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映画がお好き☆コミュの〜素性とバイラオール〜『LA NOCHE FLAMENCA』

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★ 尚も躍動する【静かなる高貴な老人】〜素性とバイラオール〜

● 明け方、がばっと起きてまた『LA NOCHE FLAMENCA』のフラメンコを観た。グリーンのドレスの人(バイラオーラ)の踊りはいい。それと左から二人目の女性は私の“好み”だなあ、なんて思うほどに親近感がある。一方で私は、「高貴な人」。我が人生の幼少の頃に思いは飛んでいる。そこには“高貴”の想い出がある

〜高貴〜

● 私は幼少の頃、素敵な娘や淑女は、けっして用便を足さない存在だと思っていた。叔母達もそんな雰囲気だった。しかし後にやはり人間という生き物である限り、っていうことを思い知らされた。狼狽した。この原形は後々まで私の日常生活に影を落としている。
● 私の叔母達は何れも凜としていた。そんな中で私は育った。叔母は言った。「けっして百姓は相手にしてはいけないよ。結婚する相手が現れたらまず家紋を調べてね。私に見せてねその家紋を・・・」。当時は、口減らしのため親は娘達を売ることは当たり前であった。まるで「おしん」のように。でも叔母達はみな高貴であったし、そのように振る舞った。(下級ではあったが)武士の家系を誇っていた。ああ、そんな生き方もあるのかって感銘した幼少の私がいた。「きみは○○家の16代目だから、そのつもりで生きなさい!」って言われた。16代目としての私は幼少の頃より○○家の総大将であり、叔母達も親族もみな私に従った。でも、結婚した相手は何れも「百姓」の子孫であったのだ。その百姓の素性はひとことで言うと“卑しい”ものだ。

〜異形〜

● ある日、マダムに朝まで付き合わされた。何軒もの飲み屋に行き、朝まで飲むのだ。それで送っていくと、牛丼屋に入った。マダムはだらしなく牛丼を2杯も食べた。嫌な気分になった。そのくせ“私はトイレの汚いお店は嫌いなの”って言う。ますます嫌になった。
● フィリピーナはとくトイレに立つ。それも嫌だった。それは用便をするのではなく、トイレで他の客と連絡をとっているからである。私は、英語の歌を聴いてくれているようにみえるこうしたパブによく行ったが、トイレに立つことはしなかった。私はこの民族は嫌いだ。全く嫌だ。でも中には優れた女性もいた。
● 私は例の娼婦と一緒に歩くとき、彼女に姿勢を正し律して歩け、って言う。何も娼婦だから卑屈になることは無い。夜の歓楽街を往来する者たちは、みな娼婦であり娼夫なのだ。私はそれらとは一線を画す。そんな歩き方をする。街の人々から視ればそれは異形であろう。

〜畏怖〜

● 私だって卑下なことは言う。しかし、飲み屋でだらしない男女がそれを言うときはたまらなく嫌な気分にさせる。私は卑下なことを言う雰囲気、刻をよく知っていて。ちょっとだけさりげなく言う。みな、あれって顔をする。そう私はパフォーマンスしているのである。
● 私は昔からのガキ大将だが、それは必要に応じて行う。仲間となって一緒に戦う。それが終わればまたひとりを好む。いつも徒党を組むのが嫌いなのだ。だからバーベキューだの合コンだのっていうのはとても嫌だ。何であんなにふざけあえるのか理解できない。
● 私は高校の頃、私の席は最後列の窓側だった。私はそれを好んだ。授業がちまらない内容だったり、嫌いな先生であったりしたとき、知らぬうちに窓を抜け、コロッケ屋に行った。放課後、生徒達はわいわいと談笑していたが、私はひとり机えに伏して耽っていた。
● そんな私を生徒達、不良達は畏怖した。それもそのはず、いざ戦いになれば必ず先頭にいてみなを鼓舞した。それでだ。私の従妹も私を誇った。要するに一匹狼なのであった。でも狼はその仲間のために独り唸り敵を威嚇するもんだ。その頃の原形は幼少のものである。

〜孤高〜

● 私には素敵な友人がいる。彼と釣りを楽しむのはとても嬉しい。彼もまた孤高である。キャンプをしても、わいわいしている場所から離れたところで、僅かな食事と酒、ほのかなランプの灯りで、静かに語る。釣りのこと、家族のこと、世の中のこと、互いに思惑する。彼はキャンプ道具に相当こだわっている。そんな友はいい。
● 今の学校の隣の席のSさんに、そんな友をみる。女性で凜として孤高である。しかもフラメンコダンサーである。大人の雰囲気を持ち、私にはとても注意深い。私はよく自分のことを明け透けに話す。これも技である。相手の反応と絡みを誘っているのである。Sさんは自分のことはよく話さない。他人のことも話さないのだ。

〜素性〜

● ある程度の歳を重ねれば、人には訳が貯まる、つまり「素性」を持つ。ほとんどの人の素性は話しを聞けばだいたい割れる、ばれる。しかし私が幾ら己をばらしたって、誰も本当のそして全ての私は解らないのだ。それほどの素性と多様性をもっているからだ。だからサイトで“不思議なひと”って言われた。
● 英語しか話さない娼婦も、英語で同じことを言う。いつも「Wonderful personality. Strong personality. A mysterious person. Attractive personality.」を連発する。私は娼婦のお気に入りなのだろうか。
●「素性と多様性」「生と死のへの躍動」を持っているのが、フラメンコ。それは地方に根を降ろして発達しているアートであり、スペイン人でもジプシーでもないアンダルシア人のもの。多様な民族の交錯と占領の中でも孤高にそれを伝承している。それを観る私は、あっ孤高っていいなあ〜て思う。

〜傲慢〜

● 己のことばで話せない人が異常に多いと思う。義援といえばみな義援、仁といえばみな仁。拙くてもいいから“己の言葉”で話して欲しい。己の頭で考えて欲しいと思う。知識をひけらかす者、思想に昇華していない。単なる大学出の立ち回り記者に過ぎない。世の中をしたり顔で立ち回っているだけ。記事は書けるが、ただそれだけである。映画を観ても解説者以上の見方はできないのだ。映画に己の素性を重ね、思惑することができない。そんな見方はつまんないよ。
● 人のトピックを見ても、己の流儀でしか判断できない人。違和感を覚え避ける人。意味が分からない人。必要か必要でないかでしか判断しない人。それは何ですか?って聞かない、聞こうとしない人。解ったふりをして通り過ぎる人。解ったふりをしなければ己の知のレベルがばれると怯える人。そんなのはみな「コンビニエイジ」であり、“うざい”って言う。まあまあ、どれだけ傲慢な無知が多いものか。

◆そんな者は臆して黙れ!

〜躍動〜
● 最近聞かなくなった(私には聞こえないのかも)のに「ボヘミアン」というのがある。面倒だから引用しよう。
『ボヘミアン (Bohemian) とは、自由奔放な生活をしている者をさす言葉である。またそうした生き方やそれを追究することをボヘミアニズム (Bohemianism)、そうした人々が多く住むコミュニティーをボヘミア (Bohemia) という。本来は「ボヘミア人」という意味の「ボヘミアン」という語を、比喩的に「定住性に乏しく、異なった伝統や習慣を持ち、周囲からの蔑視をものともしない人々」という意味で使い始めたのはフランス人で、その起源は15世紀にまでさかのぼる。これは当時フランスに流入していたジプシー(ロマ)が、主にボヘミア地方(現在のチェコ)からの民であったことがその背景にある。
 これが19世紀ごろになると、定職を持たない芸術家や作家、または世間に背を向けた者で、伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている者をさす言葉に変化した。そのニュアンスとしては、良い意味では「簡素な暮らしで、高尚な哲学を生活の主体とし、奔放で不可解」という含意、悪い意味では「貧困な暮らしで、アルコールやドラッグを生活の主体とし、セックスや身だしなみにだらしない」という含意がある。』出典: フリー百科事典【ウィキペディア(Wikipedia)】
● 私は「ボヘミアン」に似ているがそうでもない。私は「革命のボヘミアン」に似ているがそうでもない。やはり、初恋の人エリカとの約束の地、“アンダルシア人”なのだと思う。それでフラメンコに協調しているのであろう。お膳立てはどんどん整ってきている。私が、もどきであっても男性のダンサー、バイラオールであり、男性歌手、カンタオールになる刻、それは成し遂げられる。

◆ そう、私は【静かなる高貴な老人】であり、尚も【躍動する】のだ。

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