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クラシックマジック研究コミュの松旭斎 天一 Tenichi Syokyokusai

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松旭斎 天一 Tenichi Syokyokusai(1853〜1912)

明治末期に活躍した日本を代表するマジシャン。
日本の近代魔術の祖と言われる。
1888年(明治20年)に天一として初舞台(35歳)。
それ以前は、立川松月または音羽滝寿斎(おとわたきじゅさい)という名の和妻師として活躍していた。
すでに水芸やサムタイ、七変化を得意としていたと云う。
天一となってからは、それらの芸をすべて洋装にし、それまでのマジックを一新する。
1889年(明治22年)に上海渡航。
海外巡演1901年7月9日出港し、渡米(明治34年)、同年8月からサンフランシスコを皮切りに全米、カナダで公演ヨーロッパなども回り、大成功を収める。その際には和装に戻している。
1904年8月英国ロンドン公演、ドイツ、フランス、オランダ、イタリア公演後、米国に戻る
1905年米国公演を4月22日打ち上げる。同年(明治38年)5月19日ミネソタ号で日本に帰国、凱旋。

特にテンイチのサムタイは有名であり、ターベルコースにも記載されている。
その死後、天一の名は養子の天二に引き継がれた。
また弟子の天勝、天洋はその後の松旭斎の隆盛時代を築いた。

サムタイ
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=236730&id=76630001&comment_count=0

コメント(34)

天一の弟子に天晴がいない、ということが事実としてある。
これは、石川雅章の小説の上での創作であり、実在しない。
ところが、これが事実のようにその後記載され、天洋の系図(「奇術と私」)となってしまった。
この「奇術と私」において天晴と思われる人物は実際は、高瀬清であり、その後日本に帰ることなく英国で没している。
この事実は、松山光伸氏の「実証日本の手品史」P163に詳しく載っている。

つまり、天晴には弟子はいない。
よしんばいたとしても日本にはいない、ということが理解できる。
もし、天晴の弟子を名乗る人物がいたとしたら、それは嘘となるのである。
実在する松旭斎天晴は二人いる。
一人は大正時代に震災後、初代の天勝とともにハワイ公演を行った島村清三郎。彼は天清として石田天海とともにコミックマジックを演じた。
もう一人は、昭和46年に日本奇術協会五代目会長となった真壁清太郎。彼も天清となり、息子の天映とのコンビでピエロスタイルのコミックマジックを演じた。
いずれの天晴も天勝とのかかわりはあるもの天一とは全く関係がない。
また、どちらもコミックマジックであり、和妻とも全く関係がない。
近藤勝さんの日本奇術文献ノート76号(平成18年発行)にある系図は、「初代の帰天斎正一に手ほどきを受け、天と一とを貰い、松旭は花札の正月からとる。」とある。
長谷川智の日本の奇術(昭和25年)に「古典派帰天斎に入門した初代天一氏が、師匠帰天斎正一師の死後一座を継承して松旭斎を名乗り渡米したのが起こりである。」とある。

天一ははたして帰天斎の弟子だったのだろうか?
松旭斎天一は、もともとを音羽滝寿斎という名で活躍していた。
養老派だったようだ。
水芸を得意とした和妻師だったようだ。
つまり、天一になる前にすでに水芸を演じていた、ということ。
兵庫の神戸に,松旭斎天晴を名乗っていた人がいました.後年は高砂市に住んでおられました.ただし,本物の松旭斎なのか,自称松旭斎なのかは不明です.
>>[6] その話は何年ころですか? 何歳ころ亡くなられたのですか?
>>[7]でした.でも50代だったかもしれません.生きておられるかどうかも遙か前からつきあいがないのでしりません.デパートのマジック売り場で販売をされていました.安田天晴と名乗っておられましたが,ご自宅にお邪魔したさいに,松旭齋天晴様 宛の賞状が飾ってあり,「松旭齋天晴っておっしゃるんですか」とお聞きしたら, 「昔はな」と言われたので,自称ではないかと思いますが,その点については未確認です.
>>[8] その方は、関西の方ですか? 言葉遣いはいかがでしたか?
関西には関西独特の松旭斎があったようです。
>>[10] やっぱりそうですか! そうなるとおそらく松旭斎天正さんの関係ではないでしょうか?
ターベルコース第四巻には天一のサムタイが記載されています。
そこには天一だけではなく、そのあとにブームを起こしたアサヒというマジシャンについても書かれています。
このアサヒは旭マンマロではないことだけは確かです。
サムタイを演じた記録はなく、また年代的に違います。
松山光伸さんの本の193ページに詳しく載っています。
おそらくアサヒ・トモでしょう。
>>[11] わかりません.自称の可能性もあります.
『西洋手品種明かし』は1907年に発行された天一の著作である。
これが、1991年に出版された日本の名随筆『奇術』(作品社)に採録されている。
これを編集したのが泡坂妻夫である。
この『西洋手品種明かし』には、「蝴蝶の術」というタイトルで胡蝶の舞が載っている。
西洋手品の本であるのにもかかわらず、胡蝶の舞があるのは、その昔大流行したが地方などに行けば蝶のマジックを西洋手品と偽って演じているような旨が書かれている。
天一自身はタネは大変馬鹿馬鹿しいが決して侮ってはならないということを述べ、自身が演じる際には誰にも見破られないと書いている。
このことから天一は胡蝶の舞を演じていたということになる。
松山光伸さんに音羽滝寿際について伺いました。

「明治45年6月15日の読売の訃報記事中に以下があります。

十七八歳の時は田舎巡りの手品師と成りて、音羽瀧壽斎と称し、水芸を売物に九州、四国と興行し、明治十一年に長崎へ乗込みて、本姓が服部といふに、服部松旭では奇術師らしくないと、茲に松旭斎天一と名をつけ、一ツは天下に一人の奇術師とならん抱負で命名し、開演し、大入を占めしが、恰も長崎に来し米国人ジョネスといへる者に洋行をすゝめられ渡米し、日本の手品として到る處歓迎を受け、且つは西洋の奇術を研究し、明治十六年に帰朝したり。

明治13年2月24日の朝日新聞に以下があります。

二月二十四日より、大阪大江橋北詰の芝居小屋にて、音羽滝寿斎(養老滝翁斎の門人)の水芸。

明治13年3月19日の朝日新聞に以下があります。

三月十八日より、大阪大江橋北詰の芝居小屋にて、音羽滝寿斎(養老滝翁斎の門人)の水芸」

国立劇場芸能調査室で発行している『明治の演芸(二)』の217ページに音羽滝寿斎の記述があります。上記の松山さんの情報と一致しています。

明治13年 2月24日[朝日] 「近日、府下大江橋北詰の芝居小屋に於いて、水芸に有名なる音羽滝寿斎が得意の技芸を興行する由。」

ということは、天一はこの時点ですでに水芸を演じることではかなり有名だったということになります。

明治13年 3月19日[朝日] 「大江橋北詰の小家にて、昨日より水芸・手品の興行を始めたるが、太夫は故滝翁斎の門人・音羽滝寿斎なり。」

養老の名前は貰っていなくても初代の養老と何らかの関係があり、あるいはそれを匂わせるようにしていたのでしょう。
ちょうどこの明治13年に初代の滝五郎つまり滝翁斎が亡くなっています。
まだ二代目の滝五郎が大阪にいたはずなのでおひざ元で水芸を演じる事が出来るということは天一との関係は良好だったはずです。
徳島県奇術同好会の方の写真があります。
http://wwwd.pikara.ne.jp/magic21/page012.html

「明治45年4月17日記述、写真の鳥居
表には、左側、二代目、天一、小天、天嬢
右側、奇術総長、正 天一、田中石材店、彫刻記述」
>>[19]
初期の天一は、まさに刃渡りを行っています。火渡りをした際に大失敗して大やけどを負っています。
天一が梅乃と結婚したのが明治13年。天一28歳。梅乃21歳。
ということは、まだこの時点では音羽滝寿斎の名前である。
福井市の広報ビデオにて、松旭斎 天一を扱った映像がYoutubeにありましたので、
貼らせていただきます。

石川雅章著『松旭斎天勝』(桃源社1968)P25に青年時の天一のエピソードが記載されています。

「そのころ、大阪では柳川一蝶斎、帰天斎正一、立川錦竜斎などという、日本手品の名人が人気を集めていたから、八之助(天一)はそれらの人々の教えを乞い、つづらぬけ(のちのトランク抜け)とか、水からくり(のちの水芸の母体となったもの)とか、取り寄せ箱、浮かれの胡蝶(懐紙をひねって胡蝶を作り扇の風を当てると、生命が入ったように舞い飛ぶ、優れた日本の古典奇術)のような諸芸をマスターした。」

その後に明治11年頃にジョネスに見いだされ西洋奇術と出会うことになる。ということは上記のエピソードは明治10年頃もしくはそれ以前であろう。
この文章で重要なのは、これが本当だとすると柳川一蝶斎から蝶を学び、帰天斎にも学び、立川錦竜斎からも学んでいる、とういことだ。
そうなると一時天一が、立川松月を名乗っていたのも納得が出来るし、帰天斎正一をもじって松旭斎天一になったのもうなずける。
明治35年(1902)
10月19日(東京朝日)天一の一行は、本月中ワシントンのチエース座を打上げ、来月はフィラデルフィアへ乗込みの約定整ひたる旨、音信ありたり。

倉田善弘編『明治の演芸(七)』(1986 国立劇場芸能調査室)P352

上記の事から天一は、逐一海外における足跡を日本に伝えていたようだ。この事もあり、日本に戻った際には忘れ去られることもなく、むしろ箔をつけて帰国となり、一大ブームにつながったのだろう。
明治36年(1903)
1月31日(大阪毎日)米国ヲハヨー州クリーブランドにて興行中の奇術師松旭斎天一は好人気にて、来年5,6月頃まで米国諸都市を打廻り、それより英国ロンドンへ赴く予定なりと。

倉田善弘編『明治の演芸(七)』(1986 国立劇場芸能調査室)P354
明治36年(1903)
9月29日(東京朝日)奇術師天一の一行は、本月中、独逸の伯林(ベルリン)にて興行し、11月1日より30日までは仏国のジュッセルドルフにて興行、11月1日より12月26日まで巴里を打ち、同27日より1月27日まで和蘭陀(オランダ)アムステルダームにて、1月28日より二月一杯は墺太利(オーストリー)ビヤナにて興行の契約済と成り、至る処好評なりとぞ。

倉田善弘編『明治の演芸(七)』(1986 国立劇場芸能調査室)P365
明治37年(1904)
1月9日(東京朝日)松旭斎天一は、目下、仏国巴里カシノテアトルにて興行し、喝采を博し居れるが、御留学中の梨本宮殿下、仏国大統領等の上覧の栄を蒙り、大統領及び本野日本公使等より、二間余の大花束を送られたりと。打上後は、和蘭(オランダ)アムステルダムにて興行の筈也。

倉田善弘編『明治の演芸(七)』(1986 国立劇場芸能調査室)P368
明治37年(1904)
7月2日(東京朝日)奇術士松旭斎天一は、目下、独逸ヂッセルドルフ博覧会日本演芸劇場にて開演し居るが、日本の大勝利の為め一行は到る処喝采を以て迎へられ、嚢にオーストリヤピヤナ興行中は、同国皇族サルバートル殿下、コープルグ殿下等の御観覧を蒙り高貴の品々を賜はり、又独逸皇太子殿下よも種々の御下賜品あり。同地は六月十五日にて打上げ、英国倫敦市アイハン・ブラー座にて八週間開演し、本月十日より米国へ渡り、ローセスター市クックスオペラハウスにて興行の都合にて、夫より所々を打廻り、来年五月頃は帰朝の都合なりと。

倉田善弘編『明治の演芸(七)』(1986 国立劇場芸能調査室)P371
近藤勝『奇術文献ノートNo.25』(昭和28年)には明治22年発行の雑誌『少年園』三巻25号の天一のショーを見た見物記が記載されている。記者の記憶に残る演目として、「美人の磔」「猫化け」「水芸」「大砲」を挙げてそれらの詳細が述べられている。
アメリカのマジック雑誌『マハトマ』1899年12月号に日本のマジックとマジシャン特集が記載されています。レポーターはマックス・ベロルです。
渡米前の天一がすでに欧米において紹介されていることが凄いです。そしてベロル氏による評価も高いものであり、水芸はこの時点で絶賛されています。
水芸以外にもマイザーズドリームや袖玉子などの演目も紹介されています。
天一も夕涼みをセイロを用いて演じていたことが記されています。この頃に夕涼みのクライマックスとして既に傘出しを行っています。
天一の帰朝は諸説があり、上記では1903年としていますが、違う可能性があります。
倉田善弘編『明治の演芸(七)』によれば1903年1月の新聞記事においてアメリカで大人気となり「来年(1904年)5,6月まで米国諸都市を打ち廻り、それより英国ロンドンへ赴く予定なり」とあります。同年9月にはドイツ・ベルリンで興行をし大好評を博して、11月以降にはフランス、オランダ、オーストリアなど1904年の2月一杯までスケジュールが決まったことが記載されています。
1904年の記事では1月にパリ公演を成功させ、アムステルダムに行くことが記載されています。7月になると、ドイツからアメリカに渡る予定と、「来年(1905年)の5月頃は帰朝の都合なりと。」と書かれています。
天一興行年表
http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/cat_50049973.html

明治38年(1905年・53歳)


≪ミネソタ号にて帰国≫ 明治38年5月19日


 明治38年5月24日 毎日新聞


 ○奇術士松旭斎天一は、欧米各国を巡業し到る處喝采の中に迎へられ、五ケ年振りにて去る十九日、ミネソタ号に乗込み帰朝せしが、時節柄諸事を質素になし、其金額を恤兵寄付に充つるとの事。


≪東京市木挽町歌舞伎座≫ 明治38年9月2日〜9月15日


 明治38年8月28日 東京朝日新聞


 ○松旭斎天一の奇術 歌舞伎座にて九月二日より開演する松旭斎天一の奇術は、欧米漫遊後初めての開演といひ、今回は目新しき事のみを見せる由にて、器械も総て洋行中購入せしものにて、舞台は米国ボストンのキース大劇場を模写して装飾し、電気作用に依つて見せ、背景は巴里の公園、独逸ヂツセルドルフ博覧会の光景、ロンドンハイドパークの遠景、其他二、三も悉く洋画にて、天一独特の水芸も頗る斬新の術を見せると云ふ。

1901年7月9日出港

〃  8月からサンフランシスコを皮切りに全米、カナダで公演

1904年8月英国ロンドン公演、ドイツ、フランス、オランダ、イタリア公演

   米国に帰る

1905年米国公演を4月22日打ち上げる

〃  5月19日ミネソタ号で日本に帰国

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