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クラシックマジック研究コミュの小野坂東

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小野坂東(TON)
●New ワン・ツー・スリー No.18 2005年9月刊行

コメント(22)

https://drive.google.com/drive/folders/1WrUVAthHG7IzHDEhJ9Z1Jz6BNsQBBYkK
雑誌:Genii
発行:2019 年 7 月
巻号:Vol. 82, No. 7

86 歳のトン・オノサカ
インタビュー:マックス・メイビン

はじめに
リチャード・カウフマン

このインタビューは、アラン・スライト、デビッド・ベン、ジュリー・エングの協力のもと、「31 Faces North Convention」で行われた。トンは、まさに名誉ゲストにふさわしい人物だった。
日本とアメリカのマジシャンたちに対するトンの影響力は、いくら強調してもしすぎることはない。彼は両国のマジシャンが交流し、互いに刺激を与え合う機会をつくり出した。その交流はやがて、アジアやヨーロッパの多くの地域にも広がっていった。
私自身、それによって何度も日本を訪れ、自国で接してきたものとは異なる独創性を備えた、素晴らしいマジックを見る機会を得た。そして優れた日本のマジックについて、半ダースほどの本を執筆・出版することにもつながった。
トンは数多くのマジックを考案してきた。その大半は東京にある彼の店「マジックランド」で販売されている。現在 86 歳のトンは、以前ほど頻繁に旅をすることはなくなったが、それでもほとんど常にマジックのことを考えている。これまでに二度『Genii』誌の表紙を飾った彼だが、今回のインタビューでは主として、1970 年代半ばにマジックランドを開く以前の、人生の前半に焦点を当てた。

トン・オノサカ インタビュー

幼少期、戦争、そして生計
メイビン:あなたの若い頃については、ほとんどの人が知りません。まずはそこから始めましょう。
トン:私は 1933 年、日本の四大島の一つ、四国で生まれました。
メイビン:ということは、1940 年代の大戦中は十代の初め頃だったわけですね。そして戦争が終わった時も、暮らし向きはよくなかった。
トン:戦争中、家族は離れ離れになりました。父は私を東京に連れて行き、母と兄弟姉妹は別の場所へ行きました。
メイビン:初めて東京を見た時、どんな印象を受けましたか?
トン:大きな街だということだけです。当時は高い建物などありませんでした。アメリカ軍の飛行機が上空を飛び、爆弾を落とすのを見ていました。
メイビン:それが最初の異文化体験だったわけですね......。
トン:(笑)食べ物を見つけるのが本当に大変でした。食べるものはスープくらい。トウモロコシのスープや、何かの麺類です。時には蜂を食べました。生の蜂です。
メイビン:思春期の初めを過ごすには、何とも厳しい状況ですね。大人になりかけの頃は、どうやって生活費を稼いでいたのですか?
トン:十代後半には、麻雀をしてお金を稼ぎました。日本では男性が麻雀をしますが、雀荘では、三人組が来て四人目を必要とすると、私が入るように待機していて、その対価をもらっていました。パチンコでも少し稼いでいま
した。
メイビン:パチンコは縦型のピンボールのような遊技で、日本では非常に人気があります。全国に大きなパチンコ店があり、信じられないほど単調なのに、人々は何時間も遊び続けます。
トン:私は少年たちのグループと一緒に過ごしていて、みんなパチンコがかなり上手でした。十分に玉を出せば景品と交換できます。私たちは朝早くから出かけ、当たりが出そうな台を探しました。勝つと交換用の玉を受け取り、石鹸などの景品に換えて、それをすぐに売って現金にしたのです。賭博は違法でしたが、こうした闇の換金取引はかなり一般的でした。

マジックとの出会い
メイビン:そもそも、どうしてマジックに興味を持ったのですか?
トン:日本にはたくさんのお寺や神社があり、それぞれで毎月のように特別なお祭りが催されていました。踊りをはじめ、マジックも含めてさまざまな芸能が見られました。何百年も続く伝統です。私が初めてマジシャンを見たのも、そうしたお祭りでした。マジック道具を売っている大道芸人でした。お祭りの間は毎晩、一、二時間もそのマジシャンを見ていました。でもお金がなかったので、道具は何ひとつ買えませんでした。
しばらくして、別のマジシャンがやって来て、小さな舞台で演じました。細長い布を切り、それを元に戻す演技が強く印象に残っています。記憶にある中では、それが初めて見たマジックです。その布は「ふんどし」と呼ばれる、

トン・オノサカ インタビュー
身体に巻きつける昔ながらの下着でした。家に帰って父のふんどしを借り、切ってみました。でも、できたのはそこまで。元に戻す方法はまったく分かりません。父はたいそう不機嫌になりました。
メイビン:マジックを学ぶ機会が訪れたのはいつですか?
トン:戦争が終わった頃はお金も食べ物もありませんでした。でも、西洋の兵士たちによる占領が続く中で、少しずつ経済がよくなっていきました。16 歳になった頃、JMA[日本マジック協会]が運営する百貨店の売り場で、マジックの実演販売をする仕事を見つけました。記憶が確かではありませんが、銀座の松屋だったと思います。
メイビン:銀座は、東京の五番街とでもいうべき場所ですね。
トン:百貨店のマジック売り場で働いていたおかげで、マギー・ノブサワというプロマジシャンに出会いました。彼は主に、占領下の日本にいた米軍兵士のために、基地でショーをしていました。当時、バラエティー芸人にとって仕事といえば、ほぼそれしかなかったのです。出演料を払えるだけのお金を持っていたのは占領軍くらいでしたから。
基地へ入って公演するには、芸人が許可を受ける仕組みもありました。技量によって A、B、C の等級が付けられ、それによって出演料も変わりました。A か B に格付けされていたノブサワは、帽子からタバコ、ボール、シルクなどを次々に取り出す手練の演技をしていました。その演目は「アメリカン・ハット」と呼ばれていました。
メイビン:ノブサワさんとは親しくなったのですか?
トン:はい。舞台裏での助手のような役目をするようになりました。道具を元の状態に戻したり、準備を手伝ったりしました。当時は紙テープを使い捨てにすることなどできないほど生活が苦しかったので、終演後にそれを拾い集め、タンバリン用の紙のコイルやストリーマーを次の公演のために巻き直すのも私の仕事でした。何百回もやりましたよ!
メイビン:ノブサワさんを手伝いながら、百貨店での仕事も続けていたのですか?
トン:両方やっていましたが、次第に百貨店で働く時間は減りました。ノブサワと付き合ううちに、弟子にしてもらえないかと頼んだのです。そうなればプロのマジシャンになっていたでしょう。でも彼は弟子を取るつもりがありませんでした。今振り返ると、それは私にとって最悪の道になっていたでしょう。ノブサワは、東京にあったマジッククラブの一つ、JMA を紹介してくれました。独自の会報も発行している活気あるクラブで、プロもアマチュアも含め、多くのマジシャンと知り合いました。

高木重朗との出会いとイラストの仕事
メイビン:特に印象に残っている人はいますか?
トン:当時、副会長だった高木重朗という人です。私より数歳年上で、その頃は大学生でした。高木はのちに、日本でアメリカ議会図書館に相当する機関の翻訳者になりました。マジックが大好きで英語も堪能で、西洋のマジックを日本に伝える最初の橋渡し役となったのです。重朗は私より三歳上でした。当時の日本では、それは大きな年齢差でした。私たちが友人になるまで、一年ほどかかりました。

トン・オノサカ インタビュー
東京にはマジシャンたちが集まる小さな喫茶店がありました。重朗はほとんど毎日そこへ行き、テーブルを回ってマジックを披露していました。私はその噂を聞きましたが、新橋あたりにあるということしか分かりません。何日も街を歩き回って、ようやく見つけました。それからは私も、ほぼ毎日通いました。
残念ながら店の人たちは、私が来るのをあまり喜びませんでした。コーヒー一杯しか買うお金がないのに、三時間も居座っていたからです。一杯分さえ持っていない日には「ツケにしてください」と頼みました。追い出されたこともあります! でも、そのおかげで重朗と親しくなりました。私たちは対等な境遇ではありませんでした。重朗は裕福な家庭の出身で立派な家に住んでいたのに、私はほとんどホームレス同然でした。それでも彼は、私を自宅の昼食に招いてくれました。
メイビン:大切に育てられた裕福な青年が、街の少年の自由奔放でロマンチックに見える暮らしに惹かれた、とも言えそうですね。
トン:ですから話すことがたくさんあったのです! ここで少し昔の話に戻ります。私が七歳くらいの頃、家族は四国から遠い田舎へ移りました。戦争が近づいていたので東京を避けなければならなかったのです。その頃、木版印刷をしていた図案家のもとで働き始めました。それがこの分野との出会いでした。蝋を塗った原紙に金属の鉄筆で絵を描き、それを機械にかけて複製する技術を覚えました。
そこで話は高木重朗に戻ります。彼は自分のマジックについて、十部か十五部という小部数で印刷したいと考えていました。私なら挿絵を描き、文字を手書きし、複製できる解説書を作れました。こうして私たちは仕事仲間になりました。その作業を進めるには、重朗がマジックの仕組みをすべて説明しなければなりません。それが、私にとって本格的なマジックの勉強の始まりでした。十九歳くらいだったと思います。彼が書いていたアイデアの多くは、読んでいた英語の本から得たもので、私もそれを学びました。
メイビン:つまり西洋の「新しい」アイデアを、誰よりも先に知ることができたのですね!
トン:そのことは重朗に感謝しています。経済状況がよくなると、彼は一般向けのマジックの本を書くようになり、私はその挿絵も描きました。絵を描くことでマジックについて実に多くを学べましたが、報酬はもらっていませんでした。お金のためにやっていたわけではないのです。1960 年、私は二十七歳くらいでした。父は私がただ働きをしていることを、あまり喜びませんでした。本業は東京都の役所でのデザインの仕事でした。ちょうどママと結婚したばかりです。彼女はその役所でタイピストをしていました。
メイビン:トンが正式な勤め人だったのは、この時だけでした......しかも本人はその仕事が好きではありませんでした。
トン:(笑って手を振る)父が「ちゃんとした仕事を持たなければ駄目だ」と言ったものですから! その勤めは十五、六年続きました。

1976 年の大会とマジックランド創業
メイビン:1976 年、PCAM[太平洋岸マジシャン協会]が年次大会を東京で開催しました。日本のマジックにとって非常に重要で、転機となった大会でした。突然、大勢の西洋のマジシャンが東京に押し寄せ、大会のスターはフレッド・カップスでした。まだ家庭用ビデオが普及する前で、日本の人々の大半にとって西洋のマジシャンを実際に見るのは新鮮な体験でした。

トン:私は大会で舞台裏のボランティアをしていたので、皆さんと直接会うことができました。何より興奮したのは、フレッド・カップスに会い、その演技を見られたことです。国際的なマジックを生で見る初めての機会でした。
そして 1976 年から 1978 年の間に、役所の仕事を辞め、日本で最初のマジックショップを開こうと決心しました。名前は「マジックランド」です。
メイビン:当時の日本の社会通念は今とはずいぶん違いました。それでもあなたはママに、役所の仕事を辞めて、新しいマジックショップで実演販売員として働くことになる、と伝えたのですね。彼女は承諾しました。妻と子ども二人を持つ男性が、終身雇用と考えられていた仕事を突然辞め、まったく別の職業へ飛び込むのは、当時の日本では非常に珍しいことでした。
トン:その経験から、西洋へ旅して、ほかのマジシャンたちに会い、演技を見たいという思いが強くなりました。1978 年、高木重朗と一緒に、十人ほどのグループでニューヨークのウォルドーフ・アストリアで開かれた大きなS.A.M.大会に参加しました。
メイビン:そこで私も初めてあなたに会ったのです。ダイ・バーノンをはじめ、素晴らしい顔ぶれがそろった大会でした。
トン:マジックの世界で、そしてマジック用品の販売業者として、私が成功できたことに最も大きく貢献してくれた三人は、重朗、ママ、そしてマックスです。
メイビン:(マックスは赤面する。そんなことが可能なら、だが。)この頃、あなたは西洋のマジシャンによる日本でのレクチャーツアーを手配し始めました。それ以前にはアーノルド・ファーストが日本との関係を築き、レクチャーツアーの仲介を行っていました。彼がツアーを組む際にはマジックランドも訪問先の一つになりました。その後、あなた自身が直接レクチャーツアーを企画するようになったのですね。

西洋のマジックと日本を結ぶ
トン:1980 年代を通して、徐々にたくさんの西洋のマジシャンを日本へ招き、レクチャーツアーを行うようになり
ました。滞在中に快適に過ごしてもらえるよう、たいてい私がツアーに同行しました。この仕組みを支えた重要な事情が二つあります。
一つ目は、日本円が強くなり始めたことです。西洋から人を日本に呼ぶことが、金銭的に成り立ちやすくなりました。
二つ目は、長い間、アメリカからの航空機がロシア上空を飛べなかったことです。そのためアラスカで乗り継がなければならず、移動に二十時間以上かかっていました。それが変わり、十一〜十四時間で日本へ来られるようになったのです。
重朗を通して日本へ伝わってきたマジックの中には、いわば間接的に伝えられたものもありました。例えば、重朗が説明するスライディーニの理論を学ぶことも、何も学ばないよりはよいでしょう。しかし、本人から直接学ぶほうがずっとよい。だから私は、できる限り優れたマジシャンを日本へ招き、日本の人々が間に誰かの解釈を挟まず、直接彼らに触れられるようにしたかったのです。
メイビン:もっとも、これをしていたのはトン一人ではありません。すでに 1969 年には、テンヨーがダイ・バーノンとラリー・ジェニングスを招聘していました。トンはその流れを受け継ぎ、さらに加速させたのです。しかも彼は、誰を日本へ招くかについて非常に優れた審美眼を持っていました。
トン:そうしたアイデアが広がるにつれ、一般の日本のマジシャンたちの関心も高まっていきました。誰かがほかの人の考えを説明するのを聞くことと、その考えを生み出した本人から直接聞くこととの違いを、見て、肌で感じられたのです。1980 年代には多くのマジシャンが来日し、まさに花開くような状況になりました。この時期、レクチャーや公演を通して日本のマジシャンが西洋のマジックに直接触れたことは、日本のマジックの水準を引き上げるうえで、おそらく最も重要な要素の一つだったと私は強く感じています。
私は、日本のマジシャンは内面的な部分が少し弱いのではないかとも思っています。歴史に十分な関心を払っていないからです。多くの場合、マジックの理論的・哲学的な側面を深く掘り下げず、技術的な情報だけを表面的に学んでいます。

創作とマジックの哲学
メイビン:ご自身でマジックを考案し始めたのは、いつですか?
トン:マジックランドを開いてからです。それ以前にも手順を組み立てることはありましたが、店を開くと、マジックランドならではの特色を出すための道具のアイデアが次々と浮かぶようになりました。商品の六割は自分の考案品でなければならないと感じていました。
でも、私はただの職人ですから、考案したものの多くは、まあまあの出来でしかありません。日本史の中で一番好きなのは江戸時代[1603〜1868 年]です。職人たちが実に美しいものをたくさん作った時代です。私の作品のいくつかでも、あの水準に届いてくれたらと願っています。
メイビン:マジックについて、どのような哲学をお持ちですか?
トン:それは少し難しいですね。私の人生はすべてマジックでした。どこかへ出かけて、片側に海が見えたとしても、海のことなど気になりません......毎日、毎日、マジックを考えています。日常の出来事にマジックそのものがなくても、私の頭の中にはいつもマジックがあるのです。
要するに、マジックを演じる人の内側にある空想の広がりは、人の頭の中に存在する無限の可能性へと近づき、それをある程度理解するための道になるのです。大切なのは、目の前の現実世界で実際に何が見えているかではなく、心の目で何を見ているかです。
そういう意味では、私自身の発想や考えを通して見ると、あらゆるものがマジカルなのです。
トン・オノサカさんを偲んで
リチャード・カウフマン(Richard Kaufman)
人生において、父親と呼べる存在が二人以上いるとしたら、それはとても幸運なこと
だと思います。
私は幸いにも、二人の父親に恵まれました。トン・オノサカさんは、私にとって「日本の父」です。
1980 年代初頭にトンさんと出会ったことは、私の人生を大きく変える、長く深い友情の
始まりとなりました。
人生について、トンさんほど多くのことを私に教えてくれた人はいません。
若い頃の私は、かなり気性が激しく、人と衝突することも少なくありませんでした。
1985 年、トンさんと本格的に仕事をするようになって初めて、彼の知恵や人生に対する姿勢の素晴らしさに気づき、それが少しずつ私の心に染み込んでいったのです。
本当の意味で理解するまでには、何年もの歳月がかかりました。トンさんは、決して人に説教をするような方ではありませんでした。ただ、自らの行動を通して、大切なことを教えてくれる人でした。
一緒に過ごす時間が長くなるほど、まるで自然に染み込んでいくかのように、人として思いやりを持ち、寛大に生きることの意味を学ぶことができたのです。トンさんは、心から利他的な人でした。
おそらく、私がこれまで出会った中で、最も純粋に利他の精神を持った人物だったと思います。
自分のためには何も求めず、ただ人に与えることを喜びとする。
人々が人生について、そして何よりマジックについて学ぶ手助けをすることに、惜しみなく情熱を注いでいました。
トンさんは、優しく穏やかな方法で、人々を学びと寛容さの道へと導いてくれました。
その教えは、実際に自分自身で経験してみなければ、なかなか理解できるものではありません。
そして、いつの間にか自分がその境地に達していたことに、後から気づくのです。
私が澤浩博士のマジックについて本を出版しようと思い立ったとき、トンさんはすべての段取りを整え、地方にある澤さんのご自宅まで同行してくれました。私たちはそこで 5 日間を過ごしました。
それは、なかなか大変な日々でした。私はインフルエンザから回復したばかりで、喉頭炎にも悩まされていました。
さらに、私が本に掲載したいと考えていたマジックと、澤さんが紹介したいと考えてい
た作品には、大きな隔たりがありました。
数日間にわたる、いわば意地と意地のぶつかり合いです。
そんな難しい状況を、トンさんは見事にまとめ上げてくれました。
いったいどうやってそれを成し遂げたのか、今でも私にはわかりません。
同じ年、私はトンさんが出版した『New Generation Plus Alpha』の英語版を刊行しました。
これは、彼が育ててきた新世代のマジシャンたちの作品を集めた本です。
英語版の新しい文章は、マックス・メイヴンと共同で執筆しました。
その少し後、トンさんから、高木重朗さんのマジックについての本を執筆・出版してみないかと持ちかけられました。もちろん、私は喜んで引き受けました。その本のイラストも、トンさんが担当してくれました。
そして、この本は私のベストセラーの一つとなったのです。

その後、私は日本人マジシャン 5 人から、それぞれ 5 作品ずつを集めた本を作ろうと
思いつきました。
それが『Five Times Five: Japan』です。
この本に作品を提供してくれたマジシャンたちは、全員がトンさんの薫陶を受けた人
たちでした。そして、この本のイラストも、やはりトンさんが描いてくれました。
私が手がけた日本のマジックに関する本には、『Japan Ingenious』もあります。
この本もまた、トンさんの存在なしには決して生まれなかったでしょう。
彼は長年にわたり、日本人マジシャンたちの素晴らしい創作を、日本語や英語のさまざまな雑誌を通じて世界に紹介してきました。
トンさんは、いつも人と人をつなぎ、出会いの機会を作り、私と一緒に旅をし、すべてが円滑に進むように支えてくれました。
また、私たちは 30 年以上にわたり、天海の貴重な資料が失われてしまわないよう、それらを探し出し、保存するための活動を共に続けてきました。
しかし、トンさんにとって、私だけが特別だったわけではありません。トンさんは、誰からも愛される人だったのです。トンさんから初めてマジックを教わり、やがて自分自身の発想でマジックを創造するまでに成長した、日本の少年少女たち。
トンさんが日本に招き、レクチャーを行った欧米のマジシャンたち。その交流によってまかれた種は、日本のマジシャンたちの中で芽を出し、大きく育っていきました。
そして、トンさんを知る、数え切れないほど多くの人々。皆が、彼から何かを受け取ってきたのです。
トンさんがいなければ、日本のマジックを英語で紹介する本は、ほとんど存在しなかったと言っても過言ではありません。

彼はそれらの本のイラストを描きながら、その仕事に対して、一銭たりとも報酬を受け
取ろうとはしませんでした。
日本とアメリカ、そしてヨーロッパのマジシャンたちを結びつけ、互いに影響を与え合い、新しい文化や創造性を育む土壌を築いたのは、何よりもトンさんの大きな功績です。
その交流は、日本と欧米、双方のマジック界に計り知れない影響を与えました。
これほど多くのことを成し遂げながら、トンさんは決して見返りを求めませんでした。
ただ、マジックを愛し、人を愛し、人のために尽くす。
トンさんは、まさに「利他の精神」を、その生き方そのもので体現した人でした。
その類いまれな人生と、私たちに与えてくれた数え切れないほどの贈り物は、いつまでも称えられるべきものだと思います。
小野坂 東 評伝:抜粋版
和泉圭佑=文
凡例
• 本稿は、『誰得奇術研究』27 号(2026 年発売予定、以下本誌)に掲載する「小野坂東
評伝」を底本とした抜粋版であり、「小野坂東(TON)さんを偲ぶ会」参加者だけに配ら
れる非売品 PDF である。
• 底本に付記する注、表、出典・引用元、参考文献はすべて割愛した。全文は本誌を確
認されたい。
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本稿の内容の全部または一部を、著作権者の許諾なく複製、転載、翻訳、翻案、公衆送信
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GENII 2026 年 8 月号 表紙より

少年時代:1933-1953

生まれ、マジックとの出会い
小野坂東は、1933 年 4 月 14 日、4 人兄弟の長男(第一子)として香川・高松で生まれた。次男・修(おさむ)は箱根の「ホテル奥湯本」の支配人を務め、長女・南(みなみ)は美容師として働き、次女・和(かず)は下北沢でコーヒーショップ「マルディグラ」を開いた。真面目な人物であった修は小野坂家の家系図を作ったことがあり、それによると祖先は馬の世話をしていた下級武士だったという。
東は、自身の自由奔放かつアーティスト気質な性格は父親ではなく母親譲りではないかと考えた。石屋から都庁の役人へと転身した父・善幸(よしゆき)については「石頭のように頭が固くて頑固だった」と回想した。父は息子にも同じ公務員の道を歩んでもらいたいと願ったせいか、自由奔放な性格の東とはよく衝突することとなった。対し、母・利枝(としえ)は、東京都民踊使節団の団員として日本舞踊に携わっていただけでなく、親族には香川県を代表する日本画家の樋笠数慶(すうけい)がいた。東の持っていたアーティスト気質は、どちらかというと父より母の血筋によるものであろう。母は、祭りや芝居も好んだ人物で、東はよく芝居に連れて行ってもらっていた。ある日、子役として舞台に立つことがあり、化粧をして刀を持った東を見て母はとても喜んだ。東は当時のことを「高松での良い思い出だった」と回想した。
小野坂家は東が 5、6 歳の頃、父が独学で公務員試験に合格したことをきっかけに、香川を離れ東京へ移住した。当時は都庁に勤めるのに子どもがいると成り立たない部分があったらしく、東少年は軍人であった父の兄の元へ預けられた。その伯父は当時開かれていた縁日が好きだったため、東はよく連れていってもらっていたという。その縁日にマジシャンが出演しており、そこで観たと記憶していたのが初代・吉慶堂李彩(きっけいどう・りさい)であった。初代・李彩の演じる「さらしの切りつなぎ」を見た東は、切ってもおまじないをかければ元に戻ると信じてしまい、父のさらしを本当に切ってしまい怒られてしまったという。

イラストレーターのルーツ
東はイラストレーター「TON・おのさか」として、国内外問わず数多くの書籍に関わり、そし
て多くのイラストレーターに影響を与えた。そのイラストレーターとしてのルーツは疎開中に出
会ったある人物にあった。
長野・富士見に疎開した時、天然氷を作っている農家が持つ納屋に母・妹と一緒に泊まり込んだ。しかしいざ疎開が始まってみると、富士見の学校へ通うには片道 1 時間もかかってしまっていたため、しだいに東は頻繁に学校をサボるようになった。
いつも通り学校をサボっていたある日、東は富士見で農業をしながら木版を作っていたある人物と出会った——東はこの人物のことを「木版画の先生」と呼んだ。木版画の先生は、その名の通りずっと木版画を描いていた。学校へ行かずその様子をずっと眺めていた東少年は、次第に木版画へ興味を持つようになり、木版画の先生から色々と教わるようになった。
元々東は絵を描くことに興味があり、小学校時代には B-29 を描いて先生に褒められたことがあった。「母親ゆずりのアーティストの血筋もあって、堅苦しく見える文字よりも、自由に筆を走らせられる絵のほうが向いていた」と当時を振り返った。
東は木版画の先生から多くのことを学んだ——しかし先生とは名ばかりで、小学生にたばこを勧めるようなあやしい人物であった。現代の価値観でいえば教育者としてふさわしくない人物ではあったことは間違いないが、「木版には桐だと柔らかすぎて適さない」など、学校では習わないことを多く教えてくれたため、東少年にとってはまさに先生そのものであった。この出会いは東にとってあまりにも印象的であったことから「イラストレーターへの道に入るキッカケになった」と回想した。
しばらくして小野坂家は富士見での疎開を終えた。その後東は、名を知らぬ木版画の先生と二度と再会することはなかった。

放浪
東と会話をしていると、東にはいくつかの信条があることがわかった。「結論を急がないこと」、そして「前向きに考えること」などであった。これらは、東が戦争という、短期間のうちに価値観が 180 度変わり、そして浮浪者同然の生活をしながらも生きていくという実体験があったからであった。
12 歳で終戦を迎えた東は、浮浪児たちと共に浮浪の日々を過ごし、いろいろな遊びに手を出し、街をさまよった。時には、雨風をしのぐために電話ボックスで寝ることもあった。そのため東は、よく自分のことを「ジプシーだから」と言った。近現代において戦争とは悲惨の代名詞であり、戦争を体験した人々はその悲惨さから口ごもるケースが多いものの、東は違った。多感な少年時代に戦争を体験した東は、不謹慎であることはわかった上で、「あらゆるものが一気に変わったから楽しかった」と笑顔で懐かしんだ。戦争前と戦争後という、まったく異なった時代を生きた経験は、自然と東に「すべては経験だから」と前向きな思考を与えた。
終戦直後、小野坂は井の頭公園あたりに作られた 100 人ほどが入れる寮に住むこととなった。これは父親が都庁に務めていたためであった。父が仕事に出た後、寮の食事を作らないといけなかったことが嫌になり、東は寮へ戻らず放浪を始めた。この頃、東京・吉祥寺に闇市ができたため、不良仲間とよく遊びに出かけ、酒、たばこ、パチンコ、麻雀などいろんな遊びに手を出した。
東は東京府立第九中學校に入学し、そして家族の転居を理由に 2 年の時に城北中学校に転校した。城北中学校を卒業した東は定職に就かず、麻雀とパチンコの稼ぎで食いつないでいた。麻雀は元々学生時代から好きでよく打っていただけでなく、当時は街に麻雀屋(雀荘)が多く営業していたことから、雀ボーイのアルバイトをしたり麻雀打ちをしたりして稼いでいた。当時パチンコは 1 台 800 発で打ち止めになっていたため、朝はやくから仲間 3 人を連れて目星のつけた台に座り、仲間内で交代して座り続けた。麻雀とパチンコの稼ぎについてはなかなか良かったという。東は放浪を続け、ほとんど自宅に戻ることはなかった。卓球場で知り合った金持ちの男と仲良くなり、スキーやビリヤードを楽しむ日々を過ごしていた。
その後東は、東京・神田にある専修大学に入学し、政治経済を専攻した。有名な卓球選手がいたという理由で卓球部に入部した。東京・三河島で開かれた町の卓球大会に出場したこともあった。しかし半年ほどで大学に飽きて中退した。

就職、JMA 入会
放浪を続けていた東は、ようやく定職に就いた。公務員であった父親の薦め——いわゆるコネ——により、東京の板橋区役所で給仕を務めるようになった。これは正規雇用ではなかったが、後に試験を通過したことで主事補となり、無事公務員になることができた。

東がマジックの世界にどっぷりつかるようになったのは公務員になってからであった。そのキッカケは 1952 年頃に生まれた。区民税の徴収をしていた際、ふと立ち寄った百貨店で、JMA(日本奇術連盟)が出店していたマジックコーナーをみつけ、そこでマギー信沢(のぶさわ)と出会った。東が初めて観たマジシャンは初代・李彩であったが、初めて交流を持ったマジシャンは信沢であった。
信沢を通じて、かつて少年時代に遊んでいたマジックの楽しさを思い出し、再びマジック熱が復活した。そして自然と東は信沢の仕事を手伝うようになった。どんどんマジックに夢中になり、そしてついにプロを志望するようになり信沢へ弟子入りを志願したが、信沢は断った。
信沢は「そこまでマジックが好きなら」と、弟子入りを断った代わりに JMA を紹介した。こうして、東は JMA に入会した。1952 年頃の話である。
JMA に入会した東は、創設者の長谷川智(さとる)と出会った。すでに病で身体が不自由だった長谷川だったが、自宅で謄写版を摺っている様子を東はみていた。長谷川はマジックの指導もしており、東にフォーエースを使ったカード・マジックを教えた。しかし東は高額な指導料を毎回支払えるわけはなく、後にカード・マジックについて詳しいカナモリという JMA のメンバーと仲良くなったことで、お金を払わずしてカード・マジックを学ぶことができるようになった。

マギー信沢、マジックヒロミ
イラストレーター時代:1954-1974

イラストレーターとして
高木重朗(しげお)にはひとつ悩みがあった。当時、文章を複製するためには青写真または活版を使う必要があった。青写真を使う場合は複製できる部数に限りがでてしまうし、活版を使う場合はどうしても費用が高くなってしまうからだった。仕方なく高木は青写真を使っていたが、そこで現れたのが謄写版——いわゆるガリ版——の知識を持った東であった。慶應を出た「お坊ちゃん」の高木と、家に帰らず遊んでばかりいた「放浪人」の東という、まったく正反対のふたりが近づき、自然と協力関係が生まれた。これはすべて、東が「新橋ベーカリー」で高木と出会ったことによる。新橋ベーカリーで出会わなければ、イラストレーター、TON・おのさかの存在は「99%存在しなかった」と東は回想した。
1954 年、東は初めてとなる謄写版の仕事を——報酬は出ないし、東が求めることは無かったが——請けた。当時 20 歳であった。ロバート・パーリッシによる『Six Tricks by Tenkai』(1953 年)の日本語版であった。高木は和訳を、東は印刷を担当した。こうして完成したのが『天海の奇術』であった。
東にとって『天海の奇術』ははじめて印刷に携わったマジック本になるが、イラストそのものは石田天海(てんかい)によるもので、東はそれを謄写版で摺っただけであった。つまり、『天海の奇術』は関わった著作としては初となるものの、イラストレーターとしてのデビュー作にはあたらない。イラストレーターとしてのデビュー作は 1954 年の「皿を貫通するコイン」である。
「多摩奇術愛好の会」が発行していた会報『マジック』3 号に寄稿した記事である。
興味深いことに当時のイラストは後に TON・おのさかとして有名になるイラストとはまったくテイストが異なっている点に注目である。イラストは非常に細かいが、じつは同様の細かいイラストは長谷川による教本にも登場している。東より前に稲木國男(いなぎ・くにお)や塚田晴雄(つかだ・はるお)といったイラストを得意としたマジシャンもいたが、彼らはどちらかというとイラストを通じてマジックの楽しさを表現することに努めており、秘密の動作をわかりやすく伝えることはしなかった。東は、イラストの魅力については「絵は裏が描けるから」と、自身のイラストの評価については「そもそも昔はクオリティーが高くなく、またそこまで高いものは要求されていなかった。だからこそ、自分の絵がわかりやすいと言われるようになった」と謙遜した。
東のイラストがはじめて一般人の目に入るようになったのは、『マジック』から 2 年後となる1956 年であった。高木の『トランプの不思議』(力(ちから)書房)と長谷川の『奇術の鍵』(力書房)でイラストを担当した。高木の『トランプの不思議』でイラストを担当したのは前述した天海の『天海の奇術』からの流れであろう。これをキッカケに東は 1956 年に創刊された雑誌『奇術研究』(力書房)の編集を担当するようになった。7~13 号に渡り担当し、編集を離れてからも 45 号あたりまで高木のイラストを提供し続けた。1956 年、東は高木の推薦により JMA の幹事となり、JMA の会報『奇術界報』の編集を186 号から担当した。当時 JMA の編集は持ち回りで、その担当者は頻繁に変わっていた。
東は前任者であった佐藤栄一(えいいち)から突然引き受けることとなり、引き継ぎはなく、すべてが手探りであった。以降、東が JMA を離れるまでの 22 年間、ほとんどの『奇術界報』の編集を務めた。

弟子・蓮井彰との出会い
力書房で編集をしていた 1957 年頃、ひとりの青年と出会った。その人物は蓮井彰(あきら)、東唯一の「弟子」——どちらかというと「大親友」——である。
成城大学 1 年生の頃に力書房を訪ねた蓮井は、東の披露するタンギングに感動し、以後師匠と仰ぐようになった。蓮井は JMA に加わり、一時的とはいえ幹事となり『奇術界報』の編集も担当した。1960 年、日本テレビへの入社をキッカケにマジックの世界から離れることとなったが、ふたりの師弟関係は続き、約 20 年後に再び会うこととなった。余談だが、東から教わったタンギングにより蓮井は口の中を火傷した。東が蓮井にたばこマジックを披露したのは、じつはたばこマジックを好んでいたからであった。たばこは大きな道具を使わずスライハンドで楽しめることと、もうひとつはジョン・カルバートの演技を観たことが理由であった。たばこを得意としていたカルバートは世界ツアーを行っ
ており、1958 年に読売ホールで開催された「ジョン・カルバートの魔術ショー」に出演した。このショーを東は客席から観ており、スピーディーに披露されるたばこのプロダクションに感動した。以来、たばこマジックの虜となり、JMA の発表会でみずからたばこマジックを披露するほどであった。後の 1988 年、カルバートが AMA(Academy of Magical Arts)でマスターズ・フェローシップを受賞した際、式典の後に開かれた VIP だけが参加できるパーティーの中でカルバートと再会し、「子どもの頃に演技を観ました」と伝えたところ、とても喜ばれたという。

リチャード・ロス(Richard Ross)、蓮井彰、島田晴夫/1978 年「世界奇術大賞」

棗田との出会い
1950 年代における東の活動について、2 点だけ年代が特定できていない。
ひとつは、大学の入学年である。ある日主事補だった東は、主事に昇進するために大卒の資格が必要だといううわさを耳にした。そのため立正大学の夜間部へ通い、無事卒業し主事に昇進した。なお東の父は立正大学の OB だったが、これはまったくの偶然だったという。
もうひとつは、棗田明彦(なつめだ・あきひこ)との出会いである。引退後名古屋に戻った天海のマネージャーは岡山泰が担当したが、東京時代には棗田が担当した。天海が日本教育テレビ「ニッサンマジックホール」(後に「雪印マジックショー」へ改題)にレギュラー出演していたのは棗田によるものだった。また、棗田がプッシュしていたマジシャンの中に渚晴彦(なぎさ・はるひこ)がいた。
棗田は東と同様、マジックと酒が大好きで、ふたりが仲良くなるのは時間の問題であった。
東によれば酒は重要なポイントであり、当時関東のマジシャンはほとんど酒を飲まない真面目な人がほとんどだった。対し、棗田の生業であるエンターテイメント業界は酒がつきものであるため、酒好きの東が他のマジシャンより近づくことができたのは当然であった。東が天海と会った際も、マジシャンとしてというよりも「ひとりの酒好き」として付き合っており、これはダイ・バーノンに対しても同様であった。酒は東の人脈を語る上で決して欠かせない要素であった。
棗田の協力により、東は 1960 年のテレビ映画「熱血カクタス」に出演することとなる。「西洋風の、ギャンブリング・テーブルの雰囲気が欲しい」ということで、カードを使ったフラリッシュを披露する手先だけの出演であった。現代でいう「手タレ」であり、東は日本最初期となる手タレのマジシャンである。棗田との出会いによって自身のキャリアが広がったと東は回想した。

異動、結婚
1960 年 7 月、新設したばかりの都市公害部に東は異動した。都市公害部の部長が父親の親友だったため、コネによる異動が可能だった。
ここで東は広報を担当したことで、少年時代に好きだったイラストへの情熱に火がついた。ある日、都市公害部の展示会で招いたデザイナーから桑沢デザイン研究所が良いと聞いたため、桑沢の夜間に入学した。1 年半ほどで辞めた後、武蔵野美術大学の通信教育過程に入り、これも 1 年ほどで辞めた。当時を東は「俺は何事も続かないんだ、すぐ辞めちゃうんだ」と笑って振り返るが、短い期間とはいえこの時学んだ知識や技術は都庁での広報に活かされただけでなく、イラストレーターとして多くのマジシャンに影響を与えることになった。
後に東は、東京都第五区画整理事務所へ異動となった。そこでタイピストをしていた節子(旧姓・渡辺)と出会い、1962 年に結婚した。1963 年に長女・薫(かおる)、1966 年に長男・聰(さとし)を授かった。
以降 10 年間、東に関するマジックの活動は空白となった。JMA が主催するショーに名前こそ登場するものの、それ以外に目立った活動はなかった。とはいえ、一歩ずつ確実に東はマジックの道を歩むようになっていた。この頃になると、トレードマークであるヒゲを生やすようになった。
その後東は、長年務めた都庁を突然辞めた。公務員という安定した職から離れた理由は「マジックの道に進むから」であり、具体的な計画はなかった。じつは、東が都庁を辞めたのがいつなのかはよくわかっていない。1969 年または 1973年のどちらかだと考えられるが、いまとなってはわからない。

節子(ママ)、東 結婚式(母、東、妹、父)

マジックの道、金沢文庫
都庁を離れた東に、JMA 時代によく食事に連れていってもらっていた金沢陽之助(ようのすけ)から声がかかった。いつかマジックの解説本を作りたいと夢見ていた金沢は「株式会社金沢文庫」を設立し、専務待遇で東を迎え入れた。
1973 年頃から一般書籍を発行していた金沢文庫は、翌年の 1974 年に初めてのマジック本となるウォルター・ギブソンの『奇跡と大魔法』を刊行した。この編集に携わったのが東であった。1975 年 12 月には「金沢マジックシリーズ」と題したプロジェクトを始め、洋書の翻訳出版も行った。
金沢文庫の大きな特徴といえば、洋書の版権取得が挙げられる。1956 年に万国著作権条約に加盟した後であっても、日本のマジック界では著作権および翻訳権に対する意識は低く、許諾を得ずに和訳することが常であった。しかし 1970 年代に入り、西洋人が頻繁に来日するようになってからは厳しい批判にさらされるようになり、徐々に認識を改める必要が生まれるようになった。こういった時代背景もあってか、金沢文庫は著作者から許諾を受け、和訳を行った。

国際化時代:1975-1988

外国ショック
東は事あるごとに「外国ショック」という言葉を使った。これまで東は来日した外国人マジシャンを生で観た経験こそあったものの、それとはまったく異なる経験をしたからだった。
1975 年 6 月 29 日、東は、高木に誘われて海外コンベンションへ向かった。東にとって初めての海外渡航であり、金沢文庫がフライト代を出してくれるという太っ腹な待遇であった。人生初となったこのコンベンションの経験は衝撃の一言であった。その点について、東は次の通り回想した:
考えてみれば、戦後からそのシカゴまでの 20 何年間に見た日本国内のクロースアップというのはそんな大したものじゃなかったんだ。それがシカゴでいっぺんに色んなものを見たんでものすごいショックになったんだ。
これまで東が観てきたクロースアップ・マジックは、西洋の解説書という活字を元にした種仕掛けが中心となっていた。種仕掛けこそがマジックであり、巧みに披露できることこそがマジックだと考えられていた。

そのイメージは、初参加の西洋コンベンションで観たドン・アランの演技によって一変した。
最も重要だと思っていたマジックの種仕掛けや上手さよりも、マジシャンの人間性のほうが重要だということに気づいた。アランの披露するチョップ・カップは荒々しく、一見すると洗練されていない雑なものであったが、その雑味がアランの人間性と相まって素晴らしい演技となっていたことに東は気づき、そして魅了された。マジックは、マジシャン本人の持つ魅力によってその観え方と感じ方が良くも悪くもまったく変わることを体感した東は、マジックよりもマジシャンに惚れた。
こうして日本から西洋へと心が完全に移った東は、金沢文庫だけでなく JMA からも離れることを決心し、独立への道を歩み始めた。以来東は毎年マジック・キャッスルに通い始めた。
東はキャッスルのメンバーではなかったが、当時は「外国から来た」といえば中に入ることができていた。「当時、庶民は上流社会のひとたちと付き合えなかったが、キャッスルで付き合えて感動した」と東はキャッスルとの出会いを回想した。東の中で「魔法の国」という概念を持つようになったのはこの頃であった。
「シカゴの大会」から帰国した東は金沢文庫を退職し、1975 年 8 月にマジックの通信販売をはじめた。通信販売の事務所は東京・蔵前の「東光ビル」702 号室で、これはもともと金沢文庫が倉庫として使っていた小さな部屋だった。金沢文庫から無償で借りることができたため、東はここを拠点とした。友人に掃除とペンキ塗りを手伝ってもらい、小野坂東・高木重朗・二川滋夫(しげお)の 3 名によって「マジックランド」と名付けられた。正確な由来は本人たちも覚えていないのだが、おそらく当時マジシャンの間で大きな話題になっていたマーク・ウィルソンの番組「マジックランド・オブ・アラカザン」の影響が無意識にあったのではないかと口をそろえた。その後「大和屋ビル」の 4 階にマジックランドを移動し、1976 年 12 月 1 日を公的な創業日とした。この時のマジックランドは、来客を想定していたショップではなく、蔵前時代の通信販売をそのまま引き継いだ形であった。
その後、大和屋ビルの 3 階に空きができたことを知り、1979 年 10 月にマジックランドは 3階へ移転した。この頃になると、東はショップのカウンターに立つことがなくなり、世界中を飛び回った。代わりに菅野昭夫(かんの・あきお)がカウンターに立ち商品を販売するようになった。アルバイトとして活躍したのは、松林亮介(りょうすけ)、伊藤夢葉(むよう)、和田祐治(ゆうじ)、スティーブ・コーエンなどであった。臨時で手伝いをしたマジシャンであればもっといた。
日本で最初期となるであろう「レクチャービデオ」を作ったのはマジックランドであった。1950 年代からマジックの映像は日本で重宝されてきたが、現代のように誰もが簡単に撮影・販売できるものではなかった。東は、菅野の師匠である北海マキ(きたみ)のパラパラ漫画を作った。北海の演技を写真で撮り、これを模写し、パラパラ漫画にした。これまで文字で伝えづらかった動きの部分が、パラパラ漫画になることで視覚的に理解できるようになった。このレクチャービデオの元祖ともいえるものは 2 点だけ商品化された。

なお、のちにマジックランドは大和屋ビルから立ち退きとなり、2011 年ごろに高木夫妻の住む 「協同開発ビル」の 5 階へ移転した。そして 2024 年 2 月、協同開発ビルから立ち退きとなり、「サンライズ東陽ビル」の 3 階へ移転した。

マジックランドのカタログ/1978 年

「トン」の愛称
東の愛称「トン」が定着したのは、東がマジックランドを大和屋ビルの 3 階に移し、海外へ行くようになった 1976 年以降であった。
昭和期には、漢字の読み方を変えたものが愛称となるケースがよくみられた。東は、JMAや新橋ベーカリーの仲間内から東(トン)と呼ばれていたものの、当初はそこまで広まっておらず、多くの人からは小野坂さんと呼ばれていた。高木からも、出会った当初しばらくは小野坂さんと呼ばれており、佐藤喜久治など年上からは東(トン)と呼ばれていた。後年になってトンの由来は大好きな麻雀であると伝わっているが、麻雀仲間から東(トン)と呼ばれたことはなかった。
トンという愛称が定着したのは、海外へ行くようになったことがキッカケであった——海外では敬意を込めて Ton-san(トンさん)と呼ばれた。本名の Azuma が英語圏では覚えづらかったため、海外で Ton Onosaka を名乗るようになり、これが後に日本でもペンネームとして採用された。
余談だが、海外では Ton が略称だと勘違いされ、Tonny Onosaka(トニー・オノサカ)やTone Onosaka(トーン・オノサカ)と呼ばれることがあった。また、アルバート・ゴッシュマンだけは Tonosaka(トノサカ)と呼んでいた。日本では病院で小野坂東(おの・ばんどう)と呼ばれることがあった。

JMA との決別
都庁を辞め金沢文庫を辞め、完全に独立した東ではあったが、まだ JMA には籍をおいていた。しかしドン・アランによる「外国ショック」を受けた東が JMA から離れるのは時間の問題であり、その総決算として東は PCAM 東京大会の運営を担当した。
PCAM が東京にやってくるという吉報の中、それでも東の心はすでに日本から離れようとしていた。それが完全に離れてしまったのは、PCAM の会長であったアーニー・ナシムビーンと一緒に会場の下見をしていたときであった。東は、ナシムビーンが帝国ホテルに入り、責任者との交渉を次々に進めていくのを目の前で見た。帝国ホテルは、その入口ですら足を踏み入れるのを躊躇してしまうほど格式の高い場所であったが、ナシムビーンは堂々と入って仕事を進めていった。IT 企業である IBM の研究開発部門のマネージャーが本職であったナシムビーンの姿は、敏腕ビジネスマンとして凛としており、小野坂がこれまで観てきた日本人マジシャンとはまったく異なる立ちふるまいをしていた。帝国ホテルで次々に話を進めていくナシムビーンを見て、東は「マジシャンとは、本来格式高い文化人なんだと痛感した」と当時を回想した。PCAM 東京大会は予定通り開催され、海外から約 300 名、日本国内から約 500 名が参加し、無事閉幕した。これまでテレビ画面を通じてでしかみることができなかった名人たちを、生で観ることができただけでなく、マジシャンが持つ雰囲気を全身で感じることができた
PCAM 東京大会は、多くのマジシャンたちにとって生涯忘れられない素晴らしいイベントだったと声をそろえた。
東は、PCAM 東京大会を終え、JMA の総決算を果たし、『奇術界報』421 号を最後に JMAを離れた。

コーディネーターとして
1970 年代末から東はマジック番組のコーディネーター、つまりマジシャンとマジシャンをつなぐパイプ役としての活動をはじめた。その活躍の背景には高木とマーチン・ルイスがいた。
東がはじめてマジック番組の制作に関わったのは、それから 10 年以上の月日を経た「神業!脅威の奇術~テーブルマジック日本一総登場~」であった。
前述した通り、ドン・アランを見て「外国ショック」を受けた東は以来マジック・キャッスルへ足を運ぶようになった。キャッスルで西洋人マジシャンと交流していた中、はじめて仲良くなったのがルイスだった。東はルイスに事情を説明し、声をかけたのが当時若手マジシャンとして頭角を現していたポール・ハリスとアレン・オカワのふたりだった。
当時のテレビ局はあらゆるエンターテイメントのトレンドを追っており、マジックは他の芸能関係と異なりマネージャーを通さず電話一本で話を進めることができたため、その仕事のしやすさからマジシャンは重宝された。その当時の時代背景に加えて日本が高度経済成長へと向かい外国人を招きやすくなったこともあり、テレビ局によって西洋とのパイプを持つ東はとても重要な存在となった。
しかしその重要度に反して、東自身はコーディネーターとしての仕事を「遊びの延長線上だった」と回想した。責任のあるポジションではあったが、東にとっては遊びであったため、一度も報酬を求めることがなかった。過去に一度だけテレビ局から報酬が出てしまったことがあったが、後に全額返金した。

世界奇術大賞とビル・ラーセン
東にとってコーディネーターとしての仕事は遊びの延長線であったものの、世間のマジック番組がどんどんと盛り上がりをみせたため、いつまでも遊びではいられなくなった。そのピークは、日本テレビが開局 25 周年を記念して組んだ特番「'78 世界奇術大賞」で迎えた。この番組は、元々JMA にいた東の弟子である蓮井が発案した企画であった。蓮井は師匠の力を必要とし、東に声をかけた。そしてこの番組を通じて、もうひとつの出会いが生まれた。審査員としてマジック・キャッスルの共同オーナーであったビル・ラーセンが招かれていた。以来、少しずつ東とビルの距離は近づいていった。後述する第 1 回日本クロースアップ大賞では審査員としてビルは招かれた。
世界奇術大賞は大成功を収め、以後 NTV は開局 30 周年・35 周年と 3 回に渡ってマジックの特番を組んだ。世界奇術大賞の成功をきっかけに蓮井はマジック界に戻り、翌年 1979年から活動をはじめた。そして 1980 年 10 月に蓮井と共に SCMC(静岡クロースアップ・マジシャンズ・クラブ)を設立した。静岡は、東にとって新たな集いの場となった。

マックス・メイビンとの出会い
世界奇術大賞と前後するタイミングで、東は後に親友となるマックス・メイビンと出会った。
東がマックスと出会ったのは 1978 年 7 月にニューヨークで開催された SAM コンベンションだった。これまで日本で演じられていたメンタル・マジックは霊を扱ったものが主であり、マックスのような頭の中だけで起きるメンタル・マジックは東にとって新鮮だった。再びアメリカに訪れた東は、マジック・キャッスルでマックスの演技を観た。この時一緒にキャッスルへ来ていた高木と北見から「日本に呼んだほうがいい」とアドバイスをもらったことから、マックスを日本に招いた。
蓮井がまとめた「海外マジシャン来日記録」によればマックスの初来日は 1981 年 4 月となっているが、東によればそれより前に一度招いて東京と名古屋でレクチャーを開催したという。それがいつの話なのかは東も記憶が定かではなかったのだが、1980 年 12 月の『アブラカタブラ』71 号には日本でのツアーを終えた一報が記されている。
意気投合したふたりは良き協力者となり、以後 40 年以上、お互いをサポートし続けた。後述する通り、この時期から東は積極的に刊行物を出し始めたのだが、マックスに関する記事が多くあることからその影響力をうかがうことができる。

マックス・メイビン(Max Maven)、東 中央はダイ・バーノン(Dai Vernon)

『不思議』
1979 年に『奇術研究』が廃刊となって以来、日本にはいくつか会報こそあったものの、本格的なマジック雑誌は失われたままであった。マジックランドは『Preasure』『MAGIC NEWS』
(下田結花=編)『リチャード・アルマナック』などいくつかを発行したが、その中で最初に出た
定期刊行物が 1981 年の季刊誌『不思議』であった。
『不思議』は、旧来のマジック誌とはまったく異なる雰囲気をまとっていた。『奇術界報』や『奇術研究』は、どちらかというとトリックの研究を主としており、堅苦しい雰囲気をもっていた。
しかし東は、トリックの横に必ずポップさを添えるようにした。個性的な表紙デザインを担当したのが永美ハルオというのは大きく、旧来のマジック誌と比べるとまったく異なった柔らかい若者向けの雰囲気をまとうようになった。東の特徴的な丸みを帯びた字とイラストは、1978年のカタログからみられるように、この時期から特徴として出てくるようになった。
『不思議』で目を引くのは、創刊号で組まれた淀川長治(ながはる)と高木重朗の対談であろう。これは、前述した高木の講習会に参加していた岡田喜一郎とのつながりで淀川と接点を持った。マジック好きで初代・松旭斎天勝(しょうきょくさい・てんかつ)が好きだった淀川であったが、マジックについてだけ語るのはこれがほぼ最初であった。
『不思議』の巻末には国内外のマジックニュースが掲載された。これは『奇術界報』や『奇術研究』の巻末にあったニュース一覧を継いだものであるが、これは後に『MAGIC NEWS』と装いを新たに発行された。

FFFF と「箱根クロースアップ祭」
1982 年から東は「箱根クロースアップ祭」を開催した。これは本格的なクロースアップのイベントとしては日本最初期のものとなり、第 10 回で終了した後に「新・箱根クロースアップ祭」と題して聰が継いだ。毎年4月に開催される日本の風物詩的な長寿イベントとなった。PCAM東京大会以来、大きなマジック・イベントはテレビ局がスポンサーとなるのが主であったが、1980 年代に入ってマジックショップがイベントを主宰するケースが増えてきた。
会場は、神奈川・箱根にある「ホテル奥湯本」であった。なぜホテル奥湯本が選ばれたかというと、FFFF の舞台であったフォークス・ホテルと同じようなホテルを探していたとき、弟の治が当時支配人をしていたのがこのホテル奥湯本だった。東は「箱根」を開催する前の 1979年 3 月 17 日から 18 日に、高木と東が顧問を務めていた MMC(マジック・マニアズ・サークル)の旅行会をホテル奥湯本で開催した。これがあっての「箱根」のスタートであった。

4Fで演技をする東

FFFF ゲスト・オブ・オナー/2007 年 お祝いにかけつけた日本人
緒川集人、都々、カズ・カタヤマ 小林洋介
小野坂聰、ヒロ・サカイ、東、和田祐治

第 9 回「新・箱根クロースアップ祭」

第 25 回 新・箱根クロースアップ祭/2018 年
ガイ・ホリングワース(Guy Hollingworth)、ルイス・オルメド(Luis Olmedo)、野島伸幸、MC:東

「日本クロースアップ大賞」
箱根に続いて東は「日本クロースアップ大賞」を開催した。これは日本で最初期となる大規模なクロースアップのコンテストで、東京・永田町の「キャピトル東急ホテル」で開催された。
PCAM 東京大会の際に会場の下見をナシムビーンと共にした東であったが、なぜ大きなホテルで開ができたのかというと、キャピトル東急の宴会を担当していた高橋勉(つとむ)——
東は「勉(ベン)さん」と呼んでいた——がホテル奥湯本に泊まりに来て、それをキッカケに仲
良くなったからであった。
第 1 回の開催前に予選会が 1984 年 7 月 4 日に東京・茅場町の「鉄鋼会館」で開催された。予選会の出場者は、東から直接声をかけられて集まった。第 1 回は同年 12 月 1 日に開催され、優勝者にはマジック・キャッスルへの旅費と 1 週間の出演権、FISM への挑戦権が与えられた。
こうして開かれた日本クロースアップ大賞は大きな盛り上がりをみせたものの、東は「数年じゃ新しい才能は出てこない」ということに気づき、第 7 回で終了とした。晩年になって日本クロースアップ大賞を復活させてはどうかという声を筆者の周りで何度か聞いたが、そのたびに東は「あれは 7 回で終わり」と拒否した。多くのイベントが自然消滅している中、東のイベントだけはしっかりと最終回が開催されているのは大きな特徴であろう。

バーノン・クラブ
第 1 回日本クロースアップ大賞にビル・ラーセンを招くなど、東とビルの付き合いはどんどん親密になっていった。FISM とマジック・キャッスルが描いてきた「社交」のイメージを、東はビルから感じ取り、それをどうにか形にしようと考えた。
そこで東がはじめたのは、女性同伴を必須とする会であった。たとえば、1987 年に東京・原宿の「ポゼット・ポット」で「おしゃれでオシャレなクロースアップ・タイム」を開催した。これは男女同伴と正装が条件となっていたイベントで、旧来のマジックイベントとはまったく異なるものであった。
これと似たものが「バーノン・クラブ」であった。バーノン・クラブとは文字通りダイ・バーノンから名前をとったクラブであるが、妻帯者のみが参加できるプライベートな食事会であった。当初はゲストはいなかったが、イベントなどで来日していた際は特別ゲストとして招かれるようになった。バーノン・クラブの参加者にはバーノンのシルエットが描かれた特性のピンバッジが贈られた。元々このピンバッジは、1985 年の第 2 回日本クロースアップ大賞で来日予定だったダイ・バーノンのために作られたもので、日本クロースアップ大賞で配られ、そしてバーノン・クラブに使われた。

アワード・オブ・メリット
東は自身のキャリアを振り返ったとき、国際的に花開いたのは最初に授与されたアワード・オブ・メリット(Award of Merit)からであったと振り返った。
アワード・オブ・メリットは、マジック・キャッスルの AMA から贈られる賞で、対象はマジック界に貢献(Merit)した人物である。1985 年、第 17 回 AMA 表彰式(通称「バンケット」)で東に贈られた。この年の受賞者は 4 名で、プレゼンターはディック・ジマーマンとピーター・ピットだった。4 名のうち最初に授与されたのは東で、授与の理由は次の通りであった:
日本クロースアップ大賞を毎年開催した彼のマジック界への貢献に感謝したい。この毎年開催される権威ある大会によって、若手マジシャンたちのクロースアップ・マジックが上達する刺激となるだろう。
なお、1985 年のバンケットでは高木にスペシャル・フェローシップが贈られ、高木と東のダブル授与を祝う会が同年 6 月に東京・新橋の「第一ホテル東京」で開催された。主宰は小林時春。スコット・サービンとクリストファー・ハートがゲストショーを行った。なお後述する通り、東はスペシャル・フェローシップを 1995 年に授与された。

次世代へのバトン、思想時代:1989-2026

イラストレーターとしての国際的な評価
日本国内におけるイラストレーターとしての東の評価は既に高かったものの、世界的にはまだ知られていなかった。意外にも、Ton Onosaka の名前が広まるようになったのは 1990年代に入ってからであった。
東のイラストが海外で登場したのは、1959 年の『Hugard's Magic Monthly』、1977 年の『Shigeo Takagi's One Cup Routine』。イラストレーターとして登場するのは、1986 年の『The New York Magic Symposium: Collection 5』、1988 年の『New Magic of Japan』と、数こそ限られるものの古くからあった。
Ton Onosaka の名前が国際的に広がり評価が高まったキッカケは、1990 年に年にカウフマン&グリーンバーグから刊行された『Amazing Miracles of Shigeo Takagi』であった。高木とよく FFFF に参加していた東は、ある日会場でリチャード・カウフマンと出会った。東はカウフマンから高木の本を出したいという打診を受け、それを高木は快諾した。高木がこれまで発表した作品を集めた本になったのだが、東はイラストをすべて描き直したいと言った。

カウフマンはそのままでいいと提案したものの、東は「世界に出るからには恥ずかしいから」と描き直した。
こうして発売された『Amazing Miracles of Shigeo Takagi』によって、イラストレーターTonOnosaka の評価は世界的に広まった。加えて、当時カウフマンは出版業を本格化していたため、次々とカウフマンからイラストの仕事が来るようになった。チャック・ロマノはそのわかりやすさを称賛し、カウフマンは最高のイラストレーターとして小野坂東とアール・オークスのふたりの名前を挙げた。
東は高木のイラストと同様、カウフマンに金額を請求することはしなかった。そのため次々とカウフマンからイラストの依頼が増え、そしてイラストレーターTon Onosaka の名前は世界中で広まった。この時期から日本で「TON・おのさか」のペンネームを使うようになった。1990年以降、東の影響を強く受けたイラストが世界中でみられるようになった。

史料収集と「伝授本」
西洋のマジシャンたちと付き合いを深めていく中で、徐々にマジックの話も深くなっていった。そんなある日、西洋のマジシャンたちは書籍や歴史について共通の話題があり、それらを大事にしていることに東は気づいた。友人のマックスは、歴史に精通していたのみならず日本の歴史にも興味があったため、東の興味は自然と歴史へと向くようになった。東の持つ膨大なマジックの史料は、平成の時代に入ってから収集されたものだった。
大きく背中を押したのは、1989 年にロサンゼルスで開かれた第 1 回「ロサンゼルス・カンフェレンス・オン・マジックヒストリー」であった。カンフェレンスに参加した東は西洋の持つ膨大な歴史の深さに驚き、「触れてみたいな」と強く思い、少しずつ史料集めをはじめた。カップ&ボールやリンキング・リング、四つ玉といった古典を、「伝授本」や西洋マジックの抜粋を集め、クリアケースにまとめた。
ところで、晩年の東は「伝授本」という表現について否定的だった。元々は山本慶一(けいいち)をはじめとした古書を集めていたマジシャンが、江戸時代の手妻をさかのぼり紹介する際に使った江戸伝授本という表現を使ったことが元であった。東にとってこれらを解説したのはプロではなく、内容はお座敷芸であることから、「とてもじゃないけど伝授と呼べるほどのものではない」と、表現が適切ではない点を指摘した。江戸時代から続く歴史の正当性を大切にしたいと思った昭和初期の時代については理解できるし、長く続いた歴史を大切にしたい気持ちは尊重するが、西洋マジックが主流となってしまった、つまり江戸とのつながりがほぼ完全に絶たれた昭和後期以降にかけて、いまだに「伝授本」と呼び続けることは正しいのだろうかという東の指摘には一定の説得力がある。
山本と東の関係は 1990 年代に入って一気に近づいた。1990 年にキャピトル東急で開催された「フレンドシップ・コンベンション」にゲストとして参加したスティーブン・ミンチは山本に興味を持ち、マックス・メイビンと共に山本の住む岡山の倉敷まで飛んだ。山本は「アメリカなんかたった 300 年しか歴史がない」と興味は無かったものの、わざわざ倉敷まで来たことに感動し、1991 年に開催された第 2 回ロサンゼルス・カンフェレンス・オン・マジックヒストリーに登壇することを許諾した。スライドを東が作り、山本が原稿を書き、マックスがそれを英訳した。
アメリカに興味が無かった山本は、東・マックスの手厚い歓迎もあってか一気にアメリカ好きとなった。この点について東は「はじめて自分の話が通じる友達がアメリカでできたのかもしれないな」と回想した。
山本は晩年、自身のコレクションを国立劇場(当時は財団法人日本文化振興会)に寄贈するため目録の準備をしていた。この寄贈は東が手伝っていた縁があり、目録のコピーを和装綴じにしたものが東にプレゼントされた。1993 年 7 月に寄贈が終わり「山本奇術文庫」が成立した翌月、山本はこの世を去った。

コンテスト審査員
東氏がはじめてコンテストの審査員をしたのは、深井洋正(ひろまさ)率いる「不思議倶楽部」が主催した「第 1 回なにわの国際マジック大会」(通称「なにコン」)であった。1991 年、深井から審査員を頼まれたものの、東はあまり乗り気がしなかった。それもあってか、スコアシートには「やりたくありません」とだけ書き残した。すべてを悟った深井は、翌年も東に審査員を依頼した。
以来、FISM を含む国内外のあらゆるコンベンションで審査員および審査委員長を務めた。オーガナイザーを引退した東だったが、新たな立場から次世代マジシャンたちの背中を押し続けた。

「第 1 回マジネーション」審査員室にて

日本離れと「魔法の国」
そんな東は、ある時期から日本のマジック界から大きく距離を取るようになった。日本国内で開かれるマジック・ショーに、積極的に足を運ばない日々が続くようになった。ゼロ年代後期頃からの話である。
なぜ突然そうなったのか聞くと、「観ても仕方がないから」だという。日本に対する東の興味は大きく失われ、海外に行ってはアメリカやヨーロッパの小さい劇場を回る日々が続いた。筆者を含む多くのマジシャンたちには、1 週間の旅行ではなく数か月の居住を勧めた。西洋マジックという文化は、人と共に生活することでしか学べない、日本人同士がつるむだけでは決して本質がわからないという東の経験からくるアドバイスであった:
緒方さんも長谷川さんも、(...)申し訳ないけれど一切マジックの本質に触れられていない。それらはマジックを学問として勉強していたのであって、人と人が肌を突き合わせた交流ではなかったんだ。
これは悪いっていう話じゃなくて、ただ仕方がないんだ。マジックは趣味であったり芸能であったり科学であったり、すごく広いんだ。いまだかつて誰も「マジックとは何か」について答えられていない。だから学問としてマジックに向き合っただけじゃ、本質にはたどり着けない。ぼくからすれば「マジックはそうじゃない」と言えてしまう。
東の日本離れは 10 年ほど続き、しばらくして興味は戻った。その変化について問うと、「そろそろ観てやっかと思ってね」と東は笑って答えた。
この話から想像できるように、東はとてもマジックに対して厳しい人物であった。多くの人が「トンさんは優しい」と東の包容力について回想するが、それは半分正解で、半分は間違いで
ある——小野坂東という人間は、筆者の知る限り、人としては優しいがマジックに対しては誰よりも厳しい人物であった。東はただその厳しさを他人にぶつけようとしなかっただけであり、その厳しさは満面の笑みで隠されていただけであった。会話がつまらないと思ったら、気づかれないようにその場から離れるようにしていた。しかし東からその笑みが決して消えなかったのは、妻・節子がずっとそばにいたからであった。
すると東は何に興味を持っていたのだろうか。そのヒントは、東が時々使った「魔法の国」(「魔法の世界」と言うこともあった)という言葉にある。ある日、コンテストで審査員を務めていた東に話を聞いたとき、「とても疲れた」と言われたことがあった。一番の理由は「魔法の国」に入れない理由を探さないといけないからだといった。つまり、マジシャンが表現する世界——「魔法の国」へのミスディレクション——が成立していた場合、その世界を楽しめばいいだけなので審査は楽であるが、マジシャンが表現する世界に入り込めない場合、頭を使って楽しめない理由を考えなければいけない。これが東にとって苦痛であった。それでも東は、次世代のために必要な役割だということで審査員を引き
受け続けた。
東はマジックという「魔法の国」と、トリックという「現実の世界」を切り分けた。東はダイ・バ
ーノンやマックス・メイビン、トミー・ワンダー、ユージン・バーガー、ホレット・ウーといった「魔法の国」の住人との交流を楽しんだ。

受け入れ、訃報
東の体調は加齢と共に優れなくなっていったが、それでも毎日マジックランドに通って道具制作を行い、帰宅後は自宅で道具制作と史料整理を行った。次世代のマジシャンたちの話に最後まで耳を傾け、最後は必ず「がんばってください」の言葉で背中を押した。使ったことがない SNS や AI にも興味を持ち、独自の視点で惜しみなく助言した。東は、若い頃にマジックを教えてくれる先輩がいなかった自身の経験から、質問に対してはできるだけ答えようとしていた。
体力に明らかな変化がみられたのは 2025 年になってからであった。血流が悪くなったことで、椅子に長時間座ることができなくなった。マジックランドから自宅に帰るために向かうバス停の途中、50 メートルほど歩いては日陰で小休憩をはさむ必要があった。話を聞くと、脚がビリビリとしびれてしまうのだという。それでも小野坂は杖や車椅子の利用を頑なに拒んだ。周りの人の世話になりながらコンベンションに参加している人を見て、「そこまでして参加するもんじゃねぇな」と思ったからだった。しかしそんな東も徐々に体の変化を受け入れるようになり、2025 年からは人前で杖を使うようになった。
93 歳の誕生日を迎えた 1 か月後の 2026 年 5 月 29 日、東は自宅で亡くなった。死因は心不全。世界中からあらゆる言語で、感謝の言葉が寄せられた。

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