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文芸の里コミュの旅立ち 二部 第一章未完   ☆☆☆

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 沢口露子は、これまでの人生で、今もっとも重たい苦しみの中を通っている。悩みは日々積み重なって濃密になり、いっこうに解決の糸口は見えてこなかった。こんなことがあるだろうか。悩みというものが、こんなに強く一個人を襲ってきていいものだろうか。そう訴えたくても、誰に訴えたものか、悩みを打ち明ける人はいなかった。
 そもそも、この苦悩の発端となっているのは、岩見素子の死去に間違いなかった。二年前、露子にとっては、第二の母ともいえる人が息を引き取ってしまったのだった。
 第二の母と書いたが、今になってみると、母より大切な人だった気もするのである。そもそも岩見素子が、沢口露子の前に現れたのは、露子の実父が車の事故で他界した三歳の時からだった。
 父親は建具屋の職人として、岩見素子の次女の嫁ぎ先の建具屋に、雇人として働いていたのである。父は五人いる雇人の中でも、有能な職人の一人だった。夫を失った露子の母は、三歳の娘を抱えて、これからどうやって生きていくか、路頭に迷っていた。そのとき知恵をかしたのが、岩見素子だった。建具職人の技能だけで持っていた露子の家庭を、その職人が他界したからといって放してしまうのではなく、抱え込もうとしたのである。そのためには露子の母に早急に建具屋の技術を習得させなければならなかった。
 岩見素子は次女の夫である建具屋の経営者に話して、露子の母を職業訓練校に通わせることにした。その間、露子の世話を引き受けて、とにかく急場を生き抜くための道を築いたのであった。露子はそんな事情を知ってか、知らずにか、素子になついて、よく言うことを聞いた。訓練校から帰っても、母親は夫の職場に行って、自分にできる雑用は何でもこなした。電気器具の使い方など、訓練校で覚えてきたことが、すぐ役立つこともあった。
 母親は吾子を素子に任せて、夫のいた職場で、夫に比べればはるかに劣るものの尽くすことができた。
 素子は露子と二人で、夕食の支度をしたりしながら、母親の帰宅を待っていた。露子の家は職場の建具屋から七分ほどのところに新築したもので、そのローンの支払いの大方が残っていた。母親には娘を抱えての生活のほかに、そういった気苦労も残っていたのである。
 つづきます。
 前段が長すぎたきらいもあるが、この岩見素子こそ、旅立ちの一部に登場する岩見鶴夫の母親なのである。二年前、危篤の報を受けて、鶴夫が駆けつけたときには息を引き取っていて、母の死に目にも会えなかったのであるが、その時をきっかけにして、この物語ははじまったのであった。
 鶴夫の上には二人の姉と一人の兄がいて、三人とも歳が大きく離れていて、またみんな家庭を持って自活していた。末っ子の鶴夫だけが定職にも就かずに、親の脛を齧って凡々として生きていたのである。いつかしっかり身を立てて親を安心させてやりたいと思っていただけに、母の早すぎる死は心底応えた。
 母親の死後、鶴夫は三日実家にいて、四日目に家を出た。
「もう帰るのか」

 実家を取り仕切っている兄が言った。
「帰ります」
 と鶴夫が言った。
「東京に彼女でもいるのか」
 兄が引き止める🈓もなく訊いた。
「そんなものいないよ」
 鶴夫はぶっきらぼうに言った。その場にいた沢口露子は、鶴夫の言葉をしっかり
胸に収めていた。今の露子が鶴夫にかかわっていられるのは、その一言があったからこそであると思えた。
 家族のものが、玄関で見送るのを、沢口露子だけは、岩見素子が入院する前使っていた玄関に隣り合った部屋の窓から見送っていた。露子は鶴夫が実家にいる間、言葉を交わすことは一度もなかった。

 岩見素子の病状が良くない方向へ傾いて行く頃、露子は学校の帰り毎日病院へ見舞っていた。病院に寄る時間がないときは、路傍の草花を引き抜いて行くことも二度三度ではなか った。美しい花でなくても力強く元気に咲いていれば、それが素子を見舞う最高のものだと思えた。その素朴な花から健康を分けてもらえば、この上ない慰めになると考えた。
 素子が息を引き取る二日前、彼女はいつにもない爽やか顔で露子を引き止めた。夕食の支度をしなければならない時間だった。母は腕を上げて一人前の建具職人になっていた。そのため注文があったときなどは、残業で帰宅も遅くなった。母が遅くならない時でも、夕食の支度は露子の役目になっていた。
「今日はちょっと露子さんにお話しがあるから、今晩はお弁当で我慢してちょうだい。帰りにスーパーにでも寄って」
 素子はそう言って、畳んだ紙幣を露子の手に握らせて、その手を放さずに語を継いだ。素子の脈が直に伝わってきて、露子は見動きができなかった。
「前からお話しようと思っていたんだけれど、鶴夫のことよ。鶴夫のお嫁さんになって欲しいの。鶴夫は何とか大学は卒業したけど、露子さんのようなしっかりしたお嫁さんがいないと、自分で自分を立てていけない性分なのよね、あの子は。それで露子さんが東京へ出て、大学へ行くなりして、鶴夫に迫って、鶴夫のお母さんに言われたからって、世話を焼いて欲しいの。露子さんが小さい頃から見てきて、あなたが鶴夫のお嫁さんになってくれたら、あの子もどんなに心強くて、母親の私なんかいなくても、やって行けると考えるようになったのよ。あの子は上の兄弟姉妹とはずいぶん年齢が離れていて、私ばっかり頼りにして育ってきたのよ。あの子が東京の大学を選んで、向こうで生活するようになったのは、いつまでも母親に頼っていてはいけない、遠く離れて生活してみようと、あの子なりに決心して行ったようなんだけれど、授業料も払わずにいたらしく、大学から保証人の私に督促状が来たくらいなの。それは収めて無事卒業はできたんだけれど、ちゃんとしたところに就職もしていないでしょう。ハンバーガーショップのアルバイトみたいなことをやってるみたいなんだけれど、長続きなんかしないのよ。東京でうまくいかないのなら、故郷に連れ戻して。兄さんや姉さんの傍で生きる道を見つけさせなければいけないんだけれど、それだって、傍にいて支えになってくれる人がいないとね。それを露子さんに押し付けるなんて、随分身勝手なことと、あなたは思うかもしれないけれど、私もここに来て、自分では動けないし、鶴夫のことを良く知っているあなたに縋りたくなったのよね.私の命も、いつ尽きるかも分らないんだし……」
 素子はここまで話して、呼吸が苦しくなったのか、息を止めて、大きく喘いだ。一時的な呼吸困難が治まると、素子はもう露子の手を握ってはいなかった。
つづきます
しかし露子の手には、素子に強く握られた指の跡が白くへこんで残っていた。そして露子は心の裡で、今の素子の話は、遺言というものではないのかと、涙がこぼれてきてならなかった。涙ばかりか水っ洟も垂れてきて、露子はティッシュで涙と洟を拭った。
「露子さんは、鶴夫が嫌い?」
 と素子が露子に探る目を向けた。露子は大きく頭を振った。しかし態度では否定しながら、鶴夫との間には、隔たりがあり過ぎるほどだった。これまでも岩見素子の末っ子ということで、親しみを込めて近づいていっても、さり気なく躱されるか、無視されるかで、そのどちらかだった。素子に提出された問題は、あまりにも大き過ぎて、自分に自信が持てなかった。
 素子と二人きりの接触はそれきりで、二日して岩見素子は息を引き取った。露子は大きな責任を託され、鶴夫は東京から駈けつけたが、母親の死に目にも会えず、落胆している鶴夫をいたわるどころか、言葉をかけることさえできなかった。
 慌ただしく時は流れた。岩見素子は鶴夫の兄にも言葉を残していて、鶴夫が東京へ帰ってしまった後、露子はそれを聞かされた。弟の鶴夫には、まだ何も伝えていないとのことだった。驚くべきことに、岩見素子は遺産の相続を鶴夫と露子の連名にしているとのことだった。露子が上京してかかる学費もその中から出すよう、岩見素子は家の後を継いでいる、その兄に諭していた。














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