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文芸の里コミュの丘陵の断想

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           I Girasoli (ひまわり/Sunflower)−Henry Mancini .


◇丘陵の断想


 浪雄は仲間とうまく馴染むことのできない少年時代を送った。では成人した今は、過不足なく社会にとけこんでいるか。決してそうとは言えないけれど、当時の自分を、客観的に振り返れる程度には適応していた。
 いきなりその少年時代に飛ぶ。

 浪雄は中学校から帰ると、いつものように、家の裏の草原に踏み込んで、小川で釣糸を垂らしていた。
 彼の家は郊外の住宅地の外れにあった。未開の土地が北へ北へとうねっていて、その辺りは物寂しい佇まいとなっていた。
 都心から電車で三時間も離れている地方都市の郊外ということも、原野が残されている理由なのだろう。
 家の裏手へ一キロ歩けば、小さな私鉄の駅がある。ときおり線路を打ち付けてくる車輪の響きが、唯一この辺りが外部と繋がっているしるしに思えた。しかしどんな人がその駅で乗り降りしているのかは、まったく分らなかった。
 レールというものは、必ず他の町々と繋がっているものだし、そういう思いになれるだけでたくさんだった。
 浪雄はそのときも、そんな気持ちで列車がレールを打ちつけてくる音を耳にしていたにちがいない。
 そのうち魚信があって、そちらに気を取られたため、電車が停まった様子までは、耳におさめることはなかった。

 浪雄が釣糸を垂れている小川の前は、小高い丘になっていた。チモシー、クローバー、葦、笹などが、混じりあって生えていて、いつもと言っていいほど、風に葉末が揺れ動いていた。だから動物が草の中にいても、ちょっと気づかないだろう。生き物が隠れている、いないにかかわらず、草原は生きて揺れていた。
 浪雄の坐っている小川の土手は、彼が釣り場としている場所のひとつだった。たまに街から大人がやって来て、釣糸を垂れていることはあるが、すぐ魚はいないと踏ん切りをつけて、他の場所へ移って行く。
 浪雄がいつも来て、魚をこのように馴らしてしまっているようなものだった。つまり、少年と魚との飽くなき挑戦は続くので、そう簡単に餌に飛びついてはならないと、魚たちに教えているようなものだった。
 浪雄の左右には、泥柳の低木が葉を繁らせ、水面、空、対岸の草原、そのすぐ先をうねって連なる丘などの視界を、ぼんやりと煙らせていた。煙らせるというのは四六時中見えないというのではなく、気まぐれな風のぐあいで、見えたり見えなかったりしているということだ。
 あのときは、どういうわけか、泥柳の梢が一方になびいて、前方の丘がくっきりと見えるようになっていた。
 浪雄は映画の一シーンを観ているような錯覚にとらわれていた。丘が舞台装置よろしく、こんなにさまになっているとは、考えもしなかった。
 ほの暗くなっている水面からふと顔を上げると、前の丘に男と女が立って、なにやらいさかっていた。声は聴こえなかったが、立ち居の感じでそれが分った。
 浪雄の知らない間に、丘の草に埋まっていた二人が、いきなり立ち上がって、いさかいが勃発した様相だった。女は白いブラウスに、フリルのついた薄紫のスカート。男は夏向きの薄い青色の背広上下を着用していた。ハイキングにやって来た出で立ちではない。年齢は二十代後半か、三十代の前半。ふらっと列車に乗ってしまって、ここまで足を延ばしたという印象が強い。
 身なりから推すと、計画した旅とはいえない。ふらりと乗って、ここまで来て列車を降りてしまったのだ。駅から一キロの道程を考えれば、男が一方的に女を連れ込んだとは思えない。
 目標を立てた旅ではないにしても、合意の上でこの寂しい丘の草原に降り立ち、草の中で抱き合うなり、語らうなり親密な時を持っていたのだろう。
 それがいきなり、どんな風の吹き回しでか、立ち上がって、対立することになってしまったのだ。
 少年は魚釣りどころではなかった。一口で言えば、観客になって映画の一場面を見せられていると思っていた。白昼こんなにも鮮やかなシーンを、映画はもちろん、テレビでも観た記憶はなかった。
 澄み切った青い空、滲む白雲、揺れる葦の草原。そこを舞台に繰り広げられている男と女のドラマ。ドラマとはいっても、アクションはまったくない。しかもいさかっているにもかかわらず、風にさらわれて完全に無声だ。
 しかし二人の身振りだけでも、何か収拾のつかない揉め事が勃発してしまったことは、充分窺えた。もし同じことが、街角ででも起こってしまったのなら、通行人が止めに入らずにはおかないだろう。
 少年はたった一人の目撃者の自分が、それを買って出なければならないなどとは、つゆ思わなかった。仲間と関わらずに生きていた習慣が、そのときも少年に働いていたのだろうか。
 成人して、現在は故郷を離れて生活する彼も、止めに行かなかった少年の心情に寄り添っている。
 彼はいくつか職業を転々として、今はそういった適応を欠いた者のカウンセラーとして働いていた。彼が自信を持って語るところは、決して自分の性格に逆らって、無理をしてはいけないということである。

 女と男の闘いは、十分、いや、二十分もつづいていた。少年はどうすることもできない自分の無力さをもてあそびながら、小川に垂らす釣り糸から視線を浮かせて、丘の上の情景に見入っていた。想像するところは、揉め事の真相だった。ここにはいない、もう一人の男もしくは女に、思いが飛んだ。不意に三角関係の黒い影が持ち上がったのだ。他には考えられなかった。男に愛人のいることが発覚した。それとも、そういう伏線はありながら、表には出さず、男が女に別れを迫った。しかしそれを言うために、わざわざこんな寂しい草原を選ぶだろうか。最後の逢瀬を思い出深いものにするために、辺鄙な駅を選んで降りたのだろうか。女はそうとは知らずについて来た。情事の後、男にそれを告げられて、女がいきり立った。感情を制御できないまでになって、立ち上がってしまった。抱き合ったまま、別れ話などできるはずはない。
 それとも、と少年は、次なる真相の解明に夢中になっていた。親の面倒を看るより、女との生活を第一に考えると言っていた男の心が急変して、親のほうを取った。親不孝を重ねてきた男としては、どうしようもない。二親とも、ほって置けるほど健康ではない。一人息子への希望を一筋に、苦労して大学まで出してくれたというのに、今さら親子の縁を切るなんて、どうしても言えなかった。女の願うように、親との同居を避けて外国へ出るなんて、男としても実現不可能な寝物語に過ぎなかった。その冷たい現実を、親子のちょっとしたやり取りの中で、知ってしまったために、言い出せなかった。
 女には自分と別れて、幸せな結婚をして貰うしかない。それを最後のデートに選んだこの丘の草原で、情事のあと告げたのだ。
 女からすれば、自分より親を愛していたことになり、裏切られたことになる。奇麗事で収まるはずはなかった。男が仕組んだ分だけ、女との亀裂を深いものにしてしまった。溝は深く、埋めようがない。
 男もそれを持ち出せば、別離になることは充分わかっていた。もしかしたら、男と別れたくない女が、譲歩する可能性など微塵もなかった。それほど女は、男の親とは反りが合わないことを、ことあるごとに語ってきたのだろう。
 少年は推測にのめり込んでいきながら、三角関係より、こちらのほうが信憑性があるように思えた。これなら、なんとか納得できる。こちらであって欲しいとも思った。というのは、こちらのほうが、男とは歳こそ離れてはいても、同じ男性として赦せる気がしたのである。あとは、現実の問題として、女と別れられるかどうかだろう。
 そこまで推理を働かせて、少年なりに決着をつけようとしていたとき、
「ぴしっ!」と乾いた音が草原に弾けた。その音に驚いて、水面から魚が跳ね上がり、「ぽちゃ」と返答するような音を残して水に戻った。
 男が打たれた頬をかばって手で抑えている。その男に背を向けて、女が飛ぶように草原から小道へと小走りになった。女のショルダーバックが、片方の翼のように体から跳ね上がっている。そのつり合わない羽ばたきは、同じく乱れた女の足運びと連携して、道を遠ざかって行く。
 残された男は、その場に坐りこんでしまい、手で頭を抱えた。五分間もそんな状態をとっていただろうか。男は急に面を上げ、立ち上がると、女の去った方角へ、ブレザーの裾を翻して走り出した。
 少年はとっさに立ち上がると、男の後を追った。このままでは、謎がありすぎて、夕食も喉を通らないだろう。少年がほしいままにした空想が、その通り実を結ぶとは限らない。先程はまだ事が進行中であったからこそ、想像が膨らんだとも言える。それが突然断ち切られたとなると、少年の思いも不消化なものを残したままで終ってしまう。それはたまらなかった。できる限り、見届けなければ気がすまなかった。
 テグスは水に垂らしたまま、釣竿を土手に寝かせて、少年は男の後を追った。丘の登り口で一度男を見失ったが、丘を駆け上がり、視野が開けると、走っている男を発見した。しかし距離はだいぶ離れていた。
 その前を行く女の姿は見えなかった。女が立ち去ってすぐ、後を追わなかったのだから、無理もない。
 少年の胸は、自分が女に去られたかのような、不安とも心配ともつかない感情に締め付けられていた。何故か、男と自分は同じ呼吸をしているかのように、ぴったり重なっていた。まさか、こんな結末になるとは、誰が予測できただろう。想像を逞しくしていたつもりの少年でさえ、こんなことになるなんて、考えられなかった。
 白昼の草原で、白熱した争いに発展してしまいはしたが、何とか収拾をつけて、二人一緒に退場していくと思っていたのだ。悲しみの尾を曳きながらの大団円だって、あってしかるべきなのだ。それが物語というものではないのか。映画のシーンのように繰り広げてしまったのなら、よけいそうあってしかるべきである。
 少年はそんな憤りに近い思いも育てていた。男との距離はいっこうに縮まらなかった。ということは、男がそうとう真剣に女を追っていることを意味する。大人の青年と少年という歩幅の差はあったにせよ、ここは謂わば、少年の生活圏である。ひょっと電車を降り立った青年とは、土地の馴染み方が違う。その少年をこれほど息苦しくさせるまで走っているというのは、並大抵のこととは思えなかった。
 七、八分も走っただろうか。鼓動とそれにともなう吐く息の気忙しげな音のほかには、無音の草原を、鋼鉄のレールを打つ車輪の響きがしてきた。下りの列車のやって来る時間だった。女はそれに乗って行くのだろう。男は緊迫状態に立ち至って、一瞬足をゆるめた。それから、これまでに倍する疾走を開始したのである。
 もう少年の足では、引き離されていくばかりである。もしあの女性が、少年の愛人であったら、きっと前の男と同じ走り方をしたであろう。しかし、そうではないだけに、少年は離されるままに後をつけた。そのかわり、青年が間に合いますようにと、祈りに近いことばを呟いていた。
 それが何と、青年は列車に追いついたのである。それを見届けたということは、少年もまた列車が発車する前に、駅へなだれ込んだのである。
 ローカル線とあって、列車は三両の短い連結だった。その真ん中の車両のドア口に女がいて、乗り込もうとする青年を、そうはさせじと、手で押し戻している。発車ベルは鳴りつづけていた。
 小さな駅とて、駅員を兼務する老齢の駅長は、発車のサインを出して、列車を送り出すところだった。そこで男と女の揉め事に目を留めたのである。駅長は中央の車両に走って行くと、男を押し入れるのではなく、女の意向にならって、ホームに引き摺り下ろしたのだ。
 おそらく改札も終了し、乗車券を買わずに駆け込んだのだろうから、乗車を拒否するのが、駅長の職務としてふさわしかったのであろう。しかも女が身ぶり手ぶりを加えて、男を拒んでいるのである。
 男が駅長に押さえ込まれたまま、列車はホームを出て行った。
 駅長は男に事情を訊こうとして、駅舎に連れて行こうとする。
「いったい何があったんだ。乗車券も持たずに乗り込んできて」
「情事の終わりですよ」
 男がふてくされたように言った。
「何? 商事の終わりだと」
 聞き違えて、駅長はそう言った。
 男は駅長に取られた手を振り解いて、ホームから線路に飛び降りると、列車の去った方向へ歩き出した。
「君、君」
 駅長が呼び止めるが、男は振り返らなかった。「何があったか知らんが、押し売りはいかんよ。こんな平和な土地にやって来て、商いをするとはけしからん」
 駅長はかなり大きな声を出していたが、男は遠ざかって行くだけだった。ブレザーを肩にかけて、両手をズボンのポケットに突っ込み、憔悴しきったようにして歩いて行った。
 レールが続いていく果てには、太陽がだいぶ傾いて輝いていた。まだ夕日というには早いが、微かに朱を帯びた光が、男を直射していた。だから男の後ろには長い影ができていた。
 少年はそれを鎖で閉ざされた改札口から覗いていた。夕日に向かっていく男の姿は、辺りの寂れた風景とマッチして、彼を悲劇のヒロインに仕立て上げていた。かっこいい、と少年には見えた。やっぱり映画の一シーンのようだった。
 男を見送ってホームに立つ駅長も、けっこうさまになっていた。駅長は困った奴だというようなゼスチュアをして、両腕を広げて見せたが、ホームに置かれた弁当箱を手に取ると、駅舎のほうへと引き返してきた。弁当は今の列車の車掌にでも、駅弁を届けてくれるように頼んでおいたものだろう。それで夕食を済ませて、次の列車の発着を待つのだ。
 少年は駅長が来る前にそこを離れて、釣り場へと引き返して行った。少年自身が男の足取りになっているような気がしてならなかった。
 垂らしっぱなしにしていった釣針には、大きな鮒がかかって、土手の下の水の深みへと潜り込んでいた。
 それが先程、女のふるった平手の音に驚いて跳び上がった魚のように思えた。少年はその鮒を持ち帰る気持ちにはなれず、針から外すと、そっと水に放してやった。
 魚は腹を上に向けたまま、窮屈な泳ぎで小川の中ほどまで進むと、ぴちゃっと新しい命に蘇ったような反転をして、斜めに水の深みへと潜っていった。女の手が男の頬に弾んでから今まで、魚は夢を見ていたのではなかろうか。
 少年はそんな気がして、はじめに音が起こった丘へと視線をやった。人影はなく、夕日がうっすらと草草の穂を染め、風に靡いていた。
                 了


     ◇

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