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文芸の里コミュの旅立ち 二(4)

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 旅立ち 二(4)


 暗澹としていったところに、急に晴れ間が覗いた感じだった。
「それはいいことを教えられました。すぐ行ってみます。では、手土産でも持参したほうがいいですね」
 慧也はそう言って、ショーウインドーに視線をやった。
「いいでしょうよ。あそこは学校で持っているくらいだから」
「でも僕は部外者だから」
 慧也は言って、洋菓子を眺め渡す。「詰め合わせになったものでも、ありませんかね」「ありますよ、それなら」
 言って彼女は、後ろに積んであった一折を手にして見せた。
「それいただきましょう」
 慧也は代金を払い、手提げ袋に入れてもらった菓子折りをぶらさげて店を出た。
「お世話になりました」
「かえって、こちらこそ悪かったわね。写真館分りますよね」
 おかみさんは追いかけるように店を出てきて、「この市場が尽きたところを左に曲がって、三軒目、いや四軒目か。大きな看板が出ているし」
 と言った。
 一件落着、そんな言葉が慧也の口をついて出てきた。
 三分後には、写真館の玄関に立っていた。年配の男が出てきて、慧也の用件を聞くと、どうぞ、とスリッパを出した。木の床が研かれて光っていた。
「お世話になります。これ、そこで買ってきました」
 慧也は菓子折りの手提げ袋を傍らに置いた。「そんなことしなくても、いいのに」
 と主人は言った。スタジオの一角では、テレビが競馬の実況中継をしていた。
 主人はそのまま奥へ進んで、書架から数冊のアルバムを抜き取り、前のデスクに置いてライトを点けて明るくした。デスクの下から肘掛け椅子を引き出すと、慧也にそこに腰掛けて調べるように言った。それから、競馬の中継の方へ行ってしまった。
 主人が傍にいないほうが、慧也は気が楽だった。いちいち訊かれなくて済むし、彼はほっとしていた。
 八年前の卒業生は、ABCDと四クラスあった。鶴子はBクラスにいた。
 鶴子を発見したとき、慧也は胸が震えた。同じページに並ぶほかの女生徒と比べて、何と異様に見えたことだろう。カメラに向かって目を開いた姿勢は変わりなくても、鶴子から滲み出ているものが異質だった。それを雰囲気と言ってしまえばそれまでだが、その質を問わないではいられなかった。この子は悩んでいる。悩みを閉じ込めている、と思わないではいられなかった。他と比較しないで、鶴子一枚だけ見れば、目鼻立ちは申し分なく、整った容姿といえる。ことに目許に揺曳する凛々しさは母から受け継いだものだった。そのまなこに、容姿全体からの憂愁を集め、漂わせている。
 鶴子がこの写真に収まる少し前、慧也の家出をきっかけにして、母からこっそり、父違いの兄の存在を教えられ、悩んでいたことなど知るよしもなかった。
 
 竹内マミ
 朝山田北三番地一
 雑貨商みのや
 
 その場所に来て、慧也はメモしてきたものと、店の看板を照合した。
「どうか、いるように」
 と念力を働かせ、店頭に踏み込んでいた。念力というより、祈りに近かったから、それが叶えられたのかと思った。中の薄暗がりから若い女が顔を出したのだ。
「いらっしゃい」
 と若い女は明るく言った。その顔をちらっと見て、卒業アルバムにあった顔と同じであることを確認した。それから小豆、青豆、はと麦… それら穀物類の上に視線をさまよわせた。
「お客さん、何をお探しですか?」
 人懐っこそうに若い女が寄って来たので、彼は手にしていたメモを見せる。
「いやだあ! これ私じゃないか」
「そうだよ」
 と彼は澄まし込んで言う。今見てきた写真の顔より、野性味があって美しく見える。
「どこで調べてきたのよ」
 不審に駆られた様子で、女は追究に身を乗り出してくる。もう商品を売るどころではない。
「この先にある写真館でね」
「田辺写真館?」
「そうさ、そこで調べてきたのさ。担任、村田雅夫。**年度卒業生」
「でも何で、何の目的で?」
 竹内マリはつきまとった。それはそうだろう。よりにもよって、自分の住所と名前を調べて男が尋ねて来るなんて、めったにあることではない。人に聞いた事はあっても、自分にはなかった。これまでスカウトなどされたためしがないからだ。
 慧也は軽くいなしながら、要のところを話してしまうしかないだろうと睨んだ。そうでもしなければ、元級友のその後を教えたりはしないだろう。
「一人で店番か、少し時間取れる?」
「いいよ、少しくらいなら」
 マリは屋根のない売り場を、屋内の方へと彼を導きながら言った。慧也はついて行った。「君ひとりか?」
「ううん、お父さんが入院しているから、母はその看病で出かけているの」
「病気は重いの?」
「ううん、車をガードレールにぶつけて足の骨を折ったの」
「よかったね。重い病気じゃなく、単純な負傷で」
「複雑骨折よ」
「なるほど、言い方があるもんだ」
「それより、何よ。あなたこそ、人の名前まで調べてきて。戸籍調査でもないのに」
「君、岩見鶴子を知っているね」
 マリは弾かれたように顔を上向けて、慧也を見つめた。卒業アルバムを見てきたばかりの男に、知らないとは言えないだろう。
「岩見鶴子さんが、どうかしたの?」
「彼女は今、どこで何をしている」
「どうして私があなたに、そこまで教えなければいけないのよ」
「ということは、知っているな」
「あなた、彼女にほの字なの? それで写真館にまで行って、そこで私の住所を調べて、私から彼女の今いるところまで言わせようというの、そんな詐欺まがいのやり方に、誰が応えるもんですか」
 さすが竹内マリは怒ったらしい。手を後ろに組んで、胸を張った。抗議のつもりらしい。そんなことのためなら、これより奥へは踏み込ませないと、その態度は示している。
 そろそろありのままを、打ち明けなければならない時が来たようだ。彼はそう察した。「実は」
 その覚悟を固めて、慧也はそう切り出した。「ここで、煙草を吸ってもいいかな?」
「どうぞ」
 と言って、マリはまた奥へ歩みを進めた。彼は歩きながら煙草を取り出してくわえ、火をつけた。
 慧也は勧められるままに、テーブルに向かった回転椅子に腰を下ろし、椅子を回転させて、マリの方を向いた。彼女は家の上がり口に腰を下ろした。頬杖をついて、彼の話を待ち受けた。部屋の奥はがらんとして片づいていた。
「岩見鶴子と僕は、父親違いの兄妹なんだ」 こう言ったとたんに、竹内マリの頬が紅潮した。顔のどこかから、火花が散った気がした。瞳の輝きであったかもしれない。
「昨日鶴子の母親に会ってね。それは僕の母親でもあるんだけど、三十年ぶりにはじめて母親に会ったんだ」
 マリの目の色が変わってきた。表情も青白く変わってきた。今は先程の紅潮はあとかたもない。
「そういえばあなた、岩見さんのお母さんに似ているわ」
 マリは立ち上がると、顔の類似点を探るように目を近づけてきた。「鼻とか口元とか、目の並び方とかが、そっくり」
「君は鶴子の母親を知っているのか」
「当たり前よ。お得意さんだし、クラスでは綺麗どころのママさんって呼ばれていたわ。和服姿で授業参観に現われたときなんか、みんなファッションショーでも見るみたいに、振り返ってばかりいて、落ち着かなかったわ。鶴子さんも綺麗だから、美人親子って言われていたわ」
「僕なんか、一度も綺麗なんて言われたことないぞ」
「あなたは男だからよ。男に向かって、きれいなんて言わないの。いかすと言うのよ」
「いかすとも、言われたことないね」
「いかすよ、あなたは。はじめ現われたとき、そう思ったもん」
 マリは言って、いぜん探る目つきをしていた。
「若いくせに、どこで綺麗どころなんて言葉覚えたんだろうな」
 と慧也は言った。ひとみの和服姿に、映画でしか知りはしない芸者のイメージがあるのを、否定できなかった。
「大人の人がそう言っていたのを、誰かがクラスに持ち込んできたのよ。気にしない、気にしない」
「別に気にしているわけじゃないさ。ところで、その和服にツルの絵柄はなかったかな」「ツル、ツルですって? そういえば娘の名前が鶴子よねえ。ツルの絵なんかあったかしら。でもどうして、そんなこと訊くの」
「どうしてってわけじゃないけど、昨日僕と会ったとき、着物に大きなツルの絵があったものでね」
「それは、三十年振りに会ったあなたに、印象づけようとしたからよ」
「鶴がどうして、印象づけることになるのかがちょっと知りたくてね」
「人それぞれ、何かに執着して生きているものだからでしょう。花だったり、鳥だったり、物だったり、私の場合は、マリなんて名前をつけられたから、それこそマリみたいに、どこにでも弾んでいきたくて、しょうがないのよ。もっと「マメ」とか雑穀商に相応しい名前をつけてくれれば、マメみたいにちゃんとおとなしくもしているわよね。枡に入ったマメみたいに」
「マリなんて、いい名前じゃないか。弾むのだって、いいさ、可愛らしくて」
「あなたそう思ってくれる。可愛らしいって」「思うさ、君のそのリズム感が、なんとも言えないね。マメの可愛らしさに、弾むマリのイメージが合体して、マリになったのかもしれない。僕はエレキ・ギターのマニアだから、特にリズム感にうるさいんだよ」
「あなた、エレキ弾くの? すごい。私にも聴かせて、あなたの演奏」
「僕はプロじゃないよ、セミプロさ。母親は僕に、焼き菓子のプロにさせようとしているんだ。それで焼き菓子を習う専門学校へ行くようにって、そのための学費やら何やら渡して去った。そうだ。渡して去った感じだった。僕からすれば、三十年振りに故郷に帰れたと思っているのに、ヘソクリを貯めた貯金通帳を渡して、去ったんだ。とてもその家に行くとか、妹に会わせてくれとか、言い出すどころじゃなかった。取り付く島がないとは、あのときの状況だな」
「それであなたは、鶴子さんのいるところを一人で捜しはじめたのね」
 マリは納得した面持ちで、そう言った。
「まあ、そういうことだよ。僕としても、一押しして訊けばよかったのかという思いもないわけじゃないけど、それは余裕として残しておきたかったんだな。もしそう訊いて、突き放されてしまったら、それでもう、何もかもおしまいだからな」
「分る、あなたの気持ち。鶴子さんはねえ、東京にいるわ。勤め先は羽田のエアシステムのグランドスタッフだったかな。去年の夏、クラス会で集まったとき、そう言っていた」「鶴子、そんなに偉いんだ」
「そうよ、偉いのよ。家事手伝いで、雑穀なんか扱ってる私からすれば、偉いとしか言いようがないわ。鶴子さんは顔も綺麗だし、勉強もできたから、まあ自然の成り行きでもあるけれど……」
「君だって、可愛いよ」
 と慧也は言った。鶴子を偉いと誉めてしまった結果として、マリを貶めてしまったとしたら、済まない気持ちになっていた。
「嬉しいわ、特にあなたにそう言われると」 マリの目の縁から涙が湧いてきて、それを彼女は手の甲で払い除けた。涙は鼻からも零れてきて、体の機能のしようのなさに、マリはお手上げといった状態で、にがわらった。「このこと、人には言わないで欲しいんだ。もし母親の耳に入って、母親から鶴子に連絡が行って、僕と会わないように言われたりしたら、またまた孤立してしまって、故郷は遠ざかってしまい、それだったら、金沢からやって来なかったほうが良かったことになるからなあ」
「言わないよ、約束する。その代わり、私のことも忘れないでね。さっき可愛いと言ってくれたことも」
 マリは言って小指を出し、慧也の小指に絡めてきた。その仕草があまりにも可憐で、彼は指の力を、思わず全身に移して、彼女を抱きしめてしまったのだ。マリはそれを待っているようだったから、次に唇に移って、熱い抱擁になった。
 吾に返ったのは、店頭に客が立って、光がちかちか動いたせいだった。客の声もしたようだった。
「はーい」
 とマリが飛び出して行った。
 慧也は椅子に座して、マリに聞いたばかりの鶴子の住所をメモ帳に記していった。ここからいきなり、空の玄関羽田に飛ぶなんて、予測できないどころか、番狂わせもいいところだった。番狂わせと言えば、たった今のマリとの抱擁も重なり合っていた。
 客が帰ってマリが戻って来た。彼女は掌を開いて、中にあった五、六粒を慧也に見せた。「これ、岩見さんの家によく届けるのよ」
「何、それ?」
 慧也は一瞬、鶴の餌ではないかと思ってしまった。
「どーん、どーん」
 とマリは口で重みのある凄まじい音を演じて聞かせてから、「ジャンボコーン。ドンを作る材料。岩見さんの旦那さんが、これでドンを作るの。すごい音を出す機械に入れて、内圧を高くしていき、いきなり爆発させるのよ。どーん、どーんって」
 銀行マンらしくもない愚行なので、慧也は考え込んだ。しかしいくら考えたところで、答えの出てくる行為ではなかった。
「ドンを作って、アヒルか何かの餌にするのかな?」
 彼は今日寄り道した、小さな公園にいたアヒルのことを思い出していた。それもあるが、さっきマリが掌を開いて、ジャンボコーンの粒を見せたとき、とっさに鶴の餌などと閃いたことが手伝っていた。鶴の餌からアヒルの餌への転換は、実にたやすかった。
「少しは自分で食べるんでしょうね。残りはどうするか知らないけれど」
 と言って、マリはつづけた。「あれは趣味というより、道楽よね。街の人なんか、奥さんに悪い虫がついたら困るから、あんな凄い音を出して脅しているんだって。冗談まじりにではあるけど、それも一理あるかなって、私思った」 
 マリは冷蔵庫から、グレープフルーツジュースの小瓶を二本取り出し、一本を彼に渡した。缶ビールならなおよかったのに、彼はそう思ったが、口には出さなかった。
「岩見さんは、あの奥さんに一目惚れしたんだ」
 慧也は自分も轟音にやられた一人の気がしてきて、そう言った。
「そうでしょう、分るわ。不釣合いっていうんじゃないのよ。でも、あの旦那さん模範的過ぎて、私の好みじゃない。いい人なんだけれど、それだけストレスもあるのかしらね。ドンで噴き飛ばさなければならないものが」「さーね」
 噴き飛ばさなければならないものがあるとしたら、それは自分のほうだ、と慧也は思った。エレキギターに酔っていた頃の自分の姿が、オーバーラップしてきた。それと同じように、岩見祥一郎がドーン、ドーンと轟音を響かせていたとなると、どう考えたらいいものか、慧也は迷っていた。不幸には偏りがないということか。
 マリはさっきの抱擁とキスが、単なる成り行きでそうなったのではないと、思いたかったから、自然に振る舞おうとしても、どこかぎくしゃくとしていた。それは慧也にしてもそう言えた。マリの意識に留まっているだけ、慧也の意識も微妙に揺れ動いていた。
「あなたさっき、焼き菓子の専門学校に行くとか、言ってたでしょう」
 マリは話題を岩見のドン作りから、自分たちの上に飛躍させてきた。
「はっきり決めたわけじゃないけど、そうなると思う。お金を貰ってしまった以上ね」
「専門学校を出て、一人前になったら、お店を出すの?」
「一人前になるまで技を研くのは大変だと思うけれどね。どうなるか。母親は非営利団体のNPOの話なんかしていたけれど、菓子職人とNPOがどう結びつくのか、僕にはまったく分らない」
「NPOですって?」
 マリは額に八の字を寄せて、慧也を見た。「NPOで働くの?」
「働くも、何も、そもそも母親がそんな話を、不意に持ち出したこと自体が、意味不明なんだ。鶴子に訊けばあるいはわかるのかもしれないけど」
「鶴子さんて、言えば…」
 マリはそう言って、言葉が詰まった。
「鶴子がどうかした?」
 と慧也は先を促す。
「あれは、高校二年生の初めだったかもしれない。一年生からずっと、クラス替えはなかったから、はっきり覚えているんだけど、鶴子さんがねえ、すっかり変わってしまったことがあったの。それまでの明るい鶴子さんが影を潜めてしまって、沈み込んでしまったのよ。身辺に何かあったなって、すぐ分った。でも、失恋したようでもないし、成績が落ちもしなかったし、沈み込むといっても、泣いたりするのでもないから、私はどうしたのって、声をかけもしなかったのよ。でも、あの変化はただ事ではなかった。皆と交わろうとしないで、一人で考え込むようになったの」
 慧也は写真館で見てきた鶴子の写真のことを目に浮かべていた。あの異様に慧也の目に映った落胆の少女の翳り。それを裏付ける証人がここにいたのだ。証人といっても、少女の悲嘆を裏付ける原因究明はなされないままだ。それでもその頃、得体の知れない災禍が襲って、少女の顔を変えてしまったことは紛れもない事実だったのだ。
 慧也はアルバムに見たと同じものを、鶴子との生活体験の中で、実際に見ていた者がいたと分って嬉しかった。
「高校二年生の初め……」
 慧也は過ぎてしまった時の一点に、謎を解く鍵があるとでもいうようにそう呟いた。
 あの落胆振りは、いったい何に根ざしていたのか。あの憔悴しきった表情の背後には、どんな哀しみが宿っていたのか。
 いくら考えても、解けないものは解けなかった。こうなったら、本人に会って、直に訊くしかない。
「僕もさっき、写真館でアルバムを見て、それを感じたんだ。鶴子だけイメージが違っているんだよ。卒業を、前にした晴れやかさなんて、どこにもない。暗い顔をして沈み込み、何だこれは、と思ったね。二年生の初めと、ここに証人がいれば、写真を撮った日に、突然何かが起こったわけでもない。その頃、あの夫婦の間に、亀裂が生じていたのかなあ」
 慧也は鶴子を知る者が現われて、胸のすく思いがしていた。妹の悲嘆を一人で抱え込まなくていいのである。
「まさか、あなたに想い焦がれているのに、結婚できないと知って、絶望したわけじゃないよねえ。父違いでも、同じ母の血で繋がっ兄と妹なんだから、法律で結婚できないくらい知っていたよねえ」
「二親等だからね。それは絶対無理」
「そうよねえ」
 マリは明るい顔になって、相槌を打った。マリは慧也と鶴子の不可能性に支えられて元気づいていると言えた。それならもっと話して、彼と鶴子の間をかすかな疑問もなくすることもできた。
「その頃僕は、鶴子に会ってもいなかったんだよ。今だってそうだ。昨日三十年振りに生みの母に会ったのが最初で、じかに血の繋がった者には誰にも会っていないんだ。これまで育てられてきた祖父母とその息子の家族を抜かせば、僕は血族とは縁が遠かったんだ。
だから僕は自分の本当の故郷を探しに来たんだよ。故郷を持たない人間は、落ち着かないし、絶えず得体の知れない何かに追われているんだ。このままでは完全に駄目になると思ったから、覚悟を固めて出て来たのさ。
 母親には会って、まあ母胎にあたる故郷はこの目で確かめたわけだけど、なんとも呆気なくてね、このままでは帰っていけないと分ったから、鶴子を探しはじめたんだ」
「悪かったわ。気づいていたのに、つい目先のことに心を奪われて、あなたを傷つけてしまったわ」
 マリは心から悪びれたように、そう言った。「実は親を探しに来たのは、今回がはじめてじゃないんだ。十年前にも……」
 こう言いかけて、慧也ははっと自分のことばに揺さぶられていた。自分が家出をした十年前と、鶴子を襲った苦難の時期とは重なっていることに気づいたのだ。やはり、そうだったか。彼は思わず唇を噛んだ。
 慧也の家出で祖父母が大騒ぎをし、生みの親を嗅ぎつけて、神戸に行くかもしれないと、ひとみに連絡したに違いない。そう考えると、慧也が岩見家の周囲をうろついていたことは、実に危険極まりない行いであったのだ。近所の者が、お宅の周りを変な男がうろついていますよ、などと岩見家に電話を入れれば、ひとたまりもなく警戒網を張って、警察に応援を頼むことだって、ないとは言えない。当然岩見にだって知られてしまうだろう。勿論、娘と息子にも伝わる。
 ひとみのことだから、前夫の息子、慧也が不憫なあまり、これ以上破滅の道へ行かせないために、警察に依頼して、慧也を捕らえて貰うように働きかけないとは限らない。
 慧也はそのとき、岩見祥一郎と息子の二人には会っているのだ。会うといっても、一方的に慧也の視線が先方を探り当てたに過ぎない。岩見には、周辺を警戒するような気配は微塵もなかった。まだあどけなさを残す中学生の息子などは、彼のことなどまるで眼中にもなく、重い鉄の扉を自分で開け、重さに持っていかれそうになりながら、閉めて走り出て行った。
 家庭内で慧也の話をしていたのなら、鉄の扉を開けるときだって、まず周りを窺がって怪しい男の有無を確認してからにするだろう。警戒しないということは、慧也の家出が伝わっていないことを意味する。はたしてそうだろうか。祖父母が連絡しなかったとは、どうしても思えないのだ。とすれば、ひとみが家族には告げず、一人で難局に対処していたのだろう。だが、そう仮定すると、鶴子の写真で見る、そして級友が洩らす、あの苦悩の翳は何なのだろう。
 これは仮定の仮定、憶測の域を出ないが、ひとみがこっそり、娘にだけ自分の過去の過ちを白状していたとは言えないだろうか。どうもそう捉えるのが、順当のようなのだ。
「ちょうどその頃、僕は家出したんだよ。自分の生立ちに疑問を抱いていたし、何もかもうまくいかないし、洋ダンスの引出しに、こっそり忍ばせてあった実母からの年賀状を発見して、年賀状を隠すなんて、これはおかしいと思い、祖父母には知らん振りして、その年賀状の住所から、ひとみ(僕の実母)のいるところを突き止めようとしたんだ。それで、神戸駅近くのビジネスホテルに滞在して、四日間もかけて偵察して回ったのさ。あの家の周辺をね。目的はそこに住む人間を突き止めることだった。ひとみの夫のついては、どうしても知る必要があった。もしその人が僕の父だったとしたら、後から生まれた娘と息子とは同居していながら、長男にあたる僕だけ外に出してしまうというのは、どんな理由によるのか。もしひとみが再婚したのであれば、前の夫との間に生まれた僕が存在しないほうが、新しい家庭がスムースにいくのは明らかで、人間的に赦せないものはあっても、理由は分らないわけではない。しかしそれは、実際自分の目で確かめないことには、納得できるものではない」

            つづきます

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