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初代内閣総理大臣 伊藤博文コミュの伊藤博文「年表」−2

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● 1862年  桂小五郎と親密となりともに京都へ。生麦 事件。久坂玄瑞らと長州藩重臣・長井雅楽の襲撃を計画するが失敗。 伊藤を育ててくれた来原良蔵が自刃。

高杉晋作らとイギリス英国公使館を焼討ち、典型的な尊王攘夷運動の志士に。山尾庸三とともに、国学者・塙次郎を斬殺し、名をあげる【D】 

桂小五郎のもと討幕運動に挺身し討幕派指導者に人物と才能を認められる


【D】テロリスト・伊藤博文

○ 伊藤は長州藩の農民の子供だったが、「あの子は将来きっと大物になる」と見込まれて武士の家、伊藤家の養子となった。しかしいくら才能があっても下級武士で元・百姓ではうだつが上がらなかった。星新一氏が取材で池波正太郎氏に会った時に言われた言葉。「彼は幕末のころに、かなり人を殺しているようですよ」。 

○ 勤皇・佐幕の双方が殺し合いをして時代に、名を上げるためには相手をこちらに引き入れるか、殺すしかなかった。彼は人斬りが唯一出世の手段だった哀しい暗殺者だった。彼は何度も血みどろの修羅場を切り抜けて生き延びてきた人間だった。「切腹というものは、維新の時にたびたび見て、だいぶなれたけれど、決していい気分のものではない」と語ったとか。

○ 彼がさまざまな変名を使っていたのは、取り締まる幕府側の捕捉の対象であったためだ。藩の上級武士たちに認められるためには、命がけの仕事に参加しなくてはいけなかった。幸運にも何度も暗殺の危険をくぐり抜けてきて生き延び、彼は明治の世に花開いた。本当に幸運の人だった。

○ 伊藤が持った多くの変名
若き伊藤はテロリストでもあり、また他のテロリストには彼自身が狙われていたため、多くの変名を持った。

「伊藤博文」 幼名・・林利助  のち伊藤家の養子に入る。
伊藤利介・利輔 ・・文久元年まで使用
(兄貴分、高杉晋作の言われるままに次々と名前を変えた)

伊藤俊輔(舜輔)・・文久2年から使用
越智斧太郎・・・・彦根藩偵察の際の変名
伊藤春輔 ・・・慶応元年まで使用 
花山春輔 ・・・元治元年帰国直後の変名
デポナー ・・・元治元年帰国上陸の際の変名
花山春太郎・・・慶応元年、岩国へ向かう際の変名
吉村荘蔵 ・・・慶応元年、長崎滞在の際の変名
林宇一  ・・・慶応2年頃使用
伊藤俊介 ・・・明治元年頃使用
伊藤博文 ・・・明治元年9月頃から使用
春畝   ・・・雅号

○ しかし、こんなエピソードが残っている。中年になってからのこと、銀座を歩いていると、スリが彼のポケットに手を入れた。その瞬間、その手をつかんで投げ飛ばし、露天商から縄を借りてしばりあげた。驚くほどの早さだったという。反射的に、そんなことをやってのけるほどの腕前の持ち主であったようだ。 

○ 百姓からテロリストとなり命を張って明治の世を作り上げ、初代首相にまでなった伊藤という男は並々ならぬ力量をもっていた人物だった。彼を無視して明治は語れない。百姓でも社会のリーダーになれる日本は世界でもまれな平等社会ではないか。戦国の世を生き抜いた元・百姓の太閤秀吉もそうだ。階級社会ではなく実力主義の日本社会の先進性を、もっと知らなくてはいけないと思う。



●1863年 (文久3年)23歳 すみ子と結婚。
井上聞多(井上馨)、野村弥吉、遠藤謹助、山尾庸三、5人と英国へ密留学【E】 
外国を見て開国・富国強兵論に転向。攘夷戦争が頻発。薩英戦争。攘夷派の7卿が長州へ落ちのびる


【E】 
英国留学 井上が英語で渡英の目的を誤って言ったために井上と伊藤だけは船員として扱われ苦行の日々。その苦労があったからこそ2人は無二の親友となり艱難辛苦を乗り越える胆力がついた。イギリス留学によって語学力に堪能となり、のちの外国との交渉にも役に立った。英語力が伊藤ののちの人生を決めた。また留学体験により思想も攘夷から開国へと転向した。



●1864年  池田屋事件。長州藩への四国艦隊下関砲撃事件の報道に接し急きょ帰国、開国論を唱える。
攘夷論沸騰、開国派の2人に暗殺の危機。 
禁門の変で長州藩兵敗戦。第一次長州征伐。 
馬関戦争で外国艦隊に完敗。講和使節の通訳として外国艦隊との講和に奔走【F】 
井上重傷。長州藩滅亡の危機。俗論党と正義党の内紛。
【G】功山寺挙兵 力士隊を率いて高杉晋作の挙兵に従う。


【F】
馬関戦争の戦後講和交渉を高杉晋作とやるが、伊藤は通訳官アーネスト・サトーに天皇と幕府から受け取った「外国人を
日本から放逐せよ」との命令書を密かに渡している。最終責任者は幕府であり、賠償金も幕府が払うべきことを暗に教え
たのである。


【G】功山寺挙兵
「功山寺挙兵の偉業」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=4895471&comm_id=240830

伊藤博文の偉大な業績でまず最初で、そして一番と言ってもいいのが、高杉晋作の巧山寺挙兵(馬関蜂起)に真っ先に参
加したことだった。 これは維新回天の偉業といっても言いすぎでないほどの決起でした。 

これなくしては幕府倒幕に日本を方向付けし、薩長連合による明治維新を迎えることはなかった。明治新政府の本命は圧倒的に公武合体派による政権でした。 しかしその運命を変えた事件が起こった。 それが巧山寺挙兵。

この前には幕末の暴れん坊・長州藩は完全に息の根を止められていた。高杉晋作は死を覚悟し、いわば無謀な決起をわずかな手勢の奇兵隊を率いて立ち上がった。 

この高杉の決死の覚悟に感銘してまず伊藤俊輔(博文)が加わった。・・・・・・・

「力士隊隊長・伊藤の逸話」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=10055243&comm_id=240830

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