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生きることを哲学するコミュの事件が起きるたびに対立する論理

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事件が起きるたびに、

その原因を、その事件の加害者に向ける論

と、

その加害者の背景に向ける論が、鋭く対立する。

しかも、この対立は、どちらに軍配があがるか、

つまり、どちらのほうが論理的に正しいかを

突き詰めて判定することはできない。

前者は、社会と切り離された個人の人格に、その原因を求めるから、

とりわけ加害者が「20歳以上あるいは18歳以上で精神障害を患っていない」場合、その個人に罪があるとして、罰を与えることになる。

その個人以外は、原則的に、罪や罰の対象とはなりえない。

後者はどうか。純粋に人間は、個人として存在することは、事実上あり得ない。

常に、個人は、他者あるいは「社会」との深い関係性をもって存在している。

個人と社会が切り離せない関係であるということは、

とりもなおさず、加害者は、加害者とは無関係に近い存在をも含んだ社会が生んだ結果と捉えることができる。

加害者の罪を問う以前に、社会の罪、社会制度を作った者(それだけの強い影響力を持った者、「責任者」)の罪が問われなければならない。社会は罰せられ、社会の「責任者」も罰せられなければならない。

しかし、この論は、個人の罪を社会の責任に帰そうとする詭弁になりかねない。

逆に、前者の論は、社会の罪を個人を切り捨てることで無しにしようとする行為に等しい。

このように対立する。

しかし、この対立は止揚されねばならない。


人間性とは、意識の出現である。前頭葉の暴走である。

刺激(信号)が外界と内臓からだけでなく、脳のあらゆる箇所から発せられる。

すると、そこには、存在しないモノが生まれる。言葉であり、概念である。

これらは、実在を見なくとも実在のイメージとしての信号だけで済むことと同じように、さらに、抽象化、抽象化がすすみ、
終いには、存在しようも無い、存在性のまったく希薄な(存在の裏づけを伴わない)概念あるいは、認識にいたる。

その最たるものが、価値概念であり、人それぞれに分化する傾向のある価値判断である。
 この暴走を食い止めることこそ、人間が種としての存続を保証する。

仮に暴走が食い止められないのであれば、人間の社会は混乱し、崩壊に至る。

暴走を食い止めるのは、ただ一つ、互いの前頭葉における抽象化水準の直接的すり合わせである。

その摺り合わせに失敗すれば、人間という種は滅ぶ。

互いの価値判断の自由に任せるということは、きわめて危うい世界に、私たちは生きていることになりかねない。

価値判断は、放任されてはならない。

程度に応じた責任と義務を伴うことによってしか、自由を与えてはならない。

そのような社会に作り変えなければ、多くの人々が後悔することになるだろう。

コメント(1)

2者の論理がぶつかるから事件が起きるのでしょう

必然性のあること、その結果です

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