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初代内閣総理大臣 伊藤博文コミュの伊藤博文・年表―1

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皆さん、伊藤博文の発表が終わって、ほっとしてそのまま留守していました。 申し訳ありません。 終わってからすぐに私の日記で大騒動が起こって、こちらへに振り向くことができませんでした。 

研究発表の資料をどのようにここへ反映させるかと考えていましたが、まずは年表と注釈を転載することからいたします。 以前に書いたものと重なるところがありますが、書き加えたものもありご了承ください。 

これから転載を徐々にしていきます。 まだ研究したいテーマもありますので、それは後にまとめて書いていきます。 



【伊藤博文「年表」】


● 1841年 9月2日、熊毛郡束荷村(現・山口県光市)の百姓で村役人の林十蔵・琴子夫妻の長男として生まれる

● 1846年 父十蔵が萩に移住し琴子と利助は実家へ      
● 1849年 生活苦から夜逃げ同然で郷里を捨て、母とともに萩に出る

● 1854年 【A】 14歳 父が伊藤家の養子となり、伊藤姓を名乗る。日米和親条約締結


注釈【A】 
多くの幸運に恵まれたこともあるが、「今太閤」として百姓の息子から天下取りとなったことは、並外れた力量がなければできない偉業である。父親が士分の伊藤家の養子となったのは息子の将来を買われていたからだった。彼は抜群に記憶力が独学でよく勉強をしていた。

伊藤は家族について「父は放胆な男で、かまうことないから、思い切ったことをやれと、いつも自分に言ったものだ。その一方、母は極端なほど気の小さい心配性な性格だった。この二つが自分のなかに共存しているようだ」と語った。



● 1857年 【B】 17歳 松下村塾に入り、吉田松陰の教えを受ける。松下村塾での影響はその後の人生にはそれ程大きくなかった。その後、高杉晋作・桂小五郎・久坂玄瑞の影響を受けつつ、京都・江戸・長崎を往来


【B】
○ 伊藤博文についての伝記で現在簡単に入手できるものはほとんどPHP文庫「伊藤博文」だけです。この表紙カバーの裏に彼の人柄の本質が書かれています。

「かって松下村塾の吉田松陰は、伊藤は斡旋家(外交家)であると見抜いた。これに答えるように伊藤は生涯を通して外交政策を貫いた。彼の人間性を称えるならば、清廉潔白な政治家であったことである。多くの政治家が貪婪(非常に欲深い)の病にかかっても、彼は金に淡白で、政治を金儲けの道具にしなかった。同時に晩節を汚すことがなかった」

○ 「世間では末永くこの塾にいたとように言われるが(在籍5ヶ月ほど)わしが松陰の世話にはあまりなっておらず、実際、当人にそんなに多く会っていない。 そして吉田松陰先生からはあまり学ばなかった」と伊藤は述懐している。

教養ある武士階級が集った松下村塾では、元百姓である彼は疎外感を味わったのではないかと想像される。また家の仕事との両立で忙しく、松下村塾ではあまり勉学できなかった。しかし彼は塾生には明るい性格で人気者であった。



● 1858年 山縣小助らと情勢視察のため京都へ。 安政の大獄
● 1859年 桂小五郎(木戸孝允)とともに江戸へ。 【C】吉田松陰が刑死


【C】
吉田松陰辞世の句「身はたとえ武蔵野の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」。これを伊藤も暗殺されたときに口ずさんだという。

松陰は天皇崇拝の愛国者であり、攘夷派であった。彼は外国へ密航しようとして失敗しているが、外国で見聞を広めていたら伊藤と同じように開国論者に転向して、松下村塾の性格も変わっていたかもしれない。

なお伊藤は松陰の遺体を埋葬した数少ない門下生の一人だった。


● 1860年 桜田門外の変 井伊大老暗殺 


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