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初代内閣総理大臣 伊藤博文コミュの伊藤は民主化を50年遅らせた権力の亡者?

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また長いことのご無沙汰でした。


以下は、薩摩守という方が書いた「認めたくない英雄達」より


彼は今のすべてがそろった現代の理想的な民主主義の価値観の視点で見ているので、その罵詈雑言は許してやろうと思う。 明治時代に生まれていたら、彼はこんな勝手な卓上の空想論など語れないほどの弱肉強食の世界を知ることだろう。 

伊藤は左に急進的革命派、右に軍閥官僚派をよく抑えて理性的に明治の政治の舵取りをやってきた。 彼は開明的で情け深く頭脳明晰な明治天皇の寵愛を一身に浴びた。 それは彼が明治天皇の意向をもっとも良く受け継ぎ、明治の世を転覆させないように、亡き維新の先輩の恩に報いるべく、一身を捧げてきたことを天皇が認めていたからに他ならない。 

現代の視点でとやかく言うことは誰でもできるが、彼のような奮闘振りを今の人間ができるか。 明治の空気が彼の才能を開花させ、もっとも適切な政策を取ってきたと私は判断します。

その意向を汲んで、あえて伊藤公を誹謗する彼の文章を熟読玩味し、この文章の裏面から見える伊藤公の功績を読んでいただければ幸いです。

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【伊藤博文】民主化を50年遅らせた権力の亡者

【前書き】
 
言わずと知れた初代内閣総理大臣にして、大日本帝国憲法の立案者である。

 吉田松陰の松下村塾に政治・経済を学び、薩長藩閥が幅を効かす明治新政府内にて岩倉具視・井上馨等とドイツを手本とした政治体制と憲法の確立に尽力し、初代内閣総理大臣に就任する。 明治史おいて憲法と内閣の立役者としてその知名度は他の追随を許さない。



【略歴】


 周防国熊毛郡束荷村(山口県熊毛郡大和町)字野尻に長州藩の下級藩士・伊藤直右衛門の庸い人・林十蔵の家に生まれる。 初名は「しゅんすけ」と読むのか、「としすけ」と読むのか、「利助」、「利介」、「利輔」、「舜輔」、「春輔」、「俊介」、「俊輔」と多数伝わっている(←ややこしいわ、阿呆っ!)。一般には「伊藤俊輔」の名で通っている。

 家系は貧しく、ペリーが浦賀に来航した時代の変動期に蔵元付仲間伊藤家の養子となり、下級ではあるものの士分となる。
 安政三(1856)年に藩命で「相州浦賀警衛」として出役した際に、来原良蔵に見出され、その紹介で吉田松陰の松下村塾に学び、ついで長崎で洋式操練を学んだ。

 つまりは彼もまた元は尊皇攘夷に傾倒していたわけで、安政六(1859)年に桂小五郎(後の木戸孝允)に従って尊王攘夷運動に参加した。文久二(1862)年一二月には品川御殿山英国公使館焼打に加わわるも、翌三年三月士分に列せられた後、井上聞多(馨)と共にひそかに渡英して、英国の進んだ技術・政治体制を見るにつけ、以後開国・富国強兵論に転じる。




 その間、地元長州で四国艦隊による下関砲撃事件を知って翌年六月急いで帰国し、長州藩と連合国側との講和に尽力した。
 この間尊攘派に狙われ、幾度か危難にあった。勿論その後討幕運動に従うこととなり、第一次征長役後、俗論派が長州藩要路を制した際、高杉晋作を援けてこれを一掃し、第二次征長戦の際は、長崎との間を往来して汽船や兵器の購入に尽力する。

薩摩藩と薩長連合を組んだ最大の貢献者は坂本竜馬だが、伊藤も一枚噛んでいる。



 明治に入ると新政府に出仕し、外国事務局判事、大阪府判事を経て兵庫県知事となり、その折 封建制度廃止反対派に狙われるに及んで明治二(1869)年四月辞職して上京した。 明治三(1870)年一〇月財政幣制調査のため渡米。この頃より外交・海外視察にも活躍。 明治四(1871)年一一月に条約改正を目的に岩倉遣外使節団の副使として欧米諸国を巡歴し、明治六(1873)年九月に帰国する。


 この視察で条約改正は話にすらならなかったものの、内治優先を悟り、大久保利通らと共にそれを説き、西郷隆盛・板垣退助の征韓論を潰した。

 明治一一(1878)年五月大久保が暗殺されると、大久保を助けていた伊藤・大隈の両名は明治政府の二大支柱となる。


 明治政府の開明派として改革を進めたが、漸進的な国会開設論を唱え、大隈重信の早期国会開設とイギリス型政党政治実現の意見に反対し、岩倉具視と謀って、明治一四年政変の原因を作った。これにより大隈は一時政界を追われる。

 邪魔者を追った後、明治一五(1882)年三月渡欧。ドイツ、オーストリア、イギリスなどで憲法調査に従事した。 既にドイツ式の議会制度を目指していた伊藤はドイツで学者グナイストに師事して一日十時間もの猛勉強を積むが、その際に岩倉具視危篤の報を受け、帰国するが、岩倉の死には間に合わなかった。

  帰国後、明治一八(1885)年一二月内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣となった。勿論組閣メンバーは薩長出身者である。


 明治一九(1886)年憲法草案起草に着手。自由民権論者に憲法草案の内容が漏れる事を恐れ、神奈川県夏島で草案を練った(そのため「夏島草案」と呼ばれる) 

 明治二一(1888)年四月枢密院設置して議長となって憲法草案の審議し、明治二二(1889)年二月一一日、遂に大日本帝国憲法が発布される

 一方外交面では、井上馨外相と共に欧化政策から条約改正を図ったが自由民権派の反対にあい、保安条例で弾圧する一方、大隈を外相にしたが、失敗し辞職に追い込まれた。

 明治二五(1892)年八月第二次伊藤内閣を組織すると、自由党に接近し、議会解散や詔勅政策等で反政府勢力を排除し、行政整理、条約改正、増税、海軍拡張を行い、明治二七(1894)年七月には日英通商航海条約を締結して治外法権の撤廃に成功する。

 直後、日清戦争に突入し、翌年陸奥宗光外相と共に全権として清国全権大使・李鴻章と地元・山口の下関で講和条約を締結した。


 戦後は自由党と提携し、連立内閣を組織。明治三一(1898)年一月第三次伊藤内閣を組織し、地租増徴等増税案を議会に提出したが憲政党の反対にあい辞職。

元老たちの反対を押し切って大隈、板垣を後継に押し、日本最初の政党内閣(第一次大隈憲政党内閣)を実現させた。



 明治三三(1900)年九月立憲政友会を結成。総裁となり、第四次伊藤内閣を組織。明治立憲制のもとで政党政治への道を開いた。このころから山県有朋系の官僚派と対立する。

対露問題において、山県はイギリスと組んでロシアに対抗することを考え、伊藤・井上はロシアに満州を譲って、日本は韓国を押さえることを目論んでいた。明治三六(1903)年七月、三度枢密院議長となり、対露開戦決定に参画。政友会総裁を辞任した。

 明治三八(1905)年日露戦争後大使として韓国に赴き、第二次日韓協約を結び、韓国統監府を設置、初代韓国統監となって、韓国の国内改革と保護国化を推進し、ハーグ密使事件(明治四〇(1907)年)を利用して韓国皇帝を譲位させ、更に韓国政府から軍事権・警察権を奪って、第三次日韓協約を結んで内政を掌握した。

 明治四二(1909)年六月統監を辞し、四度枢密院議長となった。

 同年一〇月二六日満州視察と日露関係調整のため渡満した折、ハルピン駅頭で韓国の民族運動家安重根(あんじゅんぐん)に射殺された。享年六九歳。
告発 その1 謀略に継ぐ謀略…


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 この男、確かに才能はあり、努力家でもある。「良い人に政治は執れない。」との理論に立ち、国家権益を増し、法整備を整えることだけが政治なら、伊藤は押しも押されもせぬ大政治家で、実際その通りのネームバリューで歴史に名を刻んでいる。

 だが、このコーナーはあくまで、人間として認めたくない一面を論述するものである(我ながら嫌なコーナーと言えなくもない)。



 伊藤は国には尽したかもしれないが、国民に尽くしたかどうかは多いに疑問が残り(間違いなく尽くしている面はある)、その国家権益の為に多くの同朋や国民・外国人を犠牲にし、またそのやり口は胸糞悪くなるものがある。



 その第一は長州藩と四国連合艦隊(アメリカ・イギリス・オランダ・フランス)の砲台奪取紛争(下関事変)の時で、ボロ負けした長州藩は伊藤と高杉晋作に講和交渉を命じる。
 元よりこの時点で両名は開国派で、交渉の経過を藩主毛利敬親の養子・元徳に経過報告をした後で攘夷派の報復を恐れて行方を暗ましている。

 だが、艦隊側が伊藤達でないと話にならない、とした為、藩主の名で両名の命の保証を取り付けた後(←良くも悪くも抜け目のない奴だ)に、交渉を再開し、300万ドル(一七五万両:ちなみに生麦事件で薩摩藩がイギリスに払った賠償金が10万ドル)の賠償金を突き付けられた。

 毛利藩を完全に破産させてしまうこの額の支払いは当然不可能で、一計を案じた伊藤は天皇と幕府が毛利藩宛に出した「攘夷実施の命令書」を相手に渡すことで、長州による砲撃を「幕命」ということにして、責任と賠償請求先を幕府に転嫁したのである(しかも機密事項漏洩の背徳振り)。

 自分の罪を部下に擦り付けてトカゲの尻尾切りを謀る輩は現代の政治家・会社員・信仰宗教の教祖を見ても明らかだが、上になすりつけたところはある意味凄い。だが、責任転嫁や罪のなすりつけは明らかに卑劣な行為である!



 第二は政敵を闇から闇に葬る謀略家ぶりである。

 征韓論を退けた際には岩倉と謀って、可決寸前のところを太政大臣に仮病を使わせて期限切れにして無効に追いこんだ(平成元(1989)年に野党が提出し、参議院で可決された消費税廃止法案を衆議院で審議未了廃案にしたような感じ)。

 明治一四年の政変で大隈重信を政界追放したのは有名な話だが、これも濡れ衣を着せるやり方で褒めれた物ではない(大隈が福沢諭吉と語らってクーデターを起こそうとしていたことになっている)。

 政敵大隈を汚い手を使って追放した後ろめたさは自身が一番感じていたのかも知れない。伊藤は終生大隈を疑い続けた。
 後に大隈が早稲田大学を創立した際には「大隈が自分に敵対する若手を要請しているのでは?」と疑って、腹心の若者を学生に偽装させて潜入させてまでいる。薩摩守は伊藤に「自分を基準に物事を考えるな」ということと、「そんな物の見方で人生生きていて楽しいか?」と言いたくなると同時に憐れみまで覚える。

 こんな後ろ暗い心や猜疑心と憎しみの色眼鏡でしか物事を見れない人生なんていくら富貴を手に入れれたとしても薩摩守なら御免を蒙りたい。



 第三は後白河法皇・後醍醐天皇並の節操のなさである。

 偏に彼が謀略家のため荷に落ちいた自業自得でもある。謀略とは人を謀で持って陥れることであり、簡単に人を裏切る輩は引っ付くこともまた簡単に行う傾向にある。

 伊藤も例外ではなく、政界追放した大隈とまた組んだり(信用はしていないが)、あれだけ弾圧した自由民権運動の急先鋒・自由党とも手を組んだことがある。かと思いきや藩閥政治の盟友・山県有朋とも対立したりしている。

 必要とあらば誰とも組み、誰をも切るのは、綺麗事だけでは事を運べない政治の世界における一つの能力と言えば能力だが、その節操のなさに引き摺られる国民はたまったものではない。罠に嵌められない程度に謀略に知識や用心を持つことは必要だが、多用する奴は所詮謀略に怯え、謀略が謀略を呼ぶ政治の悪循環になることを洋を問わず、政治家達には心得て欲しいものである。



その2 仲間も仲間だな…

 岩倉具視、井上馨、山県有朋、etc…人民サイドで見てろくな仲間がいない。岩倉は金の為なら賭場を開き(勿論違法)、敵対する者に対して如何なる謀略も恥じず、多くの公卿が幕政から藩閥政治への過渡期の中で権力を失うも、彼だけは上手く立ちまわってその身を保ち、伊藤の謀略を影で支えた暗黒政治の大黒幕で、こんな奴が背後にいて明るい政治ができる方が異常と言えるだろう。

 井上馨は条約改正の為、鹿鳴館などを建てて欧化洋務に努めた人物である。条約改正の為に欧米向に文明国・日本の態を為さんとしたのはいいとしても、その態度は欧米に媚び過ぎで、外国人裁判官の導入案は独立国としての国家の在り様すら危うくする物である。

 同様に条約改正の為に外国人裁判官を導入しようとした大隈重信が暴漢に爆弾を投げられるほど、一般民衆の怒りを買った例からも井上の選択が賢明だったとは言えまい。


 結果論的にも時間こそかかったものの、治外法権の撤廃・関税自主権の回復は誰もが納得のいく形で実現したのだから。


 山県有朋に至っては軍閥政治の元老として民衆や心有る政治家だけではなく、明治・大正の両天皇にも嫌われ、国葬にもかかわらず約八〇人しか列席されない有り様だった。

その少し前に行われた大隈重信の葬儀(国葬ではない)には一般民衆を含めて10万人集まったことを考えると(早稲田大学の創設者として学生・大学関係者が多く集まり得たことを差し引いても)その人望の程が知れるものである。

 彼の残した軍閥政治が昭和初期の軍隊の暴走に繋がったことを考えれば彼もまた認めたくない偉人の一人である。
 ある史家によれば韓国人の立場から言えば日韓併合の黒幕として暗殺されるべきは伊藤よりむしろこの山県だったとのことである。



その3 民主主義が…民主主義が…

 自由民権運動が盛んになり、また欧米列強に追いつき追い越す為に、明治新政府には立憲と議会の開設が急務となった。そして当時の欧米政治機構を参考にした結果、二つの方法がその参考候補となった。

 イギリス流とドイツ流である。双方とも国王がいて、憲法があって、首相と議会があることに変わりはない。

 だがその力関係は大きく異なる。清教徒革命・名誉革命を経て、「国王は君臨すれども統治せず」の政治体制を整えたイギリスでは国王の発言力は小さく、議会と議会で選ばれた首相の力が大きかった。

 もう一方のドイツは丸で逆で、ビスマルクの鉄血政策に代表される様にプロイセン国王に指名された首相が大きな権力を持ち、議会の権力は小さかった。

 そしてそんな相反する統治例を見て、伊藤博文・岩倉具視等は天皇の力を高め、議会の力を抑える為、ドイツ流を選択した。それに対して彼の政敵とも言える大隈重信はイギリス流を目指した。

 勿論帝国主義を選ぶも民主主義を選ぶも、はてまた軍国主義を選ぶも個々人の自由で、そこで善悪を論じはしないが、「民主主義」の立場に立って考えれば伊藤達が民衆の為の政治を目指したとは言い難く、その後の歴史的影響を考えても、こいつらのせいで日本の民主主義は大幅に遅いスタートを切らされたと言える。



その4 貴様こそ真の侵略者だ!!

 「あなたは朝鮮を侵略しましたね?」と問えば、恐らく伊藤は「Yes」とは言うまい。その言い分は「保護下に置いた。」、「他の列強から守った。」とほざくだろう。
 だがそれが詭弁であることは明らかである。朝鮮総督府初代総監として彼が行った大韓帝国皇帝を退位させ、大韓帝国のを元の「朝鮮」に戻し、一国の軍事権・警察権を奪い取った所業は完全な侵略行為である。

 国名や軍事・警察に介入することは、外部からの口出し(のみに終始して)さえ「内政干渉」と言われる。まして直接介入は侵略行為そのものである。

 勿論日清・日露戦争の結果、日本が朝鮮の保護権を獲得したのだから政治に介入することは充分考えられるのだが、それでも「侵略」したのではなく、「保護」しているだけなら、韓国国内の既存の王族・政治家・政党を指導して執政させる方法が取られる筈である。

 終戦直後の連合国の占領下にあった日本でさえ、昭和天皇は退位させられることはなく、東久邇宮内閣が組閣されてはいたのだから(実質の権力の有無は別にして)。

 それが伊藤が統監となって、その下に行われた軍事権・警察権の奪取・王妃殺害・「殺ってしまえ」の発言を用いての保護条約調印強要に言い訳の余地はない!



 彼が侵略者である顕著なる例は対露関係にも見られる。日清戦争の勝利によって得た遼東半島をロシア・フランス・ドイツの三国干渉で手放した日本は朝鮮半島における権益を守るために二つの世論が大勢を占めた。

 一つはイギリスと組んでロシアに対抗する者で、結果的には日英同盟、日露戦争となったわけだが、もう一つがロシアと日露協商を結び、ロシアの満州の権益を認める代わりに朝鮮半島での日本の権益を認めさせる「満韓交換論」で、伊藤と井上はこちらの路線を考えていた。

 勿論いずれも他国の主権を踏み躙る許し難い考え方なのだが、英国協調路線がロシアに対する防衛色が強いものであるのに対し、対露協調路線は既得権益に対するえげつないまでの執着心が見て取れる。


 改めて言う、こやつは「民主主義を遅らせた男」にして「権益大事の侵略者」である。


 周知の通り、彼の行動は韓国人の大いなる恨みを買い、安重根に銃撃され、30分後に息を引き取っているのだが、まず撃たれた際に彼は何者に打たれたかを側近に問うた。相手が韓国人と聞いた伊藤は、「馬鹿な奴じゃ。」と呟いたとも、「残念じゃ。」と呟いたとも言われている。

 一説に伊藤は日韓併合を穏便に進めることを考えていたが、周りに担がれて矢面に立たされ、圧政の代表と見られたとの同情意見も薩摩守は耳にしたことが有る(同時に、安重根の弾丸はそれ、伊藤を狙撃したのは日韓併合を急ぐ一派が日本の世論を煽る為にやったとの説も耳にしたことがある)。

 もしそうならそれで、伊藤を見直す必要はあるが、朝鮮総督府統監としての彼の権限はかなり大きく、嫌々立たされたものであるなら尚の事穏やかな併合が行われたのではないかと予測される。

 どの道、有史の三分の一を侵略と戦ってきた韓国人達の伊藤に対する恨みは尋常ではなく、理由も無しにここまで恨まれるとは思い難い。

 また暗殺者・安重根の写真を見るにつけ、彼はとても人を殺すような人間には見えない。勿論人を見た目で判断してはいけないが、温厚そうな彼を暗殺に駆り立てたものは?と思わずに入られない
(重罪人であるはずの安に旅順監獄の日本人看守が何度も求めた揮毫が現存する)。

 安は今尚愛国者として、韓国において三大愛国者の一人に数えられている。暗殺者が歴史を上げての愛国者とされている世界史上稀有な例と言えるだろう。それほど伊藤には人の恨みを買う何かがあったのである。



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【弁護】

 悪いが、こいつに関しては条約改正以外に弁護する気にならん…功績の大半は人民と外国人の犠牲に成り立っているのだから…。かなりの悪感情と偏見を込めて書いているので無理矢理にでも伊藤の弁護を行わなくてはならないので「止むを得ず」検証してみる(苦笑)。

 思いっ切り伊藤に同情的な立場に立って絞殺…もとい考察してみるが、まず一つには幕末・明治維新がそれまでの日本史上例のない混迷極まりない時代にあったということだろう。

 例えば、徳川幕府が米・英・露・蘭・仏と締結した日米修好通商条約を初めとする不平等条約は本来なら欧米列強にもっと不利な内容で締結されるところを阿部正弘を初めとする幕臣達が智恵と機転を絞り、かなりマシな内容にしたらしい(…済みません不勉強で)。

 だが、関税自主権のないことや治外法権で日本国内で犯罪を起こしたがい国人を裁けないことは問題として残り、明治に入って岩倉具視をリーダーとする遣欧使節が欧米に乗り込んだが、その時点でもまだ明治政府は国際法に暗く、憲法がないことやキリスト教が迫害されていることが欧米列強に日本を法治国家でない、とみなさせていることを悟り、明治政府は憲法制定・富国強兵・殖産興業に励んだわけだが、はっきりいって、不平等条約による弊害は悠長なことを言っていられる場合ではなかった。

 ここに−薩摩守視点で−僅かながら伊藤博文弁護の余地がある。周囲のアジア諸国が次々と植民地化される中で欧米の技術や法制を導入することが急務で、それこそ謀略を用いて邪魔者を排除してでも国内意見の統一をしなければならず、短期間で国力を上げるには強力な指導者による有無を言わさぬワンマン政治を行わなければならない理屈もわからないではない。

 また、250年に及ぶ鎖国政策の為、政府高官ですら国際情勢に疎かった日本で民主主義政治は時期尚早だったかもしれない(薩摩守は日本は勿論、世界の自由主義諸国の大半が真の自由主義・民主主義を実現しているとは認めていない)。

 もう一つ付け加えるなら、薩摩守は伊藤を「侵略者」として論述しているが、勿論海外への侵略が伊藤一人によって行われたものでないことぐらいは分っている。あくまでメイン人物として論述している。感情的になっていることはご勘弁願いたい。

 締めくくりとして、伊藤の今際の際の言葉を挙げたい。前述した様に、伊藤は自分を撃った者が韓国人と聞いて、「残念じゃ。」とも「馬鹿な奴じゃ。」とも呟いたとされているが、どちらが本当(或いは両方とも口にした)か、また言葉の意味するところで、伊藤に対するものの見方も若干の修正を必要とすることになる。

 「残念じゃ。」とは志半ばに倒れる事への無念か?韓国を平和的に併合するつもりで初めに打った強引な政策を理解されなかったことに対する無念か?

 「馬鹿な奴じゃ。」とは、自分が韓国人に殺されたとなるとその後の日韓併合が報復を込めた圧政的な物になるであろうことを理解しなかった韓国人への侮蔑か?それともこれらの台詞には全く別の意味があるのか?

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