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ある島の物語
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「オキナワン・グラフィティ/與古田忠」
文・三枝克之

[復帰っ子]
 一九七二(昭和四十七)年、島がアメリカからヤマトに「復帰」した年に生まれた。統治者は変わっても、家のそばに巨大な米軍基地があることは変わらなかった。状況は三十数年経った今も同じだ。復帰っ子は生年に因み、入学、卒業などの節目ごと、戦争、占領、闘争と続く島の歴史を説かれた。だから他の年の子よりその手の問題へのアンテナが高く、屈折度も大きい。
 子供時代、自身は、兄や姉と年の離れた末っ子として、両親の愛を感じ、不自由なく育った。が、一歩外には、癒されぬ島の現実がゴロゴロしていた。
 
[赤い島] 
 高校の時、「この町の誇れるところは?」とのアンケートに、「人殺しの基地があるのに何を誇れるのか?」と答えた文章が市の新聞に載った。たちまち英雄になった。当時の島は赤く染まっていた。父も「赤旗」読者だった。しかし一方で父が今の暮らしを築くことができたのも、また基地のおかげだった。
 父は、両親が農業移民として渡った南洋のポナペ(ポンペイ)島で生まれ、戦後、この島に来た。家はとても貧しかった。無類の機械好きが高じてエンジニアとなり、基地に職を求めた。賃金は三倍以上になり、やがて母と出逢った。

[三線とMTV]
 母は再婚で、兄と姉は連れ子だった。前夫は今でいうDV男。その男と別れて父と出逢う前の母子の生活は苦しく、お腹を紐で縛って水を飲み、餓えをしのいだ。何度も心中を考えた。だから母は父と結婚し、軍雇用の収入で人並みに暮らせるようになったことを心から幸せに感じていた。そんな話を聞いたのは高校卒業の時。すでに兄は妻と赤ん坊を残し、酒の事故で他界していた。
 小学生の頃の淡い記憶……。土曜日の夏の午後、学校から帰ってシャワーを浴びると、母がアメリカ製ベビーパウダーをつけてくれた。家は米軍向け住宅を購入したもので、政府が基地の騒音対策で取り付けたクーラーが効いていた。「かぎやで風」を弾く、母の三線の音色に耳を傾けながらまどろんだ。テレビからは米軍放送のMTVが流れ、ソウル・ミュージックが聞こえていた。
 
[アンビバレント]
 よく親子で基地の中に行った。父は軍雇用員組合の仲間が「基地撤去」を叫ぶゲートを避けて入った。夫婦はビンゴに興じ、子供は25¢コインを手にゲームセンターで遊んだ。そして最後は家族でステーキを食べて帰った。
 学校では大好きな先生達が日本の戦争犯罪、アメリカの占領の非情さを語っていた。自ずと日の丸を見ると燃やしたくなり、星条旗には吐き気がした。
 高校の卒業式、先生達が「君が代を歌うな」というビラを配るのを見て、ふと気づいた。僕らは洗脳されている。「歌え」も「歌うな」も同じだ。右であれ左であれ、島の道は出口がなく、僕らはただ踊らされているだけだ、と。

[夢のカリフォルニア]
 高校卒業後、スポーツ医学を学ぶため、アメリカ留学を決意した。入手した願書は当然全て英語。慌てて駆け込んだ翻訳事務所で十五万円の翻訳料を七千円に値切って何とか提出し、カリフォルニアの大学に入学した。幼い頃からアメリカ人の子供と遊ぶことで身に付けたボディランゲージが役立ち、友達はすぐにできた。そこは人口比の犯罪発生率が全米一高い街だった。だから面白かった。けれど、この国の病が重症なこともよくわかった。グローバル化という名の侵略のために、食品や文化を利用して洗脳する、その巧妙さにも驚いた。
 ある日、各国の留学生同士が集まり、世界地図を見ながら故郷のことを語り合ったことがある。しかしその地図に自分の故郷の島は載っていなかった。

[南国の夜]
 アメリカに渡って四年後、「母倒れる」の報せに急遽、島に戻った。母は植物状態となった。それから一年間、父と交替で毎日十二時間を病院で過ごした。看護しながら母の顔をじっと見つめた。おしめも替えた。看る者のいない他の患者まで世話をし、看護婦達とも仲良くなって、その一人と恋に落ちた。
 病院以外の時間は寝る暇も惜しんで、いくつもの仕事を掛け持ちした。その緊張を紛らわそうと、アメリカで買い込んだレコードをかけるための音楽バー「南国の夜」を開いた。集まる仲間達との会話が心を癒した。端からは遊んでいるだけとしか見られず、親戚達に「こんな時に音楽?」と揶揄されたが、父は応援してくれた。自分では「こんな時こそ音楽!」だと思っていたのだ。

[南国ドロップス]
 母の葬儀の日、鬱ぎ込んでいると、叔母さんが声をかけてくれた。彼女はハーフだ。早くに親を亡くし、子供の頃はイジメられて、苦労したらしい。
「あんたは幸せを運ぶ人間だよ。みんなを楽しくさせ、笑わせる人間がいつまでも泣いていてどうする? 泣くのは私らだけで十分だよ」
 「南国ドロップス」が生まれたのはそのしばらく後だった。バーに集まるレコードマニアの常連客が、自分達の好きな曲を生で聴きたくて組んだバンドだ。結成十一年目になる。音楽でメッセージを語るのは好きではない。そもそもこの島が抱える問題に簡単な答えなどないし、口優しいメッセージにもできない。けれどメッセンジャーではあり続けたい。「踊らされるな。踊らせろ」と。
 ある夜のライブに、メンバーの祖母が初めて演奏を見に来た。彼女は夫に先立たれて以来、ずっと家に引きこもっていたが、孫がバンドに熱心なのを知り、わざわざ美容室に寄ってから会場に来たのだ。彼女はライブ後、孫にそっとこづかいを渡した。そんな時、バンドをやって良かったと、心がスクスクする。

●與古田忠(よこだただし)
1972年(昭和47年)、米軍の沖縄普天間基地のある宜野湾市大山に生まれ育つ。高校卒業後、アメリカに留学。四年後に帰国。94年にバー「南国の夜」をオープン。96年、亜熱帯性エキゾチカ・
バンド「南国ドロップス」結成。リーダー、コンガとして活動。

※この文は、角川書店の文芸誌『野性時代』に、三枝克之が執筆・連載中の「ウタのうまれるところ 〜島唄の風景〜」(写真・垂見健吾)、第16回の文章を転載したものです。(ⓒ三枝克之、角川書店)

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