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Thomas Hobbesコミュのホッブズだけど、何か質問ある?

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え〜、再び管理人のbehemothです。
コミュを立ち上げて早四ヶ月。
おかげさまで現在のところ18人の方が参加して下さってますが、
管理人の不徳の致すところか、なかなか書き込みが、、、。

せっかくのコミュニティですから、何か皆様のお役に立てればと思い、
一応専門家ですので、ホッブズに関する疑問・質問等がありましたら
ここで答えていきたいと思います。

具体的にどんなことを考えていた人なのかとか、
時代背景とか、おすすめの参考書とか、
現代のホッブズ研究の動向とか、
できる範囲で答えますので、なんでもどうぞ。

コメント(41)

やすいゆたかさん、はじめましてbehemothです。

『人間論』の日本語訳はまだ出ていません
(ホッブズの日本語訳は、今のところ『リヴァイアサン』と
『イングランドのコモンローをめぐる哲学者と法学徒の対話』だけです)。

『人間論』はラテン語で執筆されましたが、寡聞にして、
ラテン語原文をweb上で見られるところは存じ上げていません。
ラテン語原文は、大学図書館等で
"Opera philosophica quae latine scripsit"
を当たるのが良いと思います。

なお、『人間論』の英訳版ですが、これも完全な形では出ていません。

抄訳版でしたら以下の本が手に入ります。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0872201112/qid=1136480881/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-7750674-5038660

これは、人間論の後半部分を訳出したもので、
前半部分は、光学に関する議論となっています。

ちなみに、web上で読めるのは(これも部分訳ですが)以下です。
http://www.philosophy.leeds.ac.uk/GMR/hmp/texts/modern/hobbes/dehomine/dehomindex.html

『人間論』の要旨ですが、基本的に、『法の原理』や
『リヴァイアサン』の人間論の部分と変わりません。
上記二著作で論じられている認識論や情念論、また、
いわゆる機械論的人間論を踏襲したものとなっています。

(むしろ、『物体論』、『人間論』、『市民論』の三部からなる、
『哲学の原理』の執筆をホッブズは計画しており、
『法の原理』や『リヴァイアサン』はその第二部と第三部を
抜き出してまとめたものですから〉

『法の原理』は、ペーパーバックで手に入ります。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/019283682X/qid=1136481955/sr=1-3/ref=sr_1_10_3/250-7750674-5038660

また、web上でも比較的容易に探すことができます。
http://www.google.com/search?sourceid=navclient&ie=UTF-8&rls=RNWE,RNWE:2005-08,RNWE:en&q=elements+of+law


ところで、ホッブズと「人間機械論」との関係は、
まさしく僕自身の研究テーマでも有るので、非常に驚きました。

最近では、Political Theoryに、Samantha Frostが、
"Hobbes and the matter of self-consciousness"という題で
ホッブズの機械論とデカルトの機械論とを論じていますね。

また、ラ・メトリの『人間機械』とホッブズとの関係は、
C・シュミットが『リヴァイアサン』で明確に論じています。

僕はむしろ機械論と当時の生物学とをどうリンクさせるかに興味があります。

リンクされているやすいゆたかさんの論文、後で楽しみに読ませていただきます。
ビヒモスさんありがとうございます。
大変助かりました。

 私の関心は、国家を人間として捉えているというところです。
 社会契約論では国家は、市民が自己保存のために作るのですが、国家を手段としてだけ捉えていては、国家のダイナミズムは理解できません。国家自身も人間であり、自己保存のために戦っているわけです。

 個人が欲望機械であると同時に、国家自身も巨大な人工機械人間として生きた主体であるということです。両方とも人間だということです。そこがすごい。

 既成の人間観だと諸個人だけを人間として捉えていた。身体や身体に宿る人格に人間の範囲を限定していたのが、ホッブズによって、国家や団体も生きた人間として捉えられるようになったわけです。これが法人や組織の主体的責任論の基礎づけにもなっています。

 でもホッブズは比喩で言ってると思っている人が多いのかもしれませんね。
はじめまして。Mochintoshと申します。
私もホッブズと「人間機械論」に興味を持っています。
というよりも人間機械論経由でホッブズにたどり着いた、
という方向です。

以下、お二人に喚起されたことを
勝手に書き込ませていただきます。

>behemothさん
私は『ベヘモス』は読んでいませんが、
『物体論』を齧り読みしています。
これを読んでホッブズの哲学体系、とく人間理解が、
単に機械論的(情念についての運動論的理解)だけではなく、
言語と深く関係した形で論じていることに驚きました。
私見ですがホッブズの機械論は当時の生物学よりも、
物理学や光学にやはり関連していると考えています。
"Hobbes and the matter of self-consciousness"は
ぜひ読んでみますね。

>やすいさん
私も国家を人間として捉えていることについては賛成です。
そしてまたしても私見ですが、
生きた人間だけでなく国家(あるいは主権者)にも
「人格」が擬制として存在する
ということがホッブズの論点のひとつであると考えています。
それは比喩ではなく(ホッブズはメタファー表現を
不正確なものとして退けていますから)、
まさしく運動の伝達から見れば同じなのだと思います。
ただし国家は生存のために必然として作られるために、
そのorganとしての個々人は、シュトラウスらが言う以上に
主体的個人としてとらえられているのかには疑問があります。

すみません。勝手に長々と。
あまりホッブズについて研究されている方が
いらっしゃらないので、
つい書き込んでしまいました。

また新しい論文情報などありましたら、
よろしくお願いいたします。
Mochintoshさんコメントありがとうございます。
国家を人間として捉えるということは、擬制ではなくて、国家も人格を持っていることを意味します。諸個人の持つような人格ではなくても、国家にも個性があり、意思があり、感情があるわけです。ですからそれを分かってもらおうとしてホッブズは『リヴァイアサン』の絵を描いていますね。それは巨大なジャイアントなのです。しかもそれはよく観ますと無数の諸個人が集まってできています。諸個人は国家の部品なのです。
 諸個人も個々には人間機械ですから、機械を部品にして作られた巨大な機械人間が国家なのです。
 部品である個人も欲望機械であり、主体的個人であることは、社会契約論という論理をとっていることからして明白です。また時間があれば『リヴァイアサン』の写真を掲載します。
>やすいさん
早速のコメント、ありがとうございます。
少し言葉が足りなかったですね。
わたしの主張は、国家も人間も同じ人格をもつのですが、
そもそも「人格」という概念自体が擬制(ペルソナ=仮面ですから)である、
というものです。
現代において「人格」とは、ともすると主体と混同されがちな概念ですが、
少なくともホッブズにとって人格は代理可能なものと考えられていますから
(ロックは譲渡可能なものとして考えていますね)、
上記の主張はそれほど奇異なものではないと思います。
主体的個人として社会契約を行うということと、
人格による代理とは、上記のように考えることで、
両立可能になると考えています。

またご感想等いただければうれしいです。
Mochintoshさん、なるほど分かりました。
「ただし国家は生存のために必然として作られるために、
そのorganとしての個々人は、シュトラウスらが言う以上に
主体的個人としてとらえられているのかには疑問があります。」の部分についても分かりやすく解説願います。

 それからMochintoshさんは「人間論および人間学」に関心がおありというより、ご専門のようですから、是非 「人間論および人間学」のコミュにお入りください。まだできたてのほやほやで私以外だれもコメントしていないので、さびしくてたまりません。
やすいゆたかさん、エッセイ拝読しました。
ホッブズによる意志の機械論的説明をアニミズムの「脱構築」と解釈する点を特に興味深く読ませていただきました。

やすいゆたかさんは、特に『リヴァイアサン』で展開されている、国家の「擬人化」的記述にホッブズのインパクトを認められていますね。

確かに、それ以前の『法の原理』と『市民論』では、国家は、政治体、市民社会、市民的人格等々と定義されてますが、『リヴァイアサン』では(特にその序文や第29章などで)、非常に明瞭に人間の身体のアナロジーで国家が捉えられています。

それをQ・スキナーのように、ホッブズのレトリックの受容と見るか、それ自体に内在的な意味を求めるかは、議論の分かれるところです(僕は個人的に後者を取りますが。)。

ところで、やすいゆたかさんは、E・H・カントーロヴィチの『王の二つの身体』で論じられている国王二体論についてはどのような意見をお持ちですか。16・17世紀のイングランドの法的言説では、国王は可死の自然的身体と不可死の政治的身体(Body Politic)の二つの身体が一つの人格に統合されたものとされていました。国家はまさしく国王の〈政治的)身体であり(この身体は個々の人民によって成り立っています〉、逆に言えば、「国家は人間である」ということになり、ホッブズの議論はここから導出されたものと言えないでしょうか。もちろん、わざわざ国王二体論を出さなくても、身体と国家のアナロジーはプラトンから始まる非常に伝統的なものです。

僕はむしろ、「身体としての国家」という非常に伝統的な概念を、なぜわざわざ『リヴァイアサン』で再び持ち出してきたのか(前述の通り前二著作では用いられていません)に興味があります。

そして、これはMochintoshさん(はじめまして!)のコメントに応えることにもなりますが、僕はシュミットが指摘したように、元来身体として捉えられてきた国家を機械化することで、その素材たる人間をも機械化することこそが、『リヴァイアサン』でのホッブズの目的であるように思えてなりません。だからこそ、当時(ヴェサリウスやハーヴェイをはじめとする生理学の勃興期にあって)人間の身体がいかに捉えられ、それがいかに「支配」の言説に乗っかったかに興味があるのです。

長くなりましたが、最後に。僕は『リヴァイアサン』を、主体的個人が「社会契約」をするという物語以外で読めないか考えています。まずもって、意志すら機械論的にインプットとアウトプットの一元的メカニズムに帰されている「人間機械」がどうやって自発的に「社会契約」を行いうるのか。これは、ホッブズ解釈の最大の難問である、自然状態においてどうやって「社会契約」が可能なのかという問題に対して、問題そのものを無化する必要を迫るものだと思っています。
『王の二つの身体』なかなか面白そうですね。忙しくて読む時間が取れませんが、買っておきます。
 ともかくこういった人間論の議論を「人間論および人間学」のコミュにもお入りいただいて、大いに盛り上げてください。というのがまだ「人間論および人間学」のコミュには私しか書き込みがなく、非常に淋しい思いを致しております。よろしくお願いいたします。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=520807
>やすいさん
「ただし国家は生存のために必然として作られるために、
そのorganとしての個々人は、シュトラウスらが言う以上に
主体的個人としてとらえられているのかには疑問があります。」
これも酷い言葉足らずで申し訳ありませんでした。

この文章は二つのことをいおうとしてしまっていますが、

1.国家とは人々の生存のために必然として成立するのであって、在ったり無かったりすることはできない。

2.自然状態にある人間は生存欲求によって国家を成立させ、絶対的主権者を戴くことに同意するのであって、それがどこまで「主体的」な決定ということができるのかについては、疑問があります。もちろん国家の成立を目指すのが「理性的」な人間ではありますが、この理性とは足し算引き算によって得られる結果、と定義されていますから(『リヴァイアサン』第5章等)、こちらのマイナス条件と、あちらのプラス条件を計算したら、当然国家の成立が結論付けられる、ということと、それが近代的な意味での主体的選択であるかどうかを、直接つなげて考えるのは少し問題があるのではないのでしょうか。

というところまで書くと、behemothさんが考えていらっしゃる
「主体的個人が「社会契約」をするという物語以外で読めないか」
という主張に半分乗ったお答えになるのではないでしょうか。

但し、「自発的」ということでイメージされていることが主体性、というのであれば賛成なのですが、行為の動機としての意志といったものまで含まれるようでしたらわたしの意見とは異なります。

わたしの考えている主体性という概念は、行為をし、倫理的価値判断を行うわたし、という自己認識を持ったもの、というものです。この概念設定自体が誤ったものである場合には、上の議論は成り立ちません。
 元々、ホッブズの動機には「社会契約論」を使って「社会契約論」を批判するということがあったと思います。社会契約で国家を作ったのだから、自然権を侵害するような国家は作り直して当然というのが既成の社会契約論だったようですね。それだとMochintoshさんと一致するのでしょうが、それでは専制国家は合理化できません。

 ホッブズは近代国家は主権の絶対性を原理に存立していると考えました。民主国家はホッブズからみれば古代の原理なんですね。彼は知識人が古代的教養からギリシアの民主的ポリスを理想化するのが一番頭にきていたようです。そういうのはもう古いわけです。それに反論するのに独立した諸個人を前提にする社会契約の論理を逆手にとったわけですね。ですから強制され非自発的に行われる服従も理性からみれば自発的で自由な選択だといいくるめたわけです。
 ですからホッブズを民主主義思想家のさきがけみたいに評価する田中浩さんたちの解釈は、ホッブズ自身にとったらとんでもない反動的な解釈なんです。

 ホッブズは人間を欲望機械論によって捉えました。自己保存権を根底において、理性的に自然法を積み上げたわけです。その限りで社会契約がでてくるので、個人に主体性を認めていると解釈すべきでしょう。その上にたって国家も人工機械人間であり、自己保存のために戦い、発展を理性的に目指すわけです。その限りで主権者の理性的判断が貫徹しなければならないので、構成員である個人は国家理性を信頼するしかないわけです。

 ホッブズは主権者の理性である国家理性は、国家自体の存続や繁栄を求めると考えました。つまり国家は豊かで強くなければならないわけです。これを理性的に捉えれば、国民に重税をかけ、圧制をおこなって国民を疲弊させることではなく、国民全体の活動が盛んになり、皆が豊かであるほうが国家としても富強になるわけですから、国家は国民の福利を目的に運営されると考えたわけです。
ところで、「欲望機械」というのは、おそらく、
ドゥルーズ=ガタリのタームだと思いますが、
やすいゆたかさんがそれを敢えてホッブズに用いるのは、
どのような意図があるのでしょうか。
エッセイとこれまでのコメントからはよくわからなかったので、
教えていただけると嬉しいです。
 「欲望機械」というのは欲望を充足することによって自己保存する機械という意味で使用しています。ご承知のようにホッブズは自己保存権を出発点に自然法体系を考えていますね。もちろんこの欲望にはさまざまなレベルがあり生理的な欲求から高度な社会的欲望まであります。いずれにしても最低限自然や社会の中で満たさなければ自己保存(できれば家族や種の保存まで含め)できないような欲望を満たすことで、生きているのが人間です。そういう意味で欲望機械です。
 リヴァイアサンも人間ですから自分の自己保存の欲望を満たすためには、自分を構成している個々の欲望機械たる諸個人の自己保存をかなえる欲望の実現を保障できなければ存続できないのです。
 私がこの表現を採用したのは、ホッブズが機械的に捉えた生命を出発点においているところから、「欲望機械」という表現がぴったりだと思いついたからではなかったかなと思います。もう二十年ほど昔になりますので、そのいきさつは忘れましたが。
 ドゥルーズ・ガダリの『アンティ・オイディプス』を読みましたが、内容を正確に理解できたとは言えませんので、関連についてコメントはできません。
 
 なるほど、よく分かりました。
 ただ、ホッブズ自身が人間を「欲望機械」と呼んだ個所はおそらくありませんし、そう捉えられることを示唆している個所も僕は探せなかったので、とりあえずこのタームの正当性はまだ僕には判断できません。

 これは、僕自身まだ答えの出ない問いなのですが、もし人間が「自動機械」だとすると(ホッブズは自動機械を定義して「時計のようにぜんまいと歯車によって自らを動かす機関」と言っています)、どうしたらそこに「主体性」を認めることが可能になるのでしょうか。

 すなわち、自動機械が意味しているものは、運動の起動因が内的には存在しないということです。人間を動かす「意志による運動」は、『リヴァイアサン』第六章で説明されているように、根源的には外部の対象からのインプットに刺激されて生じるものです。

 デカルトの人間像が「機械の中の幽霊」だとしたら、ホッブズの人間像はまさしく機械そのものです。そうだとしたら、一体そのような人間=機械を「社会契約」の作為主体と認めることはできるのでしょうか。端的に言えば、機械に「主体性」を認めることはできるのでしょうか。もしできるとしたら、その「主体性」は何によって担保されているのでしょう。
 
 ホッブズの人間論を機械論に強く引き付けて読むときは、この問いは不可避だと思います。
 「自動機械」についての解釈で私に誤解があったようですね。生命的(ヴァイタル)な自動的自己保存運動するものだけをホッブズは「自動機械」というのかもしれません。私は動物の意志的(アニマル)活動を含めて考えていたようです。つまり生理的な欲求が起こり、それを充足していくことで自己保存がなされていく仕組みが備わっていて、自分で自分のねじを巻かなければおれないような欲望機械になっている動物も含めて自動機械とみなしていたようです。

 動物は意志的な運動をするわけですが、その意味はあらかじめ行動を起こす前に頭の中で行動を想像するということです。それがエホートですね、それが対象に向かっていたら欲求や意欲といわれます。ようするにさまざまな印象の残像があってそれらが駆け巡り作用しあって、行動に駆り立て、行動の仕方を規定するわけで、そのプロセスが思考だということです。なかなか行動の内容が決まらなければ熟慮ですね。動物も熟慮するというこです。

 このようにすでに動物の段階で対象にいかに働きかけるべきか、さまざまなイマジネーションの組み合わせによって考えた上で行動を決めているというのがホッブズの解釈で、動物にもその意味では主体性を認めているわけです。

 機械に主体性を認めないとすると、一体何に認めるのですか、ホッブズは思考過程を「薄れ行くメモリィ」であるたくさんの「イマジネーション」が頭の中で関係しあっている状態、過程を指しているのです。そのほかにデカルトのように精神的実体なるものを認めていません。

 主体性を担保するということですが、自己保存を意欲し、そのために力を蓄え、発展させたものが生き残り、勢力を持つわけでして、それが社会的にも活躍します。それはいかに思考すればよりうまく自己保存的できるかという競争に勝ち抜くことであり、その結果が社会を形成しているわけです。もし主体的に自己保存のために意欲し、思考しなかったならば、生存競争に生き残れないわけですね。
behemothさん、この議論を「人間論および人間学」のコミュにも紹介したいので、そのままコピーを貼付してもいいですか。なにしろ「人間論および人間学」のコミュはまだできたてほやほやでほとんど私以外書き込む人がいなくて盛り上がりませんので、よろしくお願いいたします。
 生命的な運動と動物的(意志的)な運動の二つを含んだ上で機械的であるということで構わないと思います。要は、デカルトの様に精神という物体と区別された実体を認めるのではなくて、生物学的な側面でも精神的な側面でも一元的に物体とその運動のみを原理とするということですから。
 
 ですから、やすいゆたかさんの16のコメントの、第一段落と第二段落には同意します。問題ないと思います。問題は第三段落ですね。「様々なイマジネーション(映像)の組み合わせ」が意志による運動の端緒であるとホッブズは述べていますが、映像そのものは感覚(対象からの運動を知覚すること)の残骸でしかないわけです。そしてその運動は、当然、自ら内的に作り出せるものではなく、必ずその運動の原因として対象(外部の物体)を必要とするわけです。外部の物体の運動が脳内に達してその運動を脳のある部分に伝え、その運動の残存が映像といわれるものですね。つまり意志とは、外部の対象からの刺激がない以上は決して成立しないものと捉えられているわけです。

 そこでですが、やすいゆたかさんはホッブズが「動物にも主体性を認めている」と仰いますが、しかしそこにおける「主体性」とは社会契約をして主権を作り出すような「主体性」でしょうか。つまり、その話だと、犬や猫でも(原理的には)互いに契約して国家を作ることができるということになります(もちろんホッブズは、なぜ人間だけが自然状態が戦争状態にならざるを得ないのかを情念の問題に絡めて説明していますが)。

 ここでもう一度お聞きしたいのは、やすいゆたかさんが仰る意味での「主体性」とは何か、ということです。「機械に主体性を認めないとすると、一体何に認めるのですか」とのことですが、感覚的に言っても、我々は時計に主体性を認めません。つまり、自動的ということと主体的ということは、全く異なるものだと思うのですが、いかがでしょうか。

 コメントのコピーですが、僕の分であれば全く構いません。
「映像そのものは感覚(対象からの運動を知覚すること)の残骸でしかないわけです。そしてその運動は、当然、自ら内的に作り出せるものではなく、必ずその運動の原因として対象(外部の物体)を必要とするわけです。外部の物体の運動が脳内に達してその運動を脳のある部分に伝え、その運動の残存が映像といわれるものですね。つまり意志とは、外部の対象からの刺激がない以上は決して成立しないものと捉えられているわけです。」

 この部分は誤解があると思います。意志という現象を構成しているのが、実はイマジネーションという「薄れ行くメモリィ」なのです。これはかなり無数に残っていて互いに、何らかの親近性から引き合ったり、整列したり、対極性で反発しあったりして蠢きあっているのです。その動きがあって身体の行動を規定するということですね。この過程が主体の内容になっているのです。つまりそれは外部の刺激から機械的に行われる受身の物理的因果関係ではなくて、過去のさまざまの表象が光ったりはじけたりしながら、いかに反応すべきか考えている状態なのです。デカルトは魂という精神的実体があって、それが考えるとしました。 しかしあるのはイマジネーションという微粒子なんです。それらが関係しあって、主体の行動を規定するのですが、それがそれぞれの個体ごとに経験知を積み重ねて反応の仕方が個性を持ってくるのです。

 犬や猫も社会契約をするということは、ホッブズの場合ならば、もちろん原初的な形態ですが、原理的には可能です。つまり犬や猫でも地域社会を形成して、序列を作ったりします。えさを食べる優先順位とか、挨拶の仕方とかもしきたりに従わなければならないということです。それを認めて参加している以上社会契約を行っているわけです。これは信じられないような光景ですが、三十年近く前ですが、京都の岩倉に住んでいた頃、野犬たちが田畑に数十匹整列して、その前をボス犬が閲兵しているのを見たことがあります。

 主体性というカテゴリーは一筋縄ではいかないので、一度に論じることはできません。

 
 『リヴァイアサン』からの引用です(共に第六章から)。

 「感覚とは人の身体の諸器官と内的諸部分における運動であり、その運動は、我々が見たり聴いたりする諸事物の作用に原因をもつ。そしてその心象(Fancy)とは、感覚の後に残ったその運動の残滓にほかならない」
 
 *ホッブズはFancyとImageをほぼ同じ意味で用いています。

 「そして行くことや話すことやその他の類似の意志的運動は、それに先行する、どこへ、いかにして、および何をという思考に常に依存してるのであるから、映像(Imagination)が意志的運動の最初の内的端緒であることは明白である」

 上記の僕のコメントに特に誤解はないと思われますが、いかがでしょうか。
 動物が「社会契約」をするということに関して、ホッブズは明示的に否定していると思われますが、それはどう考えられますか。確かにホッブズは理性や言葉をもたないある種の動物達は、強制権力をもたずに社会生活(Society)を営んでいるとは言っています。しかし、同時に、「これらの動物の和合(Agreement)は自然的なものであるが、人々のそれは信約にのみ基づくものであり、それは人為的なものである(『リヴァイアサン』第17章)」とも述べています。すなわち、動物を「社会契約」の作為の主体とは認めていないと考えられますが、どうでしょうか。
「映像(Imagination)が意志的運動の最初の内的端緒であることは明白である」で「映像(Imagination)」を外部からの刺激という面で捉えられておられるのではないか、それで「主体」が見つからないという感想を持ったわけです。ホッブズは「薄れ行くメモリィ」として確かに残滓だけれどそれが微粒子みたいな形で関係しあうのです。それが思考の内容です。そういう内的なものによって行動が規定されるという意味で「主体」があるわけです。

 動物の社会契約というのはホッブズの論理から言えるというだけで、ホッブズが展開しているというわけではありません。もちろん初源的なものであり、「信約」関係も力関係の変化で崩れますから、長続きしないことがおおいでしょう。ホッブズが国家で考えたような子々孫々までというようなものではありません。「主体」概念に関連して言及したまでです。
一気に話が進んでしまっているのですが、
すみません、少しコメントを差し挟まさせて下さい。

>やすいさん
コメント11
「それだとMochintoshさんと一致するのでしょうが、それでは専制国家は合理化できません。」
どうもうまく伝えられなくてすみません。
ホッブズの想定する国家はもちろん絶対主権制ですし、そして一度成立した国家は何があろうとも崩壊させてはならない、なぜならまたあの惨めな自然状態に後戻りになるからです。ですから個々人に革命や抵抗の権利は認められていないと理解しています。

コメント12
「その限りで社会契約がでてくるので、個人に主体性を認めていると解釈すべきでしょう。」
すみません。欲望機械たる人間における主体性とはどの様なものなのか、説明いただけたらと思います。behemothさんもコメント18で質問されていますが、一連のコメントでかみ合っていない部分は「主体性」の問題だと思います。

「構成員である個人は国家理性を信頼するしかないわけです」
わたしはここで個人と国家を繋ぐものが「人格」であると考えています。個々人は自分の代わりに主権者が行為することを人格を通して権威付けています(『リヴァイアサン』16章)。よって国家理性を信頼しているのではなく、主権者の行為もまた本人の行為であるからこそ、すべてが正統なものとされるのではないでしょうか。

コメント14
わたしも欲望機械、と言う言葉の持つ、欲望する主体、のようなニュアンスがぴんときていなかったのですが、少し分かった気がします。わたしの中では欲求apettite機械のほうが機械的な感じがしています。

>behemothさん
コメント21
契約とは基本的に言葉を通して行われるものですから(『リヴァイアサン』14章)、言葉を持たない動物は契約することができないと、わたしも考えています。但し言葉を持たない教会や橋、理性を使用できない子供や狂人は他の人によって人格化されるために、契約本人となることはできませんが、他の人格によって契約に関わることは可能だと思います。よって動物もその所有者が代理人として契約することはできますが、社会契約の契約主体となることはできないと解釈しています。
 コメントありがとうございます。ただ、どうもまだよく分からないのですが、「薄れ行くメモリィ」とはまさしく映像のことですが(『リヴァイアサン』第2章)、それは繰り返しになりますが、感覚(直接に外部の対象からの運動の作用が伝わること、すなわち運動の伝達)の残滓なわけで、その「薄れ行くメモリィ」自体も運動でしかないわけです。当然その運動の原因は内的なものではなく、外的なものです。外的な対象から与えられた運動が人間の身体の内的諸部分に伝わり、それが映像となり、その映像の継起が思考の内容であるというのは同意します。ですが、その運動から「主体性」が導き出されるといのはまだよくわかりません。

――引用開始――
意志という現象を構成しているのが、実はイマジネーションという「薄れ行くメモリィ」なのです。これはかなり無数に残っていて互いに、何らかの親近性から引き合ったり、整列したり、対極性で反発しあったりして蠢きあっているのです。その動きがあって身体の行動を規定するということですね。この過程が主体の内容になっているのです。つまりそれは外部の刺激から機械的に行われる受身の物理的因果関係ではなくて、過去のさまざまの表象が光ったりはじけたりしながら、いかに反応すべきか考えている状態なのです。デカルトは魂という精神的実体があって、それが考えるとしました。しかしあるのはイマジネーションという微粒子なんです。それらが関係しあって、主体の行動を規定する
――引用終了――

 この文章をみますと、やすいさんは、まず第一に「主体の内容」を思考=映像の継起(過程)とされています。デカルトの『省察』の第三反論の中でホッブズが論じた、思考するもの(主体=基体)と思考する能力(主体の本質)の区別に照らせば、この「主体の内容」でやすいさんが仰りたいことは、《思考する主体の本質は思考である》ということだと思います。運動それ自体(「過去のさまざまの表象が光ったりはじけたりしながら、いかに反応すべきか考えている状態」)を主体としてしまうと、これは逆にデカルトの非物質的実体となってしまいます。問題は、では、その「主体」とは何か、ということです。ちなみにホッブズは思考の主体とは何かという問いに対しては、それは物体的な事物であると述べるに留まっています。

 ところで、ホッブズが《主体=基体(subject)》という言葉を使う時は、多くの場合、感覚主体(ないし感覚の基体)という意味です。それは、感覚によって知覚された色や映像などの概念が内在する基体(subject)は、外的な対象ではなく感覚受容体にあるというホッブズの認識論を説明するものです。

 つまり「主体がその行動を規定される」とする時、ホッブズ的な意味からはみだす何かがやすいさんの用いる「(行動を規定される)主体」や「主体性」、「主体的」という言葉に帰せられているように思ってしまいます。思考する主体の本質である思考によって、主体の行動が規定されるとする時に、前者の主体と後者の主体が異なる意味内容をもつのではないか(そして後者はホッブズの理論からは導出できないのではないか)、ということです。
 
 おそらく僕自身がまだ勉強不足でわからないことが多いからだと思いますが、以上がやすいさんのこれまでのコメントを読んでの感想です。Mochintoshさん同様、「欲望機械たる人間における主体性とはどの様なものなのか」のご説明を頂けると嬉しいです。
 動物の「社会契約」の不可能性については、Mochintoshさんと同意見です。ホッブズの論理そのものからそれは不可能であると思います。
今試験問題作成中ですので、時間がありません。
ただ一言、デカルトは精神実体をたてたけれど、それは原理的に認識できないものです。つまり客体は認識対象だけれど、主観は認識対象ではありえないわけです。そういうのはイギリス経験論では認められないわけですね。ですから思考している主体があるのなら、それは物質的な運動として説明されなければならないわけです。
 それは思考過程であって、思考主体を過程に還元すればデカルトと同じという発想は、経験論ではないわけです。思考というのを物質の運動や状態として説明するのが、経験論的な伝統であり、パースのデカルト批判もその観点から解釈しなければなりません。
 では主体をどう解釈するかですが、それは思考の型に個体差があり、これがポリシーみたいになって自分の主体が反省されるということです。そのことをホッブズはきちんと展開できていないかもしれません。なにぶん二十年ほどホッブズからご無沙汰していたので、此処にこう書いてあると言えないので、申し訳ありません。パースの方にホッブズを読み込みすぎかもしれません。同じ時期にパースについてもやっていましたので。
「パース人間記号論の試み」は下のサイトでごらんください。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/Peirce/mokuji.htm
この論稿は『月刊 状況と主体』1992年6月号(谷沢書房刊)に掲載されたものを転載しました。   

    パース『人間記号論の試み』について

             やすいゆたか著

           はじめに 

     第一節 人間記号論の文脈

     第二節 事物の活動としての思考

   第三節 客観的実在論とパースの観念論の立場

     第四節 人間記号論のイデオロギー性

  第五節 事物の客観的実在性とプラグマティズムの格率

     第六節 事物の概念としての感覚

第七節共同主観的真理からのずれの反省による自我の自覚

       第八節 認識のコミュニティ

        第九節 記号とは何か?

     第十節 人間記号論の限界と意義
 コメントありがとうございます。 ただむしろお聞きしたかったのは、

――引用開始――
では主体をどう解釈するかですが、それは思考の型に個体差があり、これがポリシーみたいになって自分の主体が反省されるということです。
――引用終了――

ここで言われている「主体」、すなわち「思考の型をポリシーとして反省する主体」とは具体的に何を指しているか、ということでした。「欲望機械の主体」という概念のまわりをめぐる言葉は色々お聞きできているのですが、概念それ自体に関してはまだよく理解することができません。できれば定義のようなものを頂けたらと思います。

 また、もしお時間ができましたら、できればホッブズのテクストの該当個所(ホッブズ自身がうまく展開できてないにせよ、やすいさんがそのように解釈するに至った個所)をご教示して頂ければありがたいです。
しつこく動物との契約についてです。

『市民論』第2章12節に、
「動物はことばや理解することを欠いているために、動物と協定agreementすることはできず、また権利を持っていると考えることも、あるいは彼らの権利を奪うこともできないのである。」
と述べられていることから、
やはり動物が社会契約することはできないと考えるのが妥当だと思います。
その議論は動物と人間との協定の話なので、やすいさんの仰る動物同士の社会契約に対する反証としては、傍論的には使えると思いますが、やはり普通に『リヴァイアサン』17章をもってくるのが早いかと思います。

ちなみに、あまりホッブズに詳しくない方向けに、ホッブズが動物と人間の違いをどう指摘しているか抜き出してみます。

・人間は絶えず名誉と地位を求め競争しており、競争から羨望と憎悪が生じてついには戦争になるが、動物の間ではそうではない。

・動物の間では共通の善〈利益〉と私的な善〈利益〉とは一致しているが、人間はそうではない。また、人間は自分と他人とを比較することを喜び、自分が他人より優れているということを楽しむ。

・動物は人間のように理性を用いることができないから、何か共同作業を行っていても、犯した過ちに気づかないし、あやまちそのものを見つけたとも思わない。これに対して、人間は、公共の事柄について自分が人よりもより適任であると考えるものが極めて多く、彼らはそれぞれ違ったやり方で事を進めようとするから、公共体を混乱に陥れる。

・動物は、何らかの音声は用いるが、言葉という技術をもたない。対して、人間は、言葉によって自らの都合のいいように善悪を解釈して伝え、それによって平和を乱してしまう。

・動物は理性をもたないため、権利の侵害と危害とを区別できない。したがって、動物は、自分が安全である限り仲間を悪く思うことはない。これに対して、人間は自分が安全であるときには、自らの智恵を他人にひけらかす事を好むため、公共体はまたもや混乱に陥ってしまう。

・これらの動物の和合は自然的なものであるが、人々の和合は信約にのみ基づくものであり、それは人為的である。

そして、この最後の議論と、上で延々と言われている「高慢」という人間の厄介な特徴から、以下の議論が導出されます。

・人々の和合を恒常的かつ継続的なものにするには、信約の他に、人々をして恐れさせ、彼らの行為を共通の利益に向けるための共通の権力が必要である。

ホッブズの「社会契約」は常にこの「人々を恐れさせる共通権力」とセットです。なぜなら「信約は剣なくしてはただの言葉に過ぎず、人々を保護する力をまったくもたない」からです。ホッブズの信約が「社会契約」であるためには、必ず個々の契約主体に対してその契約の履行を強制せしめる絶対的な権力が必要なわけです(人間の特徴として、他人に服することを快しとしないということと、私的利益を優先するということがあり、共通権力がなければ、必ず契約を破る者がでてくるから。この二つは動物には前提されていない)。

(もちろん、ホッブズの「社会契約論」の論理は、ここで見事に破綻することになります。つまり、共通の権力を設立するために社会契約をするのですが、その最初の社会契約の履行を個々に強制する共通権力は一体どこにあるのか、ということです)

逆に言えば、契約主体が剣の恐怖によらなくても契約を守りうるのであれば(つまり、動物たちのような「自然的な和合」が可能であるのならば)、そこでは「社会契約」をする必要そのものがなくなるのです。つまり、契約主体である必然性がなくなってしまう。

ホッブズは以下のように述べてます。

「もしわれわれが、多数の人々は、彼ら全体に畏怖の念を抱かせる共通の権力がなくても、正義や自然の諸法を遵守する事に同意するものだと仮定しうるなら、、、そこでは服従がなくとも平和であろうから、いかなる市民的統治も国家もこの世に存在しないだろうし、その必要もないだろう」

以上のことから、「社会契約」を必要とするのは人間だけであるし、また、「社会契約」の契約主体に前提とされている言葉と理性の使用は、人間のみが可能であることから、動物には社会契約が不可能であるし、また必要でもない、と結論付けることができます。
 戦後プロレス界のスーパースターに力道山という人がいました。空手チョップで勇名をはせたのですが、彼は大阪の場末の酒場で酔っ払いと喧嘩になり、ナイフで刺されて死んでいます。素手で渡り合えば十人がかりでも力道山には叶わないでしょうが、ナイフを持つだけで逆転するのです。

 人間にはオリジナルなパワーとインスツルメンタルなパワーがあるといいます。インスツルメンタルなパワーを含めて平等と不平等が成り立つわけです。
 ホッブズは地上最強の怪獣という意味でリヴァイアサンとして国家を捉えています。つまり強大な権力ですから、国家は法を定めて、不法行為に懲罰を与えることができます。その分だけ暴力的な行為は減少するわけで、戦争状態でなくなるわけです。

 戦争状態というのは決して常に戦闘が行われているという意味ではなく、いつ攻撃されるかもわからないという状態のことです。国家権力は少なくともそういう意味の戦争状態を無くすことはできるわけです。
『リヴァイアサン』は、ここの個人を欲望で動く機械(私は欲望機械と呼びますが)、そして国家を生きた欲望機械からなる巨大な人工機械人間として捉え返して説明しています。それを前提にして巨大な人工機械人間である国家の構造や機能を展開しているわけです。その意味でまことに斬新なものであるわけです。
ホッブスが生きた無秩序な時代背景、当時の(識者に当たる立場の人間の)平均的な国家観なり、人間社会学的な知識の成熟度、その他科学とか物理学の当時のレベルを考慮して読まなきゃダメです、当然ながら。相当昔の人なんですからそれなりのハンデをあげてあげないと。ここの議論はあまりにも言葉の定義、詳細にフォーカスがされ過ぎていて非常に残念ですね。。

彼がイギリス国教会の聖職者の子であった事、リヴァイアサンがRoman Catholic Churchから
禁書に指定されていた事などを考えれば、この本の影響力と斬新さが十二分に分かるんですがね。
キリスト教文化と、聖書に精通してみて、そこから抜け出しつつ対峙しつつ、あれを書き上げ出版するおじさんの姿を想像してみてください。。家族や親戚、お世話になった方々にどんな影響が及ぶかドキドキしながら。。ダーウィン並みの偉業を成した方なんですよ、ホッブスは。

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