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仲正昌樹コミュの『「分かりやすさ」の罠』の最後部分について

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浅学者がトピックを立てさせていただくだけでも僭越なことであるのに、皆様にどうしても伺いたいことがございまして、長々と文を載せさせて頂きました。

伺いたいことは仲正先生がお書きになった『「分かりやすさ」の罠』(ちくま新書)の最後部分です。そこでは北田暁大先生との討論で喧嘩になったエピソードが書かれています。
仲正先生ご自身はこのエピソードに関しての見解を本書で述べられておりましたが、私はやはりどうも片側からの見解に思えてしまい、自分なりに色々思案しました。そこで私なりにこのエピソードを解説してみました。どうか、本書を読まれた方で私の見解を読んでくださる方はいませんでしょうか。なにかご意見いただけたら幸いです。前置きが長くてすいません。

以下本文(文中の敬称は省略させていただきました)
本書最後の北田と仲正のけんかの真相を私なりに解説してみた。
芝居に例えると分かりやすい。
「演技レベル」では、舞台に立つ役者同士が演技内容に関する二項対立が起こる。
「裏方レベル」では、舞台袖にいる裏方同士が舞台装置に関する二項対立が起こる。
「劇場レベル」では、劇場経営者同士が経営に関する二項対立が起こる。

北田は「裏方」だ。だから演技内容についてはアイロニーな態度で、どちらないとも言えない立場をとっているが、舞台装置の話になれば二項対立を前面に押し出し、自分の正しさを主張する。
仲正は「経営者」だ。だから演技内容と舞台装置に関してはアイロニーな態度で、どちらの立場にも柔軟だ。しかし、経営の事に関しては二項対立を前面に押し出して、自分の劇場を守ろうとする。

お互い立っている位置が違うのだ。立場の違う両者が「未来の舞台装置のありかたについて語りあってください」と言われたら、どうなるだろうか。立場は違うとはいえ二人とも同じ演劇界にいるという共通項があるのだから、話はできるだろう。しかし、「裏方」と「経営者」では利害が異なる。話がだんだん噛み合ってこなくなるのは確実だ。

「裏方」が北田で「経営者」が仲正だとしたら、「役者」は民衆という風に言える。
民衆という「役者」に北田も仲正も手を焼いている。「役者同士が単純明快な二項対立に陥るのは危険だ」という見解に相違はない。ただ、北田はあくまで批評家という名の裏方だ。批評家の相手は対立する批評に対して二項対立を敷いて戦うのが性だ。具体的に言えば、右翼と左翼だ。北田はこのレベルで話をしようとしていた。しかし仲正は違った。経営者・仲正は何者かというと、哲学者である。哲学者の重要問題は、ざっくり言うと普遍性(真理)である。少なくとも哲学者にとって、右翼と左翼はどうでもいいことだ。実際に仲正は自分が「あっちへ行ったりこっちへ来たりする」(234頁)と述べている。
だから、はじめは民衆の見解に関してどちらも一致していたのに、徐々に右翼・左翼レベルの話に移ると北田は敵対心をむき出しにし、仲正はそれこそが「アイロニーを嫌う左翼知識人」のように映ったのだ。
それぞれの立場レベルにおいては、レベル毎に暗黙のルールが存在するのである。
甲子園のライトスタンドでは巨人の話をしてはいけないという暗黙のルールがあるように。
232頁で、仲正も「『論壇』なるものの暗黙のルールを身につけないまま〜鼎談に出てしまった私がバカなだけかもしれない」と述べている。そうだと思う。空気が読めない人間がつま弾きにされるのは、論壇も野球場も教室も一緒だ。

私は厭世的な人間だから、哲学的立場をとる仲正の主張が好きだし、なによりKY人間が好きなのだが。

コメント(1)

すみません!芝居に喩えるまでもなく、オブジェクトレベルとメタレベルでの「アイロニー」解釈のすれ違いについては本書で触れていましたね。早とちりしました。
ただ私も筆者(仲正氏)同様、人に嫌われるのが極端に嫌いなわけではないアイロニストを自認してますので少し批評めいたものを述べたいと思います。
筆者は、自分がアイロニストであることを自称した一方で、北田氏らが主張する「現代社会におけるアイロニカルな表現はシニシズムに転化する可能性が高い」という見解が自分に当てはまるかどうかについては触れていません。おそらく、筆者は書籍というオブジェクト・レベルでは述べていませんが、メタ・レベルでは自分にも当てはまる事を否定しないと思われます。むしろ私は肯定的なのではないかと思います。私もアイロニストですが、それでいいと思っています。
殺人を犯さないと断言することができないように、アイロニストである筆者がシニシストに転化し、原理主義者に成り下がらないと断言する事はできないからです。つまり、筆者も私も、筆者が本書中で散々非難する2ちゃんねらーたちと同一線上に無いとは言い切ることはできない。ここで「それはない。自分は違う!」と言った瞬間に、原理主義者と名指しされかねませんから。
もちろん、これはあくまで北田氏の図式に則ったときの話です。彼の枠組みが全てではないので、筆者と私と2ちゃんねらーとの間には、厳然たる大きな隔たりがあると言うことも当てはまるわけです。
私個人の考えとしては、アイロニストがシニシストや原理主義者に走るかどうかは、本人の精神性やセンスだと思います。センスと言うのは簡単に言葉にできるものではないですが、例えば「新興宗教」と聞いて、「えっ!?」と思うかどうかなんだと思います。
確かにセンスは語ることは困難です。しかし、だからと言って「センスに頼るのは不確実で曖昧であり危険だ」として安易に排除するのは疑問です。センスは語るものではなく、示すものですから、その人のセンス次第で、アイロニストになる人もいれば、シニシストや原理主義者になるという人もいるでしょう。こう書いてしまうと、やはりセンスと言うのはあやふだということになってしまうのですが、アイロニストのセンスの持ち主は容易にシニシストにはならない。少なくともこれは私のことを申しているのですが、私は低俗な2ちゃんねらーには成り下がらない。少なくともそれくらいのセンスは持ち合わせている。私がそうだと言う以上、信じてもらうより仕方のないものだと思います。
センスはあるのに、その表現が下手であることによって、シニシストや原理主義者に陥っている場合も考えられます。ですから、センスと言うものは本人にすら分からないものでもありえます。
このセンスの段階に来ると、コーネルの「イマジナリーな領域」に話が繋がってくると思います。「イマジナリー領域」に関しては、『不自由論』や仲正氏による翻訳本で出てくる重要な概念です。彼の思想の中で、アイロニーと「イマジナリー領域」はこのように関連しているのではないでしょうか。

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