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文芸の里コミュの旅立ち 二(1)

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 旅立ち 二の1


 岩見鶴子はチェックインした一人の客を送り出した後、どうしてかいつものように寛げないものを感じていた。次の客が詰めているわけでもないのに、目に見えない何かが、このカウンターを視野に入れて、動き回っている気がするのである。視線を浮かして辺りを窺ってみるが、このカウンターを心に留めて待機している客がいるとは思えなかった。
 以前、岩見鶴夫が現われたときだって、これほど吾が身に迫ってくるような気配はなかった。しかし普段の客に接するのとは違った、印象は確かにあった。だがその鶴夫が、いま改まってここに現われてくる可能性はまったくない。もしあのとき、いっさい約束を取り交わしていなかったら、再挑戦してくることもあったにちがいない。
 鶴夫のことだから、名前の一致を単なる偶然とは受け取れずに、日を改めて向かって来ただろう。
 それにしても、まだそれほど日数を経ていないのに、二人の間柄は進んでしまったものである。鶴子はほとぼりの冷めない数日前の抱擁と接吻を想い出し、意識が高揚してくるのを感じていた。こうなった一つには、普通のオーエルとは違って、休日を休みにできない鶴子に、彼のほうが合わせられるということもあっただろう。定職に就かず、大学に残ってアルバイトでやりくりしているなんて、これからどうするつもりなのかしら。鶴子は鶴夫の暢気さを考えて、つい笑ってしまった。困った人ねえ、あなたは。自分の目先のことも考えずに、邪馬台国がどうだとか、そんな夢みたいなことを言ってるんだから。
 鶴子が安んじていられるようになったのには、鶴夫の登場で、兄への気遣いが薄らいでいったということもあっただろう。実際鶴夫の洞察するとおり、兄は母親に会って、自分の血のルーツを確かめて、心が落着いた節もうかがえるのである。しかしそれはあくまでも憶測で、確認を取ったわけではない。兄は母親に会って、これまで謎に包まれていた自分の人生の輪郭ができて、明らかになったのはいいとしても、百八十度軌道を修正して、新たな人生へと踏み出していけるものなのだろうか。
 鶴子は分からなかった。分からないものが、不安の根となって、体の中を這い広がっていくのを意識するようになった。
 ふとこのとき、ロビーの柱の陰に、やや不自然な人の動きを感じて、そちらへ目をやった。背を向けてベンチに腰を下ろす一人の男が、鶴子の方を振返って、姿勢を元に戻すところだった。航空券の発売カウンターを探している感じでもあった。男はすぐベンチを立ち、人込みに紛れて行った。三十歳前後、上下色違いのブレザーに、小さな鞄をぶら下げただけの格好で、旅行者とは見受けられなかった。
 間もなく鶴子は休憩時間となり、食事をしにカウンターを離れた。
 部署に戻って、三人の乗客のチェックインを済ませて送り出したとき、隙を突くように迫ってくる男がいた。先ほどロビーの柱の陰にいたあの男だった。身ごなしは敏捷で柔らかく、若さが窺えるが、近く接して見る目許には、多くの小皺が刻まれ、年齢を感じさせた。それより鶴子に迫ってきていた異様な気配のようなものが、この男からきていることを、このとき強く察知して、目が話せなくなっていた。
「あのーー」
 と男は語尾を引いて、具体的な行き先を告げようとしない。
「僕は金沢から来た大国という者ですが」
 鶴子は合点すると同時に、ぐらぐらっと内部で瓦解するものがあり、それに身を任せないではいられなくなった。目先が霞んでいき、そのまったき白夜ともいうべき中から、浮かんできたものに向かって、
「あなたがお兄さん?」
 と呟くように洩らした。男は一瞬戸惑いの色を見せ、次に上気したようになって、カウンターに額をぶつけるほど、何度も頭を下げた。それから彼はひょいと顔を上げると、
「この間、あなたのお母さんに会いました」 と告げた。自分の母親でもあるはずなのに、法律を重視した言い分なのか、実質を重んじたのか、そう言った。
「母に電話したとき、そう言ってました」
 と鶴子は言った。まさかこの兄について、鶴夫に聞いたことを確かめてみたとは言えなかった。母親は会ったことを否定はしなかったが、まさかその出会いが、こんなに切迫していたとは考えなかった。もっと遥か前に、片付いていたのかと思った。
 岩見鶴夫がここを訪ねて来たことといい、大国慧也が母に会ったことといい、また岩見鶴夫の夢に、慧也が現われて、俺の妹に会うなと言い、少しして、よろしくと言ったとか、すべてに現実との接点があり、時の支配を受けているようでならなかった。
 大国慧也は疲れているのか、カウンターに肘を置いて、その自分の腕に体重のあらかたを預けるような姿勢をとっていた。自らの生い立ちを調べるだけで、疲労困憊するほどのことであろうと、鶴子は思った。
 何か言葉をかけたいのだが、口が動かなかった。助け舟を出すように、慧也が口を割った。
「お母さんに、娘さんと大学生の弟さんのいることは聞いたのですが、娘さんは上京しているとおっしゃるだけで、住所は教えて下さらなかった。それで何としても突き止めたくて、あなたの出た高校を調べて、学友を探り出し、ついここにおられると訊き出して―」
「あら」
 と鶴子は驚きを口の形に表わしただけで、二の句が継げなくなっていた。どうしてこんなに容易いことが、母親の口を閉ざしてしまったのだろう。鶴子自身は大国慧也の出現をずっと待ち構えていたというのに。身代わりのように岩見鶴夫が現れてしまったが、それだって、もしこの大国慧也のことを予期していなかったら、ただの旅行者としてやり過ごしてしまっていただろう。
 鶴子は母親の振る舞いが解せないのと同時に、彼を悲惨な目に遭わせてきた身内の一人として、どうにかしなければいけないという責務にかられていた。にもかかわらず、やはり相応しい言葉は浮かんでこなかった。この明るい衆人の目の届く場所では、話もできないというのなら、せめてその機会をつくらなければと、焦るだけで、依然二の句が継げない、緊縛の状態になっていた。
 このとき、搭乗券を求める客が来たのを幸い、大国慧也に向かって、
「今日、お急ぎでしょうか。できたらお話伺わせていただきたく思いますので、ここでお待ちになってくださいますか。私の任務が解けますのが、四時半となっておりますので、それまでだいぶ時間がございますけれど」
 そう言って、空港内のカフェB&Bをメモしたものを渡した。
「大丈夫です。待つのには慣れておりますから」
 大国慧也ははにかみの体でそう言うと、どこかほっとしたように鶴子の前を離れて行った。鶴子は慧也の後姿を少時見送ってから、待たせた客を丁重に迎えた。
 
 鶴子は勤務を終えると、ロッカー室で通勤着に着替え、大国慧也の待つB&Bに向かった。鶴夫を待たせたのも同じB&Bであったことを思うと、あいついで運命的な出会いが起こされてきている気がしないでもなかった。 慧也が鶴夫のときとは違い、扉をはさんでちょうど対極の位置にいたので、どうしてかふっと安らぎを覚えた。やはり二人を重ね合わせたくない思いが働いていたようだ。鶴夫が夢に出てきた慧也のことを、理性では納得しながら、感情では跳ね除けようとしていたように、鶴子もともすれば纏まってくる二人を別な人格として引き離そうとしていた。
 慧也は装い新たな鶴子の登場に、一瞬たじろいだ印象だった。まさかとは思うが、友人をつかって、急用が出来て来られない旨を伝えにきたと、早合点したのである。
 席について、慧也にそう説明されて、父を違える兄の心の裡が読めてきたのである。鶴夫にも卑屈な面はあったが、慧也に比べると、ずっと他愛のないものだった。
 慧也は空港近くに宿を取っていた。それを知ると、鶴子は夕食をしながらお話しましょうと兄を誘って、バスターミナルへと向かった。
 慧也は鶴夫よりいくらか背が高く感じた。しかし慧也はいくぶん猫背だった。だから見た目には、二人の背は似たようなものだった。 バスが来ると、ステップに足をかけながら
「私このバスで通っているのよ」
 と、鶴子は気さくに言った。
「空港にバス通というのも、ちょっと意外だけど」
 鶴子に続いてバスに乗り込みながら、慧也は言った。
 二人は慧也の予約しているホテルに近い所でバスを降り、高層ビル一階の、ドイツ風のパスタの店に入った。
 鶴子が慧也に、これは確かに兄だなという発見をしたのは、何の弾みか彼がひょっと横顔を見せたときだった。母親の面差しにあるもっとも柔和な部分を、そこに刻印していたのである。父親が違うために、これまでずっと表に出されたことのない日陰者の、兄妹の兄なのだと心から信じられた。
 この兄には、二度鶴夫の夢に現われたという、逞しくも荒っぽい妹思いの兄らしいところは、微塵もなかった。疲弊していて、若々しさはなく精彩を欠いていた。こうして向かい合っていても、テーブルの陰に組み合わせているに違いない自分の手の辺りに目を落として項垂れている。
 その兄の顔を上げてやりたくて、
「あの……」
 と言葉で誘ってみる。はっと彼は長い夢から揺り覚まされたかのように面を上げた。
「疲れてしまったのね?」
 鶴子は労るように言った。
「いや、その何から話せばいいのかと。あまりにも道程が長かったもので……」
「分かるは、お兄さん一人を、そういう目に遭わせてきたんですもの」
「いや、これは仕方ないんですよ。こういう運命に生まれてしまったんだから」
 そう洩らして、大国慧也はぽつぽつ語りはじめた。
 鶴子は母親にも教えられていない、真実を語り聞かされることになった。この兄にしても、実母と会うまでは深く闇の中に閉ざされてきた自分の歴史と言ってよかった。

 大国慧也が自分の生い立ちを知るためには、当然生みの母と父について探らなければならなかった。小学校、中学校、高校と、仲間たちには、祖父母よりはずっと若い両親がいるのに、どうして自分にはいないのか。いるはずのものがいなという、その不自然さの故に虐めの対象にもなってきた。悔しいやら悲しいやら憤ろしいやら、それらの感情が積もりに積もって、不良グループの仲間入りをしたこともある。孤立していると、いびられるから悪に染まって、虐める側に身を転ずるのである。幼いなりの生活の知恵といっていい。
煙草、飲酒、暴力沙汰、教師や警察の補導を受けたことは何度もある。
 車を買うために高校を休んでアルバイトをし、卒業と同時に中古車を手に入れた。それをレースカーに改造して、深夜の直線道路を突っ走った。電柱に激突して、三箇月の入院。「そのとき脊髄を損傷して、まだ治らない」
 慧也は背中に手を回して、背筋を伸ばそうとしたが、痛みを庇って顔を歪めた。鶴子は慧也の背が曲がっているのを見ていただけに、何も言えなかった。
「せっかく買った車は大破して、死んだ蟹みたいになってしまったし、それを見ていると、俺自身を目の当たりにしているみたいで、ほとほと生きている気がしなかったね。ぐれて、切れる寸前の状態で生きていたよ。煙草をすぱすぱ吹かして、頭の中をニコチンと煙でぼんやりさせていなければならなかった。煙草を切らせて、どんな草でもいいからキセルに詰めて吸おうとしているのに、そのキセルがどこかに消えてしまった。じいちゃんか、ばあちゃんが隠してしまったに違いない。俺はニコチン中毒になっていたから、実際狂気に駆られたようになって家中探し回ったよ。そうやって動き回っているのが、正義のような気さえした。その正義を見て知っているのは、自分だけであると思った。もう一人、いや二人、死んでこの世にはいないとされていた両親が、どこかで見ていて、自分の行為を哀れんでくれているようにも思った。人生はこんなに苦しいんだ。生きていくのには涙ぐましい努力がいるんだ。俺だけを残して、天国へ行ってしまった両親を怨む気持ちも混じっていた。
 洋ダンスを引っ掻き回しているとき、祖母の着物の下から、ビニール袋に入れられて。ゴム輪で留められたものが出てきた。
 何だこれは? 俺は衣類だけの中に置かれていたこの異物を手にして、呟いていた。ゴム輪をはずし、ビニール袋を開くと、中から三、四枚の年賀状が出てきた。年賀状がどうしてこんなところに、隠すかのように置かれているのだろう。そう思って、ざっと年賀状の少ない文字に目を通した。なんということもない、おめでとうとか、今年もお元気でとか、ありふれた文字があるだけ。
 しかしそのすべての年賀状に、「ひとみ」というサインがあるのに注目した。印刷された神戸の住所と、岩見祥一郎という名前の隣に、ひとみ、という踊ったような筆跡の三文字。住所に寄添って、電話番号の記載もあった……
 慧也はそこまでまくし立てるように話すと、ブレザーのポケットから煙草ケースを取り出し、一本引き抜くと、ライターで火をつけた。 鶴子と会ってから一時間近くは経つのに、今煙草を口にするのは、我慢していたのだろうか。そしてキセル探しの話をしているうちに、忘れていた煙草を思い出したのだろうか。それとも妹を気遣い、かばって堪えていたのだろうか。
 鶴子は煙草の量が気になって訊こうとしたが、どうしてか口にできなかった。慧也の話を聴いているうちに、彼にとっては喫煙が、命に関わる大事であるように思われたのである。
 慧也が洋ダンスの中で発見した年賀状の差出人「ひとみ」こそ、鶴子の母親であり、慧也の生みの親なのである。その発見は彼にとって、コロンブスの新大陸発見以上の喜びであったに違いない。
 思いがけない発見をした、そのときの喜びに浸るため、一息入れたくなり、煙草を口にしたくなったというのが、実際かもしれなかった。
 祖父母は慧也を、養護施設から貰ってきたと言い聞かせてきたが、彼はそれを信じようとしてはきたが、鵜呑みにはできないものがあった。それはこの家を継ぐ長兄の顔のどこかに、故郷の懐かしさのようなものを感じていたからでもあった。一度そう気づくと、祖父母や甥、姪の中にも似たものを嗅ぎつけて、慧也は血族の中にいるような気もしていた。
 そうした心の傾きの中で見つけた「ひとみ」の年賀状だったのだから、実母へと一直線に繋がっていくのは簡単だった。
 慧也は年賀状の発見を祖母に問詰めることはしなかった。そして神戸在住の鶴子の一家を探りにかかった。
 行きつけの飲食店の女店員に頼んで、電話をしたこともあった。むろん偽名を遣って、先方を探るだけである。
 当初はそこに両親が住んでいると思い込んでいた。そう考えると、自分が祖父母の養子となっていることが理解できなくなってくる。 神戸には祖父母の娘が嫁いでいるとは聞かされていた。夫は銀行員で、娘と息子がいるとも耳に挟んでいた。
 妹と弟がいて、なぜ長男の自分だけが、一緒に住めないわけがあるのだろう。その謎を解くためには、神戸に赴いて自分の目で確かめなければならなくなった。
 こういう状況の下で、慧也の第一回目の家出は敢行された。心配して、祖父母は神戸に電話で連絡を取る。ひとみからも実家に頻繁に電話がいった。家出した本人からも、探る電話がかかったので、神戸の家はさながら騒乱の坩堝と化した。
 慧也は神戸駅前のビジネスホテルに投宿し、実母の家の周囲をさまよった。
 六甲の山へとつづく高級住宅地に鶴子の家はあった。閑静な場所とあって、人通りも少なく、そこをうろつけば、すぐ挙動不審者と疑われてしまう。
「家を突き止めたときは、とてもじゃないけど、俺なんかの住めるところじゃないと納得したよ」
 慧也はそのときの気持ちを、そんなふうに表現した。しかしだかといって、彼が養子に出された理由になるのだろうか。そんなはずはない。そこに気づいたからこそ、すぐ引き返したりせず、家からその中に住む人へと焦点を絞っていったのだろう。
「銀行員ということで、表向きは一応こざっぱりしているように見えても、ローンとかでみんな無理をしているのよ。母だってパートの仕事に出ているし」
 と鶴子は言った。
「ああゆう場所を見ると、俺なんかのいるところじゃないと思えて、いち早く立ち去りたくてならなかった。その一方で、父親を突き止めないではいられなくなって、周辺を歩き回っていた。車で通勤しているから、確認するといっても、ガレージまでのほんのわずかな距離でしかないんだ。その限られた時間に、家の前に差し掛かって、しかも、その時折よく父親が出て来なければならない。人待ち風に路地に立っていても、そう長くはいられない。三日も続くと、よけいその思いは強まる。 結局一週間通い詰めて、玄関からガレージに向かう七、八歩の父親の姿を垣間見ただけだった。
 一目で、この人は違うと感じた。比較は俺自身としかできない。他に比べるべき人間がいないんだ。俺が自分の目で見て、己の姿と比較するしかないんだ。背は俺より高いし、胸板が厚く、堂々としている。額が広いのも、豊かでおっとりした感じを与え、それは人の信頼を集める。
 これは血が違う、そう判断した。そうすると、長男の俺だけを追放した線は消える。母が再婚するのに子供が邪魔になり、実家に俺を置いて出て行った線が濃くなる。
 
 そこから慧也は、最近母親と出会ったときの話へと飛躍した。
「あの人は俺が想像していたより、ずっときつい人だね」
 慧也は初めて会った母親のことを、あの人と呼んだ。子と母の体験などなかったのだから、当然だ。鶴子は自分の母親があの人と呼ばれるのに何の抵抗もなかった。
 さいしょ慧也の電話に出たのは、耳の遠い祖母だった。慧也ははじめ、これが母親と勘違いして面食らったらしい。
「ひとみという方は、ご在宅でしょうか?」 彼は仰々しい言葉遣いをした。ひとみ、ひとみと、連発しているうちに、分かったらしく奥へ向かって、声を張り上げた。これがひとみでなくて、慧也は胸を撫で下ろした。こんなに言葉が伝わらないようなら、会ったときどう説明したものやら、どっと暗黒が流れ込んできていた。母親がこんな不自由をかこっているものだから、自分は外に出されたのかと、運命的なものまで感じてしまった。
「どなた?」
 電話口に出たひとみは素っ気なかった。慧也が金沢から来た大国慧也だと名乗ると、一瞬たじろいだが、すぐ最前の応答に戻っていた。
「金沢からって、今どこにおられるの?」
「神戸駅前です」
「ああ」
 これまた素っ気なく受けて、「そうねえ、一時間ほど待ってくださる? すぐ支度して出るから。それで分かるかしら、どちらの改札。南口ね。私、鶴の絵柄の和服で行くから。鶴の絵よ。二十分過ぎても、見つからなかったら、一番近い交番に行って、そこにいてちょうだい」
 交番と言われて、慧也は一瞬ひるんだが、車の無謀運転で検挙されたのは昔のことだと思い直した。交番に行けなどと、さすが銀行員の妻のセリフだと、半ば呆れていた。
 慧也は緊張して南改札の前に立っていた。ひとみから生まれたのであれば、初対面のはずはないが、物心ついてからとなると、そうなる。周囲の電光文字が、右から左へ、上から下へと目まぐるしく流れ、点滅を繰り返していた。真昼間だというのに、夜と昼が重なって活動している。
 以前神戸を訪れたときは、住宅を突き止め、父親が自分とは関わりのないことを確認して、逃げ帰っていた。ぬけぬけと自分がこの家に入り込んでいけば、母親を窮地に追い込むことになると悟った。自分が日陰者であることを思い知った。
 この家には自分を生んだ女がいるが、それは母ではなかった、彼はなんとも惨めに打ちひしがれて、退いて行った。
 慧也はそれから、中学時代に見よう見まねで覚えたエレキギターにのめり込んで行く。素人の音楽仲間に加わり、明けても暮れてもエレキギターを掻き鳴らして、ストレスを発散させていた。
 中学のときの不良仲間のなかに、父親が倉庫業をしているものがいて、倉庫の空いたところを練習場所にして、楽器を打ち鳴らし、掻き鳴らししていた。たまに演奏の依頼がくることがあって、そんなときは、練習にもひときわ熱がこもった。
 慧也の演奏を聴いて、プロ級だと褒めてくれる人もいた。相当真剣に打ち込んでいたので、褒められても、ごく当然のように受け取っていた。
 言ってみれば、慧也の演奏は逃避の行為に他ならなかった。自らの過去に一つ疑問符を打ちながら、そこから目をそむけようとしている彼がいた。洋ダンスにしまわれていたひとみの年賀状から、謎を探る旅には出てみたが、あっさり退けられて、すべてをなかったことにしようとしている自分がいた。
 彼はエレキギターを掻き鳴らしながら、どうにかしなければならないと思いはじめていた。酒と煙草で感覚を痺れさせ、やみくもにエレキギターで高音を鳴り響かせてみたところで、救いはなかった。ますます真っ黒な闇へと突き進んで行くだけだった。
 慧也は酒と煙草の力を借りて、音の領域にのめりこんでいきながら、何もない、空虚の世界に埋没していくだけで、明日がないことに気づいた。明日はどこから来るのだろう。そんなことを漠然と考えていた。過去があるから今日があり、そこから明日が見えてくるというのが基礎を踏んだ歩みなのではないだろうか。それなのに、自分には過去が見えないために、明日へと繋がっていかないのだと認識した。つまり自分には、拠って立つ故郷がないのだ。誰にでもある古里が分からないでいるのだ。
 唯一掴んでいるのは、ひとみという母親の影だけではないか。彼女が不貞を働いて自分を生み落としたという想像だけが、自分の今ある立脚点というだけでは、お粗末すぎる。 何とか、母親に会うだけでもしなければいけない。そこから故郷のイメージだけでも掴み取らなければ、自分は完全に駄目になる。慧也は思った。母に会いに行こう。今の卑屈さが生立ちから来ているのなら、それを乗り越えていかなければ、自分の運命に押し潰されてしまうだけだ。
 慧也は十年目にして、思いを新たに決断した。
             
 つづきます

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