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文芸の里コミュの少年の夢 未完 22 

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 祭日前日の朝、幹太は妹のリカを自分の部屋に呼んで、ひそかな打ち合わせをした。別にひそかにする必要もなかったのだが、最近の桃子の動向を考えると、あまり開けっぴろげにしないほうが、いいような気がしたのである。
「桃子おばちゃんには、内緒だぞ」
 と幹太は釘を刺した。
「だって、病院にみんなで押しかけて行ったら、分かっちゃうじゃん」
「祭日には職場が休みで、出番でないことを確認してあるのさ。車のディラーをしている女の人と、外で会うんだよ。新車と買い換えるらしいよ、おばちゃん」
「それじゃ、あの通りにするのね」
「するさ。今をおいて時がないんだ。もうすぐ雪になるし、その前に道を開いておかないとならない」
「お兄ちゃんは、桃子おばちゃんは堂田のおじさんに熱がないと勝手に思っているみたいだけど、リカの観察では、桃子おばちゃんはね、堂田のおじさんのこと、好きだと思うわ。お兄ちゃんはマリエちゃんのこと、どうにかして助け出さなければならないと思っているから、桃子おばちゃんの心が読めなくなっているのよ」
「桃子おばちゃんが堂田さんに気があるんなら、それは目出度いことさ。だからって、マリエちゃんのことをほっておけるかよ。あんなに長い道のりを、一人で通っているんだよ。これから雪になれば、雪に埋められて死んでしまうかもしれないんだ。リカと俺はあそこまで歩いてみて、確認しているんだ。それなのにほっておけるかよ。マリエちゃんの母親と堂田さんを結ぶことはできなくても、次の手は打たなければならないよ。たとえば、堂田さんの家を開放してマリエちゃんを置いてやる。そうすれば、マリエちゃんはご飯を作ったりもするし、家のことだって、堂田さんの助けになるかもしれないんだ。そして、リカの言うように、もし堂田さんと桃子おばちゃんが結婚でもすれば、マリエちゃんを養子として迎えるのさ。結婚したとしても、おばちゃんの年齢では晩婚だし、赤ん坊ができないかもしれないんだ」
「そんなこと、マリエちゃんのお母さんが許すもんですか。お兄ちゃんは、マリエちゃんの母親を、鬼みたいな人だと思っているんでしょう。地下壕まで掘らせて、平気でいる母親を人でなしだと思って。そしたら、そんな鬼みたいな冷たい人と、堂田さんを一緒にさせたいというのは、どういうことなのよ。堂田おじさんが可哀想じゃん」
「一緒にさせれば、そんな母親も心を入れ替えて、よくなると思ったのさ」
「冷たく見えたって、そういう女の人だっているんだよ。愛情は深くても、深いからよけい表に出せない人だっているの。特に女の人にはね。だって、マリエちゃんのパパを好きになって、東京までも追いかけて行った人よ、マリエちゃんのママは」
「いいよ、養子にはならなくても、ただ家に置いてくれるだけで、大助かりなんだ。二年したら、妹のアユミちゃんだって、学校に入るんだ。あんな小さい子供が、姉さんに手を引かれて、学校まで往復することを考えてみれよ。僕と同じ心を持っていたら、黙っていられないと思うな。堂田のおじさんは、僕と同じ心を持っていると思うのさ」
「お兄ちゃんは人命救助の名人ね」
 とリカは言って、もう追及はしなかった。そしてマリエとアユミを誘い出す作戦のほうへと切り替えていった。
 リカはこう考えた。幹太がマリエを堂田に会わせたいと言っている、そう話せば、マリエは承知してついて来るだろう。ただアユミも一緒となると、母親の許可を取らなければならないので、母がどういう反応を見せるか心配だった。何といっても遠距離なのだ。バスターミナルまで歩いて、そこからバスで四十分の道程を走って、見知らぬ堂田に会うのである。何のために、そこまでして、知らない男に会いに行かなければならないのだ。まずその疑問が頭にきて、その先へ進めないと思うのだ。
 そこでリカは機略応変に、こう考えた。堂田を見舞うのはただの口実で、実際は山奥に閉じこもったきりのアユミに、S町を見せてやりたいという、幹太の思いやりから発した祭日のイベントなのだ。そう母親は考え及ぶのではあるまいか。人命救助で警察署長に表彰までされた幹太からの、祭りのイベントへの誘いのようなものなのだから、マリエとアユミともに行かせるべきだ。マリエの母親がそのように受け取ってくれれば、しめたものである。あとは運を天に任せるしかない。
 そうやって、幹太とリカの計画はできあがった。あとは学校でマリエを捉まえて伝えるだけである。そしてその通り、事は運ばれた。
 マリエは実家でその旨母親に話した。母親は降って湧いたような、子供たちの招待話は、何だろう、と頭を捻った。そして母親は自分もそれに加わりたくなって、マリエにそう話した。母親は幹太の人命救助の一件も知っており、その幹太が先日マリエを心配して来てくれたことも、娘から聞かされていた。幹太を一躍有名にした堂田という人物は、いったいどんな男なのだろう。堂田に少なからぬ興味も持っていた。今どき、車にも乗らず、馬車を唯一の交通手段としている四十三歳の独身男ーー。
 母親は自分も病気見舞いの一行に加わりたい意向を告げたが、それはやんわりと娘にかわされてしまった。残念、というわけである。しばらく村の中心地へ買物にも出ておらず、必要なものも溜まっているので、バスターミナルまでアユミを送り届けがてら出かけることにした。


 話は前後するが、この一日前、堂田と桃子は最初のデートをした。その最中、山上から電話があって、馬と他者が関わってくる波乱に巻き込まれた。二人だけの親密な時間を過ごせなくなった。その締めのところからはじめなければならない。
 桃子の運転する車がS町に着くと、堂田は負傷して入院した二人の子供を見舞うために、みやげの菓子を買った。堂田のときといい、今回といい、事故が果物に端を発していることから、果物は選べなかった。
 病院が見えてきたところで、堂田は車を降り、細かなことはメールで報せると言って、別れた。
 病院に帰着し、看護師に二人の様子を訊くと、双方の親が来ており、患者は麻酔が効いて眠っているとのことだった。寝ていたのでは、出かけても意味がないので、見舞いは明日することにして、その旨を山上に携帯で報せた。桃子にはメールで伝えた。桃子からはすぐ「今日はお疲れさま。また、会える日を楽しみにしてます。今度は私のお部屋で……」とあった。
 堂田は桃子が急に近しく感じられた。あまりにも他者が介在して、虐められ、堂田をも虐めることになったので、次は自分の部屋に招くことにしたなと思えた。
 うっかりしていたが、カレンダーを見ると、翌日は勤労感謝の日で休日になっていた。勤労を知らない堂田には、勤労感謝の日と言われても、ぱっとしなかった。桃子が知らないはずはないのに、何故この日を、堂田と会うことにしなかったのか、少し気になったが、勤労から離れている堂田を慮っての、桃子なりの思いやりなのだろうと、ぼんやりした頭で考えていた。

 祭日の空は晴れわたっていた。風もなかった。小春日和といってもよい。病院中庭の樹木もおおかた葉を落として、葉のない枝越しに見る空は、青々と澄んで、そこに浮く雲さえも透明な色をして浮かんでいるように見えた。
 十時を過ぎた頃、ドアが開いて、子供たちが小流れのように次々と病室に滑り込んで来た。勝手知っているものの侵入のように、勇敢に、そのくせどこか悪びれて、おずおずと、堂田のベットを取り囲むように立ち並んだ。目を凝らすと、そのうちの一人は幹太である。幹太の隣りに立ったのが、幹太よりいくらか小さい女の子。雰囲気にどこか共通するものがあるので、幹太の妹だなと読めた。そのこちら隣りが、幹太とほぼ同じ背丈の女の子。そのこちら側で、堂田と一番近い位置に、一行の中でもっとも小柄な女の子だ。これが桃子の話に出てきたマリエとその妹なのだろう。
 桃子は少年野球の中央大会が終わってからと言っていたが、不意をつくように、その前に急襲したのである。
 堂田は桃子から、やがて子供たちがやって来ると告げられていたので、あからさまに「何をしに来た」などと訊いたりはしなかった。おそらく真の目的を知っているのは、幹太とリカの二人で、マリエは幹太の計画したことだから、何かあるぞとは思えても、しかとは分からず、妹のアユミともなると、全く白紙の状態であった。病気の人の見舞いに行くという点で、もっとも純粋なのはアユミ一人といってもよかった。アユミは姉に、馬車から振り落とされて入院している人とは聞かされていたが、その病人が予想に反して元気で、一般の社会人としても劣らない健康な体と表情をしているのでびっくりしてしまった。父を知らないアユミは、堂田を底知れぬ力を秘めた、たのもしく優しい存在と感じた。それでぼーっとして、堂田の顔から目を離せなくなっていた。
「おじさんは、売店で飲物を仕入れてくるから、ちょっと待ってなさい」
 そう言い置いて、堂田は病室を出ていった。病院内の売店で、自分の分を含めて、五個の紙パック入りのココアと五個の餡パンを頼んだ。餡パンは一個足りないので、クリームパンで間に合わせた。それらをレジ袋に容れてもらい、病室に戻ってくると、子供たちはみんな木の丸椅子に腰掛けて、ベッドの高さと変わりないほど低くなっていた。幹太が一人の患者を指さして、
「あの人が貸してくれたよ」
 と説明した。外の二脚は外泊して留守にしている二人の患者のベッドから、言われて運んできたということだった。
 堂田はその患者に礼を言って、
「騒がしいと思いますが、少時ご勘弁願います」
 と言った。
「堂田さんは、こうして拝見していると、学校の先生みたいな風格ですな」
 と言った。
「こう見えても、教員の免状だけは持っているんですが……」
「ほう、免状がありながら、遊ばせておくのはもったいない」
「そう思われますか。僕も病気をして、そんなことを考えていたところなんです。しかし二十年の空白がありますんで……」
 堂田はそんなやりとりを、広い床を挟んだ向かい側の患者としながら、子供たちに餡パンとココアを配った。最後にアユミの分を渡そうとして、紙パックのココアにストローを挿し込む苦労を考え、パックの付箋を剥がして、ストローを挿し込んでやった。
 アユミはそれを両手で受け取り、瞳をきらきら輝かせて堂田を見上げた。アユミは堂田が買物をして帰ったとき、通り道を開けるために腰を上げて、まだ立ったままだった。腰掛が高すぎて、坐りづらいのだ。
 そう考えて堂田は、
「ベッドのほうが坐りやすかったら、のってもいいぞ」
 と言った。アユミは即ベッドに這い上がろうとした。そのためには手にしたものが邪魔だった。堂田が一時預かってやると、すぐベッドに乗って手を伸ばしてきた。堂田がココアとパンを渡すと、アユミはストローを口にくわえ、安心したように堂田を見上げて微笑した。いかにも嬉しそうだった。堂田は少女の残した椅子に腰掛けた。
 アユミは嬉しそうに足をばたばたさせ、パンを食べ、ココアを啜った。
 姉がベッドの端から顔を伸ばしてきて、
「アユミ、靴を脱ぎなさい。お布団を汚すから」
 と注意した。そのとき覗いた髪に、ピンクのリボンがあった。これだな、幹田がプレゼントして物議を醸したというリボンは。堂田はそう直感して、しばらく見とれていた。なるほど見た目にも、大人の香りを放つ作品である。
 堂田は少女のすぐ前の椅子に腰掛けていたが、その足元に、アユミの脱いだエナメルの赤い靴がはらりと落ちてきた。幹太はまだマリエのリボンに気づいていなかった。マリエはバスの中で素早く髪に取り付けたのである。母の目を気遣って、家ではしていなかった。この日も母親が一緒のときは、隠しにしまってきて、バスの中でつけたのである。
「幹太君の、中央大会はいつなんだ」
 と堂田はアユミの肩越しに声をかけた。
「あさってだよ」
「それじゃ、すぐじゃないか」
「うん、一勝したら、次の試合があるから、ホテルに一泊するんだよ」
「一泊するようにがんばるんだな。まあ、しなくたっていいさ。地区大会で優勝したんだもんな。今年はそれだけで十分だ」
 マリエの頷くのが見て取れた。
「今日もこれから、帰って練習しなきゃ」
 と幹太は言って、今にも立ち上がって行きそうな身振りになった。アユミが慌てた動きを見せた。しかしそれでは約束の時間と違うことに気づいたらしく、
「帰りのバスは、まだまだだよ」
 と後ろの幹太に声を投げた。
「おじちゃんのパン、あそこに載ってるよ」
 堂田が、食べも飲みもしていないのを気にして、アユミが言った。堂田も、うっかりして、置いたままだったのを思い出した。
「あたしが取ってあげるよ」
 アユミが言って、ベッドの上に立ち上がり、消灯台に手を伸ばして、パンとココアを取り、「ハイ」と堂田の前に差し出した。
「ありがとう、アユミちゃんは、よく気がつく子だなあ」
 と褒めてやった。
「今日は特別なのよ、変な子」
 と、向こう隣のリカに話しかける、マリエの声が洩れた。
 堂田はこの日、見舞いに行かなければならない二人の子供のことを思っていた。学年が六年生で、一学年上ではあっても、同じ小学校の生徒が一人は馬に噛み付かれ、一人が腰を蹴られて入院しているとなれば、教えてやるべきか。いろいろ思案をめぐらせてみたが、桃子の口から、イヒヒン幹太などというからかい半分の台詞がはやったことがあり、今回の馬の写真も、幹太を貶めるもくろみがあったのではないかと聴かされていたので、教えないことにした。
 次に、幹太が堂田に通じておきたいと思っていることは何だろうと考えた。幹太が一行を引き連れ、遠路はるばる見舞いに現われたからには、見舞い以外の目的があるに違いない。桃子から大筋は聞いているが、その線だけで問い詰めていっていいのだろうか。予測できないような、穴が口を開けていないだろうか。彼等が求めるような回答を与えることはできなくても、このまま帰すわけにはいかないのだ。彼らの願いを叶えてやることはできなくても、駄目と回答するのも、次の道へ踏み出すために、時に必要なのではあるまいか。堂田はそう自らを駆り立てて、発すべきことばを探っていった。
 幹太が堂田に伝えたいと思っている第一は、西里の奥地から小学校までの長い距離のことだと、前日桃子から聞いていたので、容易に推察できた。それを幹太の口からなかなか言い出せないでいるので、堂田から直に訊くことにした。
「マリエちゃんとアユミちゃんの家は、柿の木村のどの辺なんだ」
「西里の戸田山の麓」
 とマリエが言った。足りないと思って、幹太が即つけ加えた。
「この間リカと一度往復しただけで、脚が腫れ上がってしまった」
 と言って、リカに相槌を求めた。
「本当よ、堂田おじさんは知らないでしょう、どんなに遠いか」
 とリカが言った。
「知ってるさ。おじさんが生まれたのは西里だもの。戸田山へ向かう途中で、左へ折れる道を、少し入ったところにおじさんの家はあった」
 と堂田は教えた。
 マリエとアユミは西里に住んでいたというだけで、先輩に出会ったかのように、喜んで頬を染めた。
「その頃は、分校があったので、そんなに遠距離を通わなくてもよかったんだ。卒業式とか始業式とか、本校と分校が一緒にする時は出かけたけれどね。そのときは遠いと感じたね。歩いても、歩いても本校が見えてこなかった」
「マリエちゃんは、そこから毎日通っているのよ」
 とリカが入り込んできた。
「さっき、教員の免許を持っているって言っていたから、おじさんが分校で、教えてくれたらいいのに」
 とマリエが言った。
 堂田はこのマリエの言葉に強く胸を打たれた。子供たちが乗り込んできても、自分は無力で応えるものがまったくない。だから子供たちが来るのを阻止するてだてはないかと、桃子に食い下がったものだが、今のマリエの言葉は何もないとしりごんでいた堂田を、揺り覚ます新しい道ではないのか。先程、同室の患者におだてられて、教員の免許状を持っていると、口にしてしまったことが、発端になってはいるが、何故自分が、そのようなことを洩らしてしまったのか、不思議という以上に、意外だった。そうだ。マリエのいう通りだ。堂田は救いを得たような思いで、胸を撫で下ろした。その線で動くしかないだろう。子供たちが、回答を携えて現れたようなものである。マリエに対して即答はできなかったが、すぐにもその方向で動くしかないと、堂田の心は水を得た魚のようだった。この日、子供たちが現われた意味はあったのである。まさに勤労感謝の日に、ベッドの堂田を励まそうと、はるばる遠いところからプレゼントを携えてやってきたのであった。
 それからは、どんな話をしたのか覚えていない。堂田が考え込んでしまってぼんやりしているうちに、子供たちの間に、マリエとアユミの母の話が飛び交っていた。
「私がS町に行くって話をしたら、最初ママも行くってきかなかったのよ」
 マリエが言うと、
「ママは、病院じゃなく、町に出てみたかったの」
 と妹が口を挟んだ。もっともだ。一面識もない男のところに、見舞いに出かけるなんて、あまりにも常識を外れていると、堂田は聴いていた。
それに華やかな大都市の、わけても歓楽の巷で生活したことのある若い女が、北国の田舎の奥地に生きる基盤を置こうとしたって、そう簡単に収まるものではないだろう。二人の子供以上に、都市に憧れていると思えるのだ。
「そしてどうしたんだよ。二人の母親は?」
 と堂田は興味に駆られて訊いた。ここにはいない桃子を意識しての、ややぞんざいな尋ね方になっていた。
「『そうだわ、今日はレンのお上さんに会うだけにしておこう。おかみさんはいろいろ知ってるから、おかみさんに訊いてからにしよう』なんて言ってたわ」と母の受け売りをしてから、「そして『レン』って何?」と母が洩らした言葉の分析にかかった。母親のことばには、堂田のことが伏せられている気がした。今日子供たちと一緒に乗り込んでくるのは差し控えて、堂田に関する予備知識を貯えてからのほうがいいということなのだろう。
 そんな誘惑に引き摺り込まれてはならないと、堂田は姿勢を正した。その堂田を、アユミがココアのストローを銜えたまま見ていた。この子はまだ飲みきっていないのか。しかし大切にして、少しずつ減らしている感じもあった。
「これから雪になると、西里の奥から出てくるのは大変だぞ」
 堂田は子供たちが差し向けてくるに違いない雪と距離に関する問題を、先程までは逃れたい逃れたいと思っていたのに、今は自分のほうから仕掛けているのに、あぜんとした。「歩くのに、二倍は時間がかかるよ」
 と幹太が、ようやく肝心なところに来たとばかりに身を乗り出してくる。
「かかるだろうな」
 と堂田は受けて立つ構えを見せる。「一歩一歩雪に踏み込んでは、抜いて進むわけだからなあ。それで、マリエちゃんたちが、東京から柿の木村にやって来たのは、今年の何月なんだ」
「三月の終りよ」
「それじゃ、雪は残っていても、あまり降らなくなっている。大雪の大変さは、まだ経験していないんだな」
「そう、知っているのは、お母さんだけ。私とアユミははじめての冬よ」
「それは大変だ。おじさんも、何とか動き出さないといかんな。いつまでも病院で寝ているわけにはいかなくなった」
 と堂田は言った。四人の子供たちの顔に、一様に明かりが灯った。具体的な解決策は何も提示されなかったが、そもそも希望とは、そういうものなのだろう。堂田も自分のことばに酔っていると言えそうだった。
 分からないながら、幹太は何らかの手掛かりはつかんだという顔をしている。それがなければ、少年野球の練習にも熱が入らないというように、何やら身構えている感じである。
 子供たちはそれぞれ、持ち上がっている学校での事々を話しはじめた。学校と関係のない堂田とアユミははじき出されたように、黙っていた。こちらで勝手に話を始めると、子供たちの会話をやめさせることにもなるので、堂田は口を閉じていた。アユミはそれを苦痛とも感じていない様子で、靴下の足をベッドの脇に打ち付けたりして、一人愉しんでいるようだった。堂田の傍にいることで、満ち足りているようでもあった。
「バスの時間になる。少し前に行っていないと、置いていかれたら、大変だ。一時間も来ない」
 と幹太が言って立ち上がった。つられて他の子供も椅子を立った。その椅子を持って、借りた患者の所へ返しに行った。留守にしている患者の椅子は、ベッドまで運べばよかった。
 椅子を返して来た幹太に、堂田は小さく畳んだ紙幣を渡した。
「これはみんなの往復のバス代だ」
バス代はこんなにかからないなどと言っている幹太に、
「残りは中央大会に出かける幹太君の、遠征費だ。命の恩人へのお礼は、おじさんが退院して、落着いてからな」
 そう言うと幹太は、ありがとうと素直に受け取った。
 アユミはベッドを降りて靴を履いた。その動作はのろのろしていて、子供の機敏さを欠いていた。アユミはここを離れるのが、残念でならないという仕種で動いた。
 堂田は病院前のバス停まで送って行った。彼はのろのろ歩くアユミの手を引いてやった。小さな手で、それでも中で手の筋の動くのが伝わってきた。
 バス停が近くなると、アユミは抑えが利かなくなり、声を上げて泣き出してしまった。姉のマリエがそれを聞きつけて、小戻りすると、アユミを堂田から引き取った。
「堂田おじちゃんは、アユミのパパじゃないのよ。アユミのパパは、私がちゃんと憶えているからいいの」
 姉がそう言うと、妹はよけい声を引き攣らせて泣いた。
 バスがやって来た。号泣するアユミを庇って、姉が言った。
「おじちゃんには、また会いに来るんだから、泣かなくていいの」
 そう宥めると、アユミは泣き声をおさめ、後方に控えて立つ堂田を振り返った。そのアユミにともなく、堂田は手を振った。他の子供も、バスに乗り込みながら手を振った。バスは白い煙を吐いて、病院前の道を走り去った。
 病室に戻ると、椅子が一つ残っている。それは堂田のベッドに付属した椅子で、ついさっきまで堂田の腰掛けていたものだが、ふと腰掛けにくそうにしていたアユミの姿が浮かんできた。あれは、坐りづらかったというより、堂田の席を奪ってはならないとする、幼子なりの思いやりではなかったかと思えてきた。

  未完

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