「よい日本人か悪い日本人かなんて見分けられない」、「ジャップは(どう転んでも)ジャップだ」”A Jap is a Jap.”デウィット将軍の有名な言葉。当時流行語にもなった。ちなみに、このセリフはこう続く。"it makes no difference whether he is an American Citizen or not...I don't want them...They are dangerous element."(アメリカの市民か市民ではない、同じ...彼らはいらない...彼らは危険なものだ)
1942年3月2日、デウィット将軍(General John L. DeWitt)は、日本人の血が8分の1以上入っている人々に対して、太平洋沿岸各州の西半分とアリゾナ州の南から立ち退くよう命じた。8分の1というと、曽祖父の代に1人でも日本人がいればこれにひっかかるわけだ。在米日系人約126,000人のうち110,000人以上がこの命令の対象となったとされる。そしてこのうち3分の2は、アメリカで生まれ、市民権を持つ二世であった。
(*1)当時、日系人の家々に「Internment Sale」(インターンメント・セール)などと書かれたチラシが貼られ、足元を見て買い叩こうとする商売人たちが追いはぎ同然の行為を繰り返していたという。白井「カリフォルニア日系人強制収容所」pp53〜54によれば、米政府は「火事場泥棒式のやからを防ぐために、指定した倉庫に荷物を持ってくれば戦争中保管して、戦後きちんと返すと言って、悪徳商人を取り締った。しかし敵国政府のいうことなどてんで信用しない日本人は、荷物の保管を申請しようなどしなかった」。日系人を転居はさせるものの、財産まで奪うわけではないという建前上、政府も一応の措置はとっていたわけである。このとき保管庫を利用した人びとの荷物は、政府の言葉どおり戦後無事に戻ってきたという。 (*2)Kitano, Japanese Americans. p72. (*3)白井「カリフォルニア日系人強制収容所」pp75〜76によると、労働報酬額は専門職月19ドル、一般16ドル、アルバイト給12ドル。当時の最低労働賃金よりかなり低い額ではあるが、食住が保証されている収容所内では妥当な線とも言える。(ただ、あくまで賃金はこの3パターンしかなかったため、個人の能力や頑張りが反映されないという不満はあった。)このようにして得た金によって、贅沢はできないながらも、被収容者たちは所内の売店から外部のものを買うことができた。 (*4)WRA = War Relocation Authority、戦時転住局などと訳される。強制収容の段取り、収容所の管理などを行なう事務局。 (*5)1942年12月のマンザナー暴動、1944年5月のツールレイク射殺事件等。数えあげればキリがない。
参考文献:
Weglyn, Michi. Years of Infamy: The Untold Story of America’s Concentration Camps. New York; William Morrow and Company, Inc., 1976. 白井昇「カリフォルニア日系人強制収容所」河出書房新社 1981 カール米田「マンザナー強制収容所日記」PMC出版 1988