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文芸の里コミュの旅立ち 二(8)

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旅立ち 二(8)



 マリには帰りに立ち寄ると約束してあったが、神戸で鶴子の弟と会うのを取り止めたとなると、その神戸に行くのは差し控えようと思った。その旨マリには電話で伝えなければならない。
 二人は酒場を出て広い通りに沿って歩いた。夜はコートのいる季節になっていた。鶴子は白いトックリセーターの上に黒いカーデガンを羽織っている。慧也はノーネクタイで色つきワイシャツにコールテン地のグレイのブレザーを着ていた。
「うう、寒い」
 車道はさらに広くなり、真ん中が中州のようになってタクシー乗場になっている。タクシーを待つ者もなく、タクシーも停まっていない。二人はその近くに立って、タクシーを待った。慧也のホテルとは方向が逆なので、まず鶴子をタクシーに乗せてから、慧也もタクシーを捕まえるつもりだった。だだっ広い通りを風が落葉をさらって吹いている。
「うう、寒い」
 鶴子は声を震わせて首をすくめた。慧也はそんな妹が哀れでならなかった。彼が傍に寄ると、鶴子はたまらず兄にしがみついてきた。その妹を慧也は正面から抱き寄せ、二人は抱擁の姿勢になった。彼女は兄の胸に顔を強く押し付け、腕を腰に回して、ショルダーバックが肩から外れそうになっても構わなかった。「お兄さんとこんなことできるのは、これが最初で最後よ」
 鶴子はそんなことを言った。声の調子から訴えているようにも聞こえる。兄と妹はそうやって十分近く抱き合って立っていた。
 そうしていると彼女の体が小刻みに震えているのが判った。
「寒いの?」
 と兄は訊いてみる。
 鶴子は首を振って、
「こうしていると温かい」
 と言った。すると震動しているのは、鶴子の鼓動なのだろうか。彼は妹との初の体験をそんなふうに訝る。健気で高貴な兄思いの妹の魂に触れている気がした。
 光が揺れて、タクシー乗場に一台の車が入ってきた。鶴子がはっと揺さぶられて、そちらへ身を泳がせる。彼女が車に乗り込むと、慧也はホームから列車を見送る駅員のように、果敢に手を振った。

 鶴子はこの夜も寝付けなかった。初めから予定を立てていたわけではないが、だんだんそれがしっかりと形作られてきていた。今では、どうしても実現しなければならないもののように思えてきた。それも早急に。今日慧也と会うまでは、彼と一緒に神戸の土を踏むはずであったのに、それがならないと判ったときから、鶴子の中に独りでも出かける決意が固まってきていた。いやもっと前から、漠然としてではあったが、霧の中の杭のように霞んで立っていたものが、目に見えるもの、動かせざる確固としたものとして定着してきたといったほうがよい。
 やっぱり明日午前の便で出かけよう。彼女は寝返りを打ち、顔を枕の上に伏せながら呟いていた。眠れなければ眠れないほど、決心は不動のものとなっていった。
 昨夜寒空の下でタクシーを待ちながら、慧也に抱かれて立っていたときのことを思い出していた。兄に甘えたい気持がむらむらと起こってきて、それに克てなかったのだけれど、いけなかったのだろうか。何といっても、深く安心できたし、もっとあのままいたかったのに、タクシーが来てしまって、慌しく別れてしまったのだった。「またね」とタクシーに乗り込みながら言葉をかけたのだけれど、そのまたねが、今度いつ来るのかまったく当てがなかった。そんなどうしようもなさを囲ったまま帰宅したのだから、安らかに眠ることなど無理に決まっていたのだ。これから睡眠薬を飲めば、明日まで残ってしまって、目的の行動が取れなくなる心配があった。
 明日は何としても決行するのだ。鶴子は自分に言い聞かせた。敵に向かうのではなく、最も信頼できる級友のところへ出かけるのだから、頭の疲れた情態で行っても、級友が補ってくれると思えた。
 級友とはマリのことだ。そのマリに鶴子は慧也のことを頼みに行こうと考えていたのである。彼女に任せれば安心していられると思った。同じ神戸で、実母とは二十分と離れていない土地で生活できるのだ。慧也にとっては、ひとみのいる神戸の土地が故郷ともいえる。彼もそんなことを洩らしていた。
 マリに会いに行くのだから、睡眠不足の過労もサポートして貰えると思った。逆に、こうも考えた。睡眠薬を飲んでふらふらした体で出かけても、彼女なら大丈夫。充分鶴子の心を汲んで庇ってくれるだろう。
 鶴子は少しでも今の苦しみから解放されるように、眠りたかった。いざ睡眠薬を飲みに立ち上がろうとしたところで、また心が変わった。あと三錠しか残っていなかったのに気づいて、もっと大きな苦しみが襲ってきたときのために、温存しておこうと思った。今は慧也とも会えたのだし、彼は私と会って何とか苦境を乗りこえられたのだから、それを考えても、自分が苦しむ理由はないはずなのだ。 鶴子はそれから二時間は寝つけなかったが、最後は煩悶の疲れから、眠りに入ったらしかった。目が覚めたときは、カーテンの上に日の光りが踊っていた。この明るさは、夜が明けて相当の時間の経過を教えている。時計は九時半を指していた。出かけようと思った。出発は羽田空港。鶴子は慌しく支度をした。

 慧也はホテルを出て、地下鉄の駅に向かっていた。すぐマリに電話しようとしたが、百円硬貨が少ないのに気づき、どこかで何か買って崩そうとしていた。買うものが思いつかないまま、駅に来てしまい、そのまま地下鉄に乗った。電車を降りてからも、懸案の電話がかけられず、早く買う物を決めなければならなかった。金沢の家に土産ということもあるが、祖父母には近くライブがあるので、そのための猛練習をするため倉庫に寝泊りすると話してあった。既にひとみから電話がいって、すべて知らされているのかもしれなかった。しかし今更、事荒立てるものでもないと、彼等なりに大人の判断を下しているのだろう そんなわけで、祖父母への手土産などよけいな心配だった。買うものがなければ、金沢までの乗車券の釣銭に期待するしかない。そう思いついて、東京駅の乗車券売り場へと歩いて行った。
 自動販売機で四枚の硬貨が手に入った。電話ボックスではないが、何台か電話機の並んだ所を見つけて、マリの家に電話をした。
 マリが出た。
「東京駅の公衆からなんだけどねえ。悪いけど、神戸へ行けなくなったんだ」
 マリの声が遠くなった。というより、声が出てこなかった。しばらくして、
「何があったの」
 と冴えない声がした。
「君のおかげで妹には会えたよ。一昨日と昨日と、二日にわたってね。随分いろいろな話ができた。すべてマリさんのおかげだよ。感謝している」
「どうして神戸に寄れなくなったの?」
 声は弱々しいが、追究の姿勢は伝わってくる。
「疲れてしまったのもあるけど、それだけじゃないんだ。実は妹は僕を神戸に連れて行って、弟に会わせようとしているんだよ。僕にはそれは荷が重くてね。とても会う気持ちになれないんだよ。妹に会って話をしただけで、くたくたなんだな。何といっても、これまで一度も肉親とは話したことがなかったんだよ。それが実母からはじまって、妹の居場所を突き止めて(君に教えて貰って)鶴子に会えはしたけど、どっと逆に押し寄せてくるものがあってね。妹は家族に会わせようとして、その手はじめに弟と考えたらしいんだけど、とてもじゃないけど、僕のほうがしりごんでしまってね。あんなに故郷、故郷と憧れていた間はよかったんだけれど、それが転がり込んでくると、こんどはその反動で、心がストップしてしまったわけだよ。
 そんなわけで、妹と神戸に行くのを断って、君と会うために神戸に寄るというのが、どうも具合が悪くなってね。だから別の日に改めて神戸に行こうと思ったんだ」
 次々と硬貨が吸い込まれて消えていく音がしている。
「悪いけど、硬貨が四枚しか手に入らなかったので、電話が切れてしまうんだ。家に着いたらまた電話するから……」
「分ったわ、また電話して、きっとよ―」
 慧也は公衆電話を離れて、八重洲口の広々とした駅構内を歩き出した。

 慧也の電話から三十分と経っていなかった。マリは胸が収まらないでいるとき、店に一人の若い女が駆け込んで来た。女はマリに取り縋って、倒れ込みそうになった。苦しそうな息をしている。悪いものに追われているな、そう直感して、マリは表に睨みをきかせた。追っ手は現われず、正午に近い日が射しているだけだ。不審の念にかられて、マリは自分に抱きついている女の顔を覗いて仰天した。「岩見さん!」
 そう叫んですぐ、さっきの慧也の電話が交差して、ただならぬ事態が出来したと思った。鶴子が嫉妬に狂って押しかけてきたのだ。マリはにわかに緊縛の体となり、顔面蒼白となって、自分の取るべき態度に窮していた。
「お水ちょうだい」
 鶴子は掠れ声でそう言った。
「とにかく中に入って説明してね」
 マリは病人を庇うように言って、少しも気を緩めなかった。奥へと導きながら、いったい何事が起こったのかと、猜疑心を深めていった。先程の慧也の電話では、鶴子との間に不穏なものがあったとは受け取れなかった。ことば通り、神戸で弟と会うのを取り止めたから、同じ神戸のマリの家にも寄れなくなった。それだけのこととして受け取っていた。それが破綻をきたしたとすれば、鶴子が何か邪推をしたのだ。マリは自分自身の心を覗けば、邪推されても仕方ない面もあるが、だからといって、にわかに妹になったものが、兄の恋愛を邪魔立てする理由があるだろうか。それこそ彼女は赦されぬ恋の道に踏み込んでしまったのだ。このままでは自分の身が危ない、とマリは思った。しかし逃げるつもりはなかった。法律を楯に取れば、自分のほうが正当なのだから。いよいよになったら、法を
武器に戦って勝ち取るまでだと、自分に言い聞かせた。けれどもそうしていいものなのだろうか。慧也の今の本当の心が知りたかった。もう少し確信に迫れる言葉なりと、残してくれたらよかったのに。今は電話が来るのを待つしかないのだ。
 何としても鶴子の口を割らせなければならない。話すから水をくれと言っていたことに気がついて、鶴子を椅子に坐らせると、冷蔵庫に飲み物を取りに行った。
 慧也が飲んだのと同じグレープジュースが一本とオレンジジュースが一本あった。慧也と同じものを鶴子に飲ませたくなかったので、それを自分が飲むことにし、鶴子にはオレンジジュースを渡そうと思った。
 鶴子はうつろな目をして、ぽかんと坐っていた。店に駆け込んできたときの、殺気立ったものは消えて、ぼんやりしている。その鶴子にオレンジジュースを持たせた。
「ありがとう」
 受け取っても彼女はすぐ飲もうとはしなかった。
「マリちゃんがいなかったら、私どうしようかと思ったわ。昨夜はほとんど寝ていないのよ」
 そう言う鶴子の目の辺りは落ち窪んで、そのくせ目そのものは腫れぼったかった。鶴子の今の顔立ちは、彼女の普段の美しさの半減もいいところだった。マリの記憶にある深く沈みこんだ鶴子には悲愴とも言える美があったが、今はそれが感じられない。
「お兄さんと、何かあったのね」
 とマリは打診を入れる。
「いいえ、お兄さんはお兄さんで、自分の道を探ってひた走ってきたんだけれど、私が勝手に苦しんできたんだわ。言ってみれば私の片思いよ。純粋な片思いともちょっと違うけど、そのようなものよね。このままでは、付き合ってる彼にも悪いし、私本当にどうかしなければならないと思ったの」
 そこまで話して、鶴子は一息ついた。
「ジュース飲んで。声が嗄れてるよ」
 とマリは言った。今になって、自分のジュースを彼女にやってもよかった気がした。
「ありがとう、いただくわ」
 鶴子は手元を見もしないで、小瓶の蓋を取り、ゆっくり口に運んでいった。そこまでは緩やかな自然の流れになっていたが、ジュースを一口飲むと、噎せて辺りをジュースの飛沫で濡らした。咳き込みが止まらないので、マリは鶴子の背中を鎮まるまでさすった。それからタオルを取りに家に駆け込んで行った。「ごめんなさい。私やっぱりどうかしてるわね」
 鶴子は涙でいっぱいにした目をタオルで拭って言った。
「どうかしてるわ、本当に」
 マリは鶴子のことばを受けて言いながら、飛び散った汚れを拭き取っていた。今の鶴子は、世話を焼かせる幼子のようだとマリは思った。深く悩む時期はあっても、優等生でありつづけた鶴子は、いったいどこに行ってしまったのだろう。マリは信じられないまま、鶴子のことばを待っていた。
「お父さん交通事故に遭われたんですってね。そんな大変なところに、兄と私と難問を抱えて駆け込んできて、ご迷惑よね」
 鶴子はいくらか落ち着いたのか、そう言った。
「いえ、父は足の切断にいかなくて済んだから助かってるの。リハビリで歩く練習のために、母が付き添いに出かけているけど。私より、あなたの家族に持ち上がった問題のほうが大変よ。何といっても心に関わることだもんね。それで。お兄さんのほうは、あなたに会って片がついたの? 片がつくなんて言い方おかしいけど」
「そうなの、納得できたかどうかは、兄の心に尋ねなければ分らないけど、私と会って、いろいろ話し合う中で、蟠りもとけていったみたい。でも生立ちからくる過去の傷のために、自活さえできないできたのよ。さんざん挫折を繰り返し、にっちもさっちもいかなくて、生みの親に会おうと決断して出て来たんだもの。それが母には母の思惑というのか、母なりに貫いてきた生き方があって、吾が子であるはずなのに、近くに置けない感情があるらしくて、それが兄を二重三重に苦しめてきたのね。
 私は私で、母のそんな理解できない心まで被さってくるものだから、兄の苦しみが心配になって悩んできたんだわ。高校二年生になったばかりのとき、兄の突然の家出で、はじめて母に父違いの子供がいたと分ったの。それまでまったく知らされていなかったのに、兄が追い出されるような形で生きてきたと思うと、すべて私の責任のように感じられたの。孤児として生きてきた兄の孤独感とか、辛い日々がびしびしと伝わってきてね。
 そんな兄の存在すら知らないで、ぬくぬく育ってきた自分を赦せない思いにかられたのね。兄をそんな目に遭わせてきた負い目というのかしら、兄が家出して行方が判らないときなんか、兄がどこかで行き倒れするとか、自殺してしまうんじゃないかと、それはそれは私悶え苦しんだわ。もし兄が死を選んでいたとしたら、私は今生きていないと思うの。兄はそうはしないで、ロックバンドに加わって、狂気に駆られた生き方に身を委ねていたらしいんだけど。
 人間って、負い目があると、その相手の人を愛することで、罪を償おうとするものなのよね。知らず知らず愛するようになっていくの。私の選んだ道がそれだったのよ。私は罪から逃れるために、兄を愛していったのだと思うの。そうすることが、私の生きていける罪の償いだったの。でもね、それは道ならぬ恋に繋がっていたことに気づかされたの」
 鶴子はそう言うと、溢れてくる涙をティッシュで拭った。
「分るよ、鶴子さんの気持。高校生のとき、急に落ち込んでしまったあなたを、私見ているもの。見ているだけで何もしてあげられない自分の力の無さが情けなくてね」
「私覚えているよ。マリちゃんが傍に来て、じっと私を覗き込んでいたのを。あのときは何か言う元気はなかったけれど、随分慰められていたんだわ。それがあるからこそ、今だってこうして、マリちゃんに向かって飛び込んでくることもできたんだと思う。それが真実の気持。
 私ね、兄をあなたにそっくり任せようと考えたの。他の誰でもなく、あなたにお任せしようと思ったの。私の勝手なお願いなんだけど、そうすることが、私の救いの道なのよ。でも、マリちゃんに、決めた人いた?」
 マリは大きく頭を振って、男などいないと言った。それから抑えきれなくなって、泣き出してしまった。今度は鶴子がマリを庇う番だった。
「彼がここに飛び込んで来たときね」
 マリは慧也との出会いのはじまりを、こんなふうに切り出した。「メモを手にして、しきりに商品の雑穀の上に視線を走らせているのよ。それがあまりに長いもんだから、私たまらず『お客さん、何をお探しですか?』って訊いたの。そうしたらメモを私に見せたのよ。そこには雑穀の名前なんかなくて、**マリと、私の名前と、それに並べて店の住所が書いてあるだけなのよ。私思わず叫んでしまったわ。『嫌だあ、これ私の名前でしょう』って」
 鶴子はそれを聞いて、つられて笑ってしまった。と同時に、そのときの兄の本当の目的はどうであれ、マリを求めていたことになると思えて嬉しかった。それであれば、鶴子が突きつけた要求も的外れとは言えないのである。人の意思とはかかわりなく、人生には軌道が敷かれている、何故かそんな気もした。「で、お兄さんの気持はどうなの。私なんかを好きになってくれるのかしら」
 マリは懸案のものを、そんなふうに持ち出していた。
「兄はね、こんなこと洩らしてたわ。もし私との対面が不可能になった場合を想定して、マリちゃんと出会えたことで、そこが故郷になるかもしれないと、自分に言い聞かせたらしいの。実の母の住む土地で、しかもそこから二十分も離れていないところにいるあなたに出会えたことを、唯一の拠り所にしようとしたらしいの。それは私と出会えたからといって、破談に終わることを意味しないでしょう」
 マリは頷きはしたが、もっと強いしるしが欲しくて落ち着かなかった。しかしこれは鶴子に話せなかったが、あのとき慧也と成行きでそうなったとはいえ、彼との抱擁と接吻が最大の力強い立証だと思った。そのことを想い出すと、体が熱くなってきた。

つづきます

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