ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

文芸の里コミュの旅立ち 二(3)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 旅立ち 二(3)


 慧也の運命が決まった日のことを、ややカリカチュア的に描くとこうなる。
 お嬢さんがご在宅のとき、またお邪魔すると言って帰った岩見は、その夜晩くなって現われた。ひとみの手話通訳の手際のよさを褒めちぎった後、彼の実家の両親にすべて打ち明けて、母子揃って来ていただくことで了承を取った旨を話した。
 ここでこちらの祖父の態度が一変した。岩見の両親が一緒に住んでいるとは聞いておらず、しかもその親たちが慧也を歓迎すると言われたことで、祖父は背筋をぴんと伸ばして意気込んだ。それに祖母が同調した。血の繋がりのまったくない祖父母に、自分たちの血を分けた孫が愛されることへの嫌悪、嫉妬の変形と言ってよい。
「いや孫を渡すわけにはいかない。孫はわしらが引き取る」
 このときほど、祖父母が心を合せて外部と闘ったことはなかった。これはひとみがそのとき受けた感想である。
 岩見祥一郎の両親が、母子を歓迎すると申し入れ、それが一蹴されたとなると、彼に動揺が走った。岩見には、母子を離しては考えられなかった。にわかに絶望の色が濃くなった。一目惚れは、熱が高まっていくばかりで、しかも本人を前にしているとあっては、もし母子の獲得に失敗すれば、命が危うくなるまでに思い詰めていた。そんな息子の性格を知悉しているからこそ、岩見の両親も子連れの女を息子の初婚の相手として、認めざるを得なかったのであろう。
 岩見は見るも気の毒なほどに打ちひしがれ、顔を皺くちゃにして、何度もハンカチで目の辺りを擦った。悲嘆のゼスチャーというよりは、当然涙が溢れてきて不思議はない人生の修羅場に立ち至っていたのである。実際涙が出てきて不思議はなかった。だがあまりの緊迫感から、涙は流出より凝固のほうへ傾いてしまったのだ。
 こういう場合の成り行きとして、申し込まれた側が、考えてご返事しますというのが常道であろう。ところが岩見は、どうしてもひとみを諦めることができず、新しい手はないものかと、思案の顔をして、
「鋭意良案を考えまして、またお邪魔させていただきます」
 と言って引き下がって行った。
 慧也はひとみと接してみて、石見が一目惚れしたというのがよく分かった。慧也自身、駅南口で最初に呼びかけられたときに見た、ひとみの目の澄んだ輝きに虜にされていたからだ。もう一度、そのひとみの輝きに浴したかった。そうしないでは、とても故郷に満喫した気分にはなれないでいた。母と子という足かせを填められていて、こうなのである。まして適齢期の男女が出会ったのだから、恋に現を抜かしてしまっても、さして不思議はなかった。しかし一方が子持ちの母であるというのに、よくもまあぬけぬけと、一目惚れを錦の御旗のように、いつまでも掲げていられたものである。
 その結果として、一人放り出される身となった慧也は、ある種の狂おしさに駆られて、そう思うのである。
 岩見が帰って、一人になったひとみは、その夜寝もやらずに考え込んでいた。やはりあの、慧也に語った人生で一番大切なものは、吾が身から遠く放しておかなければいけないという、慧作を通して学んだ人生哲学だった。いや、もっと奥の深い宗教哲学だった。もし、慧也を抱えて、シングルマザーとして生きていくことになれば、今度は大切な慧也を失うことになりはしないか。この負の連鎖ともいうべき想像は、彼女の奥深く滑り込んできて出て行かなかった。
 慧也を手放す決心は、そんな中から生まれていった。ひとみは慧也を両親に託して、ひとり岩見のもとへ嫁ぐ道を選んだ。
 ひとみが祖父母と連絡を取って、慧也の動向を見守ってきたことは窺える。慧也が自分の生立ちに疑問を抱かず、表向きそうなっている養護施設にあずけられた孤児というギャップを跳ね飛ばし、けな気に生きているのなら安心していられた。しかし現実の慧也はそうはいかなかった。生立ちに懐疑し、かつては家出までして、神戸の生母の家の周辺をうろつきさえしたのである。
 慧也の生き方に翳を落としてしまったとしたら、非は自分にある。そうかといって、どの程度本人が事実に気づいているか分からないまま、真相を突きつけるには躊躇いがあった。
 曖昧にしたまま十年が流れた。祖父母は娘のひとみにいらぬ心配をさせないために、慧也は何とかやっているようだなどと、取り繕ってきた。しかし定職に就けないでいることは、どう考えても彼の挫折を物語っていたのである。
 ひとみは今、慧也を前にして、長い間の懸念を問いかけないわけにはいかなかった。当たり障りなく、さり気なく、しかし余すところなく聴き取らなければならなかった。
 約三十年ぶりの我が子を前に、息詰まって、このときほど対話の必要を感じたことはなかっただろう。
 そうして全力で臨まなければならない、この存亡の機に、ひとみは真正面から我が子を見据えた。慧也が母の目を間近に捉えたのは、駅南口での出会いの後、これが初めてだった。このときは、初めのときより、険しい目色になっていて、慧也のほうが視線を逸らさなければならなかった。
「それで慧也さん、定職は?」
「定職なんて、ないっすよ」
 彼は祖父母を通して伝えられているという甘えが顔を覗かせ、そんな答え方をした。
「無いって、何も…?」
 ひとみの追求は容赦なかった。生みの母の憤りさえ感じた。彼はなぜ自分が怒られなければならないのか、解せない思いもあったが、今は母の怖い目を逃れるのが精一杯だった。
「全然していないってわけじゃないですよ。エレキバンドのメンバーに、家が寿司屋の息子がいるから、そこでバイト」
 祖父母には話してあるので、ひとみの耳に入っているとは充分窺えた。
「そこで長続きできそうなの? 将来店を出してもらうとか」
「いや、そんなんじゃなく、一時的に使って貰っているだけだよ。板前が見つかれば、いられなくなる。息子のコネでやっているだけだから」
「それで慧也さんは、どういう仕事をやっていきたいと思うの。得意なものとかは?」
「エレキギターは得意のうちに入るけど、それでずっとやっていけるとは思えないし」
「じゃこれから習うとしたら?」
 ひとみは追及を緩めなかった。
 慧也は追い詰められ、先程までと立場が逆転したような気がしはじめる。
「そんな難しい勉強は苦手だし、やるとしたら焼き菓子くらいかな」
「どうして焼き菓子をしてみたいの」
「彼女がそんなことを言っていたから。別れた彼女だけど」
「そう、別れたの。その元の彼女が焼き菓子屋をしたいって、言ってたのね」
「まあ、それに僕がまったく乗り気じゃなくて、エレキばかり弾いていたから、見込みがないと、見切りをつけたんじゃないかな」
 それも慧也の出生からくる挫折が遠因となっており、ひとみを責めている気がしたが、自然に口に出てきてしまったのでやむを得なかった。
「焼き菓子を覚えて、彼女を呼び戻したいとか、いうのじゃないのね」
「まったくその気はないね。僕もそうだし、向こうもね」
「では、その焼き菓子を習ったら、どうかしら。専門の学校へ行って」
「いや―」
 慧也は渋った。どうしてもやりたい職業ではなかったし、ふと思いついたから口にしただけだったからだ。「専門学校に行くにはお金がかかるし、焼き菓子だって、どうしてもやりたいってわけでもないからね」
 慧也がこう言ったときだった。ひとみは帯の間に手を入れて、中から布袋に入れたものを抜き出した。
「ここに私が貯めてきたヘソクリがあるから、必要な経費に遣いなさいね。貯金通帳と、そのキャッシュカードが入っているから」
 ひとみは言って、袋の中から通帳とカードを出し、中を開きはしないで、また袋に収めた。それを慧也に渡そうとしたので、彼は手を引っ込めた。ひとみは力の権化のようになって、慧也の手に持たせ、上からぴしゃんと手の甲を叩いた。そのひとみの手は、人の肌とは思えないほど冷たかった。
 その感触が、現在も強く慧也のなかに残っていた。
 そのときを境に、ひとみはどこかそわそわしてきて、焼き菓子の技術を習得した後のことなどを話し出した。働き口を心配している口振りだった。当然、技術に見合った職場になるのだろうが、いきなり非営利団体のNPOなどという話をしたりした。彼は焼き菓子とNPOとどう結びつくのか、見当もつかなかった。それより、ひとみの態度が落ち着かなくなったので、慧也と会っている時間が狭まっているのだろうと、そちらのほうに気を取られていた。
 生まれて初めて、三十年ぶりに出会えたというのに、たった一日に限定して、しかも午後からの狭められた一時でしかないというのが、つれない人生に思えてきた。母の手の冷たさは、そんな人生の縮図ととれなくもないなどと、ぼんやり考えたりしていたのだ。
 またいつか、機会を見つけて会いましょう、などとは言わなかった。家に遊びに来なさい、とも言わなかった。
 慧也は自分の思い描いてきた故郷とは、こんなに素っ気なく過ぎていくものなのかと、やるせなかった。今はひとみに渡された貯金通帳とキャッシュカードに期待は繋がっているが、それで慧也の心が満たされるとは思えなかった。だからといって、何をこの母に要求できるだろう。戸籍を改めて、自分を彼女の連れ子として入籍せよなどとは、とても言えるものではなかった。けれども、もっとも正統的な要求としては、そのことがしっかり彼の中に根を張っているのを感じていた。
 それができないのであれば、せめて自分と血の繋がりのある娘と息子に会わせると言ってもいいのではないか。慧也が故郷を求める心の裏には、その思いが欲望といえるほどに膨らみ育っていたのだ。
「そろそろ、お夕食の準備をしなければならないから」
 そわそわしだしたひとみは、そう言って伝票を手にすると立ち上がっていた。
 慧也は先に店を出て、ひとみの出てくるのを待っていた。日は傾きかけて、周辺の店々のショーウインドーを染めていた。そこにはマドレーヌやクッキーなどの焼き菓子類も並んでいたが、彼にはとても、それらに注意を向けるほどゆとりはなかった。
 母と子はカップルのように並んで歩いて行った。ビジネスホテルに予約しているとは、すでに話してあった。そのホテルが駅とは逆の方向に位置することも、お好み焼きを頬張りながら教えてあった。
 駅とホテルの分岐点となる信号に来て、慧也の足はひとみの向かう駅の方角へ踏み出していた。
「ここでいいのよ、気をつけて帰ってちょうだいね。体に気をつけて」
 ひとみはそう言って、慧也を押し留めた。彼は黙って、それに従うしかなかった。母はいそいそと足を運んでいき、彼女の住家へ向かうもう一つの信号を渡りながら、慧也の方を振り向くのが分かった。慧也はひとみが信号を渡りきって、人込みに消される前に、ホテルを目指して歩き出した。
 彼に新たな決心が芽生えてきた。娘の勤めているところを突き止めようと思った。
 ホテルにチェックインすると、ひとみに渡された貯金通帳を開いてみた。そのあまりに高額なのにびっくりして、慧也は思わず辺りを見回していた。これほどの大金を手にしたことなどなかったので、たとえ手帳とはいえ、狙われているような気がしたのである。ここは個室であるし、窓もないので、心配はない。 ヘソクリと言ったが、コツコツと何年にもわたって振り込んできたさまが、つぶさに見て取れた。時に多額の記帳があるのは、ひとみのパートの稼ぎなのだろう。この通帳を見れば、彼女は自分のしてきた苦労を分かって貰えると思ったのかもしれない。いやそうではなく、これはそのまま彼女の贖いの記録なのだろう。慧也は素直にそう受け取れた。ひとみに済まない気がした。
 ところで慧也は、かくも思いがけない母の恩恵を受けたのだから、このまま母を知らないで育った金沢の家に戻って行けるだろうか。自問するまでもなく、彼は首を横に振っていた。金銭は今、まったく彼の心の空白を満たしていなかった。これで終わったのかと思うと、いたたまれなくなり、ロビーに行って電話帳を繰っていた。
 娘の卒業した高校を探すためだった。娘の名を鶴子と呼ぶのは、同居する長男家族に来たハガキにあったので覚えていた。
 振り返ってみると、十年前、慧也が家出して神戸の母の家を突き止めて帰ってからというもの、閉ざされていたものが開いてきていたのではなかったか。ということは、ひとみの中に慧也と会ってすべてを打ち明けてもよいという覚悟ができていたのではなかったか。つまり最初の夫との出会いから、慧也が生まれた経緯を告白しようとしていたことになる。そのとき、これまで貯めてきた償いの全額を残らず渡そうとしていたのだろう。
 ところが慧也が神戸の家を突き止めて、そこで遭遇した男が、一目で父ではないと知って退き帰したことで、拍子抜けしてしまったのかもしれない。と同時に、慧也の動向に神経を尖らせ、様子を探ってきたのだ。
 それくらい慧也のことを気遣ってきたのなら、鶴子のいるところを教えたってよかったのだ。祖父母や長男家族の口から慧也が聞きかじっていたのは、鶴子が家を出て働いていることと、弟の**が地元の大学へ入ったというくらいのものだった。
 慧也は鶴子については探し出して会おうとしているのに、弟の**には恬淡としていられるのは何故なのか、自分でも意外だった。おそらく、鶴子のほうが年齢が自分に近いという親近感もあっただろう。もうひとつ、母では満たされなかったものを、同じ女である娘によって、補おうとしているように思えてきた。そうかもしれない。彼はその思いつきを、打ち消すことはできなかった。
 孫の通う高校が、家から近いということを祖父母が話していたのを聴いていたので、その高校を突き止めて周辺を探れば、鶴子と同級だった者も浮かんでくるはずだと狙いを定めた。
 **高等学校、彼はメモを取り、次にその周囲の商店名を探っていった。
 その夜、慧也は貯金通帳を枕の下に入れて寝た。あらゆる不安と雑念を通帳を守るという一点に集中させていたので、かえって眠りやすかった。気がかりのもととなるものを、頭の下へ閉じ込めてしまえばよかったのである。
 朝、新たな出発のときが来た気分になって、跳ね起きた。生徒は登校した後だったが、営業前の商店が多かった。
 ひとみに見つからないように、注意を配っていくので気疲れがした。彼女の家に向かうと勘違いされたら、一大事だった。もし見つかって、そう受け取られたら、凶悪犯にもされてしまうだろう。自分の母親に対して、そんな危惧の念を抱かざるを得ないことが情けなかった。故郷が確立されていないとは、そのことかもしれなかった。そしてその故郷を求めて、母の街を離れられないでいるのだ。
 十年前訪れて歩き回った界隈なので、まごつくことはなかった。以後慧也の記憶の中で育ってきた街だった。
 いつの間にか、市場内に足を踏み込んでいた。市場は今、起き出したところだ。板戸を大きく取り払っていく店があれば、すでにそれを終えて、陳列棚を拭いている店もある。 市場通りを行く人はまばらだった。買い物客ではなく、所用で動き回る人たちだった。慧也は今や、その一人になって、やって来たのである。この辺りは鶴子の通った高校まで、約十五分の距離にある。以前歩いたときの目測で、その程度に頭に入っていた。高校を突き止めてはいないが、この緩やかな勾配を登った先に、ぼんやり樹々に隠されていたのが高校の校舎とグラウンドだと、記憶を呼び戻していた。
 人を尋ね歩いていて、胡散臭く思われるのは禁物だ。あまりうろうろしていると、怪しまれるので、ひとまず市場の中を突っ切るだけにしようと思った。
 今回は特定の民家ではなく、またそこに住む人間が目標ではない。昔同じ高校に通ったことのある鶴子の級友を見つけ出すことである。級友は一クラスとは限らない。クラスの編成があったかもしれないし、他の学年に友だちがいたことだって考えられる。鶴子の高校卒業後のこととなると、いきなり茫漠とした中に霞んでしまう。
 鶴子が女子大に行ったという話も耳にしているから、そうなるとますます晦冥の中に薄れていってしまう。しかし間違いなく鶴子は、地元の高校を卒業したのである。そして彼女が一筋の道を進んで、現在社会の一員となっていることは確かなのである。鶴子は霧の中に隠れてはいるが、どこかには存在するのである。
 慧也は勇気を振り絞って、探索の拠点となるべき高校へと直行した。かつて十年前には、目もくれなかったものが、今は必要となってきた。
 その高校から約十五分の道程を半径として、ぐるりに彼女の消息を知るものがいる。いないはずはない。そう判断した。
 高校のグラウンドの白さが、ちらちらと生垣の中に輝いて見えてきた。生垣の内側にも樹々があって、グラウンドはその先だ。光る海、そんな印象である。
 生垣の外側には金網も廻らせてあった。金網、椿の生垣、樹木と、何重にも取り囲まれた奥では、トレパン姿の男女の生徒が、体育の授業中だった。その中の一人に鶴子がいるような錯覚を覚える。何と人間は、一人一人手の届かないところに、置かれているのだろう。慧也は被害妄想的に、そんな目で眺めている。ただ眺めている分には安全だろう。広がりの前に立つと、その中の一人を追いかけているとは、とても思えないからだ。まして、八年も前に、ここを巣立ったものを、どうして追いかけたりするだろう。
 金網沿いの歩道を歩いていくと、石の正門があった。県立**高等学校と厳しい文字が彫りこんである。ひとみの家は、この高校の裏手へ何分か入ったところにあるはずだった。 慧也は正門を背にして車道を渡った。それから市場の方へと引き返して行った。市場が開くにはまだ少し時間が早い。
 途中に「アヒルの池公園」と立て看板があって、矢印がついている。慧也は一服して行こうと、そちらへ足を向ける。
 公園は道を入ってすぐのところにあった。険しい傾斜になっていて、緑が鬱蒼として暗かった。その暗く鎮まった中に、七、八羽のアヒルが白く光って見えた。なるほどアヒル公園だ。アヒルの他には、樹木が立っているだけ。いや、池があった。アヒルがいれば、池があるのは当然だ。どだいアヒルの池公園と命名しているのだから。
 アヒルたちは、まだ水に入るのは寒いのか、木漏れ日の中に羽づくろいをしながら体を温めていた。近くには彼等が寝泊りする木の小屋がある。入り口から見る小屋の中は真っ暗だ。そこにアヒルが残っているようには見えないから、表に出ている七、八羽が総勢なのだろう。
 慧也は煙草を出して火をつける。煙がふくらんで、仄白く浮かび、アヒルの上をゆったりと漂い、日ざしの中へ薄れていく。
 ベンチがあったので、アヒルを離れて、反対側へ池を廻って行った。ベンチに腰を落ち着けると、昨日ひとみと別れてから、何も食べていなかったことに気づいた。腹がグーッと鳴ったせいもある。
 市場の中の食堂で、定食でも食べるとするか。それにはまだ少し早い。今頃、仕込みの最中で、忙しなく動き回っているのだろう。準備中の木札を返して、営業中になるまでは、ここで時間をつぶすしかない。

 メモ帳には八年前の西暦年数と、その頃**高等学校に在籍して、現在行方不明になっている男の名前が記されていた。それは杉野目耕太という架空の名前だった。
 まさか鶴子の名前を書いて尋ねたりしたら、いっぺんに怪しいものにされてしまい、すぐにもひとみに密告の電話が入れられるだろう。だから仮名にしたのだ。存在しない架空の名前を出して尋ね歩く分には安全だった。はじめは鶴子ではなく、鶴子を知る人物を探し出すのが先決だったからだ。もし運がよく、鶴子と同じ年度に在籍していた者が見つかれば、そのときはまた、新たに計画を練り直して攻めていくことになる。どうするかまでは、頭の中に用意ができていなかった。
 そんなどう見ても完璧とは言えないプランを持って、慧也はともかく市場へと足を運んで行った。
 市場の中ほどにある古びた木造の食堂に入った。メニューには定食もあるが、おかずの皿を選ぶのが面倒なので、肉うどんにビールを一本頼んだ。まずビールがきて、それを胃に流し込む。グラスいっぱいを空けたところに、肉うどんがやってきた。
 割り箸を二本に裂くのにも、手がもたついて思うようにいかなかった。慧也はこれをアル中とは考えていない。単なる手の疲れだと思っている。もっと言えば、精神の苛々が手先にまで運ばれた神経的な一症状と見ている。 おかみさんがやって来て、隅のテーブルから拭きはじめた。開店はしたが、手が回らなかったのだろう。おかみさんが近くまで来たとき、慧也はよい機会だと声をかけた。
「この辺に、**高校を八年前に卒業した人はいませんかね」
 年の頃三十五、六のおかみさんは、眉間に皺を寄せる。難しい問いかけに、急には応えられないといった顔だ。
「八年前?」
 案の定、無理な質問だったのかも知れない。ではどう訊けばよかったのだろう。
「昔過ぎて分かりませんかね」
「この近所にも、**高校を出た人はいますけれど、八年前と言われると、ちょっと」
 とおかみさんは、申し訳なさそうな顔をしている。
「いや、難しいことをお聞きしてすいません」 初っ端からこれだと、先が思いやられると慧也は渋面をつくっていた。
「この三軒先に、お菓子屋さんがあるから、そこで訊いてみなさるといい」
 とおかみさんが言った。「そこには、だいぶ前に**高校を出た娘さんが二人いますから」
「ありがとう、訊いてみます」
 慧也は言って、残ったビールを一息に呷った。
 外に出ると、いくぶん足に力が入って、元気になっていた。
 教えられたとおり、三軒目がお菓子屋だった。ショーウインドウには、マフィン、クッキー、ワッフルなどが賑やかに並んでいる。ひとみと焼き菓子の話をしてから、この種の菓子類がやたら目につくようになった。お菓子のほうから攻め立ててくるようだ。
 慧也はメモ帳を手にして、店に入った。店番をしていたおかみさん風の女性が、応対に寄って来た。
「そこの食堂で聞いてきたのですが、こちらには上の**高校を出た方がいらっしゃるとか。実はそこに通っていた人で、現在行方の分らない人を探して歩いているんですが、こちらに八年前に卒業された方はいませんか?」 慧也はそう言って、調理場のほうへ視線をやった。しかし彼の声を聞き届けて、そこから人の出てくる様子はなかった。 
「うちの娘が二人、そこの高校を出ているけれど、二年前と、四年前だから、ずれているわね」
 と彼女は言った。「行方が分らないって、それは女の人? 男の人?」
「男の人です。追跡して、八年前ここの高校を卒業したまでは分ったのですが、その先が掴めなくって。級友にでも訊けば、あるいは分るんじゃないかと思いまして」
 と書き留めてきた通りに言った。メモには杉野目耕太と、例の架空の名義が記されている。岩見鶴子を大っぴらにできない苦肉の策である。
 もし八年目に卒業した者に巡り合えて、希望が持てそうな場合は、実はしかじかと、事情を打ち明けて、鶴子のことも話してしまうつもりだった。その場合は、ひとみにとは限らず、秘密を厳守するという約束を取らなければならなかった。問題は、そこまでいけるかどうかである。
「それなら、写真館に行って、アルバムを見せて貰ったらいい。あそこは**高校指定の写真館だから、資料は全部保管していると思うよ。行ってごらんなさい。うちの娘も、卒業アルバムに載せる写真だと言われて、あそこで撮ったくらいだから」

            つづきます

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

文芸の里 更新情報

文芸の里のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング