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文芸の里コミュの旅立ち 4

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 旅立ち 4


「夢に、君の兄さんが現れたよ」
 鶴夫はふつりと洩らした。水面に自分たちの影が動いているように見えた。
「あら‥‥」
 彼女は呆気に取られて、鶴夫を凝視した。
「凄まれて、これからは妹に会うなって」
「兄がそんなこと言って?」
「実際に現れた気がして、表に出てみたよ。でも、形跡はなかった」
「当たり前よ。でもどうして、会うななんて言うのかしら」
「知らないね。初めは厭な気がしたけど、君とは血が繋がっているんだろう。それなら、君とは結婚するはずはないんだからって、思い直して‥‥。それでも、一度会っただけだって言っておいたよ。会う約束をしたなんて言わなかったし、第一、これから会ったらただではおかないぞと脅されたからね。命が惜しければ会うなって」
「まさか」
 鶴子が目を見張った。そんな荒らくれ男として兄が現れたのを、どう考えたらよいのか迷っているようだった。
「心配することはないよ、夢なんだから」
 と彼は言った。
 一人の老人がリールを巻きはじめた。つられて川面に目をやった。糸の先に、一尾の沙魚がぶら下って上がってきた。その向こうの老人も沙魚を釣り上げた。リールを静かに巻くので、沙魚は自分が釣り上げられたのに気づかないかのようだ。欄干近くまできて、苦しくなったのか暴れだした。
 ふと顔を上げた空に、鳥が渡っていた。雁の渡りであろうか。十数羽がくの字を描いてゆっくり羽撃いて行く。途中からくの字は崩れて、横一列に並んだ。羽撃く音もなく、啼声もなく、静かなゆったりとした飛翔である。
 鶴子も空を見ていた。間もなく鳥の列は、建物の屋根の向こうに消えた。
「あら、また来たわ」
 河にさしかかる手前の街の上に、八羽ほどが浮かんでいた。八羽は互いの間隔を保ち、首を伸ばしてゆっくり羽撃く。一羽とて列を乱すものはなく、群れの一員となっていく。羽の動きはゆったりしていても、みるみる空を後方へと押しやっていく。
 老人たちは釣りに真剣で、一人として鳥の列を見るものはいない。あたかも、釣り上げられた魚が、老人の仕掛けによって、一瞬のうちに鳥に変えられていくような、不思議な情景である。
 鳥の列は、二つの集団で終りではなかった。すでに向こう側の街の上には、新しい集団が浮かんでいた。
「不思議ねえ。向こうを見ても、何もいないのに、ふと気が付くと浮かんでいる。次々と空から湧き出てくるみたい」
 鶴夫も同じ気持になったところだった。不思議というなら、二人がここにいることも含まれていた。ことに鶴夫と鶴子が、鳥の渡りを見ているとなると‥‥。
 ふと鶴夫に閃くものがあった。それは予感と言った方がいいかもしれない。まだ果たしていない機上の旅を、鶴子と一緒にしてはどうだろう。しかし今それを口にするのは早過ぎる。彼は衝動を抑えて踏みとどまった。

 次に鶴子と会うまでに、彼はまた兄の夢を見た。今度は、かつての荒みが信じられないほど鳴りをひそめて、恭しく頭を下げると、
「妹をよろしく頼む」
 と言ったのである。そして、義兄弟の契りをするべく、ビールをなみなみと注いだグラスを、チャリンとぶつけてきたのである。
 これを鶴子に告げたとき、彼女は笑窪をこしらえて、
「それじゃ、兄はちゃんとして生きているのよね」
 と、見るからに嬉しそうだった。
「そうさ。これはぼくの推理なんだけど、君の母親は、兄さんに会って謝ったと思うんだよ。夫にも、君にも内緒にしてね」
「どうしてそんなことが分かるの」
 鶴子は目をばちくりさせて、彼を見詰めた。
「兄さんが家出をした後、変な電話が続いたんだろう。それなのに今は静かにしている?」
 鶴子は額いて、真顔で彼を捉えた。「一度母親に会って、自分のルーツを突き止めたからこそ、治まったと思うんだ。親を確認したからこそ、大人になれたんだよ。どうしようもなく彷徨っていた心が、拠るべきところを得たとでもいうのかな」
 二人は新橋のあるハンバーグショップにいた。鶴子はチョコレートシェークに立てたストローを回しながら聞いていたが、ふとその面を上げて、
「あなたの言うこと、当たっているかもしれない」
 と言った。
 憑き物が落ちたように、鶴子は一変して表情が穏やかになっている。一人の女が、こんなに裏と表を持っていたのかと思えるばかり、別人になっていた。これが本来の鶴子なのであろう。今なら、念願の空の旅の話を持ち出せるのではあるまいか。
 鶴子は今日、丈の長い黄のカーデガンだ。広い窓からの陽射しに、微細な毛の先端が白く輝いていた。
 この日も、飛行機の旅の話は出来ないで終った。けれども次に会う約束をしたので満足していた。
 別れて帰る道すがら、鶴夫は都会の空に幻を思い描いていた。翼の先を重ねるようにして舞う二羽の鶴だった。
 大都会が小さくせせこましく、遥か眼下に押しやられて、電車、車、人間などは、奇っ怪にも都市に棲みついてしまった動物や虫けらだった。電車が蚯蚓か毛虫なら、人間は蚤に等しかった。
 鶴夫は知らず知らず鳥瞰している自分に気づいて、あっと、路上で叫びそうになった。見下ろしているということは、自分たちが鶴になっていることになる。時々翼をこすりつけてくるのは、紛れもなく鶴子なのである。
 白昼の幻から覚めると、いよいよ空の旅が迫っているのを感じた。

 約束のホームで降りるなり、鶴子はにっこり笑って彼に走り寄った。
「この間の、あなたの言ったこと、図星だったわ」
 彼は当惑して、
「何」
 と言った。
「私、母に電話したの。兄さんに会ったでしょうって」
「ああ、その話か」
「そんなにあっさリ言わないでよ。私には大変な問題だったんだから」
「じゃ、今は開放されたってこと?」
「そうね、ようやく独りで飛び立てそうってとこかしら」
 やはり旅立ちは近いなと彼は思った。

 兄への重荷が取れて、開放されたという鶴子との逢瀬は繁くなっていった。
 手を繋ぐようになり、人気のない路地にくると、抱擁にもなった。彼は一人になっても、手を伸ばせば届くところに、鶴子がいるような気になった。
 そんな中で、彼の空への想いも、単に飛び立つだけでなく、目的を持った旅にしたくなった。鶴子の兄が、自分のルーツを探し当てたというのなら、もっと大きく日本人のルーツを辿って、いっそ九州まで飛んではどうだろう。
 ある日、羽田近くの街を鶴子と歩いていると、頭上を低くジェット機が飛んだ。車輪がゆっくりとボデーの奥にしまわれていくところだった。
「ああやって、車輪をしまって、すべてを大空に委ねていくのよねえ。私もあんな生き方がしてみたい」
 鶴子はふと、そう洩らした。彼は委ねるんなら、いささか頼りなくはあっても、自分という男がいるじゃないかと、彼女を握る手にカをこめた。それで納得しているふうには見えないから、手を彼女の腰に回して引き寄せて歩いた。鶴子は、彼のカにのってきて、重たく寄り添ったが、心はちぐはぐで、しっくりしなかった。体だけで重くぶつかってくる印象だった。
 小さな公園にさしかかると、二人はベンチに並んで腰掛けた。週日だから公園は閑散としており、外れの方の砂場で若い母親が子供を遊ばせているほかは、老人が犬を散歩させているだけだった。
 ほぼ三分置きに、頭上を飛行機が通過していた。
 鶴子は、兄の重荷から解かれたと言いながら、彼に心からは打ち解けてくる感じがなかった。心に蟠りを抱きつつ会っているようだった。そのくせ、接吻には応じてきたり、また、彼の欲望を予期するように身を離したりした。
 彼はそんな鶴子を、身勝手とは知りながらも、深い間柄になっていないからだと考えたりした。
 今日こそ、空の旅に誘ってみようと彼は身構えていた。先程、鶴子が飛行機を見ながら言っていたのは、それを仄めかしたのではなかったか。彼は遅ればせに考えてみた。「あんな生き方がしたい」などとつけ加えたために、はぐらかされてしまったのだ。彼は再びその機が熟すのを待っていた。
 飛行機はつぎつぎと通過していくが、もう鶴子は空を見ようとしなかった。
「前から話そうと思っていたんだけど」
 彼は改まって切りだしていた。そのときの情調にまかせて、さり気なく言ってのけることのできない損な性分だった。「君と一緒に空の旅を実現したかったんだ」
 もう友人として以上の付き合いになっていると思えたから、それほど緊張するはずはなかったのに、言葉が滑らかには出てこず、心底からこたえた。
 彼は心の負担を覚えながら、なおつづけなければならなかった。
「目的はあくまでも空への旅立ちだったんだけど、考えているうちに、日本人のルーツをきわめたくなったんだよ。それで九州へ飛びたくなったのさ。卑弥呼の支配していた耶馬台国論争は盛んだけど、ぼくなりに僅かばかりの知識と、世界地図を鳥瞰して、九州という直感が働いてね。ぜひそこへ行って、その土地を呼吸してみたくなったんだよ」
 鶴子はしばらく沈黙していたが、
「ルーツを探るって、人間の本能のようなものよね。私、兄のことでそう思えた。でも、人間って、どこから来て、どこへ行くのかしら」
 と、とてつもない大きな幕でくるんだ言い方をした。
 こうなると、耶馬台国がどこであろうと、ちゃちなことになってしまう。しかし、はたしてそうだろうか。人間には父母がいて、ちゃんと固有名詞があるように、具体的な源があって、はじめて現在の生の営みもあるのではないだろうか。そもそも今二人が会っているのも、同じ名前を持っていたからではないか。だがこれを、どう鶴子に説明したものだろう。
 いやいや、こればかりではない。もう一つ、それは飛びたい欲求と一緒になって、旅先で鶴子と結ばれたい思いがあった。その後ろめたさがからんでルーツばかり声高に叫ぶわけにいかなかった。また、彼は鶴子の言った《人間はどこへいくのか》という問題をあえて避けているなと思っていた。
「どう、一緒に九州に飛ぶのは」
 と、彼は誘った。
 鶴子は何を考えたのか、さばさばした身ごなしでバッグから手帳を出すと、カレンダーのところをめくって目をこらした。
「行くんなら、暮れの帰省ラッシュになる前がいいわね」
 鶴子の素早い心の動きに、彼の方が戸惑い気味だった。「今月の末あたりどうかしら。私、この二日間が休めるの」
「君の都合がよければ、ぼくはいいよ。いつでも」
 彼は上の空で答えていた。鶴子の示した日取りでいくと、旅立ちは二週間後に迫っていた。
「機は他の社をつかった方がいいわね。のんびり行きたいもの」
 鶴子は手帳をしまいながら、はしゃいで言った。
「それほど名前に拘るわけじゃないけど、日本航空がいいな。あの翼を上げたマークからして」
 と彼は子供っぽいことを言った。
 鶴子は彼の掌を両手に強く握って、爪を立ててきた。そうしながら、二重瞼をまばたかせ、妖艶にいたずらっぽく笑いかけた。


 二人は当日落合うまで、会わないことに決めていた。そう言い出したのは鶴子だった。幾分ひっかかりはしたが、機上で二人は一緒になるのだから、それまで一人の静かな時間を持ちたいのだろう、くらいに考えていた。
 出発の前日、彼はアルバイトから帰ると、慌ただしく旅行鞄に荷物を詰め込んでいた。
 必需品をほぼ納めて、一息ついていると、乱暴にドアが叩かれた。郵便配達だった。不吉な思いが、胸を直撃した。
 速達書留は、やはり鶴子からだった。普通郵便ではないものものしさが、よけい彼を戦慄かせた。
 走り去る郵便配達のオートバイの音を、悪魔のつかいの雄叫びのように聞いていた。

 あなたの旅立ちの邪魔はしたくなかったのだけれど、ごめんなさい。私、ご一緒しないことにしました。
 あなたと旅行の約束をしたあと、私、それはそれは悩みました。とても言葉で表現できるものではありません。考えまいとしても、悩みが襲いかかってくるのです。
 あなたと会っているとき、全然口にしなかったお酒を飲んでも眠れず、とうとう昔世話になった睡眠薬に頼らなければなりませんでした。
 私の今の気持をどう説明したら、あなたは分かって下さるでしょうか。決して弁解するつもりはありません。約束を破った私が悪いのです。それは十分承知しながら、なお理解されようとしている私を、どう言ったらいいのでしょう。
 あなたと会っているときは忘れていられたのですが、私の奥深く、一口に終末観とでも言えるものが根を張っていて、どうしようもありませんでした。こう言うと、それは今流行の『終末の思想』に毒されているだけだよ、と一蹴されそうですが、私には収拾のつかない大きな問題を抱え込んでいるようなものなのです。私の内部に癌細胞のように重くはびこり、そこからふつふつと憂欝を吐き出してくるのです。
 人生に未来がなければこそ、今を謳歌すればいいじゃないか、とあなたも言われるでしょうか。職場にもそういう人はいますが、私の心はどうしても、その考え方に傾いてくれないのです。
 こんな私を、理想が高過ぎると笑われるでしょうか。有限な一生に無限を求めるようなものですもの。
 でも私には、幼い頃から、そんな夢見るようなところがありました。目の前の不安を片付けなければ、一時も落着いていられないようなところが。その不安が一度に押し寄せてきたのが、あなたにもお話した父親違いの兄がいると知った時だったのです。私は眠れなくなり、睡眠薬と精神安定剤の厄介になりました。
 そこから今度は、薬の副作用で、将来障害のある子供が生まれるのではないかと、新たな不安へと発展していきました。それは現在も変わりありません。いえ、たとえ健康な子供をさずかったにせよ、今の悩みを抱えた状態では、健全に育てていく自信がありません。 現在の国内はもとより、世界の情勢を見回してみて、どこに希望があるでしょうか。終末観と書きましたが、そういったものが核になって、不幸の影が累々と迫ってくるのです。
 あなたと旅行を約束したあと、その感情はことに強く私を襲ってきました。職場の部署に立っていても、すべて立ち去っていく人のように思えてなりませんでした。(到着ロビーでなければ、当然なのですけれどね)ちっぽけな頭を抱えて堂堂巡りをしていたのですから、解決など与えられるはずもなかったのです。

      つづきます

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