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初代内閣総理大臣 伊藤博文コミュのなかなかの周旋家なり

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(続き)


●そして世界へ旅立つ


その後、俊輔は尊攘運動の道を突っ走っていく。文久2年には英国大使館焼き討ちにも参加している。そして、文久3年、周布政之助らが画策したイギリスへの秘密留学生の5人の一人に選ばれた。

他に選ばれたのは、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉であったが、俊輔と聞多の2人は僅か半年で日本に帰ってくる。四カ国連合艦隊が攘夷戦争の報復として、長州藩を攻めることを新聞で知ったためだ。彼らはイギリスへ来て攘夷の無謀さを悟っており、攻撃中止を頼み込むための帰国だった。

だが、時既に遅く長州藩は惨敗を喫した。やがて、四カ国側と講和談判に持ち込み、俊輔も通訳として随員、長州側の代表である高杉晋作の活躍もあり講和は一応成功したのであった。




★製作者のコメント
この秘密留学生に選ばれたこと、そして四カ国連合艦隊との攘夷戦争を知り、井上と2人だけで日本に帰国したことが、彼の人生でまたまた幸運を招くことになる。
留学生派遣に尽力した村田蔵六が、彼らを見送った時の日記の中に「5人が世界へ旅立った」というような事が書いてあったらしい。江戸の当時は、蘭学者の蔵六ですら「世界の中の日本」ではなく「世界と日本」という程の認識しかなかったのである。そのことを考えると、俊輔以下5人はまさに死出の旅立ちであったろう。

  


●内戦、そして倒幕


禁門の変以後、藩の実権は俗論派が握っていた。高杉は政権奪回のため、クーデターを目論むが、山県狂介以下、誰一人動こうとしなかった。唯一同意した俊輔は、力士隊を率いて決起し、その後、奇兵隊以下諸隊も参戦し勝利を手中にする。

討幕へ突き進む長州は、四境戦争を経て高杉死後は、桂小五郎、井上聞多とともに長州藩の代表格となっていく。そして、慶応4年徳川幕府は崩壊した。俊輔は激動の幕末を生き延びたのである。



★製作者のコメント
歴史に「もし…」を考えるのはタブーと言われているが、久坂、入江、稔麿らが文久・元治年間に死んでなければ、彼が長州藩内の中枢で活躍できただろうか?ということをつい考えてしまう。

内戦時には高杉、井上といわゆる「三人党」と呼ばれるが、俊輔からしてみれば他の2人は、本当なら話も出来ないくらい身分が違う存在だった。まあ、そんなことを言ってられない程、長州は人材不足であったとも言えるが明るい人柄を愛されていたのかな、とも思う。とにかく、このあたりからエスカレーター式に出世コースを歩むことになる。

  


●維新後、政府の最高権力者へ



明治新政府においては外国事務掛、大蔵少輔、民部少輔、工部大輔などを歴任。維新三傑死後は、名実ともに新政府の中核となっていく。明治15年には渡米し各国政情を視察、帰国後は大日本帝国憲法を制定。明治18年には初代内閣総理大臣に就任した。

日清戦争では、講和全権として下関条約を締結、明治37年には韓国統監として日韓併合を行った。しかし、明治42年満州視察中に ハルピン駅頭で韓国の独立運動家、安重根に暗殺された。享年62歳。




★製作者のコメント
今も昔も変わらない政界の派閥であるが、維新後長州閥と薩摩閥が中心となっていく。私は、この俊輔の「すごいな」と感じるところは、長州の長兄ともいえる木戸孝允を見限り、薩摩の大久保利通に接近したことである。

政治家としては、大久保の方が優れていると判断したのだろう。この選択は正解だった。松下村塾に入門、松陰刑死後は高杉・久坂と行動を共にし、彼らの死後は桂の腰巾着のようにくっついた。そして今度は藩を越え大久保に接近、そしてついには明治の元勲となった。

一番最初に、「幸運な偶然が重なった」と書いたが、もしかしたら全てが「計算ずく」だったのではと思えてくる。松陰が評した「なかなか周旋家になりそうなり」は的確すぎるほどの評価であった。

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