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文芸の里コミュの旅立ち 完

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旅立ち 完



 マリに会って帰った後、鶴子は鬱々として冴えない日を送っていた。もっと心が開放されてもいいはずなのに、そうはならず、悩みは深刻さを加えていった。宝物のように冷蔵庫に保管していた眠剤もつきてしまい、薬局では売られていない、よく効く睡眠薬を出してもらうためだけに、町医者にかかったりした。
「これは仕事のストレスからくる精神の疲労だよ、君」
 と、親の後を継いだまだ若い医者は語った。
「眠剤を二週間分出しておきましょう。一錠が多いと思ったら、自分で半分に折って飲むこと。錠剤の中央に割れ目があって、手で折れるようになっているから」
 そうだったのか。半分に折って飲めるようになっていたのか。そんな便利な使い方があるとは知らなかったわ。そうすれば、睡眠薬は長持ちするし、薬が効きすぎて仕事に差し支えるとか、あんなに苦労しなくてよかったんだわ。客を相手にうっかりミスでも犯したらどうしようとか。
 鶴子は得した気分になって寮に帰った。
 夜床について、これは眠れないなと思うと、すぐ錠剤を半分にして飲んだ。眠りに入っていきながら、目に浮かんでくるのは、鶴夫よりも慧也のほうだった。洋菓子を習う学校は見つかったのだろうか。
 兄のことを考えるとき、鶴子の心に占めているのは、母親が我が子にしてやれなかったことを、あれこれ思いめぐらせるといった事柄が多かった。なぜ娘の私がこんな心配をしなければいけないの、などという反問は湧いてこなかった。ひとみがしてやれなかったものを、肩代わりして自分がしなければいられないといった感じだった。
 牛が反芻でもするように、いろいろ思い惑っているうち、人生一般の問題へと波及していき、諦観すら入ってきて、俗っぽい悩みに堕ちていくと思われることもあった。今こそ岩見鶴夫に電話をして、自分に持ち上がった事実を打ち明けてもいいはずなのに、そんな思いは浮かぶはじから薄れていった。これで彼と旅立って行けるのだろうか。そんな不安がよぎると、鶴子はそれを打ち消すように、旅の支度に頭を切り替えようとした。
 折から街は、あと一箇月となったクリスマスムード一色に塗りつぶされていた。彼女はクリスマスの飾り付けのない方へ、ない方へと足を向けていた。早番の勤めを終えての帰宅途中だったから、まだ日は高くあった。人通りの少ない寂しい道を行くと、突然クラクションをならされ、鶴子は慌てて車を避けて民家のある方へ寄った。自分が道の真ん中を歩いていたことにも気づかなかった。クラクションに驚いた体は、民家のコンクリート塀に激しくぶつかって止まった。
「危ない! あなた、どうしました?」
 若い外国の女性が飛び込んできて、倒れた鶴子を抱き起こした。鶴子はよほどどうかしていたのだろう。ふいに警笛を鳴らされ、慌てふためいたあまり民家の側へ跳びすぎてしまったのだ。
 コンクリート塀にぶつけた鶴子の膝には抉られた痕があり、そこから血が溢れてきていた。外国女性は傷の応急処置にかかった。ティシュを何枚も重ねて傷口に被せ、自分のヘアバンドを外して、血止めに使った。それから鶴子に肩をかして抱えるようにして歩き出した。近くに彼女の寄宿している家があった。そこに四人が寝泊りしているとのことだった。他の三人は、伝道のために外に出ていた。
 女性は仲間と一緒に、日本の伝道のために来ていたのだ。彼女は手にしたトラクトを民家に配っているところだった。イブ礼拝に招くために。
 彼女の名は**マリアと言った。マリアは部屋で鶴子の傷の手当てをしながら、
「あなた、体のどこか悪い?」
 と鶴子が倒れた理由を訊いた。
「いいえ、車が迫って来て、警笛を鳴らされたから、避けただけだわ」
 と鶴子は答えた。
 マリアは不審そうに眉の辺りを険しくして、
「車なんか通らなかったわよ」
 と言った。怪訝な顔になるのは鶴子のほうだった。自分は間違いなく車を避けて、というより、すさまじい勢いで迫って来た車の風圧に押し倒されるように塀にぶつかったからである。それを言ってもマリアは取り合わず、勘違いは誰にもあるものです、人間は草のように弱いのです、と断定するように言った。
 鶴子は納得できなかった。しかし目撃者が、車など通らなかったというのだから、鶴子は自分の主張を退けるしかなかった。鶴子の勘違いを補足するように、人間は弱い草のようなものだとマリアは言ったのである。
 そのやりとりから、鶴子は自分が、風に倒されたのだと気づいていった。風は神の霊、つまり聖霊のことだと、聖書の言葉を示して教えられたのである。神の意志で風を強くも弱くも吹かせることができるのだと、マリアは語った。というより、風が聖霊なのだとも極言した。すると鶴子は、神に倒され、コンクリート塀にぶつかって傷を負ったのだ。そう受け取るしかなかった。しかもマリアは、二年前の今日、私の妹が死んだ日、その日に日本のあなたに会わせてくれたとも言った。
 鶴子はあのとき、その妹と同じように死んだのだと思った。その思いは次第次第に強まってきて、鶴子に岩見鶴夫へのあの手紙を書かせたのである。もし風に倒されていなければ、鶴子にこれほどの変化は起こらなかっただろう。
 マリアは鶴子の傷の手当てをしながら、キリストについて知るところを色々話して聞かせた。
「心に重荷を持って苦しんでいる人は私のところに来なさい」
 そうマリアが諳んじている聖句を口にしたとき、鶴子は気になって、聞き返した。
「心に重荷って、どういうこと?」
 鶴子は上空からどっと雨が降りかかってきたような気がして、そう訊かないではいられなかった。
「罪の思いとか、負い目があるっていうことよ」
「誰に対して?」
「罪を犯したと思っている相手の人に対してよ。神様に対してともいえるけれど」 
 マリアはなぜこの人はこんなことを訊くのだろう、という顔をして鶴子を見た。鶴子はまだ釈然としないふうに考え込んでいた。
「罪を犯したその相手の人に向かわないで、私のところに来なさいって言うの? キリスト教では」
 鶴子はつづけた。
「その人を苦しめたり、負担をかけたりしたんだから、その人を愛することが罪の償いじゃなくって?」
「違う。キリスト教ではね。キリストが全人類のあらゆる罪を背負って十字架で死んでくださったんだから、そのイエス・キリストを信じるだけで救われるの。相手の人を愛することが償いというのは、正しいようで間違っている。それは人間中心の考え方で、どろどろした深みに嵌っていってしまうの」
 鶴子は自分の中に根を張っていた重苦しさがこの伝道者のひとことで掬い取られた気がした。これが掬いではなく、救い取られたというのではないか。
「キリストを信じるだけで、愛さなくていいの?」
「信じることは愛することなの。信じることと愛することは、同格よ。信じるからこそ、従ってついて行くことができるのよ。人は愛した相手に従って、どこまでもついていくでしょう。一生連れ添うって、そういうことよ。
 私たちが日本に来たのだって、キリストが福音を述べ伝えなさいって言われるから、それに従ってきたのよ。信じれば恵みを貰って、愛せるようにもなるの。他の人のこともね」
「他の人?」
「そうよ、私たちはキリストを信じるから、日本に来て、他の国の人と友だちになるんだもの。あなたともね」
 マリアは鶴子の肩にぽんと手を置いてそう言った。傷の手当てがすみ、包帯を巻き終わったところだった。
 それから彼女の母国のアメリカのことや、生立ちから家族構成まで、色々話してくれた。二人姉妹の妹を二年前に亡くし、今日が命日だった。その日に鶴子と出会えたのは、神様の計らいがあったから、とも言った。
 鶴子は生まれて初めての、慧也との出会いについて話さずにはいられなかった。
「そうだったの。どうしてこの人は重荷のことを追究してくるのかと思ったわ」
 とマリアは言った。それから母国から持参したという紅茶をご馳走になり、暗くなるまで話し込んでいた。鶴子がトラクト配りの邪魔をしたと謝ると、
「何言うの、これが私たちの伝道の仕事よ」
 と言って、鶴子を抱き寄せてぽんぽんと背を叩いた。鶴子は自分の将来について考えさせられることもあり、また連絡すると言ってマリアと別れた。
 先程は点灯していなかったクリスマスツリーが、今は灯を入れて一斉に輝いていた。その下を潜って行く鶴子に、そこから逃げ出したい思いはなくなっていた。何かが起こったとしか考えられなかった。足を引き摺るほど傷を負ったくせに、何という変化だろう。

 そのときを境に、鶴子の中に水位が上昇してきている感じがあった。彼女の内にも外にも風が吹いて、絶えず風に衝き動かされている気持ちだった。自分の足で歩いていながら、足は地についていないかのように軽かった。少しアルコールの入った感覚と言ってよいかもしれない。放胆になるかといえばそうでもなく、マリアに教えられた要の言葉はしっかり頭に入っていて、反芻しながら歩いていた。聖句を暗記するのとは違って、漬け物石に押されるようにじわじわと効いてくるのだ。
 そんな状態で鶴子は、勤務を終えると、マリアの寄宿する部屋の前に立っていた。マリアは留守で、扉には貼り紙がしてあった。
 近くの港教会でごほうしをしてます。ご用のかたは、TELしてください。0385363……
 慣れない日本語の書き言葉だが、何とかメモ帳に写し取って、公衆電話からダイヤルした。
 マリアは一瞬驚いたが、次にははしゃぎ声に変わって、
「今どこ? 迎えに行くから」
 と言った。鶴子は居場所を告げ、児童公園内の電話ボックスの前に、子供のように立っていた。
 マリアは十分もしないで、路地の角から笑顔を咲かせて現れた。
「どうかした? すっかり痩せてしまって」
 とマリアは自分の頬に指を立てて、鶴子の変わりようを示した。
「私、痩せた?」
 鶴子は意外な指摘に、驚いていた。マリアとは、つい二日前に会ったばかりなのである。鶴子自身あずかり知らぬところを過ぎているなと、思わざるを得なかった。
「変わったよ。マダ、二日ナノニ」
 マリアは美術品の鑑定でもするように、いったん身を引いて、鶴子をあらためて見てそう言った。
 鶴子は兄から鶴夫のこと、またマリのことなど、いろいろ思いめぐらせていた心のうちを振り返っていた。しかししっかりガードされていたかのように、大変という思いはなかった。
「いいの、いいの、気にしない、気にしない」
 とマリアは言った。
「私たちは、ソウヤッテ、神様に変えられていくのよ」
 そうマリアは付け加えた。
 マリアは缶ジュースを二本、自動販売機で買ってくると、一本を鶴子に渡し、二人は近くのベンチに座った。
「アア、おいしい」
 マリアは民家の屋根の間から届く夕日を浴びて言った。
「クリスマスに歌うメサイアの練習をしていたの」
「悪かったわ、邪魔をして」
 と鶴子は謝った。
「いいの、そんなこと。歌は私より彼女たちのほうが、できが上等なのよ」
 と同行している三人を持ち上げた。
「私考えたんだけれど、アメリカに行こうと思うの」
 そこまで言ったとき、マリアは、
「ああ」
 と唸るように語句を挟んで、ベンチの傍らに飲みさしのジュースの缶を置くと、鶴子の両肩をぽんぽんと叩いた。
「大歓迎よ、私たちと一緒に行こう。私たち間もなく帰国する。帰国して本国でクリスマス迎える。私、妹連れて帰れて嬉しい。みんな喜ぶ」
 鶴子はひとりで飛ぶより、みんなと飛ぶ方が、どんなに楽かと、そんなことを考えていた。空に目をやると、夕日の届かない雲間にある空は青かった。澄んで深い色をしている。そこにまとまって突っ込んでいくのだ。そんな思いになっていた。
「この間少し話したけれど…」
 とマリアが身を入れて、自分の住む街の紹介をはじめた。
「ペンシルベニア州で一番大きな都市。フィラデルフィア、街には自由の鐘があるよ。神学校は街を少し外れた丘にある。静かなところよ。寮はそのすぐ近く」
「試験もしないで、入れてもらえるのかしら」
 鶴子は不安を抱えて訊いた。
「大丈夫、私が推薦するし、同行の三人も推薦する。何と言っても、妹の命日にあなたに出会った証しが、大きくものいうアルヨ」
 最後は日本語の上手なマリアらしくもなく、まだらこしい喋り方になった。
 歌子は決意を固めながら、他のことは考えまいとしていた。帰って眠剤を飲んで眠れば、すぐ明日になる。本当は眠剤に頼らず眠れるようにならなければいけないが、今は何とかして苦境を乗り越えなければならなかった。
「三人にも、教えるからね」
 マリアはそう言って、今いる宿泊先の電話をメモして渡してくれた。

 
  エピローグ

 翌日鶴子は急用ができたからと、休みを取って岩見鶴夫に、あの長い手紙を綴った。兄、慧也に会ったことは、どうしても書けなかった。手紙を速達便で出した後、退職願の下書きをした。退職することについて、誰にも相談しなかった。マリアに話したことが、唯一相談と言えば、いえただろう。
 鶴夫との九州行きの約束を反故にしたことが、大きく響いて、頭ががんがん鳴りはじめた。睡眠薬を飲んで寝ても、このとおりだった。
 翌朝、つまり岩見鶴夫と旅立つはずであった朝、鶴子は通勤のためではない身支度をして、羽田空港へと向かった。彼に渡すワインとパンを、空港内のショップで買った。
 鶴夫を送って寮に帰ると、文具店で買ってきた退職願いの用紙に、昨日下書きしたものを写した。それが終わったとき、寮の二階の階段口に設置してある電話が鳴った。たいてい他のものが受話器を取って、知らせてくれるのだが、今日は鶴子が先に出て、受話器を手にした。
「あのう… 岩見鶴子さん、お願いしたいのですが」
 すぐ慧也の声と分かって、
「お兄さん?」
 と鶴子は呼びかけた。どうして鶴夫と兄は時が重なるのだろうと、その不思議さを胸の奥で噛み砕いていた。
「おおよかった。勤務先の空港とは思ったけど、念のためにかけてみたんだ。そこ、寮の電話だよね、個人の電話ではなくて」
「そうよ、私職場を休んだのよ」
「そうか、声が沈んでいるけど、体こわしたのか」
「ううん、私会社やめることにしたの。その退職願を書いていたところ」
 兄は沈黙した。実に長かった。沈黙の余韻を引きずるように、
「どうしてまた」
 と言った。
「私、アメリカに行くことに決めたのよ」
 再び沈黙だ。
「いったいどうしたというんだ。僕と会ったときには、そんな話はまったくしていなかったじゃないか」
「そうよ、急変したのよ」
 ここから鶴子は、歩いていてコンクリート塀にぶつかって大怪我をした顛末から、マリアとの出会いなど、まくしたてるように話していった。
「職場を休んだのも、怪我で歩けないからか」
 と兄は、鶴子の体を心配してきた。
「傷は、体より私の心のキズね」
 と鶴子は言って、先をつづけた。
 兄に心の急変の真相は分かってもらえなかった。鶴子を押し倒したあの風を、もろに受けたものでなければ、伝わりはしないのだろう。慧也にその風が吹くのを待っているしかないのだと、マリアに教えられた枢要な奥義のようなものを思い出していた。
「僕は洋菓子ではなく、パン作りを習うことにしたよ。だから将来は、パン作りの職人だ」
「よかったわ、学校が見つかって」
 鶴子は本心からそう言った。
「君は空港のグランドスタッフではなく、宣教師か」
「半年では学べないと思うから、もっと長くかかるかもしれない。英語を習うだけだって、大変でしょう」
 鶴子はもっと、肝心なことを話さなければと焦りながら、出てくる言葉は、こんな当たり障りのないものばかりだった。
「彼、岩見鶴夫と約束した九州にも行かなかったわ。彼は今朝、ひとりで飛んでいった」
「そうか」
 兄は心をよそに囚われている様子で、そう言った。まだその情調を引きずっている慧也に、鶴子は明るく呼びかけた。
「お兄さん」
「うん?」
 兄は依然ぼんやりした趣で、受け答えた。
「お兄さんはまだ一度も、私を鶴子と呼んでくれたことないよね。だから最後に、私を鶴子って呼んで欲しいの。そう呼んで送って欲しいのよ」
「そんなことを今おまえに、いや君に言われたって」
「今言った『おまえ』でいいのよ。おまえがいい、おまえがいい。それが本当の妹よ」
「それは分かった。しかし、おまえから改まって鶴子と呼んでくれなんて言われると、妹が遠くへ旅立って行ってしまう気がして、呼べないなあ。まあいいか、この俺もさまざまな国のパンを作るパン職人になって、アメリカにだって、どこの国だって出かけていくぞ。非営利組織のNPOの職員になって、パンを作っていくんだ」
「いいわ、今のメッセージ。私祈りで応援していくわ」
 ばたばた、ドアの開閉する音が響いてくる。電話を待っているのか。これからかけようとしている者がいるらしい。慧也もそれに気づいたらしく、
「がたがた人の気配がするね」
「電話が一つだから」
 と鶴子が言った。
「じゃ、言うぞ。鶴子、行け! あらゆる困難に挫けず、すべてを乗り越えて、飛んで行け! 
 鶴子、鶴子、鶴子、おまえがいてくれたおかげで、俺はここまで来ることができたんだ。会いはしなかったけど、おまえのために、大きな傷害事件に走ることもなく、自殺もしないでここまでやって来ることができたんだ。今おまえがキリストに目覚めたんなら、奴、いやキリストは、とうに鶴子、おまえのことなんか知っていて、おまえの苦しみを裏切ったりしてはならないと、見守ってきたことにならないか。そうなるだろう。それで俺みたいな出来損ないの兄でも、生きつづけることができたのさ。つまり俺も見守られてきたというわけさ。今こそ、おまえは、そのキリストに仕えるために、飛ぶときだ。飛べ、飛べ、鶴子! 鶴子、飛べ!」
 鶴子は電話が切られてしまうのを恐れて、
「慧也、慧也! 慧也お兄ちゃん!」
 と叫んだ。陸と空で、二人は呼び交わしていた。

               完

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