドムの百二十日』や『閉ざされた城の中で語る英吉利人』はまさにです。この減算はある種の核心への、贅肉を摩滅させていくようなもののように感じます。幻想文学の多くにも閉鎖性を持ちますが、これはふと空を見上げて考えると「一種の私小説であるからか」という思考が起きだします。如何に他人が介在しようと王権は常に私にあるのが私小説の帝国です。これも一種の都市文学であり、迷宮幻想に近しいでしょう。城昌幸が現代、人間自身が探偵小説であると書いているのと近しい感情です。

 加算的であること、生産的であることは閉鎖の持つ神聖な要素――ネクロティシズム性(書物、時計などすべての事象に対して死の要素が含まれている、という私の思想であり、多くの人々が今も尚無意識また意識的に知り、分かっている普遍的な日常的な思想)――に対してアゲインストしているので、本質的に相容れないのです。探偵小説的な物語様式は常に加算的です、と主張すると他の明らかに「減算的な物語様式を用いる東西の探偵小説もある」というアゲインストもそこかしこに生じると思われますが、実のところ、私が知る上では探偵小説とはヒロイック・ファンタジーのロマン趣味とそう変わるところがないのです。

 閉鎖性は世界を欲し世界のみで成立するもので、ロマン趣味も要素のデータベース上の遊戯的な作為でありますが、やはり肉感のある人間が存在しなければ物語そのものが成立しません。それが大きな点です。パルテノンや万里の長城はそれだけ成立しますが、ギリシヤ神話や『史記』は人間が存在しなければなりません。

 次に今まで書いてきたような物質的なものでなく、もっと観念的な世界へと観点を移行すると、「没頭」――法水が「黒死館殺人事件」に没頭する、「黒死館そのもの」に没頭する、「黒死病館殺人事件」を書くことに没頭する小栗虫太郎、「黒死病館殺人事件」という探偵小説を読むことに没頭する読者――などなど、何重もの階層性をもった「没頭」が存在し、まるで解剖学的処置を施すとメルヴィルの後期の狂人文学の庭園が浮かび上がってきます。

 今思いついたのは、小栗虫太郎の「没頭」をルーセルの『ルクス・ソルス』と比較するのも興味深いものです。構図のみならず、精神上におけるライティング・メソッドという点から考えるのも面白いでしょう。

 このような指摘をした理由は、実は我々が愉しむ「小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』」とは、本当に探偵小説として愉しんでいるためなのか? という疑問が発生させた場合、容易に別解答を準備できるからです。

 南方熊楠と小栗虫太郎を比較したのは荒俣宏の後世に残る最大級の指摘だと思いますが、黒死館が永遠に現実に建立することのない小栗のマインド・マップ上の知識のバベル塔であったと仮定すれば、あのあまりにもな過剰装飾は我々を、その装飾からして没頭せしめ、殺人事件に装飾することに没頭せしめ、装飾された殺人事件の象徴を解き明かす法水へ没頭せしめ、法水を黒死館を『黒死館殺人事件』を書く小栗のマインド・マップの観念結合の妙に没頭せしめ……と没頭する次元は幾重にも積み重なっているように考えられます。

 江戸川乱歩が著名な序で指摘する通り、殺人事件という次元のみで愉しむというのは困難であり、後世つまり現状による評価も殺人事件のみというものはありません。また楽しみ方についても乱歩の序から逃れられているというものは、無に等しいでしょう。その縦横に配された幾百の要素、それを愉しみ、また己の抽象世界で再構築するのも一興だという論調は正に正鵠を得たものであると思います。

 ただ、日影丈吉は小栗虫太郎の、恐らく『黒死館殺人事件』を指して彼の文学をシュールレアリスムと評したことがありました。これは非常に重要な指摘であると思います。乱歩の評の裏側を指摘するようなものです。ここから発展させると、松山俊太郎が教養文庫版で暴いた小栗虫太郎の天才部分は、シュールレアリスティックに解釈すべきではないのか、そんな充分な余地が存在するような気がしてなりません。ともすれば小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』は狂人文学の範疇で考えられても存分に語ることが可能ではないのかと思われます。

 狂人文学やド・クインシーからバロウズまでのジャンキー文学は過剰な私小説である――他人に体験できない感覚、幻想を主体とする時点で異次元の自然主義的な色合いさえ見せ付けていますが、小栗虫太郎についても彼の天才を解き明かすために、あの衒学趣味の出自を考慮し、またその嗜好が表に出た状態を精神病理を解剖する如く知の踏破を目指せなければならないと思うのです。私から出せる先ず一つ目は、熊楠のマンダラ的思考方法と、小栗の『黒死館殺人事件』と比較検討することです。

 熊楠のいわゆるこの南方マンダラに対して鶴見和子は翠点を見つけよと書いていますが、私は帰納的に洪水のように提起される異なる説話や資料にある共通部分を横糸とし、挙げられた内容の近似性を縦糸として蜘蛛之巣のように思考地図を形成して、中心に存在する核心へと分け入っていく方法を採用しています。この蜘蛛之巣形式であると肉感ある熊楠のリズム(彼には資料を挙げる回数や種類もリズムがあるのです)に合わせる事ができ、内容解剖に非常に役に立ちます。問題点としては演繹法のように一つの理論を仮設して、ということではなく大量の要素に対して博物学的な収集と編纂作業を行わなければならない点があり、非常に疲労するもので、個人の範疇ではライプニッツを目指した熊楠の偉大な城壁に手さえかける事が中々難しいという難点でもあります。

 それはさておき、この蜘蛛之巣形式を小栗虫太郎にも援用できると思われます。というのもその衒学趣味的な要素の解法が、熊楠への解法と非常に親和性近似性が存在しているからです。なぜ澁澤龍彦が桃源社版の解説に殺人事件のことなぞどうでもよいと書ききったのでしょうか? この指摘には、実のところ探偵小説はその物語の決定的なカタルシス昇華において、トリックよりも別の何かが必要とされている、という重要な思索すら現れています(先ず乱歩らの諸作品を読み、探偵小説を愉しむという行為こそ禁忌と繋がっていった当時の世相の読者と心理を同じくしてから読み、愉しむ、そのような震えるような高揚ある原則を先ず現代の読者は忘れていると思われます)。

 熊楠とは違い小栗虫太郎の場合、その横糸縦糸を繋ぐのは諸作品となりますが、例えば『白蟻』の冒頭の異様さは『黒死館殺人事件』の建物内外の描写にも通じるもので、前者が日本の暗黒大陸的な描写故にあまり親近性が見えにくいのですが、よく見ればそのストーリーテリングの展開と雰囲気は非常に似通っています。畸形的な要素は当初の法水物ではショック・インパクトが強調されがちですが、中期にかけてはヴンダーカマーの博物学的伝統を受け継ぐように好奇として作品に忍び込まされるのを読者が発見できます(『黒死館殺人事件』もあのカルテットもそうでしょう)。

 『黒死館殺人事件』を殺人事件を中心に見据える姿をイメージしつつ、頭の片隅に置きながら要素を集める。今度は法水物を集め、法水の設定や描写の変化などを中心に見据える姿をイメージしつつ、頭の片隅に置きながら各作品の要素を結び付けていく。次に小栗虫太郎を中心に見据える姿をイメージしつつ、頭の片隅に置きながら各作品から抜き出した要素を結び付けていく。小栗虫太郎の全てを使って都市を作り上げるようなもので、気がつけばダイダロスの迷宮のようになっていた、とまではいかないものの、一度皆さん自身で作り上げてみればどうでしょうか? そこから始まるためこのような問いを加えましたが、私自身も思索の旅の最中ですので、現在進行形の向こうに霞む核心をおぼろげながら書けば「ヒロイック、コラージュ、シュールレアリスム、エンサイクロペディスト」でしょうか? 小城魚太郎を最初のメタ言及である指摘も面白いですが、先ずヒロイック――探偵小説のロマン性。次にコラージュ――ヴァン・ダインでもなく熊楠でもなく、インプット即アウトプット的な作業と西洋知による置換作業が『黒死館殺人事件』であったのではないか? 第三にシュールレアリスム――量による結果的な幻想性(またコラージュ要素も影響)。最後のエンサイクロペディスト――フィールドワーク、収集、編纂、造本という経緯が、事件場所、殺人事件の異様さ、知識による解明、事件の顛末という過程にそのまま移行でき、収集的又はアナロジーで構成していくのも(熊楠と)非常に似通った部分がある、といったところでしょうか。

 こうして記述していくと、狂人文学やシュールレアリスムに近しい文学であったように思え、その内宇宙的な箱庭は――まさに「没頭」した世界と評すことができましょう。ただ、この場合「館ミステリー」つまり建物内部での完結された密室拡大および密室なさしめる作者の精神的姿勢如何より、殺人事件を扱うための世界であっただけのことで、アトムから生物の一細胞、果ては国家、世界、宇宙まで「館」は表現可能であり、翻り小栗虫太郎の場合衒学ならしめる「没頭」可能な世界が黒死館であったと考えたほうが理にかないます。黒死館は館でなく、表現における物語様式の修飾語にすぎないと考えています。


『<近代>をうむ「没頭」の閉システム性、 あるいは言語そのものという閉システムの持つヴェルヌ的な耽溺への志向、 そういうものから黒死館を見ることは可能でしょうか?』

 再び勿論であると書きます。ただ小栗虫太郎がとった物語様式が探偵小説であったことが、『黒死館殺人事件』をアンチミステリと評される由来となり、「没頭」する相応しい狂人文学或はシュールレアリスム文学に走らず、また南方マンダラのような形式を取りながら殺人事件という中心を暴ききったままの状態で書きつづけた異常事態が、天才鬼才たらしめるように思えるのです。

 ただ危うさもあり、松山俊太郎が「大ファール」と評したのも一理あるでしょう。戦後鬼籍に入らなかった場合どのように受け止められたのか、またどんな内容を書いたのか興味もありますし想像もしますが、中々良いものが浮かびません。もっと普通に、青春――とはいえ虫太郎も『黒死館殺人事件』では三十代――の力強さとして、かの作品を受けとめることも出来るのではないかとも、横道を見つけてしまうほうが簡単なような気がします。

 それでは。

コメント(4)

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 『小栗虫太郎ワンダーランド』です。この他にも抜き出した部分が多くありますので、基本的な足がかりとする物の一冊だと思われます。

 私自身、戦前の探偵小説(天城一や中井英夫らも含み)のみ、現代作家も京極夏彦、竹本健治ぐらいしか読んだことがなく、新しい人たちについてはよく存じ上げてないので、編年体で俯瞰できないのです。元々トリック? なんだそれは喰えるのか? という風、トリックだとか完全犯罪を企む人間の心理を解剖してみるのが面白いと感じる人間ですので。

 京極夏彦に至っては「妖怪が出ているし、近親相姦が多いし愉しいな。場面展開などがマンガだから読みやすいな」程度、四作品(『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』『鉄鼠の檻』『絡新婦の理』)しか所持しておらずもう買う気もないので困ったものです。時代が自分の周りだけ歪められて止まっているような気がします。どこへ行けばよいのやら。

 最後に『黒死館殺人事件』の修飾に匹敵するのは『人外魔境』ぐらいしかないように思います。あれは巨大な「館」のように感じます。小栗虫太郎自身、それはナショナルジオグラフィックなどの文字上の知識であり西洋建築以上に想像力のみの建築をせねばならなかったと思います。
 自然を相手にし、鬱蒼とした魔境で進み行く物語展開は、非常に「没頭」した状態かと。久しぶりに角川文庫版を引っ張ってきて読み返そうと思います(それにしても表紙が悪夢めいていて、キルヒャーの暗黒面のようでシュールレアリスティックだと思います)。
>メルヴィルの後期の狂人文学の庭園が

 訂正します。【メルヴィル】ではなく【ネルヴァル】です。『オーレリア』等の作家。正に狂人文学としての最期を遂げた作家(何処かの路上で縊死)。スキゾ・キッズと言っても差し支えないでしょう。

 「我らのメルヴィルである」とのジーン・ウルフに対するル・グウィン評を思い出していたので間違えたと思われます。「我が国のボルヘス」との彼女の評はディックに対するもので、ウルフのことを書くと対としてディックのこの評を思い出すようにしている、のは余談です。

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