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文芸の里コミュの旅立ち 二(5)

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 旅立ち 二(5)

 慧也は十年前神戸を訪れたときの様子を、事細かに話していった。岩見家について知っているものに向かって話すのは、心の開放に繋がった。故郷について語り合う友を得たような思いだった。岩見家の当事者ではなく、それゆえに客観視できる立場のものということで、話もしやすかった。特に、一家の主岩見祥一郎については、「あなたとは、鮮やかな対照を成すほど似ていない」と断言した。さらに「彼は胸板が厚くて長身で、正々堂々前を向いて歩いていける人よね。良く言えば男の中の男よ。それに比べてあなたは……」 マリは慧也の顔色を見たのか、それ以上言及しなかった。しかしこの見立ては重大な意味を持っていた。なぜなら、岩見と慧也がそれほど違うのであれば、前夫と岩見も大きく異なっているはずで、もし慧也が岩見家に留まれば軋轢のもととなるのは避けられないと察せられた。慧也にそんな不憫な思いはさせたくない。マリの言葉は、自分を選ばなかった母を、何とか理解しようとしていた慧也の助けになった。
「そんな岩見に圧倒されて、僕は即、神戸を離れたくらいだからね」
「あなたは立派よ。おなかの中には、怒りや怨念や、言葉にできないほどのものが溜まっていたはずなのに、この人は自分の父親ではないと確信すると同時に、引き返したんだもの。普通はそんな潔い行いはできないものよ。世の中にある、どろどろした血なまぐさい傷害事件なんて、そういう生きるぎりぎりのところから発生しているものだわ。生まれてからずっと抑えてきたさまざまな感情があったはずでしょうに」
「いや、言われるほど立派じゃないさ。そのまま立ち直って、この世で成功者になっていたのであれば、君の言う通り立派な人、もっと言えば、聖人になったかもしれない。しかし実際の僕は、そういかなくて、今戻って来たんだよ。そんな男がどうして立派なんだよ」「立派よ。素晴らしい男よ。男の中の男よ。だって、戻って来なければ、どうして私はあなたに会えたのよ!」
 マリはこう声を高ぶらせると、泣き出してしまった。
「悪かった、悪かった。そういう見方もあったんだね」
 慧也はマリの肩に手を伸べ、軽く叩いて言った。
「私、鶴子さんのことが心配になってきちゃった。あんなに落ち込んでいたのは、父親の違うお兄さんがいるのに、自分はまったく知らないでぬくぬくと育ってきてしまった。あなたは、家出するほど傷ついて苦しんでいるっていうのに。それはもう、同情を通り越して、あなたの背負ってきた苦しみは自分が与えたという罪意識と、それを自分が引き受けなければっていうところまで、追い詰められていたんだわ。
 血が繋がっているといっても、離れ離れに生きてきて、しかもそのときまで知らずにきたのよ。そんなあなたは、血縁ではあっても、血の繋がりのない、まったくの他者でもあるのよ。つまり、この広い世に生を受けている異性、恋愛の対象にできる男性よ。判る?
私の言いたいこと」
「判るような、判らないような」
「そんな特殊な情況の中で、恋をしていたんじゃないかと思ったの。そんな鶴子さんに、あなたが会いに行ったら、どうなるか、私、心配になってきた」
「そんなことで悩まないでくれよ。僕が予想だにしていないのに。君にそう言われると、なぜか自分が、ひどく劣った人間に思えてしまうよ…」
 空疎な議論と思いつつ、彼はそう言った。マリはそれには取り合わずに、話を飛ばしてきた。
「明日になったら、あなたは鶴子さんに会う。そうしたら、今私が持っている権利は期限切れになってしまうわ」
「何だよ、その期限切れっていうのは」
「お母さんに、私から密告しないっていう約束よ」
「何だつまらない」
「つまらなくないわ。あなたに関して、私が握っている強みは、たったのそれだけ。明日になったら、無効になってしまう、ちっぽけな、ちっぽけな権利」
「では君は、その権利を行使して、僕が鶴子と会えなくしてしまうっていうのか」
「そんなこと言ってないわ。私はその権利を、今のうちに有効に使うのよ。ねえ、鶴子さんに会って、その結果を私に報告するために、遠くなるけどこちら回りに乗って、もう一度、神戸に寄ってちょうだい。電車代とかホテル代とか、私が持つから」
 マリは真剣にそう言った。本当に明日で切れてしまう、儚い権利を握っていると思っているらしかった。
「いいよ、米原からだと距離的にはだいぶあって、立ち寄るイメージではないけれど、ここは故郷でもあるんだから。僕を生んだ母親の住む土地であり、心の故郷なんだからね」「嬉しいわ。せっかく会えたのに、これでお終いになると思うと、たまらなかった。あなたの登場はそれほどドラマチックだったのよ。だって、メモを見ながら雑穀を探しているのかと持ったら、いきなりメモをかざして、そこには私の名前が書きつけてあるんだもの。それなら、雑穀の代わりに私を買って行ってって言いたいくらいよ」
「いいよ、分ったから。約束すれば、今度は約束を守らせるのが、君の権利としてつづくわけだろう」
「よく分かるね、人の気持ち」
「人の気持ちというより、マリの気持ちは分った。あれ、マリなんて呼び捨てにしてしまったけど、いいのかな」
「いいよ、いいよ、商売を手伝っていると、生き方がせちがらくなってしまうのかしら。権利だとか、担保にするだとか。でもあなたに対しては特別よ。裸一貫でぶつかっていくしか、術がなかったの」
 電話が鳴って、マリが半歩家に踏み込んでそこにある受話器を取った。
「あ、お母さん。変わりはないよ、お客さんが来て話し込んでいるけど、いや、私のお客さんよ。高校時代の友達のお兄さんで、名前は言えない、えへへ、あっ、そうお母さんも友達とお茶しているんだ。いいよ、ゆっくりして来て、私も夕食は店屋物で済ませるから」 マリはいったん電話を置くと、「ねえ、あなたは何がいい?」
 と顔を出した。
「何でもいいよ、君の好きなもので。僕は好き嫌いはないから」
 慧也は言って、酒が飲みたいと思った。しかしそれは言えなかった。いつか言える仲になるのだろうか。そうも思えるし、そうも思えなかった。自分の人生には初めから靄がかかっていて、払い除けても払い除けても、周囲から押し寄せてきて視界を曇らせてしまうのだ。
「並じゃないよぉ、トクだよぉ、しっかり握ってよ、特別なお客さんなんだから」
 マリはお茶を淹れるのに、奥へ引っ込んだ。 寿司は二十分と経たずにやって来た。折を置くとき、出前の男はちらっと慧也を見た。この一瞥が後ほどマリをからかうネタになるのだ。自分がどう捉えられたか、いつかマリから報告を受けることになるのだろうか。そこまで二人の間はつづくのだろうか。それも不明だった。
 手間取っていると思ったら、マリは普段着を脱ぎ払って、すっかりめかしこんで出て来た。
「びっくりさせるねえ。内着のマリもいいけど、外着のマリは一段といかすよ」
「ありがとう。途中まであなたを送って行こうと思ったの。食べたら、少し早いけどお店を閉めて」
 とマリは言った。冬に向かうこの季節にピンクのドレスは、時代を先取りしていると言えそうだった。ドレスの襟には青いネッカチーフを巻いている。慧也は直感した。明日会いに行く鶴子と競っているな、なぜかそう思わないではいられなかった。
 二人は寿司を食べはじめた。
「ごめん、お搾り出すの忘れてた」
 マリは片方の突っ掛けを逆さまにして駆け込んで行った。
 慧也はアルバイトで自分が握っている寿司の味と、比べながら食べていた。大まかに言うと、地元で食べなれた寿司は味が濃く、こちらは淡白だった。太平洋と日本海の魚の違いかな、などと素人考えで寿司を咀嚼していた。寿司を握っているとは、どうしても言えなかった。
「早く閉店にするのも、どうかと思うし、僕ひとりで帰るよ」
「どうして、私がいたら邪魔?」
「そんなことはないけど、ちょっと寄るところがあるし」
「誰かと会う約束でもあったの?」
「そうじゃないけど、ちょっとね」
 そう言って、グラスを口に運ぶ素振りをして見せる。
「そうじゃないかとは思ったのよ。手が震えていたし。私そういうあなたを治してあげたいとも思ったの、傍にいて。でも本当は私の我侭よね。こういう気持って」
 慧也は曖昧に首を横に振って、
「いや」
 としか言えなかった。こんな応答しかできなくなっているのも、酒が切れたせいかも知れないと薄々気づいていた。

 四十分後、慧也はマリの家からそう離れていないスタンドバーで、カウンターに寄りかかり熱燗をちびりちびりやっていた。
 せっかく外出用に装ってきたマリと一緒に出ないのは悪い気もしたが、東京からの帰りに寄ったときのために、神戸の街見物は残しておきたいと言って別れて来た。折から客も来て、あわただしい場面もあったが、一時の別れとしては格好のお膳立てになった。何しろ客があっての商売なのだ。闖入者の自分が、長い客との信頼関係をそこねてしまっていいはずはない。
 三方を取り囲むカウンター内が厨房になっていて、おかみさんが一人で切り盛りしている。ひとみより一回りは年配に見えるが、頼れる母親のイメージは、こちらのほうが上に見えた。カウンターには、六、七人の客が寄りかかって酒を飲んでいたが、男ばかりで、みんな沈黙して、目の行っている先は、中で立ち働くおかみさんその人だった。彼女から郷里の母親を想い出しつつ酒を飲んでいる感じだった。客はお互いに黙りこくって、一人として話しているものはいない。言葉は酒か肴を注文するときにだけ発せられる。慧也は厚揚げと煮込みを口に運びながら熱燗を傾けていたが、これが神戸での食べ収めとなるはずだ。
 明日は早く起き出し、神戸空港から羽田へと飛び立つつもりだった。鶴子が東京の空の玄関口羽田をあずかっているのなら、飛行機で行くのが順当だろう。その方がはじめて会う父親違いの兄として相応しく思えた。機はやはり、彼女の勤務するエアシステムにしよう。
 銚子三本を空けて外に出たときには、市場通りに面した店の多くは閉店していた。彼は暗がりから逃れるように、街の中心へと足を運ぶ。これまでもそうだった。街が暗くなっていくのが、自分のことのようにせつなかった。二十四時間営業とある看板にぶつかると、彼はほっとして息をつくのである。それはここ神戸に来ても同じだった。
 慧也は夜空にネオンの弾ける方角へと足を向けた。明日になれば、血の繋がった妹に会える。マリに教えられて控えたメモ帳を、ぽんと上から手で叩いてみる。胸ポケットにはっきり重たい膨らみとなって収まっていた。大きな収穫だ、と彼は呟く。妹、鶴子の所在と、もう一人、同級生のマリ。彼には共に熱い息吹を届ける存在になっていた。あの鶴子の絶望の淵に浸っているような写真と、その写真の主から触発されて、彼に忠告を垂れるまでになったマリ。
 昨日から今日にかけての出来事を思うにつけ、酒による高揚が重なってきて、慧也は久しぶりにエレキギターを爪弾きたくなっていた。自棄のやんぱちで掻き鳴らすギターと、今弾きたい気持とはがらりと違う。苦境から逃れるときのギターは、悲しみを逆行するが、今は同じ悲しみでも、内部から湧き上がってくる。今のは逆撫でして堕ちて行くのではなく、生まれ湧き出てくるものだ。
 彼は神戸の夜の街に、ミュージックショップを見つけて入って行く。酔いが回っているので、視覚がおぼつかない。視覚がおぼつかないのは、足がふらついているせいだと、酔いの頭で考える。なるほど目がぶれるのは、足のせいだ。マリには悪いことをしたなあ。あんなにめかし込んで、一緒に出たがっていたのに。俺はすぐにも酒を口にしたくて、一人で飛び出て来てしまったんだ。東京からの帰りには、ぜひ大事にしてやらなければな。大事にするということは、彼女と結ばれるということなのだろうか。手に職もないというのに、そんなことができるものか。慧也が帰る間際に、彼女が並べ立てていた事々を頭に浮かべてみる。雑穀売り場を半分に仕切って洋菓子店にしてもいいよ、なんて言っていたぞ。親に相談もしないで、よくそんなことが言えるよ。彼女の本気がとっさにそんなことを言わせてしまったのか。彼は酔った頭で、マリとの短時間の出会いと別れのドラマを思い巡らせていた。
 慧也はふと、あるビデオカセットの前で足を止めた。エレキギターの新曲ではない。まったく別のジャンルだ。視界がぼやけてほかは眼に留まらない中で、これだけがくっきりと飛び込んできた。カセットの横腹を飾る二羽の鶴の写真だ。タイトルに「雪の原野に鶴の群舞」とある。なるほど二羽の鶴はクローズアップされていて、写真の背後には多くの鶴が霞んでいる。
 大写しにされた二羽は、立ち上がって首を伸ばし、嘴を天に向けて叫んでいる。向かい合っていながら、お互いを見るのではなく、首をまっすぐ伸ばし、嘴を天に開いて叫んでいる。この写真はひとみの着物にあった鶴の絵柄とよく似ているのだ。そう察すると、慧也はそのビデオを手に取り、レジに向かって歩き出していた。ホテルにビデオのカセットデッキがあったと、思い出していた。何が出てくるか分りはしないが、外装を鶴の写真で飾り、タイトルに「雪の原野に鶴の群舞」とあるのだから、鶴の映像が入っていることは間違いないだろう。明日鶴子に会いに行くのだから、いい学習になると思った。

 慧也はホテルに着くと、さっそくビデオをカセットデッキにセットした。雪の平原が現われ、そこに多くの鶴たちが動き回っている。一羽だけで動いている鶴もいれば、四、五羽のグループになって、お互いの周りを舞い動いている鶴もいる。またこの雪原には次々と鶴が飛来して、降りていた。渡って来る鶴の数もまちまちで、六、七羽の群れがあれば、二、三十羽の群れもある。それもこの近くに溜まっていたのが、移動してきたのか、遥かな土地から今渡って来たのかも定かではない。彼らは滑空してきて、着地すると同時に前のめりにはなっても、ちゃんと二本脚で立ち、粋な仕草で翼を収めていく。人間のマラソンランナーのように、ゴールのテープを切ると同時にへたり込むような鳥は、一羽としていないのだ。
 平原には弛みなく雪が降っている。風もあるらしく、雪は横殴りにもなっている。それだけではない。雪は地上を舞う鶴の翼によっても吹き上げられ、地上を吹雪のようにしている。
 慧也は煙草をくわえて火をつけ、雪原の雪と煙の中に戯れる鶴の動きに見とれていた。そのうちふと、鶴の動きに惹きつけられ、煙草の煙を避けて画像に顔を近づけ、目を凝らした。目ではなく、耳を凝らすべきだったと気づいて、カセットデッキのボリュームを大きくした。
 突然飛び込んできた鶴の鳴き声と羽ばたきの共演。首を伸ばし、嘴を天に向けて鳴く鶴。「ケーヤ」
「ケーヤ」
「ケーヤ」
 慧也の耳は暗号を傍受するように、そう聴いた。
 慧也とはまさしく自分の名前ではないか。小止みなく雪を降らす暗い空に、仲間の鶴が舞っているのではなかった。遠くから今飛来する鶴もなかった。またこれから空中散歩に出かけようとしている鶴もいなかった。鶴は今残らず平原に降りて、地上の生活をしている。
 それなのに彼らはいったい、何に、誰に向かって叫んでいるのだろう。確かに彼らは地上と空中と二つながら生きる場所を保持している。地上にあっても、彼らの感覚は空中を飛んでいるのかもしれない。地上を歩み、走り、佇んでいても、空中を忘れていないからこそ、空に向かって叫んでいるとも言える。 そうやって嘴を天に向けて叫ぶのは、向かい合って立つ、カップルとおぼしき鳥が多いようだ。いやそれは正しい見方ではない。カップルの周辺でも、嘴を曇天に向けて叫ぶ鶴も、かなり散見されるからだ。
 向かい合って立つ鶴が、カップルと仮定して見ても一向にかまわない。なぜ彼らは、夫婦なら夫婦らしく、目下恋愛中なら恋愛中らしく、お互いを見詰め合って鳴かないのだろう。鋭い嘴が相手の目をつついてしまってはならないから、危険を避けて上空に逸らしているのだろうか。それとも、目前にいる相手を、地上から空中へと移し、そこを優雅に舞っているお互いを夢想して鳴いているのだろうか。鳴くというより、愛のことばを交し合っているのだろう。
 慧也はビデオの映像から、鶴の心中を探ってみるが、どうしてかそうとばかりは受け取れなかった。彼らは目の前にいるものを突き抜けて、遠くを見詰めて鳴いていたのだ。彼はひとみの着物の鶴から、その思いを強く感じた。あの鶴はどうしても、別の幻をはるかな天に抱いて、その幻に向かって叫んでいたのだ。
 ケーヤ、慧也、その名前が慧也が顔も知らない慧作から来ていることは納得できる。するとひとみは、岩見祥一郎と所帯を持ち、二子を儲けながら、遠くを恋焦がれて生きていることになる。慧作がそういうものであるなら、その血を分けた慧也もそうでなければならなかった。
 彼は鶴がケーヤ、ケーヤと、嘴を天に向けて鳴くシーンを、何度も逆回わしして再生し、耳にしまいこんだ。
 ビデオに収録された雪原には、鶴の大きな群れの中に小さな群れが、小さな群れの中には鶴の一家が、またまだ一家を成すまでにはいかないカップルも交じっているようだった。 そのカップルとおぼしき二羽の鶴は、向かい合ってお互いに情を通じ合っているように見えながら、嘴を天に向けて何か叫んでいるのだ。
 その鳴き声はケーヤ、ケーヤ。特にクローズアップされたカップルの発する声が、際立って慧也を連発している。ひとみの着物に描かれた鶴が、夫婦か、恋人同士かは定かでないが、天に向かって叫ぶ声だけは、はっきりケーヤ、ケーヤと聞こえた。
「人の名前を呼び捨てにして、いったい彼らはどういうつもりなんだ」
 慧也は一人で力み、そう呟いた。慧也が父の慧作から一字貰っていることは明らかだったが、どんな意図があって命名したかは謎だった。現に体が接するほど近く向かい合っていながら、天に向かい遠方の者へと叫んでいるのであれば、ひとみが叫びたがっている相手とは、今の夫ではなく死別した慧作ということになる。つまり彼の消えた遠い空に向かって声を届けたいと、切なる願いを込めて叫んでいるのだ。慧作が遠い存在であるとすれば、慧也もそのように位置づけられているのではないか。慧作が遠い遥かな存在なら、彼の血を分けて形見のようにして生まれた慧也も、遠く離しておかなければならなかった。自分からも、自分の家族からも。鶴子に会わせたくないのは、そんなひとみの勝手な空想からうまれたものではないのか。
 慧也はそんなひとみの妄想を突き崩すために、明日鶴子に会いに行くのだ。ひとみの考えを敷衍すれば、遠くにいるものほど大切で尊く、身近なものはその逆で、さほど重要なものではなく、愛情を注がなくてもよい対象ということになる。はたしてそうだろうか。そう言い切れるのだろうか。慧也を突き放してしまった逃げ口上に、そう思い込んでいるだけなのではなかろうか。
 慧也は自分がこの世に生を受けたときには、いなくなっていた自分の父について、思いをめぐらせていた。父こそ遠い人だった。そして父よりもっと遠いところに神がいた。父の顔が見えないのと同じく、まったく姿を現さず、影すら見ることのできない、遠い神について考えはじめていた。

 翌朝、慧也は神戸空港で搭乗手続きを取りながら、受付カウンターで働くスタッフから羽田で同じ職務をこなしている鶴子のことを思った。彼女たちが首にするネッカチーフが、爽やかに目に映った。風もないのに、風に靡いているように見えた。おそらく彼女たちのてきぱきとした身のこなしから、ごく自然にネッカチーフが振られるのだろうが、いながらにして風を真っ向から受けて空を翔る飛行機を連想した。連想するのも当然で、発着するジェットエンジンの響きが、空港構内の空気を震動させているのだった。
 慧也が飛行機に乗ったのは、中学生のとき祖父母に連れられて九州の温泉に出かけたのが最後だった。そのときは、出生に疑問を抱いていたので、飛行機の旅が楽しいとは思わなかった。祖父母からすると、そんなことでもして、孫の気持を和ませてやろうとしていたのだろう。
 慧也は今、そのときから一歩も二歩も前進した自分を認めながら、エアシステムの機に乗り込んで行った。前進したといっても、心が成長したわけではない。身丈は伸びても、心は子供のままだった。本当の親に育てられなかった子供は、いつになっても大人になれない。そんなことばを、どこかで耳にしたような気がしていた。
 間もなく機は地上を離れ、空に浮かんだ。七十分で羽田に着地する。慧也はビデオに見た滑空してきた鶴が、前のめりになって雪原に降り立つ光景を目に浮かべていた。
 窓際の席だったから、翼の下を白雲がひしめいていた。どこを見ても雲、雲、雲で、あたかも白い布団を敷き詰めているように見えた。音はなく、耳鳴りがしーんとして、それはうるさいという種類ではなく、鎮まり返っていた。どこへ向かっているのだろう。ふとそんな思いが掠めた。鶴が嘴で指し示していた空中を鶴が飛び帰るのと同じ北の方角へと飛行しているのだ。彼らもあと何箇月かしたら、グループごとに翼を揃えて飛び立って行くのだ。はじめは先導する一羽がいて、その後を多くの鶴が続いていくが、すべてが地上を離れると、先頭が速度を緩め、最後尾のものがスピードを上げていき、あるところでは横一列に並んで飛行するのだ。横一列といっても、列そのものが一羽の鶴のようになって、上下に揺れ、左右に傾きつつ移動して行く。一路北へ。七十分どころか、その何十倍もの時間と距離を羽ばたいて行く。地上と空中と、その両面を生活基盤としている鶴が、天に向かって空を行く仲間たちと連絡を取り合っている。今は頭上に存在しなくても、遠くの仲間には伝わるはずだ。事実、鶴の声が波長となって、遠くの空にいる鶴に届かないとは言えない。その場合にしても、現に見えない相手に向かって叫んでいるとは言えた。それはもう、可能性を信じなければ、決してできるものではないアクションだった。
 そんなことをぼんやり考えているうちに、眠気を催し寝てしまったようだ。ベルトを着用するようにとのアナウンスで目が覚めた。いや、その声もはじめのうち、ひとみが鶴の嘴を開いて、地上から呼びかけているように錯覚してしまった。そんな儚い夢を見ていたらしい。元気でやっていくのよ。もう戻って来なくていいんだよ。焼き菓子の職人になったら、NPOのボランティアとして、世界中の困った人にお菓子を配るのよ。非営利団体でも、ちゃんと食べていくことはできるんだからね。そこまでは、あのお金でやっていけるでしょう。
 慧也は機内のアナウンスをはっきり聴き取れるようになっていきながら、はたしてひとみに逆らって、鶴子に会いに行くことは罪を犯すことにならないだろうか、そんな疑念が掠めた。ひとみは慧也の心の奥を読んで、禁断の果実から離そうとしていたのだろうか。
しかし慧也は、そんな遠くからのひとみの声を聴き入れまいとした。すでに機は着陸態勢に入って、見る見る東京が迫ってきていた。
 程なく彼は、滑空してきた鶴の一羽になって、正午に近い羽田空港へと降りて行った。

つづきます

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