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文芸の里コミュの旅立ち 二(7)

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旅立ち 二(7)


「どうしてなんだろうね。ひとみさんを責めるわけじゃないけれど、僕が昨日話したことを信じて貰えて嬉しいよ」
「もしかしたら、母はあなたに白状して謝らなくちゃ、謝らなくちゃと思っているうちに、話したと思い込んでしまったんじゃないかしら。だとしたら重症だわ」
 慧也は腕組みをして考え込んだ。二日前に会った母の挙動の一部始終を思い出そうとしていた。しかしそれは無理な相談だった。慧也自身、冷静さを欠いていたし、生後三十年にして実現した母と子の出会いが、いつ絶たれるか今日という刻限の中で心を痛めていたのだ。
「ひとみさんにも、いろいろあっただろうからね」
 慧也はひとみを母と呼べないのがもどかしく、そして情けなかった。兄と妹とそれぞれ別の道を歩んで来たものが、片方の母を横取りするように母と呼ぶわけにはいかないのだった。それだけではない、言葉にならないものを、うちに秘めて。
「それで」
 と鶴子は、別の問題に話を逸らそうとして口ごもった。逸らすといっても、こちらも慧也と深く関わったところから発しているので、額を指で押さえる充分な重さがあった。彼女は親指と人差し指で額の眉の上辺りを押していた手を離すと、つづけた。「私が、ある人に悩みを打ち明けたという人が、昨日話しかけた岩見鶴夫なの。分るでしょう。慧也さんを待っていたら現われた人よ。その人には、慧也さんの経緯を全部話した。自分には父違いの兄があって、いつか私の前に現われると思っていたとき、岩見鶴夫を名乗って登場したから、てっきり兄さんだと思ってしまったって。だから私の人生は、十年前から慧也さんがらみなのよ。あなたは一度家出して戻った後は、ずっとおとなしく家にいたようなことを言っていたけど、金沢の祖父母からは、
何度も慧也がいなくなって、今どこにいるか分らないって連絡してきたのよ。そのくらい私に関わってきたんだもの、どうして他人事に思えるの。そもそもあなたを追い出す形で私と弟は生まれてきたのよ。あなたが母の子供だと知らないうちはよかったわよ。でも知らないままのほほんと生きていくことなんかできるはずはなかったの。あなたをそんな酷い目に遭わせておきながら、どうして健全な家庭を築いていけるの。それこそ天罰が下るわよ。高校二年生の初めまで知らないできたことだって、大変だったのだから。知らずに過ごして来てしまった年月はどうしたら取り戻すことができるの。あなたへの負い目は高じていって、罪の意識を私に植え付けたわ。その罪を贖うには愛するしかなかったんだわ、あなたを」
 鶴子は震えながら最後の言葉を言い切った。慧也は面を浮かせて鶴子を見た。煙草を口に運ばず、灰皿に押し付けて消していた。
「悪かったよ。家出なんかして、君の家庭をそんなに引っ掻き回してしまって。でもこれだけははっきり言えるんだけど、君に対しても君の弟に対しても、恨みなんかこれっぽちもなかったよ。しかし僕の心はどうしようもなく荒れ狂っていた」
「自分の心と体があるべき場所に置かれていなければ、そうなるわよ。それは祖父母の育て方が間違っていたとか、そういうこととはまったく次元が違うの。ねえ、明日神戸に帰らない?
 私昨夜弟に電話したの。大まかなことは話したわ。いきなり家に行くのも抵抗があると思うから、まずその下準備として、あなたと弟と私の三人だけで会うの。その中であなたは私の家の漠然としたイメージだけでも掴むのよ。それから神戸の街を案内したりして、徐々に徐々に慣らしていくのよ。その上で家に入る計画を立てて、近いうちに実現するのよ。だから明日私と神戸に行こう、ね、いいでしょう。弟も会いたがっているし、そこであなたを騙して、家に連れ込むようなことはしないから、大丈夫、安心して」
 鶴子はそう言うと、伝票をさらって席を立って行こうとした。
「僕が払う」
 そう言っても聞こうとしないので、「ひとみさんから貰ったお金、多すぎるから君に渡そうと思っているんだ」
「何言ってるの。怒るわよ。少しは母の気持を汲んであげて」
 長く話し込んだ後、鶴子は今までと打って変わって大胆に荒っぽくなっていた。外に出て電話ボックスを探すときも、「慧也君、あそこに立っているの電話ボックスじゃない?」 などと言った。それが本来の妹の姿だと考えたのか。それならそれでいいとしても、慧也君はないだろう。そう思ったが、口には出さなかった。
 二人は歩き回ってようやく電話ボックスを見つけた。鶴子は無理に慧也を誘って狭いボックスに二人向かい合って立った。慧也は鶴子が電話で何を弟に伝えようとしているのか、見当がつかなかった。先程の話からすれば、明日鶴子と神戸に行くという返事になるはずだった。しかし彼にはその決断はついていなかった。
 鶴子が自宅の電話番号を回しはじめたとき、「ちょっと待ってくれ」
 と止めにかかった。鶴子が何を言うのかと口を尖らせて彼を見た。
「弟に会わせてくれるのは嬉しいけど、そんなにいっぺんには無理だよ。いっぺんに君の家に行くのは無理だと思って、まず弟に会ってと気遣ってくれるのは嬉しいんだけど、それだって、僕には急すぎるんだよ。今は君に会っただけで、充分満足しているんだ。初めからそのつもりでいたんだし、その思いが果たせたんだから、大満足で、ほかに言うことなしなんだ。その上、弟さんに会うとなると、僕には荷が重過ぎるというものさ」
 鶴子は何とかして明日の神戸行きを実現させたいらしかったが、慧也の心は硬く閉ざしていて動かなかった。特につい先程彼女の口を衝いて出た愛の告白とも取れることばの内容が、長きに亘って飢え渇いていた胸の中心にどさっと入ってきて、今はそれを大事にして帰りたかった。何ものにも邪魔されたくなかった。それは唐突で意外性を帯びてはいたが、そのことばを聴くために、鶴子に会いにきたといっても、言い過ぎではなかった。
「どうしても行けないの?」
 鶴子は眉を寄せて近くから慧也を見上げた。至近距離で接する妹は、熟しきらない果実の幼さを持ち、純粋そのものだった。弟が在籍する地元の名門大学とか、有名銀行とか、そんな中に紛れ込ませたくない美しさを、彼は鶴子の中に見ていた。有名無名で人間の価値が決まるものではないと分ってはいても、卑屈に竦んでしまっている自分をどうすることもできなかった。
「せっかくの好意を踏み躙るようだけど、本当に充分なんだ。君の家族に接近すれば、元の木阿弥になるなんて思えないけど、今の情態以上に恵まれることを僕は望まない。このまま帰りたい」
「分ったわ。私なんか何もしていないって言うのに、変な兄さん。それなら、そう電話するわ。弟待っていると思うから」
「悪い」
 そう謝って、彼は鶴子が自宅の電話番号を押すのを目で追っていた。まったく無心に、心の通じた者の仕草を間近に観察するのは、初めてのように思った。ひとみがお好み焼きをひっくり返す手つきを見ていた情景を思い出すが、あのときよりもっと近しく血の繋がりというものを感じ取れた。
「祥太? ママは?」
「ロンリーらしくて、部屋に籠もってるよ。やっぱりこたえたのかなあ……」
「しぃー」
 鶴子はそう発語して、弟をセーブした。「明日のことだけどね、慧也お兄さん、疲れてしまったらしいの。神戸で母に会って、東京で私と会って、都会に出てくるだけで神経に響くというのに、三十年もの空白があっての出会いでしょう」
「じゃ明日はキャンセルかよ。せっかく楽しみにしていたのに」
「祥太には悪かったわ。お詫びに、お小遣い振り込むから」
「オーケー。そうこなくちゃな。さすが姉だよ、なるべく早くね」
「慧也お兄さん、祥太さんにはよろしくって。改めて出直して来るってさ」
「分ったよ。そのときはエレキのテープ持参するように言っておいて」
「話しておくわ」
 鶴子は受話器を置いて、しばらく電話機の冷たい覆いに寄り掛かっていた。
「これでよかったのかしら」
 鶴子は心残りをそんなふうに言って、慧也につづいて電話ボックスを出た。
「祥太残念がっていたけど、これでいいの。焦っていいことと、悪いことがあるわ。心の問題は急かすと駄目よね。ねえ、これから派手にぱっと行こう。打ち上げは景気よくいかなくちゃ駄目なのよ、沈んでいちゃ。それにどうしても聴いておかないといけないものもあるし」
「何だろう、今更」
「それは次のお店に入ってからよ」
 二人は寂れた通りから賑やかな通りへ、また路地をいくつも曲がって繁華街へ、目的があるように、あるいは無心に、思いのままという足取りで歩いていた。ほとんどことばは交わさなかった。そもそも兄妹とは、そういうものなのだろう。お互いにそういう認識を深く埋めながら歩いて行った。
「慧也さんが入りたいと思っているのは、ああいうお店なんでしょう」
 鶴子は、電車のガード下に明々と灯をともした居酒屋を指差していた。
「よく分かるね」
 慧也はほっと息をついて、そう言った。鶴子と一緒にいて、心は満たされていたが、体が酒を求めていたのも事実だった。それもただの酔いではなく、これまで彼を培ってきた安酒場での酩酊―そういったものを鶴子と共有したくなっていた。
「上司の男性グランドスタッフに連れられて、二、三度来たことがあるの。もちろん他の女性スタッフと一緒によ。
 そのうち辿り着けるかと、内心不安を抱えながら歩いてきたら、ちゃんと着けちゃった」 鶴子は焼鳥の煙と客の熱気にむんむんする店内へ進みながら言った。
「そうか、無目的かと思ったら、狙っていたのか。それにしては勘が鋭いね。あんなに経巡って来ながら、探り当てるなんて」
「狙っていたとか言うより、慧也さんが行きたいのはどういうお店かなあ、と考えていたらここに到着したということ。だってお寿司や屋さんのアルバイトでは、そんな贅沢もしていられないでしょう」
 奥まった位置に小テーブルが空いていた。そこに向かい合って腰掛ける。年増の女性がお絞りを持って注文を訊きに来た。煤けた壁にはメニューがべたべた貼り付けてある。慧也はそこからいくつか馴染みの料理を頼んで、「君は何がいい?」
 と訊いてみる。
「私? 私は鮭の料理がいいな」
 そう言って壁に目を這わせた。鮭と聞いて、慧也は一昨夜ビデオで観た丹頂鶴の群れる北海道の湿原を思い出していた。そこにも川があって、鮭も上って来るはずだった。しかしあんなに大きな魚をどうやって捕まえるのだろう。まさか鶴が熊みたいに鮭を食べたりはしないのだろう。
 鮭の生姜焼きというのがあったので、それを頼んだ。飲み物にジュースを加えようとすると、鶴子はそれを拒んで慧也と同じ熱燗にすると言って聞かなかった。
 演歌が鳴っていて、さっきまでいたイタリアレストランとはあまりにも雰囲気が違うので、慧也は気になっていた。それを言うと、彼女は、
「私ビートルズだって、みんながいいと言うほど好きってわけじゃないの。だから演歌にだってそれほど拒絶反応は起きないわ」
 先程はラモーンズの奏でるピアノの哀調が鶴子の語ることばと響き合っているように思っていたのだが、余計な詮索と言うべきだった。鶴子は外部に囚われることなく、彼女の胸のうちだけを語っていたのだ。
 熱燗の徳利が運ばれてくると、鶴子は慧也に注がせようと空の杯を差し出した。
「大丈夫かなあ」
 彼は酒を注ぐのに躊躇いながら言った。あるところから、鶴子が豹変したように思えてならなかったのだ。彼女の胸の内を掴めていないので、彼は兄としての力不足がもの悲しくなっていた。もっと早く出会っていれば、妹を深く理解してやることもできたのにと思えたのである。
「ワインとかビールなら、日頃からけっこういける口なんだから、平気なの」
 鶴子はそう言って、もっとなみなみと注ぐように要求した。
「職場での君については、実地見学のような形で見せてもらったけど、職場を離れての生活はどうなのかなあ」
「普通のオーエルと変わりないのよ。休日が変則的なところは違うけど、あとは起床、出勤、帰宅、帰宅途中の買物、休日の洗濯、お掃除、ほかはプライベートなところで……それぞれ悩みもあるでしょうね。
 私にとっては、この悩みの部分が普通より多いのかもしれない。どうしても考えちゃうのよね。同僚のようにぱっと切り替えができないの。生きていく上で解決できないようなことまで引き摺ってしまうというのかしらね。ときどき人間って、どうしてこうも不幸なんだろう、なんて考えはじめると、とことん突き詰めていってしまって、最後は沈み込んでしまうの。こんな話、誰にでもするんじゃないのよ。お兄さんだからよ。ああ、もっと早く会うんだったなあ。そしたら、いろいろ聞いて貰えたし、相談相手にもなって貰えたのに。お兄さんは両親も兄弟姉妹もいなくて、それはそれは淋しい思いをしたでしょうけど、私だって兄不在の空白の時間を送ってしまったわ」
「うん」
 慧也は手元の杯に目を落としたまま頷いていた。こういった人生的、哲学的な問題についてなら、妹のほうが深く悩んでいる気がした。彼は自分の浅薄な脆弱さを衝かれたようで、鶴子に引け目を感じた。確かにこれまで、親兄弟がないということで、その欠乏を埋めたい思いがまさっていて、妹の訴える普遍的な哀しみとか悩みにまで届いていなかったと痛感したのである。卑近な話、酒場やバーでおっとりとしたふくよかな女性に母性を求めて彷徨っていた自分を見たようで恥ずかしかった。それでは満足いかず、神戸に足をのばし、それでも叶わず鶴子に会いに来たのだと思えた。
「お兄さん、自分の苦しみとかを聞いて貰える彼女いるの?」
「いない」
 彼は首を横に振った。
「そうよね。いたら今回だって、一緒に来たよね。そしたら親を突き止めたときの惨めな思いだって、少しは解消されるもの」
「そういう君はどうなの。さっきは悩みを告白したとかいうところまで話したけど、その先が聞けないでしまった岩見鶴夫という人のことは」
「そうなの、そもそもその人との出会いの発端となったのが、お兄さんだったでしょう。そのお兄さんがひょっこり登場したとなると、また話が変わってくるのよね」
「どう変わるの?」
 慧也はここにきて、兄としての責任を感じ顔を上げて妹を見た。
「うまくは言えないんだけれど、私はお兄さんにずっと囚われていたの。あの初めてお兄さんの存在を知らされた高校二年生になったばかりのときから、ずっとそうだった。二年前、岩見鶴夫という人が現われてから様相が変わったけど、それは余計深刻さを増し加えただけだったの。なぜって、その人が当のお兄さんだと思い込んだんだもの。それっきり現われなかったものだから、お兄さんは私を見届けた後、死んでしまったんじゃないかなんて、考えたりしたわ。
 ところがそのお兄さんだと思っていた人が、突然二年振りにふらりと現われて、彼なりに温めてきた同姓同名の意味するところを語って聞かせるんだもの。それはね、こういうことなの。
 二年前、彼は母親の危篤で、北海道へ帰らなければならなかったの。日航、全日空と空席がなくて、エアシステムに来たら空席があったの。その搭乗券を扱っていたのが、岩見鶴子の名札をした私だったものだから、彼はびっくりして、何か吉報と受け取って帰った。つまり医師にも絶望を宣告されていた母親が、奇跡的に救われるというようなことを想像したらしいのよ。ところがお母さんは彼が駆けつける前に息を引き取っていたの。そうなると、吉報だと受け取った同姓同名に近い私との出会いが判らなくなってしまったのよ。
 そこから彼なりに、母親の死を前提とした私との出会いを空想しはじめたってわけ。つまり大切な母親はこの世から消えてしまうけれど、代わりに私と出会わせたのではないかと。そういうふうに考えると、神なのかどうかは定かではないけれど、そういった絶対者が存在していて、会わせてくれたのではないかと洞察するのだけれど、一方で偶然の一致という思いも出てきて、二年間はそんな漠然とした日を過ごしてしまったの。そして二年振りにふらふらっと羽田に来てみたら、私がまだいたのにびっくりして、洗いざらい話してみることにしたらしいのね。
 私は私で、二年前お兄さんが現われたと思い込んで、岩見鶴夫が北海道へ搭乗手続きする上で残した電話番号に電話をしていたのね。けれども彼の記載ミスで通じなかった。でも岩見鶴夫がお兄さんなら、電話番号を教えるはずはないと考え直して、また現われるのを待っていたわけ。そこにひょっこり岩見鶴夫が再登場したんだもの、無視することなどできなくて、会うことにしたの。
 でも、出発がそういうことだったし、今お兄さんのことを絡めて考えると、混乱してくるわね。彼と二度目に会ったときなんか、こんなことを言うのよ。お兄さんが彼の夢に現われて、二度と妹に会うな。会ったらただでは済まないぞって、脅されたんですって。でも二度目に見た夢では、妹をよろしく頼むと言われて、グラスをチャリンと鳴らして義兄弟の契りを結んだんですって」
「その夢、半分は当たっているよ。僕がそこにいたら、そのように動いた気がするもの。昔不良グループに入っていたから、凄みを利かすのなんてお手のうちだしね。こんなの自慢にもできないけど」
「そうでしょう。私だって、彼から最初に見た夢の話を聞いたあと、不安でならなかったもの」
 と鶴子は言って、杯を空にして慧也の前に突き出した。
「大丈夫かよ。若い女性が、そんなに軽々と空にして」
 と慧也は心配して言った。
「いろんなことがあったんだから、いいでしょう」
 と鶴子は兄に甘えて見せた。
「まあ、悪い人ではないようなので安心したよ。それで、僕との実質的な共通点というのはあるのかなあ。これまでの話の中にはそれが出ていないんだけど」
「そうなのよね。彼にはちゃんと両親があったしね。今は二人とも他界してしまったけど、二親の愛情をしっかり受けて育てられたんだわ。それでも彼は、自分は故郷に根付いていないから、根無し草みたいにふらふら定めなく揺れていなければならないんですって。それで日本人の源流は邪馬台国にあって、それは九州に違いないから、そこに出かけて自分の眼で確かめて来るなんて言うのよ。日本人は自分の根源が見えていないから、孤独で希望が持てず、限りなく不幸なんですって」
「いい身分だな。そんなこと言ってられるだけ。彼って、学者の卵?」
「いいえ、研究生として残っているっていうけど、実際は卒業できなかったんでしょう」「いいなあ、僕ももう少し若かったらなあ。若くて頭が切れたら良かったんだけど」
「ねえお兄さん、さっきここに来るとき、聴いておかなきゃって、言ったことなんだけれど……」
「いつ訊かれるのか、びくびくしていたよ。しかし何の話なの。思い当たらないんだけど」「マリさんのことよ」
「やっぱりそうか」
「ということは何かあったのね?」
「別に何もありやしないよ。ただ固い約束があったんだね。僕が鶴子さんの現住所を尋ねてきたことを、絶対ひとみさんには密告しないという。彼女はそれを守ったんだ。それは確かだ。どうしてかというと、現に君と僕はこうして会えたんだからね」
「何よそれ?」
「実は君には大雑把にしか話していないんだけど、君の現住所を訊き出すには、僕にもそれだけの身の証をしなければならなかったわけさ。それでなければ、警戒して口を開いてくれないよ。だから僕はひとみさんは実母で、昨日(ということは、三日前になるけど)三十年振りに出会ったことも話したんだ。ひとみさんは僕を家族に引き合わせたくないようだったから、鶴子さんの住所も訊けなかったこと。そしてもしマリが、岩見家に電話をして、大国慧也という人物が鶴子さんの居場所を尋ねてやって来たなどと洩らしてしまったら、ひとみさんが即君に電話を入れて、僕が尋ねて行っても、会ったりしないように忠告すると思えたからね。そうなったら困るから、マリに絶対洩らしたりしないように頼んだ。指きりだってしたんだよ」
「それでおおよそ見当がつくわ。彼女あなたのことが好きなのよ」
「またずばり核心を衝いたようなことを言うもんだね。どうしてそんなことが言えるんだよ。確かに彼女は親切で、親身になって話を聞いてくれたし、特上の寿司の出前を取ってくれたりもしたよ」
「私の勘が当たってるわ。私マリちゃんのことを信用する理由はね、これもあなた絡みになるけれど、高校二年生のとき、私が落ち込んだでしょう。そのとき一番心配してくれたのが彼女だったの。マリちゃんとは友だちでもなかったし、親しく話し合う仲でもなかった。だから私が落ち込んでいるからって、何も心配する謂れはなかった。それなのに休み時間なんか私の横の空いた席に来て、じっと私のことを見ているの。どうしちゃったのかしら、この人って顔をして。
 私そんなマリちゃんのことを信じられるの。話したり親しくはしなかったけど、中学高校を通して、一番の親友だった気がする。遠く離れてみて、それがひしひしと伝わってくるのね。あなたに接したマリちゃんが、どういう態度を取ったかも分るのよ。あの子は私のこと好きだったんだと思う。私もマリちゃんが好きになった。卒業してお互いに顔を見なければ見ないで、好きな気持を継続して持っていられたの。マリちゃんだってそうだと思う。あなたはママと似ているし、そのあなたは私とも似ているはずだわ。だってママがPTAの授業参観で来たとき、みんなに私はママとそっくりだって言われたもの。としたら、マリちゃんはよけいあなたのことが好きなんだわ」
「よけい? よけい好きだって?」
 慧也は鶴子の口走った謎めいたことばを押さえ込んで訊いた。
「そう、よけいよ。だってそうでしょう。私は女で、あなたは男よ。女性が男の人を愛するのはごく自然の成り行き。それにあなたには、私にとっても未知のものがあるんだわ。それはママが惹かれていったものよ。だからママは私をあなたから離そうとしたの」
 慧也はますます深い密林に迷い込んでいくような思いに駆られていた。証拠物件として、あの雪原の鶴のビデオを出すべきかと考えていた。しかしそれはあいにく、ビジネスホテルの鞄の中だ。そしてそのビデオを再生したからといって、確かな証拠を示せるというものでもなかった。
 彼は自分の中で昏迷を深めている母の心から、話題を逸らす必要を感じた。そうしなければ内部分裂を引き起こすとか、のっぴきならない事態に陥りそうだった。
「今回、金沢から出て来た第一の狙いは、僕の故郷探しだったと思うんだよ。それはさっきも言ったけど、君と出会う中で満たされていった。もし君が僕を避けて逃げるとかして、会見が実らなかったとき、マリさんが僕の中で大きな位置を占めると思った。それは神戸にある第一の故郷には足が届かなかったけれども、同じ神戸の地にあって君の家とも近いマリと関わることで得られる故郷に次ぐ何ものかになるはずだった。これは君と通じたからといって、マリさんが消えたということではないよ」
「良かったわ。あなたの気持が分って」
 鶴子は心からそう思っているように洩らした。店の客はいくらか減ってきていた。それは先程までのどよめくばかりの談笑が静まり、ひんやりする風が外から入ってくるようになっていることで感じ取れた。
「お兄さん、金沢にはいつ帰るの」
「明日になると思う。焼き菓子の専門学校に入学したら連絡するよ」
「これ私の寮の電話」
 鶴子はメモを渡した。

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