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クラシックマジック研究コミュの快楽亭ブラック Kairakutei Black

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KAIRAKUTEI,BLACK(1858〜1923)

本名はヘンリー・ジェイムズ・ブラック(後に石井 貎刺屈と改名)、1858年12月22日生まれ。
明治・大正に活躍した。
オーストラリア生まれのイギリス人。白人。国籍もイギリス。
日本初の外人タレント。
父親は、日本最初の本格新聞を発行した人物にして「ヤングジャパン」を執筆したレディ・ブラック。
少年時代からヘンリーは寄席などに芸人として舞台に上がる。
英語教師などを行いながら、落語や講談などで名をはせる。
推理小説家、催眠術師でもあった。
関東大震災後まもなく亡くなる。満64歳。
多芸の芸人であり評価は高かったが、晩年は不遇であったと伝えられる。
門下には義理の息子である快楽亭ホスコ(松旭斎天左)や2代目談洲楼燕枝らが居る。

イアン・マッカーサー著『快楽亭ブラック 忘れられたニッポン最高の外人タレント』(1992年講談社インターナショナル)

コメント(4)

「ご存知ですか、快楽亭ブラックのことをー。青い目の落語家として、一時は三遊亭圓朝と天下の人気を二分しながらも、さびしい晩年を迎えざるおえなかったブラックは、ラフカディオ・ハーンとほぼ同時代に生き、そしてハーン以上に、日本文化に多大な貢献をした人物です。」
イアン・マッカーサー著『快楽亭ブラック 忘れられたニッポン最高の外人タレント』(1992年講談社インターナショナル)
 http://rakugo-channel.tsuvasa.com/687
初代 快楽亭 ブラック(しょだい かいらくてい ぶらっく、1858年12月22日(安政5年11月18日) - 1923年(大正12年)9月19日)は、落語家・講釈師・奇術師。イギリス領オース­トラリアのアデレード生まれ、国籍は初め英国、のち日本に帰化している。
本名ははじめヘンリー・ジェイムズ・ブラック (Henry James Black)、帰化した後の日本名は石井 貎刺屈(いしい ぶらつく)。

ブラックは1865年(慶応元年)、日本初の英字新聞・週刊『ジャパン・ヘラルド』の­記者として日本に滞在していた父・ジェイアール・ブラック (J. R. Black) の後を追って、母とともに来日した。父はのちに『日新真事誌』という新聞を発行して新­政府の政策を盛んに批判したため、同紙は廃刊措置となり、これで日本を見限って上海に­渡ってしまった。

しかし18歳になっていたブラック本人は単身日本に残る道を選び、1876年(明治9­年)に奇術師三代目柳川一蝶斎の一座に雇われて西洋奇術を披露しはじめる。同年7月に­は浅草西鳥越の芳川亭と日本橋南茅場町の宮松亭で西洋手品をハール・ブラックの名で興­行した記録が残っている。
その後一説には2〜3年アメリカのシアトルで母と共に生活していたという。

1878年(明治11年)再度来日し、翌年講釈師二代目松林伯圓に誘われて横浜馬車道­の富竹亭で政治演説に出演した記録が残っている。
この年正式に伯圓に弟子入りし、英人ブラックを名乗った。

しかし当時の芸人は政府の許可がないと寄席に出ることができなかったため、講釈師三代­目伊藤燕凌の仲介で外務省と掛け合い、翌1880年(明治13年)に許可を取得、以後­本格的に寄席に出るようになった。しかし親戚や知人の猛反発に遭い、一時は廃業して英­語塾を開かざるを得なかったが、結局演芸の世界に舞い戻る。1884年(明治17年)­には三遊亭圓朝・三代目三遊亭圓生らの三遊派に入った。


Rakugo is Japanese traditional performing art.
It is best described as Sit-down comedy.
usually, Rakugo performance starts with small talk and then goes into the Rakugo story.
快楽亭ブラックは明治28年、ジョージアマグネットと呼ばれたアボット嬢の通訳を務めた。
■快楽亭ブラック(初代1858~1923)
落語家、講釈師、手品師、弁士、通訳。当時英国領だったオーストラリアのアデレード出身。本名ヘンリー・ジェームス・ブラック(Henry James Black)。国籍は英国、のちに日本に帰化し、石井貎刺屈(いしい ぶらつく)となる。通名は石井ブラック。英字新聞『週刊ジャパンヘラルド』の記者だった父ジョン・レディ・ブラックとともに家族で来日。18歳の頃、三代目柳川一蝶斎の一座で西洋奇術を披露。1878年講談師ニ代目松林伯圓に弟子入りし英人ブラックを名乗る。1884年三遊派に入り1891年より快楽亭ブラックを名乗り、1893年木村アカと結婚し日本国籍を取得。その後、小説の翻訳や創作落語、歌舞伎の飛び入り出演、1896年には日本初とされる催眠術ショーも行っている。快楽亭ホスコ(石井清吉)は養子であり、のちに松旭斎天左となる。

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