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クラシックマジック研究コミュの一徳斎 美蝶 Bicho Itokusai

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一徳斎 美蝶 Bicho Itokusai(1899〜?)

最後の和妻師と言われた人。
本名 栗原孝二郎。四代目人情亭錦紅(きんこう)の息。
東京の寄席で活躍していた。
最初は松旭斎で西洋マジックを学ぶが、三代目養老滝五郎に師事。
1935年に二代目一徳斎美蝶襲名。
戦後は落語協会に所属。1971年まで名簿に名があるが、その10年程前から出演していなかったという。
太夫本人と三味線と後見の三人構成のスタイルが本来の和妻スタイルであり、座って演じることを信条とした。
奇術研究26号(力書房 1962年夏)の20ページを参照のこと。

矢野誠一『昭和の藝人 千夜一夜』(2011年 文春新書)P81

コメント(35)

和妻で毛花を使った最初の人とは本人の弁。
・1899年生まれで没年不詳。
・1971年まで芸人名簿に名があったらしいのですが、その10年ほど前からもう寄席には出演してなかったそうです(・・・という事で1961年にはもう寄席には出ていなかったという事ですね)。
・主な出しものは”皿回しと日本手品”。
・「美蝶さんがもしいたら見に行く、いま。どんなことがあってもその芸を見に行く。昔、散々見せてくれた同じ芸を見に行く。その芸でなきゃ嫌だ。美蝶さんはそういう、何てぇのかな、中毒になる芸人」
と言った人もいるほど。
・皿回しの他に、四角い桐の軽い箱を四重にも五重にも積んで、その上にお燈明をのせる、まあ曲芸の五階茶碗のような積み方だ。それが一つの建物のようになり、その積木を扇子で横に倒し、その積木が倒れる寸前にその扇子で受ける芸をやった。倒れる寸前を扇子に受け、拍手が来たあと、今度は全部片付けるところを見せるんだ。そして全部片付けてから『失礼しました』ってお辞儀して舞台から退ける。
・作家の色川武大さんは、「不思議で面白かった」と言っていた。

矢野誠一著『昭和の芸人 千夜一夜』
この本にはもっと詳しく載っているとのこと。
どうもこの一徳斎美蝶は、二代目のようです。
とはいえ、初代は和妻ではないようです。
明治27年の三遊社一覧というビラには160余人の寄席芸人の本名と住所が記載されている。

芝区西久保桜川町1番地 鷲野峯吉。
この人が初代の美蝶。
しんこ細工を演じていたとのこと。もはやこのしんこ細工は絶滅寸前で、現在ではたった一人しか継承されていない。
これは、米の粉を練って蒸して作ったものを粘土細工のように様々な形を作っていくもの。飴細工と似ている。
子供たちには大人気だったようだ。
それをこの美蝶さんは舞台で演じて、今でいう紙細工のように観客のリクエストするものをその場で作り上げていたとのこと。
当時、それを見ていた三遊亭圓朝曰くは、子供時分で、この人に寄せで会うのが楽しみで、いつも楽屋から覗いてみていた、とか、酒好きの人だった、と語っている。
本名 栗原孝二郎。三代目人情亭錦紅(きんこう)の息。1935年に二代目一徳斎美蝶襲名。戦後は落語協会に所属。1971年まで名簿に名があるが、その10年程前から出演していなかったという。
三代目人情亭錦紅の息、とあるが、どうも四代目人情亭錦紅の息子らしい。
とかく、芸人が自分の子供を芸人にしたがる際に奇術や曲芸など手に職を覚えさせようとする。もしかするとこの四代目もそうだったのかもしれない。
その四代目と初代一徳斎美蝶が何か関係があったのかもしれない。
みんなのコメントがディープで入っていけない
33歳の秋、昭和6年9月の満州事変のころに和妻師に転向。
当時人気の二代目養老滝五郎を手助けしたことが役に立ったという。
それから12年後の45歳の時、昭和18年6月に六代目貞山や文治に薦められ、一徳斎美蝶を名乗る。
初代は明治から大正にかけて活躍したが、この二代目とは全く関係がない。
そのため、とくに二代目を名乗ってはいなかった。
平岩白風のレポートによれば昭和18年に襲名となっている。となると上記の1935年ではなく、1943年のことになる。
美蝶本人が、養老の本芸は水芸だ、と述べている。
実際に天暁先生が目撃している。
太夫は美蝶の娘が行い、美蝶は後見として口上を述べていたようだ。
舞台上には二人のみ出演となり、最後の大水はなかったようだ。
初代が行っていた絶滅したしんこ細工芸だが、これをマジシャンが行っていたことが阿部徳蔵のエッセイに残されている。
観客に紙を渡し、好きなお題を書いてもらう。
それをこより状にして回収し、好きなこよりを引いてもらい、開けてみて書かれているお題の物を作る、というものである。
もちろん、あらかじめ作る予定の物とすり替えるマジックが使われている。
「昭和の藝人」(矢野誠一著2011年文春新書)という本には1971年までは落語名鑑に載っているが、その10年ほど前から寄席にはもう出ていなかった、とあります。
もう死んだんだよ、と言われていたころに新宿末広亭にひょっこり現れた痩せこけた美蝶を見て小たけだったころの小三治が腰を抜かした、とあります。
小たけ時代は、昭和35年から、昭和43年です。
ということは昭和40年代に入るとほとんど活動していなかったのでしょうか。
初代はしんこ細工だけではなく飴細工も行い、手品も行っていたとのこと。
二代目とつながる何かは何もないが、手品とは無縁ではなかった。
北見翼さんが国立国会図書館で見つけたようです。
原本のタイトル等は良くわかりません。たぶん落語関係でしょう。

藤田洋さんが、インタビューをし記事を書いています。
これらを抜粋します。

これによる美蝶のプロフィールは、

本名 栗原孝次郎 生年月日 明治32年8月10日 三遊亭花円遊の子と生れ、落語から松旭斎天外に入門、天光と名乗って西洋奇術を習う。

21歳ころから日本手品に転向、養老滝五郎の教えを受けた。昭和15年6月美蝶襲名。落語協会の所属で日本手品は関西の吉田菊五郎と二人だけ。

現住所 東京都中野区上高田四丁目五番地。

まず、美蝶の考える和と洋の違い。

1、西洋手品は立ったままやるが、日本手品は座ったままやる。

2、西洋手品は道具に仕掛けがある。

3、西洋手品は機械と同じで順序通りにやればできる。


日本手品の将来として
若い人がずいぶん習いに来たがすぐやめてしまう。難しいだけで実入りがないからだろう、と。
蝶二は、家内の弟、娘が二人(てい子とはる美)、一通りは教えた。
三味線は家内、太鼓は蝶二。ほかのものがやると芸のツボがわからない。

日本手品の教授方法は?
落語と同じサシで教わる。が、芸人の師匠はなかなか全部は教えない。肝心なところは教えない。
養老滝五郎からは基道(基本の事)だけは教わったがあとは自分の工夫。
万倍傘で花を出すところは私が工夫して西洋手品を取り入れた。

レパートリーは?
1、箱積みの曲枝
2、万倍傘
3、皿芸
4、水芸

創ったものはありますか?
創ったものはありません。しいて言えば復元したという形はある。

養老滝五郎時代には日本手品は何人くらいいた?
あの頃でも少なかった。滝五郎師匠と、その弟子の滝三郎、滝之助の三人ぐらい。

昔の演目で今は廃れているものは?
「稲荷の取り寄せ」

手品芸の記録を残したい…。

現在の寄席では時間も少ないし、じっくりした芸は見せられない。万倍傘も仕掛けのあるものも出来ない。

アメリカの巡演の時もソ連の時も誘われたけど自分ひとりでといわれ、こちらは三人でないと出来ない、となってご破算となったことが残念だった。

「一度、あたしの芸を映画に取っておいてほしいな。ギャラの点じゃサービスするつもりなんだけどね」
>>[17]
この修行当時にいたという滝之助が、その後の三代目を継いだのでしょうか?
>>[19]
三代目はいつその名を継いだのでしょうか?
>>[21]
三代目が大正13年に亡くなられていることを考えると美蝶は二代目に習ったというよりは三代目のほうが可能性が高いと思われます。
そうはいっても二代目と接触がなかったわけでもないと思いますのでこれも謎です。
>>[21]
初代養老滝五郎が本当に柳川一蝶斎の師匠であるのならば、明治期に入り手品頭取を務めたのが二代目ということになります。その人がのちの滝翁斎だとしたら明治13年に大阪で亡くなられています。
そうなると、美蝶が出会う可能性はゼロになってしまいます。
>>[24]
そうですね。間違っておりました。すみません。
では、二代目はいつから二代目で、どこから三代目に譲ったのでしょうか
>>[24]
分かりました。
三代目は明治45年に襲名しています。この時は美蝶13歳。17歳で美蝶は松旭斎天外の弟子になります。この時点で大正4年です。まだ美蝶は西洋マジック時代しか行っていなかった時期です。
もうこの時点では大正時代です。美蝶がマジシャンになったころには滝五郎といえば三代目ですね。
二代目に会っている可能性はありますが、美蝶が言う滝五郎はやはり三代目の可能性が高いと思います。
矢野誠一『昭和の藝人 千夜一夜』(2011年 文春新書)
P81に二代目一徳斎美蝶として記載されている。
>>[28] 一本傘の場合も口上があるのですね? ぜひ教えて頂けないでしょうか?
1、箱積みの曲枝(米洗い、潮来も季節によっては四季、千鳥、秋の色種等)
2、万倍傘(米洗い、紙調べ前後はガクシコロが続く。花が咲き揃う。佃で傘出る)
3、皿芸
4、水芸
サングラフ「人」 1962年6月 サン出版
苦しかった”屋台引き時代” 日本手品師 一徳斎美蝶

和妻の型を守る『一本傘』の一徳斎美蝶 奇術を愛好する者なら 美蝶の名を知らぬ者はあるまい 奥さんが”下座”をつとめていることは余りにも有名である
日本手品が忘れられようとしている今日 古典手品師 一徳斎美蝶は人間国宝に値するといわれ 日本手品界では貴重な存在である

美蝶師匠の十八番『一本傘』 和妻の代表作の1つ 演技の型 衣裳 材料 下座(伴奏音楽)などすべて純日本式なところに”和妻”の特徴がある ”ひと花咲かせてご覧に入れます”と始まるこの『一本傘』は美蝶の切れ目のない演技で”無”から 一本傘をとりだし大見栄を切る このあたりがこの”演技”のクライマックスである
羽織 袴の晴れ姿 美蝶十八番の”一本傘”の変幻練磨の技は ファンを魅了し 満場の拍手を呼んでいる 一徳斎美蝶は”和妻”の型を守る日本一の正統古典手品師

一徳斎美蝶(本名・栗原孝二郎さん=63才)は明治32年(1889)東京・芝生まれのきっすいの芝っ子 寄席芸人だった父親の花円遊(三代目円遊の弟子)について小学校を卒業すると同時に落語を習い始めた ところがおとなしくて 変屈な孝二郎少年には落語の見習前座で”音”を上げてしまった そして手先の器用な少年は 退屈な楽屋の中で いつしか見よう見真似の『皿まわし』をおぼえていた もちろん自己流で師匠はいない このとき父を継いで”話し家”になろうか なるまいかと2〜3年迷ったという ついに奇術家になろうと決心して 西洋奇術師・松旭斎天外の門をたたいたのは17才のときだった
孝二郎少年は松旭斎天光を名のり 早くも師匠の後継者としての”腕前”を見込まれていたが 大正8年兵隊検査を機会に師匠から離れて独立し 修行に専念 西洋奇術師として寄席や宴会の会場を歩きまわり 口から綿糸を出す『綿くい』『鳩ナベ』の妙技を演じ 人気を博していた 大正12年に二代目藤川力代さんと結婚した 力代さんは下座(三味線)をやって 陰に陽に主人の天光を応援した
関東大震災後の不景気には一時舞台から身を引き 鈴木屋(現在 東中野にある日本閣結婚式場)という回り舞台をもつ東京でも大きな料理屋に出演して客を集めていた そのとき 鈴木屋の社長鈴木磯五郎さんに芸を認められ 演芸部の主任兼板前として生活を立てるようになった 好きな奇術から離れられなかったのである しかし不景気が反映してついに奇術を断念しなければならなくなった やがて中野の新井薬師付近で飲食店を経営 一時はお客さんが行列するほど繁昌したが”芸が身を滅ぼす”といおうか 余裕のできた天光は好きな”芸の道”へ足を向けてしまい 店の方はもっぱら奥さんまかせ 金にもならぬ小さなステージへ せっせと通った 力代さんは1人ぼっちの淋しさのあまり せっかくの店を閉めてしまった こんどこそはと心機一転 鈴木社長から土地を借り受け 夫婦揃って農業にいそしんだ だが 根っからの芸人気質は農業にすべてを打ち込むわけにはいかない 天光は”芸人になにができるか”という社会通念に抗議するかのように今度はオデン屋の屋台を引き始めた そんな根性もあった
やがて昭和6年ごろの西洋奇術の全盛時代に入る そのとき天光は日本の奇術衰退を見たのだ ”日本奇術はどこにあるのだ このままでは…”と決意して日本手品”和妻”へ転向した 西洋奇術時代の”手先の練磨”が『皿まわし』『箱積み』で功を奏し”和妻ファン”から拍手で迎えられ 華々しい再デビューを飾った
昭和18年6代目貞山 文治のすすめで一徳斎美蝶と改名 和妻の型を守る唯一の正統手品師となった 一徳斎美蝶の出しものは ご存知十八番の『一本傘』をはじめ『皿まわし』『箱積み』 狭いステージでも楽しめるように自から編み出した『白糸の滝』などがある
美蝶師匠には2人の娘 テイ子さん(29)晴美さん(19)があり”蛙の子は蛙”でお父さんの『皿まわし』『茶わんまわし』をたしなむという”手品一家”を構成している だが愛嬢をチラッと見て”子供には私の二の舞を踏ませたくない”とキッパリいうところを見ると 口には出さないが よほど”苦労”が身にしみているらしい しかし 純粋な”和妻の型””美蝶芸”の後継者獲得に腐心している ”日本手品”が滅びかけていると美蝶はいい そして”弟子入りにくる青年のほとんどが初任給はいくらかと尋ねるあまりにもドライで話しのしようがない”と頭をかかえながら淋しく語る美蝶でもある
長い間の艱難辛苦を克服してきた美蝶家の茶の間からは きょうも明るい笑い声が聞こえてくる ”もう一度 私の古典手品を多くの人たちに見てもらいたい”という美蝶師匠はファイト満々である
一徳斉美蝶の紙流し (新宿末広で見たもの)

ハカマ姿、フトンに座り、両方に木箱がおいてあってネタを隠している
ロウソクに火をつける 半紙1枚をとりだしてあらため、折ってヤリ形にし 火をつける。
それをかざし見せている時に右でクモのネタをとり、紙の火をもみ消し もんでいるうちにクモを投げて飛ばす。
それを手元にたぐりこむ、その時にネタ(巾広色紙(布)のテープ)2本をとり、
クモのテープをもみ、その中からとりだしたようにして前回の色紙テープ(巾2寸ー3寸)を3本投げる。
それをたくりこむが、こんどは花火ネタとる。
それをもみだしたように火をつける。花火が火を吹く。
花火が終わりかけた頃 カラカサをとり パットひらいて終りとする。
カラカサは右手でネタどり、座った腰のところにおいておく。
他のネタは左手でとる
座ぶとんの上に座ったままの演技だから全部ネタは腰のまわりである

「平岩ノート」より
何度も高座でお目にかかりました。

一徳斎美蝶先生の芸は実に穏やかで上品なものでした。落語協会の色物として活躍していました。大変痩せていた記憶があります。

先生はおそらく「らくだ」でおなじみの落合の焼き場の近辺にお住みだったと思います。

その頃我々夫婦と子供も落合の焼き場の近辺に住んでいました。

時々夕方、寄席へ出勤(?)する先生に道路でお目にかかりました。歩いている方向から考えて上落合二丁目のバス停(確かその頃は桃井町か桃園町と言っていたとおもいます;東西線が開通する以前です)か東中野駅の方向に向かっていました。

カミサンが一度道路で「あっ、この人」と失礼にも声を上げて、私も美蝶先生とすぐ気づき、お辞儀をしたところにこやかに会釈を返してくれました。

2〜3度そんなことがありましたので、印象に残っています。

「1971年まで落語協会の名簿にあったがその10年前くらいから寄席には出ていなかった」と書かれていますが、我々が落合に住んでいた頃と思い合わせると1962,3年はまだ寄席に出ていたはずです。

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