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初代内閣総理大臣 伊藤博文コミュの?伊藤博文「年表」−4

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● 1873年 明治6年の政変 【L】征韓論を伊藤中心にしてつぶす。参議兼工部卿に

【L】
征韓論「西郷さんは征韓論ではない」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=8650998&comm_id=240830



● 1875年 【M】大阪会議。 漸次立憲政体樹立の詔。
井上馨とともに大阪会議を斡旋。
政府の動揺、政治不安の中で地方官会議議長・政体取調御用・法制局長官などを兼任。
支配機構の法制的整備・藩閥政権の維持に腐心

【M】
大阪会議の成功。征韓論に敗れた下野した西郷、板垣、後藤、江藤、副島に加え、台湾出兵に反対して野に下った木戸もいなくなり、大久保利通を中心とする政府は孤立無援の状態であった。
伊藤は大久保を大阪にやり、木戸、後藤、板垣など下野した元参議に政権復帰を働きかけた。この会合を大阪会議という。

場所は料亭「加賀伊」、いまの北浜の「花外楼」。
ここで4条からなる政府機構の改革案を決めた。特に気難しい木戸に対しては木戸がかねがねやりたいと考えていた改革案を作成して説得したのは伊藤の凄さである。



● 1877年 【N】西南戦争。 西郷戦死。木戸病死


【N】西郷と西南戦争 
西郷と他の明治のリーダーの差は外国を見たかどうかである。 西郷は士農工商の工商が中心となって富の蓄積に励む明治政府の政策を腐敗と断じた。

しかし西洋と対抗して植民地となることをまぬがれるためには富国強兵・殖産興業の西洋文明国化しかなかった。 あくまで伝統的な清貧な武士の倫理にこだわる西郷は、情けない西洋かぶれの明治の世の姿に抵抗した。

【追加】(これについては衛星放送の愛国保守放送・桜チャンネルで「大東亜戦争とは西郷が行なった明治政府への異議申し立ての西南戦争と同じ。 西洋列強への異議申し立ての西南戦争である」という講演を聞きました。 西南戦争と同じで決して勝ち負けの問題ではない。 西洋的価値観や世界観、さらに彼ら白人種の世界支配体制への西郷や日本、アジアの抗議、捨て身の直訴であった)




● 1878年 (38歳)参議兼工部卿に、内務卿大久保利通を大蔵卿大隈重信とともに支える。
大久保利通の暗殺【O】により参議兼内務卿に。藩閥政権の中心に

【O】
○ (急進的な憲法制定を大隈とともに作ろうとして伊藤と対立した)福沢諭吉が民権家と単純に思われていることには誤りがある。 かれはあくまでも政権と民権を分けて考えていた。 大久保利通は福沢に一度か二度会ったことがある。

その時大久保は福沢に「流行の民権論は大いに結構ですよ、だが人民が団結して 政府に権利を争えば、それ相当の義務が人民に生じますよ、今の人民がそれだけの能力があるでしょうか」このような見解を福沢に述べた。

○ それに対して福沢は大久保にこういった。 「自分は民権家のレッテルを世間に張られているが、人民が反政府となり大騒ぎになったときは、この私があなたに最も忠実な人物であるということがわかるはずです」このように言っているのである。 つまり福沢は人民の政治参加にはかなり慎重な意見をもっていた。 

福沢は大久保に「あなたは政権をより強化してください、私はその根底 にある人権の確立に力を注ぎます」と言った。大久保は福沢の印象について後に日記にこう記している。 「さすがに有名に恥じず実に面白き人物である」と。 大久保は福沢の政治への登用を考えていたらしい。 しかしその前に死んでしまった。


● 1880年 国会早期開設請願運動高まる

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