文芸の里コミュのＳＦ　未完「１４」　曳行されるクマの巻

　クマが海に追放されて、三日が経った。当のクマはどうなったのだろうか。目の前を三四度、島影が近づいたが、イカダが接岸するまでには至らず、イカダを降りて泳ごうかと戸惑っているうちに、島は離れて行った。
　食べたものといえば、イカダに落ちてピチピチ跳ねているトビウオを捕まえて口に入れるくらいのもので、暴れているのを捕まえるのも簡単にはいかず、逃げられるほうが多かった。喉が渇いても、海水はしょっぱくて、飲めば飲むほど喉がひりひりして、受けつけなくなった。トビウオの生肉を食らうことで、食欲と喉の渇きと二つながら癒していたが、トビウオがイカダに落ちてきても、それを捕まえるのにも難儀をするとなると、体力が衰えていくばかりだった。
　そんなとき、焼玉エンジンの音を高鳴らせて、一隻の漁船が通った。向かう先が広い海へ出て行くイカダとは逆方向である。クマは動物園のシロクマが立ち上がって、観客に餌をねだるときのように、前足を上げたり下ろしたりした。クマが動物園のシロクマを見たわけではないが、苦難の果てに、そんなポーズが自然に出てきたのであろう。本能的にとでもいうべきか。
　漁船には人影が見えた。

「オイ、あそこに人なのか、動物なのか、変なのが立ち上がって、腕を上げ下げしてるぞ」
　漁師の一人が仲間に言った。そう告げられた漁師が、首にぶら下げた双眼鏡をのぞいた。
「あれはクマだ。クマが立ち上がって、口を開けて何か叫んでいる」
　そう言った漁師は、双眼鏡を首から外して、第一発見者に渡した。
「ちげえねえ。クマだ。開いた口の中に牙も見える」
　　そう言って双眼鏡を持主に返した。双眼鏡の持主は機関室に行って、船を運転する船長でもある男に報告した。船は停まり、船長が出てきて、イカダの上のクマを確認した。寝ていた三人の乗組員も甲板に集められ、クマの存在を確認した。次にこのクマをどうするかの話になった。これが人間なら、すぐ海の遭難者と見て、救いの手を差し伸べなければならないだろう。しかし相手はクマである。今は苦難の底にいて、凶暴さなど微塵もないが、船に乗せるのは危険だ。話し合った結果、イカダをワイヤーで繋いで、イカダごと曳航することにした。
　クマは立ち上がった姿勢のまま、両腕を上げ下げして、頼む助けてくれ、というようなポーズを取っている。それが実際のクマの心境かもしれなかった。人も動物も環境には順応するものなのだろう。これが甲板に救い上げて、餌でも与えれば、それを独り占めしようとして、牙を剥き出し、襲いかかるのだ。
　船は前進後退を繰り返しながらイカダに接近して行き、ワイヤーの先端の金具をイカダに引っ掛けることに成功した。クマは四足になって狭いイカダの上を動き回ったが、それは凶暴さとは別の心の動きだった。船員たちはそのクマにソーセージや、自分たちの食べ残しを投げ与えた。クマは匂いを嗅いでみて、すぐ口に入れた。
　
　この船は今朝、まだ暗いうちに出漁したのであるが、このところサンマの不漁がつづいていた。船は今、少ない漁獲のまま港に帰って行くところだった。そこに降って湧いたような
クマの捕物劇である。
「クマ本体は動物園に引き取ってもらうしかないので、大した値がつくとは思えないが、スクープ記事としては、思いもかけない報酬になるかもしれんぞ。おい、証拠の写真を撮っておけ」
　船長が船員たちに叫んだ。
「しかし船長、さっきから奴の立ち上がるところを狙っているんですが、なかなか立ち上がってくれねえんですよ」
　と若い一人の船員が、携帯をクマに向けながら言った。
「さっきクマを発見したときに撮っておくべきだったな」
　第一発見者と、双眼鏡の持主がぼやいている。
「取り逃がしたものはしょうがねえ、俺もそこまでは気がつかなかった。
　船長が自分をなだめるように言って、次にそんな意気消沈ぶりをくつがえした。
「しかしそのクマは、目の前にれっきといるんだ。大洋に浮かぶイカダの上にいると判るような写真を撮れ。いま船を出すから、何枚も押さえておけ」
　船員たちはめいめいの携帯でクマを撮りまくった。クマは最後に与えられたⅠ、五リトル
入りの水のペットボトルを抱え込んで、小さな注ぎ口から出る水を幸せそうに飲んでいる。
これでは飼い馴らされた動物園のクマと変わりがない。
　漁船がスタートして、接続したワイヤーロープをがくんとしゃくった。クマははっきり曳行されるクマとなった。海上を白波ゖたてて曳行されるクマだった。船員たちは遠来のスターにカメラを向けるように、クマの写真を撮りまくった。

　漁船はクマを曳航して、間もなく日の没する漁港に向かって走りつづけた。船員たちは、クマの証拠写真を撮ると、それぞれ持参のアルコールを嗜みつつ、クマの話で持ちきりだった。
　問題とするところは、何故クマがイカダに乗って、海を漂っていたかということだった。ペットとして飼育していたものが、手に負えなくなって海に放したという線が、説得力を持って迎えられた。しかしペットとして動物を可愛がるものなら、生きていけないと判って海に放すだろうか、という疑問が湧いてきた。そこからイカダがどこかの無人島に着いて、そこを永遠の棲み処とすることを願って、海に放したというのがクマの行き着き先として浮かび上がってきた。しかし実際はそうならなかった。イカダは漂流し続け、クマは人間に救いを求める仕種まで見せていた。そして漁船に捕獲されて、人間の世界へ連れ戻されようとしているのだ。そのくらいなら、最初から動物園に連絡するなりして、クマの行き先を交渉してみるべきだったのではないか。いや、猛獣を許可なく飼育してはならないという法を犯して飼っていたから、こっそり海に放すしかなかったのだと、酒の力を借りて力説するものもいた。そこに出てきたのが、野生のクマが一匹で海に出てきて、海岸に漂着していたイカダを見つけた、という珍説だった。クマは興味津々でイカダに乗ってみる。浅瀬ではイカダが底について動かないので、海の深いほうへと押していって、乗り込む。その心地よさたるや、抜群で、サーフィンに興じる若者のようにイカダにしがみ付いているうちに、高い波が来て、クマをイカダごとさらって行く。そうやって、大洋を漂うクマになったのだ。漫画チックではあるが、乗組員の全員が漫画で育ったとあって、全否定とまではいかなかった。
　乗組員の中では、一番若い漁師が用を足しに出て、ついでにイカダのクマがどうしているか気になって、甲板に出て見た。酔いが回ってきて、ふらつく足で後部に来て、イカダを覗いた。漁船の灯りと尾灯に照らされて、イカダは確かについている。しかしそれでいいはずはない。肝心のクマがいないのだ。自分が酔ったせいかと甲板の鉄の手摺に額をつけて冷やしてみる。その眼で見ても、クマはいないのだ。イカダの下に隠れたなどと、蟹や蛸でもないのに考えられないことだ。漁船に寄り添うように、岬が走っている。身に危機が迫っていると察して、逃げたな。賢いクマだ。いや、悪賢いクマだ。
　すぐ船長に伝えなければならない。動物園に引き取ってもらう手配をするとか、新聞社に連絡して、記事を売り込むなどと話していたから、その必要はなくなったと、言ってやらなければならない。がっかりさせるのは気の毒だが、今こそ急がなければならない。
　彼はふらつく足を、できるだけ甲板に置かないようにして、走り幅跳びでもするように、大股に跳んで行った。間にあってよかった。船長は携帯で調べた動物園と、新聞三社にこれから電話をするところだった。
「船長、その心配はなくなりました。クマがトンズラこいたんです」
「何、トンズラこいたって？　消えたのか」
「まあそういうこっです。すぐ横が岬になってますんで、クマなりに危険を感じて、泳いで逃げたのでしょう」
「ああ、危ねえとこだった。いま電話するところだったんだ」
　船長は手帳の一ページを裂いて、機関室の窓から放り捨てた。
「他の船員は知らないのか。もう少しで、もの笑いになるとこだった。いくらかでも報酬を分けてやれると思っておったのに、まったく、あのクマめ。あんたには、俺の一人娘くれてやりてえところだが、娘のやつ、甘い歌つくりのミュージシャンとべたべたしやがって。俺は惚れたとか愛しているだとかばっかりかかげて、人生の苦しみのねえ唄つくりなんて、大嫌いなのよ」
　船長のぼやきはつづいていきそうだった。
「俺みんなに教えてきます。クマが逃げたと」
　そう言って、若い漁師は機関室を離れ、船員たちの溜まり場へ入って行った。クマのことを気づかっているものは、一人もいないようだった。

曳行されるクマの巻
　