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文芸の里コミュの馬とリンゴ9 未完

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 1

 深まる秋の夕ぐれ、栗毛の馬に曳かれた一台の馬車が通る。ぎしぎし車輪が道の砂利を押しひしぎ、その音が耳ざわりで、近くで見るかぎり、趣のある秋の風物詩とは言いかねる。馬の足の蹄鉄が、砂利を踏み砕く音も、マイナスのイメージに拍車をかけているかもしれない。
 坂道に差し掛かると、りんご園だった。馬は何を思ったのか、いきなり前足を上げて、後ろ足で立ち上がった。
 馬の上にはりんごが熟して、艶めかしく夕日に染まって輝いている。そのうちの一個に馬の口が向かった。枝のりんごは逃げ、馬の口が追う。
 これでは馬と一体になった馬車がかなわない。水平を保って馬に従ってきた馬車が険しく傾いで、揺れだした。前部で馬を操ってきた馬方が、たまらず馬車から地面へ転げ落ちた。
 馬はりんごとの空中戦を制して、一個を口にくわえ、地上に戻った。そしてぽりぽり秋のりんごを味わいながら、何事もなかったように馬車を曳いて歩き出した。前進あるのみで後ろを振り返ることのない馬に、親方の不在など分かるはずもなかった。

  2 
  
 クラブ活動の野球の練習を終えて下校する小学五年の男の子が、道に大の字に倒れている中年の男を見つけて、携帯で村の警察に連絡した。男の子は男の脈を計り、息をしているとみると、ランドセルから汗拭きに使っているタオルを出して、渓流に向かって走った。冷たい水を含ませてきて、男の額にのせた。熱があるので、もう一度渓流にタオルを濡らしに走ろうとしているところに救急車のサイレンが沸いた。長閑な田舎の山間に、救急車のサイレンは、急迫する雀蜂の羽音のように不気味である。
「坊や、この人がどこの誰か、分かるか」
 救急隊員は男を担架に乗せながら聞いた。
 男の子は首を横に振った。
「このままじゃ、原因がまったく分からないなあ。事故なのか、病気なのか。原因が分からないと、病院でも手当てに支障をきたす」
 男の子は近くに鞭のようなものが落ちているのに目を留めて、
「馬だ、馬のおじさんだ」
 と呟いた。それを救急隊員の一人が耳にとめて、「馬のおじさん?」
 と男の子に顔を向けた。
「ここに馬をぶつ鞭が落ちとる」
 と男の子が教えた。
「じゃ、馬に蹴られたっつうのか」
「しらん」
 男の子は言って、また首を横に振った。あの温和そうに見える馬方が、馬の機嫌を損ねるようなことをして、蹴られたとはちょっと考えられなかった。それに馬は馬車にくくりつけられているのに、どうやって蹴るというのか。
 その一方で、馬方が倒れていたのも事実で、どう受け取ったものか、男の子は謎を突きつけられていた。
 思い迷っていると、ふとリンゴの落ちているのが目に留まった。一個ではなく、三個も。
 まだリンゴが自然に落ちる季節ではない。風も吹かなかった。
 顔を上げると、林檎の枝にリンゴはいかにもうまそうに実っていた。
 リンゴは馬方が馬車の上から手を伸ばしても届かない高さにあった。また馬方が盗み食いするほど卑しい人とは思えなかった。その馬方が、馬車の上からリンゴに跳びついて失敗して倒れたとは、とても思えなかった。
 すると馬だ。馬の仕業だ。馬が後ろ足で立ち上がって、口を伸ばしてリンゴをあさったのだ。そのとき馬車が斜めに傾いで、馬方が投げ出された。ほかには考えられない。
 救急車は倒れていた人を車に収容して走り出すところだった。車に乗り込もうとしていた最後の救急隊員に向かって、男の子は手短に自分の推理を説明した。
 救急隊員は子供らしい発想に頬をほころばせた後、
「じゃあその馬はどこへ消えたのかな。馬も馬車も影も形もないじゃないか」
 と言って、付け加えた。「坊やいろいろ世話をかけたな、ありがとうよ」
 救急車はサイレンを高鳴らせ、町の病院に向かって走り去った。

  3

 救急車が村の境界を抜け出し町に入る直前、村の警察からの一報が入った。
「患者の身元が判明した。柿の木坂六本目、堂田道太、43歳園芸農家、独身。馬が空馬車を曳いて帰宅し、庭にいるらしい。
隣の住人が知らせてきた。何、まだ意識が戻らない? 原因は何なんだ」
「はあそれは、第一発見者から確度の高い情報を得ておりますんで、病院側に伝えます。犯罪性はないと思われます。では後ほど」

 4

 町の病院でしかるべき処置をして、ベッドに寝かされて約一時間。堂田道汰は意識を取り戻した。
 気になって十数分おきに見回っていた看護師の説明によると、こうなる。
 堂田道太はもごもごと藁の中の兎のように動いて、
「ああ、うっかり寝ちまった」
 と洩らして、大きく両の手を伸ばし、次に目を開いた。
 普通なら青い空があるはずなのに、ドーナツ型LSDの白色電灯が宇宙船のように浮かんでおり、自分は夢を見ていると思ったらしく、堂田道太は再び目を瞑った。
 これが傍らで見ていた中年看護師の観察である。彼女はこういう場合の患者の戸惑いや錯覚や恥じらいを呑み込んでいて、
「堂田さん、お目覚めですか」
 と優しく呼びかけた。彼が声のした方を振り向くと、白衣の女が慈母のような眼差しをして立っている。
 堂田道太は根っからの病院嫌いで、したがって看護師などテレビドラマでしか知らなかった。それが現実に存在するということは、自分の人生に予測もしなかった重大事が出来したことを意味する。そう考えると、彼は深く嘆息して、
「うん、にゃあー」
 と洩らすしかなかった。
「そんな、猫みたいな声ださないでください。堂田さん、あなたがどうして、病院に運ばれて来たか、分かりますか」
「分らん、まったく分らん」
 と、堂田は左右に大きく首を振った。そうすれば、この罠にかかったような顛末の一部始終を思い出せるとでもいうように。
 看護師は慌てて傍に寄ると、堂田の頭を押さえて鎮めながら言った。
「そんなに騒がないで。あなたは急患で運び込まれた病人なんですよ。頭部に骨折と陥没があるんです。今は麻酔が効いていて、痛く感じないだけです」
 
 5

 看護師樋口桃子の帰宅時間が近くなって、甥の幹太から電話が来た。
「おばちゃん?」
 小学五年生の甥は、そう問いかけた。声が弾んでいて、何やら嬉しそうだ。
「どうしちゃったの。病院なんかに電話してきて?」
 樋口桃子は解せない思いにかられて訊いた。
「ぼく人命救助で、表彰されることになったよ。今交番から電話があったんだ。警察の上の部署で決めるので、いつになるかは分らないけど、人命救助に貢献したんだってさ。S町に病院は一つしかないから、おばちゃんのところに運ばれたと思うけど、その人」
 叔母の桃子は小学生が第一発見者で、子供とは思えないほど機敏な処置だったと、救急隊員から聞かされていた。その小学生が、甥の幹太だったとは驚きだった。
「カンタ、あんただったの。救急隊の人が感心していたのは」
 甥の名は正式にはミキタと呼ぶが、近しいものは愛着をこめて、カンタと呼び習わしていた。
「当り前のことをしたまでだよ。それより僕の善行は、ほかにあると気づいたんだ」
 そう言って、幹太はヒヒヒヒと笑った。
「何よ、その変な笑い方は?」
「おばちゃんにぴったしの彼氏を送り込んだということさ。おばちゃん赤くなったぞ、林檎みたいに」
 桃子は何故か生命にかかわるところを、ぐさりとやられた気がして、小生意気な甥をやり込める言葉を探していた。
「あんたのひねた干渉はまっぴらだよ。まったく子供らしくないんだから。私は林檎なんかじゃなく、桃子っていう、立派な名前があるんだからね」
「桃は林檎みたいに赤くはないけど、あれは恥じらう乙女のピンクの赤さだよ。そんじゃさー、堂田さんによろしく言ってけれ。元気になったら、また馬車に乗せてくれって」
 そう言って幹太は電話を切った。

 そろそろ病院を出て帰宅するはずだった桃子は、にわかに風向きが変わったことに狼狽して、堂田の病室へと小走りに向かった。
 堂田はCT撮影の結果も、さほどのことはなく、頭蓋骨陥没と亀裂で、入院三週間と診断が出ていた。
「まったく呆れて開いた口が塞がらないとは、このことだわ」
 堂田の病室に入るなり、桃子はそう言った。
「ぱくぱく、開いたり閉じたりしてるじゃないか」
 堂田は桃子の異変の方には注意を向けずにそう言った。
「あなたの第一発見者が、私の甥だったのよ。今その甥から電話があって、判明したの」
「オイ、オイ」
 と堂田が慌てた。
「それで、人命救助で表彰されるらしいの。そう交番から連絡があったって、電話で伝えてきたの」
「まったく隅に置けないな。馬と言わず、世の中と言わず」
 堂田は成り行きを深くは理解できないながら、そう言った。「それで、その子はどういう子なんだ」
 堂田は言って、少し頭を浮かした。
「倒れているあなたを発見して、救急車を呼び出し、応急処置をした子供よ」
 そう言われても、堂田にはまったく記憶がなかったから、黙って頷いているしかなかった。少時考え込んでいたが、
「表彰までされるとなると、ぼくも何か動かないとならんかなあ。お礼をするとか」
 と顔をしかめる。
「病人のあなたが、そんなこと考えなくていいわよ。そうそう、甥は堂田おじさんによろしく伝えてって、言ってたわ。治ったら、また馬車に乗せてですって」
 堂田の表情がやわらいで、たやすい御用だと考えているらしかった。

 6

 堂田道太が目覚めてから二日間は、事故に遭った当座の記憶は戻らないものの、他は普段と変わらないまで回復していた。もっとも普段といっても、彼が独り身であり、堂田の日常を事細かに知っているものがいないことから、本当のところは憶測の域を出なかった。
 看護師の樋口桃子は、堂田にやや物足りなさはあるものの、目覚めるそうそう駄洒落を言ったり、自分たちがあたかも夫婦であるかのような口の利き方をされると、可愛げのあるいい連れ合いというイメージを持つようになっていた。甥っ子の「ぴったしの相手」という評定も、まんざらでもなさそうだった。
 それが二日目の夜になって堂田は急変し、意識を失ってしまったのである。はじめふざけているのではないかと、桃子が大声で呼びかけたり、体を揺すったりしてみたが、反応は現れず、本格的な眠りに入ってしまった。
 桃子が寝ずの看病をしたことは言うまでもない。このままでは、甥の善行も水の泡である。
 医師はいろいろ精密な検査を試みたが、脳を除いては特別な異状は認められなかった。
 
 7

 再度の気絶状態に入ってから三日目になって、堂田道太は目を開いた。今度は最初に目覚めた時のような軽口は飛び出さなかった。傍らの樋口桃子を見ても、何やら胡散臭いものを目の当たりにしている目つきだった。
「お目覚めでございますか。旦那様?」
 と看護師の桃子のほうが、ふざけた物言いになっていた。
「ダンナ?」
 堂田は神妙にことばを味わっていたが、
「いつ、この俺がダンナになったんだ。おかしい」
 と、自分の蘇りをいぶかった。「俺は馬車から振り落とされたんだ。あの馬め!」
 と堂田は叫んだ。どうしても戻らなかった事故当座の記憶が復権して、彼の人生が一本に繋がったのである。
 桃子は、おめでとう、と言いたかったが、黙っていた。そして、
「私、当病院の看護師の樋口桃子でございます。よろしくお願いします」
 と初対面の挨拶をした。
「知ってるよ、そんなこと。甥っ子がぼくを最初に発見して、子供とは思えない機敏さで、動いてくれたんだってね。その甥子を呼んでくれ。まっ先に礼を言わなければいけない」
 堂田の意識の戻りが、一時的かつ部分的なものでないことは明らかだった。

 8

 大事をとって、それから一週間安静にさせられていたが、病院長の回診でその束縛を解かれ、個室から六人部屋に移された。
 そこに第一発見者の小学生、幹太がやって来た。
「堂田おじさん、よかったね」
 目が合うなり、幹太はそう言った。良かったね、というのは、自分にとって良かったという意味のほうが大きかった。それは一生に一度あるかないかも分からない、表彰が堂田の病状の急変で延び延びになり、今度こそ確かなものになる予感がしたからである。記念として与えられる品についての打診もあって、幹太は新しいミットをあげていたのである。
「表彰式はまだか」
「そのうち来るよ、そんなの」
 幹太は心のうちとは裏腹にそう言った。また当り前のことをしたまで、という気持ちも強く支配していた。
「記念品には、何がもらえるのかなあ。まさか小学生に、金一封ってこともないだろう」
 堂田はそのうち自分が贈るものと重なってはならないことと、幹太がどんなものを欲しがっているか知っておく必要もあって、そう言った。
「ミットだよ」
 と幹太はあっさり答えた。
「ミットだって?」
「そうだよ。キャッチャーズミット」
 知らなかったのか、という顔をした。望むものを打診してきたのは、堂田が意識もなく、昏々と眠っていたときなのだから、知らなくて無理はない。

            *
「お前のポジションは、キャチャーか?」
 幹太はミットをはめたと想定する左手に、右手の拳をボールに見立てて放り込む真似をしながら言った。
「ピッチャーとか、ファーストでもなく、セカンドでもサードでもないんだな」
「うん」
 そう言って幹太は、左手のミットにボールを投げ込む仕種をやめなかった。練習を早めに切り上げて堂田を見舞に来たので、体がなまってもいたのである。
「それで分ったぞ。人命救助で表彰されるというのも。いやキャッチャーでもなければ、できないてがらだ。キャッチャーはサードから駆け込んでくる敵を、身を張って食い止めるのが務めだからなあ。お前は倒れている男を、ホームベースのように考えて、攻め寄って来るものどもを何としても阻止しようとしていたんだ。それが救急車を呼ぶ行為に繋がり、応急処置に繋がったのさ。それはすべてキャッチャーに備わった美徳というものだ。
ところでお前が人命救助で表彰されることになった、そもそもはいったい何だっけ」
 ベッドの上に半身を起こして話し込む堂田を、幹太はこの大人は何を言わんとしているのだろうという顔で見上げている。ミットにボールを叩きこむ動作は、とどまることなく続いている。三度目の意識障害で倒れ、表彰が取りやめになりはしないだろうか。すると念願のミットも、夢のまた夢として消えてしまう。そうしたら、ミットの付録のように与えられるはずだった一ダースの軟式野球ボールも、すべて水の泡として消える。

 9
 ここにきて幹太は、自分の得意としてきた推理も、信用のできないあやふやなものに思えてきた。
 もしかすると堂田道谷には、癲癇性の持病があって、あの時もそれが勃発して、馬車から転げ落ちたのではなかったか。この前提を推し進めていくと、次のように考えることも可能である。
 堂田の癲癇症状が高じて、日頃卑しいとして退けてきたリンゴを貪り喰うという行為に
箍が外れたように向かって行ったという予想である。
 堂田ははじめ馬車の上から手を伸ばしたが届かず、跳び上がっても無理で、馬の背に乗ることを思いつく。思いついたとたんに、行動に移っている。馬が何ごとかと慌てふためき、堂田は構わず馬車を馬に接続する器具に足を掛け、よじのぼり、馬の背中の中心にあやうげに立って、頭上のリンゴに手を伸ばす。
 馬はかつてない親方の行為に度肝を抜かれて、イヒヒンといななくだけでは済まなくなり、背中を激しく痙攣させる。
 それだけで堂田が振り落とされるのに十分だったが、馬方はその危うい格好から、リンゴに飛びついたのである。堂田はリンゴの幾つかを鷲掴みにした。それは路傍に少なくとも三個のリンゴが落ちていたことで立証される。
 馬は堂田が跳び上がって、馬の背中を離れた一瞬の間にダッシュした。リンゴを掴んだ堂田は、着地する足場を失い、馬車の木枠にでも強くぶつかって、地面に転げ落ちた。
 その傷は、小学五年生の幹太がした最初の推理より、重くなるのは明らかである。事実、堂田は単純な気絶ではなく、頭部に重傷を負ったのであった。
 幹太がそんなことを考えている間も、堂田はしきりに口を動かしていた。口を動かしているということは、何か話していたのだろう。しかし幹太には、話の中身は伝わってこなかった。一度疑いが湧いたら、何もかもが色褪せて、別のものに見えてしまうのだ。いやその別のものこそ、本物になってしまうのだ。今幹太の目に映って来る本当のものとは、堂田の頭にぐるぐる巻きにされた包帯の内側にある熱した血のようなものだった。それが噴き出てきたら、全巻の終わりになるのだ。いくら表向き飾ってみても、内側に溜まったものは、どうすることもできない。マグマは溜めてはならないのだ。では溜まらないようにするには、どうすればいいのか。いつも目の届くところに誰かがいて、鉢植えの朝顔に欠かさず水をやらなければならないように、日頃から見張っていなければならない。
 そこで幹太は、自分が目標としてきた企画を早急に実行に移さなければいけないと思った。叔母の桃子と堂田を娶せることである。そのことでは桃子に早々と手を打ってはいるが、まるで乗り気でなく埒が明かなかった。もっともその時は、もっと一般的な男女の出逢いのケースとして、ゆっくり事を運んで行けばいいと考えていた。しかし今は違う。そんな暢気は言っていられなかった。
「おじさん、おじさんの趣味は何?」
 と幹太は訊いた。
 堂田は話の腰を折られて、不愉快そうな表情になった。何だ、俺の話を聴いていなかったのか、という顔である。しかし目の前にいる子供は命の恩人である。話が通じないからといって、あからさまに責めるわけにはいかない。そこで堂田の不得手とするところの忍耐強い大人の態度になって、
「俺の趣味か?」
 そう言って困惑の仕種で、後頭部をポンと叩いた。そして「あち!」と叫んだ。傷口に巻いた包帯のことをすっかり忘れていたのである。
 趣味が草野球とでも出れば、幹太はその指導を買って出るつもりだった。小学校五年生ながら、それだけの自信を持っていた。
「野球と言いたいところだけど、ニュースに出てくるのは、トレードに何億とか、契約金が何億とか、そんな普通の人間には関係のないようなはなしばっかりだしなあー。なら草野球はどうかと言われそうだが、それだって地主との交渉で、グラウンドに使用する土地の借用料からはじめなければならない。そんなのこのおじさんには向かないよ。
 うまく乗って来れば、コーチを引き受けてもいいくらいに考えていた幹太は、野球の話は引っ込めなければならなかった。
「そうだなあー、昔は、甲虫やクワガタが好きで、山に行って捕まえて来たのを、T市まで馬車で売りに行ったものさ。S町、この町になるな。ここでは山が近いせいで、飛んでくるのもいるらしく、子供たちも珍しがったりしないけど、一つ先のT市になると、子供たちの目の色が変わるな、あの虫を見せると。おじさんはそんな子供たちの喜ぶ顔を見たさに、山で甲虫やクワガタを捕まえては、出かけたものさ。
「T市まであの馬車で?」
 と幹太は目を丸くした。
「おじさんは、車は持たない主義だからな。しかし今回、馬にこんな傷を負わされてみると」
 堂田はそう言って、うっかり頭に手をやり、「いてっ!」
 と跳び上がった。幹太はつい今しがた、馬のせいばかりとは言えないところに立たされていたので、うっかり堂田の話には乗れなかった。
「T市の子供たちは、喜んでクワガタや甲虫を買ってくれた?」
 と幹太は訊いた。すべての子供とは言えないながら、野球を知らない彼らが哀れにも思えた。
「中にはお金がなくて、馬車から離れて行かない子もあったな。おじさんは、そんな子が可哀そうになって『みんなには内緒だぞ』って約束させて、ただでくれちゃったものさ。だって甲虫やクワガタを一匹百円とか二百円出して買った子供に悪いだろう。そんな差別をしたら。しかし、そのうち口を割ったものがいるらしくて、俺のことを内緒のおじさんと呼ぶものが出て来た。たちまちその名は広まってしまい、ついに俺はT市を捨てたよ。と言って、さらに遠くのY市やM市まで足を伸ばすつもりはなかった。馬にも悪いからな。そんなに歩かせたら。
 今の馬の親馬は、俺の父親が可愛がっていた愛馬だ。その血を引いた馬であれば、飼主思いのいい馬だと思っていたのに、このざまだ」
 そう言ってまた頭に手をやり、あちっ! と跳び上がった。
「おじさん」
 と幹太は改まった声で呼びかけた。
「何だ?」
 と堂田は頭ではなく、首筋に手をやって訊いた。



  未完


少し前に書き上げた短編を探していたところ、それが見つからず、未完のこんな駄作が出てきたので、この場をお借りすることにしました。紛失を防ぐには、投稿するのが一番安全だと気づいた次第です。この駄作もいずれまとめるつもりです。

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