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文芸の里コミュの山の町

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 その町には山がいくつもあった。いわば山の多い町だった。山の多い町というからには、それほど大きな山ではない。小山をいくつも抱え込んでいた。山が町なのだから、山が宅地化されて家が建ち、役場や図書館や、その他の公共施設も山の中にあった。商店や美容室も山の中だった。
 片側は海に面し、もう一方は別の山に面して、何本も谷間の道が通っていた。それがすべて田園の中の道ではなく、町の中に通っていた。通りには信号もあり、交差点もあった。
交番も、駅もあった。本通りも、歩道も整備されていた。町が山なのだから、中腹や山頂にまで、道は経巡ってつづいていた。
 道は中腹から山頂に近づくにつれて細くなっていく。中腹までは小型車も入るが、それより上になると、二輪のバイクとか自転車に限られる。そしてさらに進んで個別の民家に行くには、二輪車を降りて一歩一歩石段を登るしかない。だから駐車場は、各民家から山を巡ってつけられた道に出合う位置と決められている。駐車場などとご大層なものではなく、無造作に二輪車を乗捨てることのできる場所といったところだ。
 道が山を経巡ってつづいていると書いたが、例外中の例外として、二箇所だけ避難階段のようにして最短距離で麓まで通じている道がある。
 これは一つの山に対して説明したもので、他の山にも同じく二箇所だけ例外中の例外として直線の道ができている。やはり何か起こったときの避難道として造られたものらしい。
どの山も海に面しているとは限らないが、この山に関しては、一つは港に向かって伸び、もう一つは下の大通りへと通じている。
 今、その大通側から難儀をしつつ登ってきた男がある。ここからさほど離れていない地方大學で交通工学を専門とするF教授である。無精ひげなのか、アクセサリーのつもりなのか、どちらとも取れる程度の鬚をたくわえ、定年を過ぎているが地方都市の安寧のために、大学に残って研究に勤しんでいるのである。
 助手を連れず、一人で磁石や測量機器を携えての登攀だから、結構きつい作業である。しかし研究費を削られ、定年後の奉仕とあっては、贅沢も言っていられないのである。
 F教授がなぜ、この避難道を登ってきたかというと、解決しなければならない難問があったからなのである。
 それはこの避難道と大通りの交差するところで、猫の死亡事故が多発していることだった。ここ一箇月足らずの間に、何と八匹の猫が痛ましくも命を落としているのである。すべてが車との衝突事故である。死体も残らないほど遠くへ跳ね飛ばされた猫の数を加えると、犠牲はもっと多いだろう。
 ここから見下ろしてもそうだが、視界はよくきくのである。交差する下の通りにカーブがあるわけではない。山の多いこの土地では珍しいほど、道は真っ直ぐつづいているのだ。猫がひょっこり跳び出して、走ってきた車に轢かれるという場所ではない。にもかかわらず、事故の頻発は何を意味するのか。いざ、山火事、地震、山崩れ等で、人間が避難するとき、こんな有様では避難道の役目を果たさないことになる。なんとしても原因を究明しなければならなかった。
 それだけではない。通りの向こう側は豆腐屋で、手作り豆腐を水に浮かせて売っているが、その水に猫の毛の浮くことがあるらしい。これなどは、F教授にだけこっそり訴えた事例だが、他にも屍骸を片付けるための費用も地方の町の予算としては、馬鹿にはならないらしいのだ。
 というわけで、あいつぐ猫の死亡事故は、F教授の肩に重くのしかかっていた。Fが動いたのは、災害が襲った場合の人間のために猫の死を役立てるという一般のもっともらしい動機からではない。猫の命そのものを哀れに思ったからだった。
 F教授はあたりの景観を写真に収めたりしながら、登攀を続けていった。山の斜面には民家の庭のほかに果樹園も散見される。果樹園には夏蜜柑が色づきはじめている。緑の中の橙色は目もあやに際立っている。太陽がいくつも輝いている星座を眺めている気さえする。
 Fはつい自分の研究を忘れて、景観の方へ気持をそそられていた。そんなFの油断を衝くかのように、前方からまっしぐらに突っ込んできたものがある。柑橘類の一個が転がってきたのではないかと、身構えたほどだった。
こんな速力で飛び込んできたものを、まともに受け止めていたら、命がいくつあっても足りない。
 とっさに身の危険を感じて、体を逸らしたときだった。真上から突進して来たものは、傍らを弾丸となって通過し、あっという間に麓へと遠ざかって行った。その丸まって疾駆するのは、果実ではなく、生き物の後ろ姿になっていた。
 Fは多発する猫の轢死の究明のために来ていながら、たった今隣を通過したのが猫であったとは、まったく気づいていなかった。小さな犬か狐、もしくはペットから野生化したアライグマくらいに考えていた。
 どうして猫が抜け落ちてしまったのか、それはあの凄まじい速力のせいだった。猫はいつも鷹揚におっとり構えていて、とてもあの速力を持つ動物とは考えが及ばなかった。
 猫であったと悟ったのは、頂上に辿り着いて、そこで日光浴しながら毛繕いする一匹の長老猫から、思わぬ薫陶を受けたことによる。
 頂上には小さな東屋風の小屋があって、粗末な木造のテーブルに、やはり木のベンチが向かい合って据えつけてあった。
 そこに貫禄のある大柄な猫が一匹、どんとばかりに坐り、余念なく毛繕いをしていた。
 Fが研究資材を投げ出すようにテーブルに置いても、逃げ出す様子はおくびにも出さず、手を舐めては、その手で顔全体を擦っている。
手を舐めるときにぺろっぺろっと出す緋色の舌が、東屋の屋根を掠めて届く陽光にぬめり光って、異様な彩りが辺りを明るませるのである。
 Fはテーブルを挟んで猫と対座する形でベンチに腰を落した。定年過ぎの体には、この登攀はこたえて、目を瞑るとすぐ意識がかすれてきた。とは言いながらも、途中ですれ違った得体の知れない生き物のことが、心の一部というよりは、通過した側の脳が半分抉り取られたような感覚に痺れていた。うとうとっとしても、片側の脳が休ませないのである。
「ちょっと、伺いますがね」
 Fは半睡状態のまま、眠れない半分の脳で目の前の猫に語りかけていた。猫はシルバーの毛並みをしていて、歳の程もおそらく、人間で言えばその呼び名が相応しい落着きと身のこなしをしていた。
「どうなさいましたかな、ご老体?」
 そんな声を聴いた気がして、Fはちらっと目を開いた。相変わらず手を舐めていた猫は、Fの声に反応して横目づかいになった。
「今、ここへ登ってくる途中で、凄まじいスピードに乗って駆け下っていく動物に出合ったんだが、あの正体はいったい何なんだね」
「やっぱり行ったか、やつめ。わしにはさんざん毒づいて、昇天族には加わらないなんて、ぬかしておったんだが。奴は行きましたか、やっぱり本能には克てないんですかなー」
 シルバー猫は嘆かわしいものに遭遇したとでもいうような口ぶりで、そう洩らした。
「やっぱり行ったって、それは何のこっちゃ」
 Fは呆気に取られて、そんな物言いになった。よく学生から突飛な質問を受けたときに、そんな受答えをしたものだが、まさか猫に向かって、その癖が飛び出してくるとは思いがけなかった。
 断っておくが、Fの半身は眠っているが、起きている半分の脳で、猫とやり取りしていたのである。いや半分が眠っているからこそ、猫との語らいが成立したとも言えるだろう。
 猫にしても、人間が本気で猫に話しかけてくれば、こいつはパーじゃなかろうかと、洟も引っ掛けなかっただろう。これこそまさに夢の効用というものだ。
 レム睡眠といって、体は眠っているのに、脳波上では覚醒している状態で夢を見るらしい。
 「奴は、少し前まで、ほれ、そこの木の枝に乗って、はるか下を眺めていたんだよ。わしはここにいて、無聊を慰めつつ奴の相手になっていた。わしは奴に向かって、間違っても鼠の夢なんか見るなよ、と口を酸っぱくして言いきかせていたんだ」
「どうして、猫がねずみの夢を見たら悪いのかね。猫がねずみの夢を見るなんて、最高の理想というものではないのかね。人間で言えば、『青年よ、大志を抱け』以上のものさね。
大志なんていう、抽象概念ではなく、何と具体的で、実現すれば幸福をもたらすものだろうよ」
「ちょっと待った。おまえさんは猫の話もろくに聴かず、理想ばかり振り回しておるようだ。そもそも、幸福をもたらすといったって、人の世に貢献するだけで、猫には何の役にも立っておらんのだ」
「なぜ? ねずみ一匹捕獲すれば、猫は生肉にありつけるわけで、それは漁師が百キロのマグロを釣り上げたのと、変わりないと思うのだが…」
「そこだよ、猫の言葉を聴かないというのは。いいかい、わしの言う、ねずみというのは、車のことなんだ。車を退治に出かければ、逆に退治される羽目になる」
「え? 待ってくれ、待ってくれ!」
 Fは夢の中でそう叫びながら、目が覚めることはなかった。目を瞑り、頭を落して、こっくりこっくりやっていた。
 そんなわけで、このシルバー猫も安心して、いっぱしの口をきくこともできたのである。
「待ってくれ、待ってくれって、わしはどこにも行きませんぜ。ここはわしの終着地で、ここを出てどこに、我が身を安んじる場所があるというのかね。であるからこそ、わしは仲間たちに、急くな、急くな、ねずみの夢なんか見ずに、ここにとどまれと、口が酸っぱくなるほど言い聞かせているんだよ」
 猫の話を聴きながら、Fは自分の中に符合するように嵌まってくるものがあった。動かしがたく、そのものがFの空隙を埋めて、詰まってくるのである。
 今しがた、駆け下っていったものは猫だ! Fはそう断定して叫んでいた。
 Fは夢遊病者のようにベンチから立上がって、猫の話に出てきた傍らの木の近くに立って下を覗いた。なんと、はるか眼下の道を、ねずみが走り抜けているではないか。一匹が走り去ると、二匹、三匹とつづいて現れる。逆方向に走るねずみもいる。
 ねずみだ。あの次々現われては走り去っている小さな生き物は、ねずみの他にない。
 Fは自分がねずみの捕獲に駆け下って行かないのが不思議だった。何故か深い諦観を抱え込んでいた。ねずみを捕らえたいという本能の欠如か。定年という年齢からくる体力のなさか。
 Fは夢遊病者の感覚で、再びベンチに戻った。
「おわかりかね」
 とFに向かって、シルバー猫が言った。
「私には無理だ。捕獲したい思いはあるが、体力がね…」
 と弱音を吐いた。
「わしがいくら言い聞かせても、一度ねずみと信じたら、最後までねずみなんだ。近づいてみて、前を車が走り抜けていたら、ねずみが車の下に潜り込んだと思うんだな、奴らの感覚からすれば。わしがいくら言い聞かせても、誤りを正すなんてことはない。目標を入れ替えるだけさ」
 シルバー猫はそう言って、Fに反対側の海に面した方へ注意を促した。ここに来た当座は靄がかかっていた海は、今や綺麗に晴れていた。
「港にクレーンが首を伸ばしているね」
 と猫は言った。
「クレーンは見えないが、釣竿が何本か上がっているなあ。一本の竿には蟹が喰らいついてるぞ」
 とFが言った。
 シルバー猫はそう見たか、といった顔になって、ぎょろ目を光らせる。
「こっちに目先を変えてやろうとすると、奴らはあれに飛びついていくんだ。あれは蟹ではなく、クレーンが海に転落した車を釣り上げているところさ」
 とシルバー猫は言った。「蟹はまた猫の好物なんで、今度は海への避難道を邁進していくんだ。しかしこちらは車に轢かれるようなことはない。海にどぼんどぼん嵌まり込んで、消えてしまう。なぜ消えるかというと、そんな猫を待ち構えている鮫がいるんだよ。この港には。ここまでくれば分かったね、大学教授君」
 と猫は言った。こんな呼び方をするからには、よほど舐めてかかっているな、とFは思うものの、依然レム睡眠の中にいて、猫にからかわれていると分かりながら、手を挙げることも叱り付けることもできないのである。
「遠近法さ、猫には遠近法が理解できないんだよ。犬なら、ボールを投げても、そのボールを拾って飼主に持ち帰る。ところが猫はそれをしない。たまに外で捕まえたねずみを、家に持ち帰る猫がいて、飼主に見せるためだとかいう説もあるが、そうではない。猫は動くものが好きなんだな。だから殺さずに、近くに置いておいて、動くさまを見守っているんだよ。逃げ出さずに、いつまでも動くさまを見ていたいんだな。見方を変えると、残酷な話だ。しかし無邪気に動くものが好きという一面のあることも事実だ。
 だからここから全力で駆け下るのだって、動くもの欲しさという純粋な一面もあることを分かってもらいたい。猫に言って分からないとすれば、せめて人間の一人にくらいは分かってもらわないと、わしも商売上がったりだからねえ」
「というと、銀猫さんは、奴らに教えて報酬を得ているのかね」
 Fはこの猫をどう呼べばいいのか迷っていたが、シルバーなどと気取ることもあるまいと思って、銀猫にした。
 猫は名前などどこ吹く風とばかりに、苦渋を滲ませた顔を、ますますその度合いを深めていきながら、言葉を継いだ。
「報酬などとんでもない。無報酬のボランティアですよ。我々預言猫は、要所要所に置かれていて、天からのお告げというものを語っているんですよ。地上猫の伝道ですな、言ってみれば」
「ほう…」
 Fは煙草が欲しいという欲求をつのらせながら、猫の話に興味をそそられて言った。「そういう特殊な立場の猫もいたんですなあ。で、そのお告げというのは、掻い摘んで言えば、どんな?」
 銀猫はFがしゃべっている間も、手を舐めては、舐めた手で顔中をこすっていたが、話すときには、その仕草を一時やめて、
「それがつまり遠近法ですよ。近くのものは大きく、距離が離れて遠ざかるにつれて、小さく見えるという原則ですよ。奴らはこれさえ分かれば、ここで見たと同じねずみが、山裾の道を、同じ大きさで、ちょこまか走り回っているなんて、考えないはずですよ」
「ふむふむ、なるほどなるほど」
 とFは頷いてやった。ただ素っ気なく聴くだけでは、この猫の欲求はおさまらないと思えた。長い教授生活で、Fが身につけたのは、このくらいのものだった。四十年近い教職にあって、ほとんどの時間はそのために費やしてきたともいえた。真の研究に打ち込んだ時間など、しれたものだ。しかしこれはFに限らず、多くの人間が似たような生き方をしているだろうし、そういう生き方をして召されていったと思えた。
 Fはここへ来て、新たな研究材料を抱え込んだと考えていた。それは取りも直さず、猫の遠近法についてである。それをFなりに考究を深めていって、はたして人間の役に立つのかという問題がある。それは所詮猫だけのことであり、人間との接点はないのではないかと、疑問が出てきたのである。しかもその研究には、はっきり覚めた状態では猫の真相には届き得ないのである。
 しかし、とFはねずみを人体実験の代わりに用いている医学部のことを、頭に浮かべなければならなかった。彼等がねずみ等の小動物を、医学の進歩のために用いているのなら、
都市工学の立場としても、猫を人間が住みよい都市づくりのために用いていいはずだ。
 ここに来て、Fは生来の善良さがまたまた頭をもたげてきて、いや自分にはそれはできない。そもそも猫の事故死をなくすのが目的だったのだから、預言猫の言う遠近法を猫たちに植えつけてやることこそ、肝要であるとの結論に到達した。そう納得すると、憑き物が落ちたように、ぱっと目覚めた。いや目覚めていく過程で、次のような問答があったと言わなければならない。
「分かりました。私はこれから大学に戻って、仰せの猫の遠近法について研究していくことに決めましたよ。いずれ、そのご報告に伺うと思いますが、本日はこのへんで…」
 そう言うと同時に立ち上がっていたのである。
 銀猫はそんなFに怖れを抱いたのか、舐めに舐めて塵一つなくしていた前足を床について四足になり、明らかに逃げ腰になって、Fを振り返った。もし、その猫の側へ一歩でも踏み出せば、港の側へ一直線に疾駆したに違いない。しかしこの遠近法に習熟した銀猫に限って、逃げても途中までで、海に嵌まり込んで行くことはなかっただろう。クレーン車が吊り上げているのは蟹ではなく、車であることを百も承知していたし、間近に立つ人間は、象牙の塔に籠り過ぎて、やや頭の鈍くなっているところに、長老猫の薫陶が効いて少し猫化した老人が目覚めた一瞬だったのだから。

 Fは翌日から、銀猫に約束したとおり、猫の研究に取り掛かった。大学構内には野良猫が多く、実験には事欠かなかった。
 アパートから孫が忘れていったリスのマスコットを持ち出してきた。書き忘れたが、Fは南国のP市にある実家から、単身赴任でこの大學に来ていたのである。実家には妻もいれば、息子夫婦と三人の孫がいた。遠近法といえば、Fは自分にも当て嵌まってきそうだったが、しかし漠然とそんなイメージを抱え込んだだけで、心に刺さってくるほどではなかった。
 さて、Fはこの問題について、しばらくは一人だけで取組むつもりでいた。それで研究室に入ると、いつもそうするように、空気を入れ替えるため窓を開け放った。しかし今はこれだけではすまなかった。
「こーい、こい、こい」
 と猫を呼んだのである。
 広壮な民家の庭ほどの芝生の敷地があって、その先は通りになっている。通りと大学構内を仕切る形で、芝生の外れにシラガシの大木が等間隔に並んでいる。その一本の幹近く、茶白のものが端坐してこちらを見ている。Fが窓を威勢よく開け放った音に、なんとなく窓辺の人物に気づいたといったふうに、こちらを見ている。
 これまでは猫など研究の対象にはなっていなかったので、目にも入らなかったのかもしれない。これが大学構内のいつもの姿なのだろう。芝生があり、木立があって、根元には猫がいる。
 しかし今Fにとって猫は欠かせないものになっていた。彼はさっそく、アパートから持ち出してきたリスのマスコットにビニール紐を結んで、八、九メートルほどのところで切断した。一端を凧の紐を手に巻きつける要領で固定すると、マスコットを猫の方角に向かって力強く抛った。まさに海釣りのテクニックを要した。できるだけ遠く抛ったほうが、魚体は大きく、数も多いといった気持が働いていた。しかし浜には猫一匹。腑に落ちなさがあるのは、おそらく認知し得ないイメージによるのだろう。それはFの心の領域によるのか、猫の中にあるものなのか。それとも双方に根ざしているオアシスのようなものなのか。Fは明らかにならないものはそのままに、力任せにリスのマスコットを空中に放り投げた。リスの目に填められたガラス球が、朝(といっても、遅い朝であるが)の陽光を浴びて白く輝いた。リスは高く飛んだ分だけ、距離をのばさず、目ざした中ほどの芝生に無様な落下の仕方をして横たわった。リスを端坐するように投げる芸当など、できようはずもない。
 そんな的を外した放擲にもかかわらず、木立の下の猫は飛び出してきた。Fがしめたと思ったのは言うまでもない。素人の釣り人が入れ食いの感触を得たようなものだった。
 猫はマスコットに接近すると、直前で獲物に目を止めたまま、空中にしなやかなジャンプをした。猫にとってはまったく思いもよらない朝の挨拶になっていたのだろう。まだ露のある芝生に、天からマスコットのリスが降ってくるなんて。
 Fは紐の緩みを手繰り寄せて、マスコットと自分との間を直線で結んだところで、成り行きを見守ることにする。
 まだマスコットにはっきりした動きはない。AB間に物体Cがあるとして、Cに動きが現れるのは、ABいずれかにかかっている。
 そんなどうでもいいことを、心の中で反芻してみる。Cは動かず、行為者によって動きそのものを変える。Bが手を出せば、動きは恣意的になるだろう。それはBCが限りなく重なっている。しかしAが手を出すとなると、はなはだ直線的なものとなり、真っ直ぐ引き寄せられるか、右か左へ大きくずれる場合が考えられる。
 山の頂で観察した事例でいけば、猫はまっすぐ物体に向かって疾走したのだから、それにならって紐を手繰り寄せるのが、当を得たやり方と言えよう。Fはまずこれに挑戦した。
 ビニール紐を一気に引くために、綱引きの光景を目に浮かべ、片足を一歩後方に引いて構えた。猫は動かないリスにうんざりしたのか、ちょっちょっとジャブを出していた。ちょっかいを出すと言ったほうが当っているかもしれない。
「行くぞ!」
 Fはその猫にとも、マスコットのリスにともつかない号令をかけると、ビニール紐を一気に手繰った。あんのじょう、猫は芝生に跳ねて追いかけて来る。あの山を礫となって駆け下って行った生き物とは、雲泥の差である。しかし平和な大学構内で、轢死に至るかの実験など出来るはずもない。せめて、野良にいる猫だ。拡大解釈して、あとは推しはかるしかない。
 猫はマスコットを追って、窓の下まで来た。一息にマスコットを引き上げるか否か、Fが考えている瞬時、Cの動きが止まった。その隙に猫はマスコットの上に乗り上げ、四肢の下に抱え込んでいた。
 これが一体、何を意味するのか。ねずみを捕獲した当り前の現象を目の当りにしたにすぎない。どうしてこれが、猫の轢死に繋がるのか。
 Fがここで必要とするのは、BとCが重なってしまってはならないのである。ではCが一気に車に変貌を遂げればいいのか。いいにはちがいないが、どうやってそれが可能になるのか。Fははたと顎に手をやって考え込んでしまった。と、いつもと変った感触が掌をよぎって、ぎくりとした。自分の鬚の肌触りではない。これは猫の毛の感触だ。
 Fは不安になって、そこにビニール紐を投げ出したまま、洗面所に直行し、鏡を覗いた。それもそのはず、顎の右側をはみ出すように粘着しているのは、どう見ても猫の毛なのである。
 山頂で長老猫と問答をしながら、どうも釈然としないものがあって、はっきりしないまま収めていたものが、今まざまざと決着していると思わないわけにはいかなかった。
 あのとき、長老猫は、こんなことを戯言のように発していたのである。
「轢死体が出た後には、落下傘のように毛が降ってきて困る。それが表皮をつけたまま漂ってきて、ぴたっと柔なものに粘着してしまうのだ。わしのところにもそれは訪れて、自分の毛なのか、どうかも区別がつかなくなってしまうんだよ」
 Fは今、長老猫の言葉に合点していた。それであの猫はしゅうねく毛繕いをしていたわけか。
 Fは猫をからかうことに怖れを感じた。この付着した毛が、窓の下の猫のものでないことは明らかだ。何故といって、轢死体になったわけではないからだ。しかし、車まで動員して突撃に及んだとき、ついそうならないとも限らない。猫は怖ろしい。くわばらくわばら、そう呟いて実験現場となった研究室に戻った。
 するとどうだ。Fのデスクの中央に、さっきの猫が端坐して、毛繕いしながら、涼しげにFを迎えたのである。緋色の舌が窓から射し込む朝の光に輝いている。あのリスのマスコットはどうしたのかと、窓から覗いてみるが、姿が見えないのである。
 不審の念にかられて探し回ると、顎の猫毛に、Fが慌てふためいて洗面所に向かったとき、ビニール紐を足に引っ掛けて行ったらしい。リスのマスコットは、ドアを出たところに引っ掛かって倒れていた。
 猫はそのとき、マスコット目掛けて、研究室に飛び込んできたと思えた。突進したのが車の下でなく、研究室の中でよかったよ。猫の命拾いをした思いで、シェーバーを手にすると、洗面所に引き返して行った。猫が毛繕いで身を清めるのなら、自分は削り取るまでだ。

おわり

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