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文芸の里コミュの旅立ち 3

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旅立ち 3


 喫茶室に席を取ると、会うと約束した鶴子の心根を読もうとしていた。
 「珍しい名前の一致」が、彼が考えるように、偶然の一致とは思えなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。こう見えても日本は広いし、その中では「岩見鶴夫」と「岩見鶴子」程度の同姓同名にぶつかっても、不思議はない。ただその出会い方の中に、偶然だけでは片付けたくないものが、潜んでいたということなのだ。鶴子の中に潜んでいる偶然として片付けたくないものとは、一体何なのだろうか。
 鶴夫は珈琲を口に運びながら、出発ロビーを埋める人々を眺めていた。アナウンスがある度に、人々は立ち上がって行き、ロビーは歯抜けの状態になるが、どこからともなく人はやって来て、またベンチを埋める。外の滑走路からは、ひっきりなしに爆音を轟かせてジェット機が飛び立っている。
 やがて自分も、その中の一人になろうとしているのだが、実感は湧かなかった。もし鶴子との間が不調に終った場合のことが、頭に重くのしかかってきていた。そのときは、空の旅どころか、自棄っぱちにパチンコを弾くなり、酒場でウイスキー呷るなりしなければ、治まりそうもなかった。
「お待たせしました」
 意外に早く、鶴子はやって来た。小さなバッグを手にして、制服のままだった。彼は良くない結果を巡らしていたときだったので、恐らく暗い顔をしていたのであろう。彼女を迎える言葉が自然には出てこなかった。
「お仕事中を無理に呼び立ててしまいまして」
 披はぎくしゃくとそう言った。
「いいえ、そんなことはありませんわ」
 鶴子は明るく言って、言葉を切った。そこでレモンティーを一口啜ると、
「高松へは、どうしても今日発たなければいけませんの」
 と訊いた。一方的に反古にしてしまった感じの塔乗券のことを気にしていたのである。
「いや、別に。前から一度、のんびり飛行機に乗ってみたいと思っていただけなんですよ」
 彼は照れてそう言った。「肉親が危篤だとか死んだとか、そんなときしか乗っていませんからね」
 鶴子と話をする切っ掛けが欲しかっただけなのだ、とは言えなかった。今の心境からすれば、それが正直な気持だろう。
「確か、御実家は北海道でしたわね」
 鶴子はかう言って頬を赤らめた。行きずりの客にすぎないのに、関はり過ぎていると思ったのである。北海道のはずなのに、今度は四国の高松というのはどういうことなのかと訝る気持もあった。
「二年前まではそうでした。でも今はもう両親が亡くなりましたし、あまり係はりがなくなりました」
「まあ」
 鶴子は、半ば呆然として言った。男を哀れむというよりも、もっと彼女自身の内からの驚きといったものになっていた。
「それはあなたの本当の御両親?」
 何故か鶴子は、信じられないという顔にもなっている。
「そうですよ。でもどうして?」
 鶴夫の方が解せなくなっていた。
「私、本当のことを話してしまいますわね。二年前あなたが現れた後、お電話したんですよ。岩見鶴子と岩見鶴夫なんて、あまりにも不思議な巡り合わせですもの。さっきはあんな風に否定しましたけれど、初めはあなたが悪戯をして、同じ名前で私の前に現れたと思ったんです。というのは、私には父違いの兄があるんです。一度も顔を合わせたことのない兄が…」
 鶴夫は彼女の話が、意外な方向へ転回していくのを、呆気に取られて聞いていた。にわかに霧が晴れて、かつてあったのとは別な風景が現れてくるような、おかしな感覚に捉われていた。
「電話をして、どうでしたか」
 彼はこの二年の間に、女性からたとえ探るような電話にしろ、受けた記憶はない気がしたのである。
「案の定、全く関係のない家でしたわ」
「え?」
 鶴夫は眼を丸くして、相手に飛びかからんばかりに攻撃的になっていた。人をペテンにかけるのもいい加減にして貰いたい。そう言ってやりたいところだった。
「ぼくは、ちゃんと自分の番号を言ったはずですよ、塔乗券を求めたとき。あなたの言うその人は、まったく別な岩見鶴夫なんだ」
 その証拠に、この岩見鶴夫の顔を少しも記憶に留めていなかったではないか。いつか兄が現れると待構えていたのであれば、二年前に出会った顔くらい覚えていていいはずだ。しかしこれは自信がなかった。
「でも私、間違いなくあなたの番号を回したんですよ」
 鶴子は内ポケットから手帳を出し、随分過去の方に押しやられている番号を指し示した。しなやかな白い指が、持ち上っている問題を撥ね除けて、彼に女性を感じさせた。
 3887755 岩見鶴夫 とメモしてあった。
「確かにそれはぼくの番号だ。でも下から三番日の七のところが違う。そこが八だから。きつと慌てていて、ぼくが間違えて言ったんだよ」
 鶴子は長い間あたためてきたものを、断念するときがきたとでもいうように、大きく溜息を吐いてソファに背をつけた。
「まったく違う家だったからこそ、兄がどこかで私の居所を調べて、同じ名前で現れたと思ったのよ。それなら、いつかまたきっと、現れると待っていたの」
「折角の君の期待を裏切ってしまったわけだね。そうと分かつていれば、現れはしなかったのに。その結果として、ぽくの期待もふいになってしまった。さっき話をする機会を与えられて、もしかしたらこれから逢って貰えるかもしれないと、高望みをしたところだったのに」
 鶴夫は半ば破れかぶれに言った。捻くれた交際の申込み方になっている気もしたが、構ってはいられなかった。敗者復活戦に挑むといった心境だったかもしれない。
 鶴子は打って変わった真面目さで、彼を見据えるようにして、
「あなたは、どうして私に?」
 と訊いた。
 彼は母親が危篤で駆け付けるときから、死に目にも会えなかった経緯を話した。
「…夫と子が違うだけの、同姓同名に近い君と、ここ羽田で会わせてくれたのは、重体の母親が持ち直して、健康になるという徴というか、励ましというか、そのように思えたんですね。それが死なれてみると、はたしてあの岩見鶴子という人は何だったのかと、間わずにはいられなかったんですよ。そのうち、おふくろの死を見越して、その寂しさ、悲しさを埋めてやろうとする、いや、おふくろの身代わりのように、君があそこにいてくれたように思えてきたんですね。でも時が経つうちに、それは馬鹿げた一人よがりの妄想であって、単なる偶然に過ぎないんだと、自分に言い聞かせたんですよ。珍しい名とはいえ、同姓同名はよくあることだし、たまたま不幸の中にいたもので、溺れた者は藁をも掴む式に、そんなふうに大いなるものから哀れみをかけられたように思ってしまったんですね。何しろ、ぼくなんかからすると、君は高嶺の花だったから」
「それで二年間も現れなかったわけね。言っておきますけど、私、スチワーデスじゃなくってよ。あまり買い被った言い方はしないで」
 鶴子は何故か怒ったように言って「私、今が食事の時なの。あなたは?」
 と彼の返事を待たずに食券を求めに立って行った。
 サンドイッチがくると、
「二人分なの、召し上がって」
 鶴子はサンドイッチの器を彼の方え滑らせてきた。器の縁をつまんだ指はやはり美しかった。指の先端にまで神経が通っているようだった。男の目がそこにあるのを知っていて、科を作っているようにも見えた。
 鶴子は口のサンドイッチを水で胃に流し込むと、長くとどめてきた胸のうちを語りはじめた。親しい者に告白する語リ口にもなっていた。
 鶴子にならって、彼もサンドイッチを頬張った。空港ビルで女性と向い会うのは初めてだった。まして女性と食事をするなど、考えも及ばないことだった。これまで羽田は、追い立てられて慌ただしく通過するだけだった。暗い影を帯びた過去の事々が思い出された。
「私ず―っと兄に、済まない済まないっていう気持で、生きてきたのよね。自分に兄がいると分かったのは、高校二年生のときだった。母がそれはそれは深刻な顔をして、これまでひた隠しにしてきたことを私に洩らしたの。母は再婚だったのよね。先の夫が母と結ばれて二年もしないのに他界して、そのとき子供を宿していたの。その子を祖母の養子にして、今の私の父と一緒になったのよ。
 私が生れてから、祖母はたまに訪ねて来たんだけど、母の方から実家へ行くことはなかった。兄は、母親を全く知らずに育っていったのよ。祖父母の家には母の兄夫婦が一緒に住んでいたんだけれど、きっと寂しい思いをしていたんだと思うわ。
 その兄が高校を出て少しすると、家を出て行方が分からなくなってしまったのよ。ぐれて、祖父母や兄夫婦の手には負えなくなっていたらしいんだけれど。母は兄が真実を嗅ぎ当てて、私の前にも現れるかもしれないので、打明けてしまったらしいのね。私には今大学生の弟もいるんだけれど、何だか私、その父親違いの兄だけが、ひとりで苦しんできたようで、心に責めを感じるのね」
「高校二年生から、君はその兄さんをずっと待ちつづけていたわけだ。特に今の勤めになってからは、いつ現れても不思議はなかったんだね。そこへのこのこ「子」と「夫」を入れ替えただけの男がやって来たんだから、君がそう思い込むのも無理ないよ。でも兄さんは、今の君の家族のことを知っていたんだろうか。そう思える節はあったの?」
「調べようと思えば、不可能ではないわ。あるときおばあちゃんの後をつけたかもしれないし。ひところ変な電話が続いたのよ。あるときからぷっつりこなくなったけれど」
 鶴子の実家は神戸だった。祖父母の家は金沢で、距離は相当あった。名前は大国健太といった。その兄が、まるで違った名前の岩見鶴夫を名乗ってきたと思ったところが、彼女らしくもあった。
 鶴子は時計を気にしはじめていた。休憩時間が残り少なくなっていた。
「兄さんでなくて、不本意だろうけど、これから会ってくれる?」
 彼は時間に追いたてられ、緊迫感の頂点から言った。
「そうね、二年前から兄かもしれないと思いながら、実際はあなたの現れるのを待っていたわけですものね。次の次の金曜日、暇?」
 鶴子は膝を抱え込む具合に手を組んで、やや背をこごめた姿勢から上目遣いに訊いた。
「いいよ、やりくりして休むから」
 と鶴夫は言った。アルバイターとしてハンバーグ店に働き、たまに大学の研究室に出ているとは既に話してあった。
「じゃ、一時に有楽町駅のホームでね」
 二人はそこで別れた。鶴夫の高松行きは、なんとなく流れてしまった。今なら上昇の気分に乗って、楽々と飛翔できそうだったが、飛行機に乗る前に早くも翔んでいると言えた。
 その夜、岩見鶴夫は夢の中で見知らぬ男の訪問を受けた。深く腕まくりをし、そこには竜の刺青がしてあった。
「きさまか、岩見鶴夫っていうのは?」
 男は部屋に侵入して来るなり、凄みをきかせて言った。「つかぬことを訊くがよお。きさま岩見鶴子と付き合ってるんだって?」
「あなたは誰です」
 鶴夫はたじたじとなりながら問うた。
「誰だって、てめえの知ったことか。てめえは俺の訊いたことに応えさえすりゃ―いいんだ。岩見鶴子と会ってるんだって?」
 誤魔化したら、ただではおかないぞという目付きで問い詰めてきた。
「付き合っているといったって、会ったのは昨日が初めてですよ」
「じゃ、これから会うな。てめえがかわいければな」
 男はズボンのポケットに武器を忍ばせている恰好をして見せてから、すっと退いて行った。戸口に待たせていたらしい不良の何人かが、同時に引き下がって行った。石の廊下には煙草がにじり消してあった。
 あまりに生々しい夢なので、鶴夫は目が覚めた。正気になって考えていると、今のが、行方不明になっている、父親違いの鶴子の兄なのだと分かった。母が同じなら、結婚相手になるはずはなく、その点では恋敵とはならないので、ほっと胸を撫で下ろした。
 それにしても不吉な夢である。もしかして何かの異変が起こっているかもしれないとドアを出てみたが、外灯の仄暗い明かりが届いている踊場に、靴の踵でにじり消した煙草の吸殻は落ちていなかった。
 鶴夫は深呼吸を一つして夜気を吸い込むと、部屋に戻って布団にもぐった。
 面識のない一人の男が、鶴子ばかりか、鶴夫の中にも、影を忍び込ませてきていた。
 はたして鶴子は約束を守って現れるだろうかと、彼は二週間余りを送った。鶴子の住所も聞かなかったし、もし来なければ、再び羽田空港に出掛ける手立てしかなかった。だが、その前にそれだけの勇気が、湧いてきそうにはなかった。
 鶴子と出会ったその夜の夢に、男が現れたくらいだから、彼女にも翻意を促すような何かが起こらないとも限らない。
 鶴夫はそんなことを考えながら、アパートとアルバイト先を往復していた。大学には二度出掛けて、食堂を利用しただけである。研究テーマの「近代俳諧の一考察」などはどこででも出来ることだった。
 約束した金曜日、彼は五分前に有楽町駅のホームに降りた。同じこの線を、浜松町まで乗って行った二週間前に比べ、はっきり季節がめぐったと感じられた。高架になったホームを、風が吹き抜けていた。ひんやりとして、風には湿りがなかった。都会の空は珍しく青かった.
 ホームに鶴子らしき人影は見えなかった。どちらのホームと決めていなかったので、上り下り二本のホームに視線を配る必要があった。次々と電車は入り、出て行ったが、鶴夫を目掛けて寄って来るものはなかった。
 二十分も待っただろうか。電車が停まってホームに降り立つ人々の中から、日の覚めるばかりのスカーレツトの装いが飛び出してきた。
「ごめん、随分待たせたわ」
 鶴子は、彼の前に立つと息を弾ませて言った。
「来ないかなと思っているところに、そんな鮮やかな恰好で現れるもんだから、びっくりしたよ」
 火星人を迎え入れる気分にもなっていた。
「ちょっと派手だったかしら」
 鶴子はさらりと言ってのけた。
「空港ビルにいる君しか見ていないからね。どうしても、同じ服装を想像していたんだ。そんなはずはないんだけどね」
「そうよ。休日くらい職場から大きく離れなきゃ」
 二人は地下鉄の有楽町線に乗換えて、月島に向った。その街に行きたいと言ったのは鶴子である。
 坐ると、前席に二人の老年の修道女がいた。淡い藤色の衣服に身を包み、頭にもっと薄い色の布を被っている。際立つスカーレットの鶴子とは、鮮やかな対照で、修道女の細めた目に、鶴子の朱が映っていそうだった。
 もし彼女たちが修道生活をしていなければ、あんな色を好んで着ていたかもしれない娘時代を、一瞬振り返り見たものか。しかし、そんな時はとうに過ぎてしまっている。萎れゆく花の季節――そこに気づけばこそ、今の彼女たちがあるのである。二人の目の奥には、哀れむような、いとおしむような光もあった。
 鶴子と彼は月島で降り、修道女たちはそのまま乗って行った。
「私、シスターになろうとしたときもあったのよ」
 電車の後部がまだ視界に残っているうちに、鶴子が言った。
「どうしてまた、シスターなんかに?」
 口にしてしまってから、何故か心にひっかかった。
「この前少し話したけれど、兄を追い出して自分が生まれてきた気がするもの」
「君とは関係ないと思うけどね。再婚したのは母親じゃないか。その時君は、この世のどこにもいやしなかったんだぜ」
「それはそうだけど、そうあっさり片付けられないのよ。母が再婚した結果、私がいるんだもの。そして兄は、両親を知らずに育てられ、親に当たり散らすことも出来ずに飛び出して行ったんだもの。どこでなにをしているのか」
「‥‥‥」
「ごめん、つい人に言えないことを、あなたにぐちってしまって。しかも会ったばかりのあなたにさ」
「別に謝ることはないよ。名前がここまで一緒だと、そういう意味合いもあったのかもしれない」
 二人は地下鉄の階段を上って、地上へ顔を出した。すっきり晴れた空とは言えないが、曇っているわけでもない。
「そういう意味合いって、どういうこと?」
 鶴子が、隣から彼に顔を振り向けた。
「つまり、君の心の緩衝地帯となるように、ぼくが置かれていたというわけさ。だって君は、実際秘密を打ち明けたじゃないか。ぼくが慰め役になるかどうかは別としてね。こんなことを言うのは、この間も少し話したけど、おふくろが死んでしまってから、誰かが君を母親の身代りのように置いてくれたのかもしれない、なんて考えたからね」
「誰かが、って、たとえば?」
「それは分からない。もし、全能の絶対者ともいえる存在があったとすれば。そういった目に見えない何か‥‥」
「そう言えばさっき、修道女に会ったわねえ」
 鶴子がふっと洩らした。
 何を言おうとしたのか、彼にはよく呑み込めなかった。
 区画整理されて大きなビルが建っているかと思うと、旧い街の面影も残っていた。新しい街と旧い街をかき混ぜるようにして、風が廻っていた。風には微かに河の香りがあった。鶴子が小鼻をひくつかせている。
「君はどうして、シスターにならなかった?」
 鶴子の拘りに引っ掛かって、彼は訊いた。
「私スチュワーデスになりたかったの。その誘惑に克てなかったのね。結局語学の自信がなくてやめたんだけれど、こんな平衡を欠いた心の状態で、飛行機には乗れなかったと思うわ。一人私みたいなスチュワーデスがいたら、飛行機は翼の平衡が保てないかもしれないもの」
 鶴子は言って笑った。つられて彼も笑った。
 二人は橋にさしかかった。釣舟が舳先を並べてたゆたっている。休日ではないから、釣舟の休日ということか。五人ばかり、橋の上から釣糸を垂れている。一人、休職中らしき中年の男が混じっているだけで、あとは老人である。
 二人は欄干に凭れて顔を出した。青黒く静まっている水に、釣舟の影が揺れている。

つづきます

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