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文芸の里コミュの旅立ち 二(6)

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旅立ち 二(6)


 羽田空港に降り立ってから、ほぼ七時間が経とうとしていた。鶴子の所在を突き止めるのに手間取り、見つけて話しかけてから一時間の待ち時間を経過し、空港内のB&Bで話し、ここに移って続きを話してきた。
 その内容は以上のようなあらましだった。
もちろん、記してきたすべてを語ったわけではない。鶴子の顔色を窺がいながら、都合の悪いところは省いた。マリとの関わりなどは、大雑把にしか話せなかった。帰りに報告がてら立ち寄ることも、省いてしまった。なぜ言えなかったのか。それは兄妹の間にも秘密はあるということなのか。もっと別なものがセーブにはたらいてしまったものか、慧也にも判別できなかった。
 写真館で見た鶴子の憔悴した写真については、どうしても話さないではいられなかった。マリの話として、高校二年生の初め頃から、鶴子が暗く沈みこんでいたということも。
 それを言ったとき、鶴子は深く頷いて、当時を想い出したのか、眉間に皺を寄せて渋い顔になった。
「それそれ、今の君の顔だよ。写真館のアルバムにあったのは。他の生徒の顔写真とはまったく違うんだ。悩みに悩み抜いている顔だった。それが写真に出て、人に何と言われようと、構ってはいられないといった悲痛なものを囲っていたよ」
 鶴子は急所を衝かれたとでもいうように、にわかに豹変して、
「だって、それはあなた、慧也さんのせいなのよ」
 と開き直った。それはマリとの対話の中で一致していたので、彼は鶴子の素直さを発見できて嬉しかった。
「僕が十年前に家出したときのこと?」
 鶴子はゆっくり頷いて、込み上げてくるものを抑え込もうとした。
「悪かったね、でも僕としても、どうしようもなかったんだ。出生の疑問を詰め込んでおくと、それに追い詰められて、何も手につかなくなってしまって」
「分るよ、慧也さんの気持が分るからこそ、私も大変だったのよ」
 鶴子はハンカチを出して、目頭を押さえた。それでも涙は溢れてきて、ハンカチを外せなくなっていた。
「でも羽田に来て、最初に君を見たとき、あの写真からは想像できないほど明るく輝いていたから、ほっとしたことも事実だった」
 と慧也は言った。自分が緊張していたために、鶴子のエキスパート振りに目を見張るものがあって、上辺だけしか捉えていない不安もないわけではなかった。
 鶴子は鶴子で、慧也に明るく見られたことが意外だった。反面、今彼女の心に占めているものが、慧也の上からいくぶんずれていることを、ありがたくも感じていた。と同時に、心に占める対象が、慧也から岩見鶴夫に入れ替わっているのを、今登場した兄に済まなく思ってもいた。
 もしあのとき、鶴夫が現われていなければ、鶴子の心は、いつ現われるかもしれない慧也のために、押しつぶされていたかも分らない。けれどもこれを、慧也に話したところで、何もはじまりはしないだろう。慧也が悲劇の主人公のように厳然として存在することを、あのとき母に告げられてからというもの、鶴子の人生は変わってしまったと言えるくらいだったのだ。それだけ悩んできたというだけで、兄への済まなさは半減されると、鶴子は信じた。
 それにしても、何ということだろう。岩見鶴夫と、鶴の鳴き声が慧也(ケーヤ)だと語る慧也。二人揃って、鶴を武具としてかざして現われたのだ。しかも空の玄関口羽田に勤務する、もっとも小さなと言っていい、女性グランドスタッフの自分に向かって来るとは。岩見鶴夫の登場は、母親の死をきっかけにしていたが、父違いの慧也ときたら、彼自身のいのちに関わっての登場といっていい。実は、彼の耳には入れなかったが、家出騒動のとき、祖父母は慧也の行先として、自殺名所として不名誉な名のある断崖絶壁の海を挙げ、そこに連絡すら取っているのだ。本人が死を仄めかしたわけではないが、祖父母がそう直感したことが重大だった。鶴子の悩みは、そこから大きく渦を巻いて、彼女を襲ってきたと言って過言ではなかった。父違いの兄の不幸を知らずに、ぬくぬくと育ってきた自分が、彼を死に追いやるという自責の念は、そこからはじまっていた。それは今も消えたわけではなかった。
 岩見鶴夫が現われて、異性としての彼に比重が移ったからといって、兄が今登場したからには、等閑にしていいはずはなかった。鶴子の悩みは、また緒に就いたかのようだった。「そんなに泣かないでくれよ。僕が来たのが悪かったのかなと思えてしまう。僕は君に会って、故郷を確認したかっただけなのだから。生みの母親に出会えただけじゃ、とても故郷を確かめたとまではいかなかったんだ。あのままでは、とても帰って行けなかった。お金は沢山貰ったけど、僕が欲しかったのは、お金では買えないもの、どこにも売ってなんかいなくて、掛け替えのないものだった。それが僕の失ってきた故郷だったんだよ。父違いの君に出会えば、それを分けて貰える。そんな期待があったからこそ、君の住所を探して歩き回ることもできたんだよ。僕の言うこと、おかしいかなあ。この歳になって、そんなものを欲しがっている、僕が間違っているんなら、そう言って欲しい」
 鶴子はきっとして面を上げると、
「間違ってなんかいないわ!」
 と言った。目が怒ったように吊っていた。「私が長い間悩んできたのだって、あなたをそんな目に遭わせて来たのに、気づきもしないで、今もずっとそんな状態に置いてきた自分の無力さとか腹立たしさみたいなものだったのよ。私の方から出かけて行くべきだったのよね。それができないままに悶々と日を送ってきてしまって、そのうちにあなたの方からやって来てくれるかもしれないって、待つことに心を切り替えたの。そうしたら……」
 鶴子はそこで行き詰ってしまった。
「そうしたら?」
 と慧也は静かに先を促した。
「何でもない」
 そう言って鶴子は苦笑した。しかしごまかす自分が悪いような気がしてきて、「あなたではない人だったの」
「僕が現れるかもしれないと、待っていて、現われはしたけど、僕ではなかったんだ。分らないままに注釈すると、こんなことになるけど、これではまったくもって不可解だ。現われた人が僕の名を語って来たということ?」「言い出しておいて、投げ出すのってよくないわね。濃霧の中に難破船を置きっぱなしにするみたいで。あなたの名前ではなく、私の名前を語って来たの。『岩見鶴夫』って」 
「岩見鶴夫か、なるほど君の名前だね。その者が、かたりとか詐欺師だった?」
「悪い人ではないわ。その人なりの挫折があって、同姓同名に近い名前に、何か偶然の一致とは違う運命的なものを感じたらしいのね」 鶴子はこれ以上を語りたくなかった。話すと鶴夫を貶めるというより、自分自身を傷つけるような気がした。
「まあいいよ、それは。僕のことを知っている者じゃなかったんだ、その男は」
「そうなの。だからあなたのことは、まだ片付いていなかったの。あなたが母に会って、片付かなかったくらいだもの、当然よね。私に責任があるし、私の家族に責任があるわ。私何とかする」
 鶴子は決然としてそう言うと、下唇を噛んだ。憂い顔に沈んでいった彼女とは、別人のように凛々しくなっていた。
「いいよ、そんな無理しなくても。母は僕を家族に入れたいとは思っていないんだから。僕は妹の顔を見て帰ればよかったんだ」
「でもなぜは母は、家族に会わそうとしないのかしら。父は母に首っ丈だから、いくらでも言うことは聞かせられるんだけど。父は母に言い寄ったときから、あなたのいることは承知していたのだし、堂々と会わせられるのに」
 慧也は飛行機の中で閃いたものを、鶴子に開陳することはできなかった。それはあまりにも突飛すぎたし、慧也のなかにしまっておきたいいのちの奥義に触れるたぐいのものだった。口に出すことで、色褪せ砕けてしまう怖れもあった。
「それはもしかしたら、君が鶴子で、僕が慧也という名前のせいかもしれないね。ともに鶴に関わる名前をつけられながら、一つ屋根の下では生きられないんだ。それを問い詰めたって、はじまらない。命名したそのことが問題なんだ」
「分るような分らないような変な感じだわ。きっといつかそのうち、ひょっこり思いつくようなものなのかもしれない」

 家族に会わせると言い切ってからの鶴子は、落ち着かなくなり、翌日勤務が退けたら、このレストランで再会すると約束して二人は別れた。
 慧也は羽田に着いてすぐ予約したホテルに向かって歩いた。途中で方向が掴めなくなり、タクシーを拾ったが、鶴子と明日会う約束があるので、心は軽かった。希望とはこんなにたやすく手に入るものなのか。これもやはり、故郷という妙薬なのだろうか。そんなことも考えていた。
 ホテルにチェックインすると、ベッドに倒れこむようにしてすぐ寝てしまった。母ひとみに会おうと決意して、それを果たし、足りないものを娘の鶴子に会って補うというのは、金沢の実家にいるうちから、最悪の場合として考えていたことだった。実際は最悪とはいえなかったが、その手順に従って行動できたことが、ヘマばかりしてきた慧也らしくはなかった。不思議だ。これまで計画通り進んだことなどなかったのに、今回の神戸行きと、妹探し、そして妹との出会い。それらは何故か夢のなかでのように実現していった。自分の力で動いているのに、ベルトに乗って流されていくような感覚だった。本当に夢を見ているような何日間だった。
 一方の鶴子はどうなったのだろうか。帰寮した彼女は、夕食はとらずに部屋にこもり、神戸の実家に電話をした。慧也との契りでひとみには内緒ということだった。母は二日前に慧也と会っているので、動向が気になるところだった。かといって、まさか探りを入れるわけにもいかない。そんなことをすれば、むしろ鶴子のほうこそ探られるかもしれなかった。しかしこれまで週に一度は実家に電話しているので、電話だけで怪しまれるとは思えない。
 幸い受話器を取ったのは祖母だった。祖母は耳が遠いので、鶴子からとは気づかず、祥太かね、と声を張り上げて確認を取り、その二倍の声で二階の祥太を呼んだ。
 間もなく弟が二階から下りて来て、受話器を握った。彼が電話の主を確認する先に、
「シー、姉さんから祥太に、内緒の電話だよ」 と声を抑えて言った。
「オーケー」
 彼は二階の回線に電話を切り替えて引き返して行った。
「何だよ、いきなり内緒の電話なんて、気味悪い」
「今日ね、金沢の慧也兄さんが、羽田の私の職場に尋ねて来たのよ」
「慧也兄さん?」
 弟は不意を食らったようにぽかんとしてしまったが、「ああ、ずっと前に家出した人か」 と落着した様子になった。
「で、何の目的で羽田に?」
「そこなのよ、私が今電話しているのは。つまりね、慧也兄さんは私にも、祥太にも会いたかったらしいの。でもママが会うのを快く思っていないみたいなの。慧也兄さんはそれで、必死になって私の現住所を探し回ったっていうのよ。私の高校時代の同級生の家を尋ねたりして、M校指定の写真館にあるアルバムから住所録を見つけて、探し歩いたの。それで雑穀商の娘のマリさんが、私の同級だったと突き止めて、そこへ行って訊き出したのよ、私の勤め先を」
「でも、どうしてママは僕たちに会わせたくないのかなあ――パパに気兼ね……でもないな」
 と言って、さも愉快そうに笑った。
「笑い事じゃないのよ。祥太も真面目に考えて」
「考えてるよ、どんな兄貴なのかは知らないけどさ。昔家出して、大騒ぎさせたくらいしか」
「本人にとっては、それはそれは涙ぐましいほどの事情があってのことなんだから」
「俺は別に家出したからって、慧也さんの品位が下がったなんて、これっぽちも思っちゃいないさ。むしろくよくよじめじめ考え込んでいるよりは、すかっと家出でも何でも決行しちまったほうが男らしいよ。俺だって……」「祥太あなたは何言ってるのよ。私は真剣に相談に乗って欲しくて長電話してるのよ」
「そうだった。東京からだったね」
「彼はね……」
「彼? 彼だって? 愛人でもないのに、そんな呼び方するなって」
 鶴子はうろたえ気味になって、一つ息を呑んだ。それから、
「慧也兄さんはね」
 と言い改めた。
「慧也兄さんはどうしたって」
「彼、いや慧也兄さんのエレキギターはプロ級の腕よ」
「へっ、大学へ行かなかった分をそっちに入れ込んだのか。それじゃ敵わないや」
「祥太、こんど習ったらいいわ、慧也兄さんに」
「それより、慧也兄さんを我が家に迎え入れるのが先決問題だろう」
「そうなのよ、それで電話したのよ。頼れるのは祥太しかいないから」
「姉弟だけなのは淋しいね。その点もう一人増えれば心強いさ」
「祥太、そう思ってくれる。嬉しいわ。さすが弟ね。それでいきなり慧也兄さんを家に連れ込むのも、衝撃が大きすぎるから、外で三人で会うのはどうかしらと思って。私、明後日が休みだから慧也兄さんを連れて、神戸入りしようと思うの」
「待てよ、あさってか」
 祥太はカレンダーに目をやって、予定の書き込みを睨んでいる様子だった。
「いいよ、レポートの提出があるけど、大したものじゃないから」
「時間とかは、後からでも電話入れるけれど、あさって、午後から予定に入れておいてね」
「オーケー、それから聞くの忘れたんだけど、彼って、いかすの? たとえば誰みたい?」
 鶴子は「祥太だって、彼って言うじゃないの」
 そう反駁しそうになって、言葉を飲み込んでしまった。そうして先程まで一緒にいた慧也を、瞼の中から引き出そうとしていた。すると彼女がこの十年間思い描いてきたイメージと、ぴったり重なっているのに気づいて唖然とした。
「そうねえ、私はママに似ているって言われるけど、私よりママ似だわ。目と鼻、そして額のイメージなんか、そっくりだわ。当たり前だけど、パパとは似ていない。パパが背筋をぴんと張って、堂々としているのとは対照的ね。育ちが影響したのかもしれないけど、日陰者のイメージだわ」
「ママに似ているんなら、いかしているじゃ」「パパ寄りの祥太とは、逆ね」

 その夜鶴子は長いこと眠れなかった。浮かんでくるのは、慧也に聴いたひとみと慧也の父、慧作との儚くはあっても熱く燃えた青春のドラマだった。とくに慧作が寝ているソファの下にひとみが寝ていたことの説明として、いつも彼の傍にいたかったからというくだりに、それが表われていた。母はそんなにも慧也の父を恋慕していたんだと深く頷くとともに、母の一生はそこで終わっていたのではないかと、鶴子は女の一人として切なさに襲われた。傷を負った慧作の手を庇って湯を探し回るあたりは、母のひたむきさと純真さがひとかたまりになっていて、今の母にその片鱗を探そうとしても、見い出せなかった。ということは、ボランティアとして働く慧作について歩く母の学生生活の何年かが、黄金時代どころか、そこで燃焼し尽していたのではないか。ボランティア活動を舞台とする切ないデートが、掛け替えのない青春だったのだと納得した。
 鶴子は行き止まりになってしまった母と慧作の上に、自分と慧也を重ねて夢見ているのを実感した。ひとみが鶴子になり、慧作が慧也になっていた。何らの苦心もなく、知らず知らず自然にそうなっていた。地震で噴き出た溜り湯の一つに浸っているのは、慧也と自分だった。いくら造作もなく浮かんできたシーンだからといって、決して見てはいけない夢だったのだ。
 そこに気づくと、鶴子は頭を揺さぶり、甘美な夢の想像を打ち消そうと腐心した。母と慧作が行き止まってしまったからといって、そこを慧也と自分が引き継ぐことはできなかったのだ。もっと大きな決定的な終止符が打たれているのに気づかされた。
 とても眠れそうもなかった。夢の映像を消そうとすればするほど、くっきりと像を結んで、リアリティを喚起してくる。明日慧也に会うのに、眠れない腫れぼったい目をして行きたくはなかった。以前睡眠障害で医師の診察を受け、マイスリーを貰っていて、いざ眠れないときのためにと、少し残してあったのを思い出した。
 そうだわ。あのマイスリーを飲もう。彼女は起き出すと冷蔵庫から眠剤を見つけ出し、一粒口に入れた。カップに水を注いで、喉に流し込んだ。以前、病院に行ったときのことを思い出そうとしていた。もしかするとあのときも、慧也が関わっていなかっただろうか。疑心は、即溶解して思い出していた。やはり慧也が絡んでいた。岩見鶴夫が現れたときだ。それを慧也が岩見鶴夫の偽名でやって来たと思い込み、悩みに落ち込んだときだった。
 薬は効いて、間もなく眠りに入った。起き出したときは薬効が残っていて、足がふらふらした。仕事をしながらも、昨夜の夢の名残りに襲われ、夢と格闘しているようなものだった。私は不幸だ、と鶴子は呟いていた。何故か母が不幸だと考えずに、自分が不幸だと思い込んでしまっていた。
 母が慧也と鶴子を逢わせまいとしている心根が、うすうす読めてきたのである。逢えばかつての自分たちのように、深く結ばれる運命にある。そう睨んだから、二人を出会わせまいとしたのではないか。慧也と鶴子は、母と慧作のような普通の男女ではなかったのだ。幼少から一緒に育てられたのであれば、間違っても恋に落ちるなんてことにはならないのだろうが、実際は遠く離され、しかも今回が最初の出会いだったとなると、血の絆は実感としてはあまりに乏しく、無いにも等しいのだ。そんな二人が出会うのはやはり危険この上もないことだったのだろう。ひとみは自分が慧作に惹かれていった過去を知っているがゆえに、鶴子がそうなる因子を持っていると判っていて怖れていたのではないか。
 鶴子は勤務についていても、慧也のことが気がかりでならなかった。あれほど心配させてきたもので、その不安の原因を持った彼が、鶴子の中に住みついてしまっているかのようだった。あのときから、彼を身籠って胎内で育ててきたのだ。しかしそんな彼を、手放さなければならないときが来たようだ。ひとみの後を継ぐことが鶴子に赦されていないとしたら、誰がくるのだろう。慧作から慧也に移された舞台を、ひとみから誰にそのバトンは渡されるのだろう。ぴったりだと思っていた私が適役でないとしたら、いったい誰が相応しいのだろう。
 同僚の中に目ぼしい人を探してみたが、すぐに思い描ける者は浮かんでこなかった。もっと身近にいるような気がするのだが、その人が浮かんでこないのだ。
 そうだ、マリさんだ! 鶴子は忘れていた人を思いついて一人で意気込んでいた。マリちゃんなら、慧也さんを大切にしてくれる。マリちゃんなら、彼を粗末にしない。私のこともいろいろ気を遣ってくれたし。私が家出した慧也のことで落ち込んでいたときなんか、横から私の顔をじっと見ていたものだ。どうしちゃったのかしら、この人? そんな感じだった。
 ところで慧也さん自身は、彼女のことをどう感じているのかしら。昨日は粗筋みたいなことしか言わなかったけれど。今日会ったら、さっそくそのことは聴いておかなければならない。独り言を呟いて、時計に目をやった。まだ二時間は優にある。
「はい、鹿児島行きの五十四便でございますね。空席がございます。二名様でいらっしゃいますか」
 鶴子は慣れた口上で次々と搭乗手続きをこなしていった。岩見鶴夫が慧也より先に現れたのには、やはり意味があると、今にして考えられた。もしいきなり慧也が現われていたら、どんなことになっていたか。それを思うと、彼女の中で血が騒いだ。人は負い目が高じていくと罪を意識するようになる。その罪を贖うために無意識のうちに愛してしまうこともあるのではないか。その愛が間違った方向に行っているのに、気づきもしないで。

 鶴子が約束したレストランに行くと、慧也は煙草をふかして煙の中に坐っていた。気がさしたのか、彼はその煙を手で追い払うようにして、彼女を迎えた。
「よく眠れた?」
 鶴子は東京の一夜の印象を訊いた。
「ホテルに着いて、ベッドに倒れ込むと同時に、ぐっすりだったね。夢のようだ」
 彼は言葉の流れが変な調子になったので苦笑いした。慧也に比べると、自分はどうしたというのだろう。眠剤に頼って、ようやく短時間の睡眠を確保したのである。慧也より自分のほうが、相手に関わる時間が長すぎたのだと思った。苦しむのは患者本人より、周りの者のほうだといわれているのは本当だと思った。
 鶴子が黙ってしまったので、
「君は?」
 と慧也が心配そうに尋ねた。
「いろいろ考えてしまって…。しばらく眠れなかった。昨日慧也さんは、母に電話をしたのは初めてと言ったわよね」
「後にも先にも、ひとみさんの声を電話で聴いたのは初めてだよ。でもどうしてそんなことを、僕に訊くの?」
「どうしてかというと、実は以前、ある人に悩みを打ち明けたら、こう言われたの。もちろん悩みはあなたについてよ。十年前自分の生立ちに疑問を抱いて家出までした人が、四、五日したら家に戻って、それからはおとなしくなってしまったというのが理解できなかったの。慧也さんが家出したときなんか、金沢のお祖父ちゃん、お祖母ちゃん、母、私、弟、父、同居の祖父母、もっと言えば、母の兄に当たる金沢の伯父さんまで神戸に訪ねて来て、対策を相談していったのよ。捜索願を出すことについて。あと一、二日待ってみて、ということになったんだけど、そんな際どいときにあなたは舞い戻って、嵐は収まったんだけれど、嵐は私の中に移って吹き荒れはじめたんだわ。その頃家に変な電話もかかってきたのよ。ひとみという人はいるかとか。子供は何人とか。父の職場はどこだとか。電話が鳴って、出たらガチャンと切れてしまったり」
「悪かったよ。何を言ったかはっきりは覚えていないけど、バーでぐでんぐでんに寄って店の女の子に頼んだりしていたから。僕も電話したことはあるけど、話をするまではいかなくて、電話に出た女の人が、ひとみさんなのか、お祖母ちゃんなのか、もしかしたら君だったのか、掴めていないんだ。だからさっき言ったのは、本当でもあるんだよ。ひとみさんの声を聴いたのは、初めてというのは。
さっきは悪かったよ、そんな電話のことまで言えなくて」
「あなたは何にも謝ることなんかないわ。もし私が同じ情況に置かれていたら、精神科に入っていたと思う」
「話が尻切れ蜻蛉になっているみたいだね。君は誰かに相談したところまでいったんだよ。僕が家出の後おとなしくなった理由について」「そうだったわ。私頭がどうかしている」
 鶴子は言って、指で額をしばらく押していた。慧也は鶴子の細くて白い指に目を留めながら、か弱いものを苦しめてきたんだなと、済まない気持ちになった。
「寝不足のせいだよ。僕がいろいろ話したからなあ。君の知らないお母さんのことまで」
「話してくれてよかったの。そうでなかったら、私一生分らずじまいになってしまったわ。それでさっきの、慧也さんがおとなしくなった理由。私の悩みを聴いてくれた人は、こう言うの。『あくまでも僕の勘だけど、お母さんはその父親違いのわが子に、こっそり出生の秘密を話してしまったね』って。『物事は、特に生立ちが謎に包まれているうちは、荒れ狂って自分でも収拾がつかないものだけど、判ってしまうと、憑き物が落ちたかのように鎮まるものだよ』って。
 それで私は母に電話をして訊いてみたの。『金沢の慧也お兄さんに、出生の秘密を話してしまったでしょう』って、ずばり言ってしまったの。そうしたら『鶴子よく気がついたわね。実は慧也さんから電話があって、お母さん包み隠さず話して、謝ったわ』ですって。それを聴いて、私だいぶ楽になったのも事実だったのよ。ところが慧也さんの昨日の話では、母と話すのは初めてだったというし、私もそれは信じられたの。すると理解に苦しむのは母の心よ。どうして私にあんな見え透いた嘘を言ったのか、考えれば考えるほど判らなくなっていった」

          つづきます

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