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文芸の里コミュの少年の夢 未完4

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 桃子は幹太に手を伸べてきた女性たちの中に、小野上純子がいたかどうかも忘れていた。彼女がクラス会に出ていたことも憶えていなかった。それほど小野上純子は目立たない女だったのだ。
 小野上純子は、幹太とちょっと触れ合うだけで、母性に火がついたと言っているようなものだった。桃子はその幹太をちょっとどころか、何年にもわたって育て、またそれによって慰めも力を受けてきた。しかし母性が目覚めるというようなことはなかった。そして結婚を急かされるようなこともなかった。むしろ、幹太を通して、母親に目覚めさせられるどころか、母親になりきっていたのかもしれなかった。人はあるものを十分与えられることで、それで満ち足りてしまい、それ以上求めなくなるのではなかろうか。謂わば、幹太の養育係りを務めることで、母親をも卒業してしまったのだ。
 桃子はそんなことを、遠い風景を味わうように思い返していた。その幹太に堂田との結婚を勧められていることなど、あまりに夢のようで、現実味に乏しかった。だが先程写真を目の当たりにしたときの激震と、収拾はどう受け留めたらよいものだろう。
 赤子の幹太が、目の前の小野上純子の火付け役だったのであれば、そしてそのことを通して、彼女が子供を授かったのであるなら、自分にもその権利があるのではなかろうか。今をおいてその機会は、二度と訪れないかもしれない。母性への目覚め、起死回生への最後のチャンス。そんな思いにかられるや、桃子は切り出していた。
「ねえ、あなたがあのとき赤ん坊に目覚めさせられたのなら、私にもそのチャンスをくれない。その子を私に抱かせて欲しいの」
 日ごろ奥ゆかしい桃子が、単刀直入に出たものである。小野上は何を言うのかという目つきで、顔をしかめて、桃子を見た。しかし桃子の言い分に間違いはない。理にかなっている。
「いいわ」
 と小野上純子は感慨深げに言った。子供がうまく桃子に抱かれるだろうか、という不安がある。不首尾に終わったら、桃子を傷つけることになるのだ。場合によっては、命の恩人を不幸に陥れることにもなってしまうのだ。
「この子保育園の先生以外、抱かれたことがないから、ぐずるかもしれなくってよ」
 そう言いながら、手渡す場所を探していた。スーパーの売場の端の方に、ベンチを幾つか並べた小さなスペースができていた。そこで渡すことにして、二人は足を運んだ。赤ん坊は母の胸と抱っこ紐に支えられて、すやすや眠っていた。
 桃子はそんな赤子を起こす罪悪感めいたものにかられたが、こんな機会は二度とないのだという思いを優先させて、ベンチに辿り着いた。実際辿り着いた思いだった。老婦が一人、買物で膨らんだ買物袋を傍らに、ベンチに休んでいた。二つのベンチは空いていた。空いたベンチを一つはさんで、二人の女は事に臨もうとしていた。日常茶飯のさり気ないはずのものが、二人を重く縛っていた。
「ヒロキ、ヒロキ」
 小野上は我が子を抱っこ紐から解放しながら、名前を呼んだ。ヒロキって、名前なんだわ。桃子は真新しい情報を得て戦慄した。その一方で、名前すら知らなかったものが、その子を抱こうとしている現実にたじろいでいた。
 赤子は桃子の手に渡される段階になっても、目を覚まさなかった。赤子の母親は、かつて自分が迎え入れられたように、桃子が受け入れられることはなくても、拒絶という最悪の事態は避けられたのだ。そう考えて、ほっとしているようだった。
「私、急いで買物してきますから、お願いしますね」
 小野上はそう言い残して、スーパーの売場のコーナーへ入って行った。桃子はその小野上の背に、
「ゆっくりしてきて、その間ヒロキちゃんはあずかってますからね」
 と、赤ん坊にも聞かれるように願って、はっきりした口調で言い放った。ベンチには空になった抱っこ紐が残されていた。
 所属が小児科ではない桃子が、つぶさに赤子の重さを体得するのは、実に久しぶりだった。幹太を赤子から幼児へと送り出してからは、こんなことは一度もなかった気がする。一口に重いと思った。いのちの重さだと思った。その重たさを、喜んで負っていきたいと思うのが、母性の芽生えでもあるのだろう。

 小野上純子が戻って来るまでの約三十分間、ヒロキは目を覚まさなかった。桃子が赤子の掌を握ったり、臀部を押してみても、目を瞑ったままだった。支えを求めて、桃子に掴まってくることもなかった。
「私は駄目みたいね、資格なしだわ、母親としての」
 桃子は本心からそんな気持ちになって洩らした。
「いつもは、そんなに長く寝込むことはないのよ」
 母親も我が子のことが心配らしく、そう言った。
「熱もないようだし、脈も正常のようだから、心配はないわよ。きっと昼間お母さんから離されていて、大変だったのよ。その疲れがどっと出たっていうのかしらね。心配疲れ。お母さんが来なかったら、どうしようっていうような。それが今日は特に大きかったのよね」
 と桃子は言った。慰められるべきは自分のほうだと思いつつ、口が勝手に喋っている。「そうかしら」
 と小野上は、桃子を気遣うよりも、赤ん坊のことが気になって言った。
「触ってみたけど、熱があるとは思えないわ。脈も120は普通だわ」
 看護師に言われると、心強く感じるらしく、赤子を抱っこ紐で囲って胸に抱え込んだ。 桃子は急に寂しくなった。
「私、車だから、あなたと赤ちゃんを送っていくわ」
 そう決心して桃子は立ち上がった。
 小野上は少しく躊躇ったが、もし赤子に異変でも起こった場合、看護師が傍にいてもらったほうが、心強いと思ったらしく、
「そうして下さる?」
 と言った。桃子には小野上の心の変化がよく分かった。母親の我が子への愛なのだと察して、また寂しくなった。一方で、よいものを見せられた気もしていた。誰に向けられたものにせよ、愛ほど素晴らしいものはない、と思えた。送って行くことで、不毛に終わった挑戦を長期戦に持ち込めるとも考えた。
 小野上純子のアパートは、桃子の住まいと、スーパーを挟んで、ちょうど同じくらいの距離にあった。こちらの方が外灯が暗くて、ヘッドライトが路上を横切る猫を映し出したりした。猫の目が銀色に輝き、そのまま闇の中に消された。
 街はこちら側へ、まだ伸びていける十分なスペースを持っていた。土地はあるのに、住む人間がいないのだ。日本は狭く、人口過剰といいながら、それは大きな都市に限られていて、地方の少し辺鄙な都市には、土地は溢れるほどあった。S町も市に昇格したがっているが、なかなか人が集まって来ないのだ。桃子の故郷、そして堂田の住む村も、S町から合併の誘いかけをしてくるが、いい返事をしないということだ。村は村で、町に昇格したがっているのだ。
 小野上純子の住まいは、路地を入った突き当りだった。二階建てで、一階はガレージになっている。夫は車を置いて出張しているとのことだった。集合住宅というよりも、個別な生活空間を取って建てられていて、非常階段のような簡素な階段がついていた。そこを赤子に注意を配りながら、小野上純子は一歩一歩登っていった。買物は桃子が預かっていたが、子供を抱いて登っていくと、ぎしっぎしっと鉄の階段の軋る音がした。
「足を滑らせないように、気をつけてね」
 と小野上は桃子に注意した。毎日子供を連れて、ここを上り下りしている彼女の苦労を思いやった。立派にやっていると思った。ここでも桃子は、自分の立ち遅れを意識した。 間取りは六畳と八畳の二間で、部屋の中は広々としていた。しかし電気をつけて広がった明かりの下で見ると、部屋の飾りつけの不自然さに、桃子は足が竦んだ。異様なキャラクターの絵が、壁一面を埋め尽くすように貼られているのだ。子供を喜ばせるにしても、これは度が過ぎている。悪趣味だ。子供が情緒不安定になるのは目に見えていた。
「びっくりしたでしょう。このへんてこりんなキャラクターたち?」
 と小野上の方から、そう言った。
「びっくりしたわ、子供を楽しませるにしては、度が過ぎているもの」
 小野上は長いソファに腰を下ろし、桃子には一人掛けのソファをすすめた。赤子はまだ眠ったままだった。桃子は赤子に手を伸べ、額に触った。熱はなかった。外の冷気に当っただけ、冷えていた。脈も変わりなく、搏っていた。小野上は看護師の慣れた手つきに安心するらしく、
「疲れたのよねえ、きっと新入の赤ちゃんでもきたんでしょうよ」
 などと言って、シンクに立った。
「夕食まだでしょう?」
 と小野上が言った。
「私には構わないで、あなたと赤ちゃんだけの用意をして。私は今日中に食べなければいけない賞味期限のお弁当があるの」
 と桃子は言った。「そのお弁当を買って、下から上がってきたら、あなたがいるんだもの、びっくりしたわ。しかも赤ちゃんまで連れて」
「あっさりしたスープ作るわね。スープくらいならいいでしょう」
 と小野上純子が言った。その母の声に反応したのか、赤子の顔の皮膚が、引き攣るようにぴくりと動いた。桃子は次の反応を待って、赤子を見守っていた。
 桃子が答えないので、小野上が振り返った。その彼女への合図に、桃子は自分の口に指を立て、沈黙を命じた。
 小野上が摺り足で近づいてきた。赤子は今しがた、顔の皮膚が引き攣ったとき、はっきり母の声を聴いたに違いなかった。それにしても、母親の話す相手が、赤ん坊の自分以外に存在した。それは一体、なにものなのか。目を瞑ったまま考えていたはずである。桃子はそこまで推理を働かせて、次なる赤子の身振り、手振り、顔の動き、それらを待っていた。間違いなく、この部屋には誰かがいる。自分の身近にいる。それを見届けなければならない。一瞬のうちに、そうしなければならない。足がのぞき、脚が現われ、手がのぞき、腰が現われ、胸が見え、全貌が現われる、そんな現われ方は、怖くてならないのである。そんな理解は赤子にとって、堕落に等しい。
 赤子はぱっと眼を開いた。まっすぐ天井に向けて開眼した。その瞳を母親の方にではなく、反対側の桃子に振り向けたのである。ぴたりと赤子の目と桃子の目が合った。その出会った目を、逸らさないのだ。一秒たりと逸らさない。じっと視線を降り注いでくるのだ。それではもどかしいとばかりに、右手の指を一本、自分の口に持っていってくわえた。頭の理解を助けるための仕種であろう。
 桃子は自分が怖い者ではなく、母親と同じ側にいる味方であることを示そうとして、にっこり笑顔をつくった。単なる愛想笑いではなく、真の友人であり、かつて、あなたを生むための下地を作ったのは、ここにいる桃子という女の甥なのである。それら盛りだくさんの心情を届けようとして、力いっぱい笑顔を咲かせた。
 最初は控えめに、徐々に大胆に、顔を綻ばせていった。と、このとき、赤子の口から何かが抜けるような音が発せられた。口がまあるく開き、一本の指が、桃子をさしていた。「受け入れられた!」
 桃子はそう思うと同時に、涙がこぼれてきた。母親が近づいてきて、赤子にかぶさるようにして抱きかかえようとした。
「もういいの。十分わかって貰えたから。寝かせておいて」
 と桃子は頼むように言って、ハンカチで涙を拭った。
「ヒロキ、あんたはどうして今日に限って、長々とねんねしていたのよ」
 と母が言った。

   未完

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