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文芸の里コミュの乳母車の中にいて 2/2

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 ☆乳母車の中にいて 2/2



 さてうなされた赤子の夢はその後、どんな方向へ発展して行ったのだろうか。
 子供は成長するにつれ、言葉を自由に話せるようになっても、その日の体験を誰にも語らなかった。切り株へ落下するまでのことも語らなかったし、切り株から後のことも話さなかった。
 しかし子供なりに、あの日の決着を見たからこそ、その後引き付けを起こすようなこともなく、いくら暑い盛りに外出しても、熱中症を引き金として癲癇を誘発することもなかった。
 とはいうものの、誰にも知られないままに、赤子の人生はそのときから始まったといえるだろう。あの乳母車から見た幼少の記憶は、ダイヤにも匹敵するものであったにちがいない。ダイヤの象徴するものがとてつもなく素晴らしいものだけとは言えないだろう。表と裏、そのどちらかにインパクトを与えたものがダイヤの耀きだ。赤子にとっては、幸か不幸か、その裏面に受けた刻印のようなものだった。普通はもっと年数を重ねて老い行く中で、否応なく体得していくかもしれないものを、夏に向かうあのかんかん照りの太陽の下で、受けてしまったのである。それは永い人生へ旅立つ前の憂鬱の予感とでもいうものだった。
 ではここで、赤子の見た夢の帰結を明かして、この物語の締めくくりとしよう。赤子が猫の行方が気になって、その存在を確認しなければ心安んじなかったように、読者も同じ理由で落着いてはいられないだろうから。

 今はもう夜であり、夜が明けて明日を迎えたとしても、そこは乳母車の入れない草原であり、草ぼうぼうで、庭でいくら背伸びをしても、切り株を見ることはできないのだ。赤子がたとえ這い出して行くとしても、明日まで待てる心のゆとりはなかった。何としても今日中に、パコがどうなったのかを知りたい。話すことも、歩くことも出来ない赤子の身分としては、夢にうなされて探りに行くしか手立てはなかった。
 眠りに入るやいなや、こつっと乾いた音とともに大きな木の切り株が現われた。そこにパコが蛇を巻きつけたまま、力なく立っていた。猫が死んでいなかったので、ほっとしたものの、依然蛇に巻きつかれているので、赤子は大きく落胆した。パコは蛇の頭を咥えたままだった。おそらく落下の一瞬は、蛇の頭を放すいとまもなく、咥えたままとぐろの中へ引っ込めたのだろう。蛇に巻かれた塊はマリのように弾んで、クッションの役目を果たし、蛇の体にそれほどのダメージを与えなかったのだ。
 猫は蛇を巻きつけた体では、すぐ近くにある自分の家に帰ることもできないと考え、草原の奥へと向かって歩き出した。疲れている上に重い物に巻きつかれ、ふらつきながらよろめくように歩いた。乳母車の中から観察してきた赤子にとっても、それは難行苦行の旅と言ってよい。赤子には過重にして突飛な出来事に遭遇したため、急に熱を出し、引き付けまで起こしてのたうち回ったくらいなのだから。赤子は猫に声援を送りたくても声が出なかった。
 猫はさ迷い歩いた。草原から疎林に入り、だんだん樹木は濃くなってきて、ついに森に出た。その森を当てもなく進んで行くと、小高い丘が崩れていて、その一箇所が窪んで穴のようになっていた。
 言い忘れたが、時は夜に入っていた。赤子は家の中で幼児布団に寝かされていたが、森の上には星が青白く瞬いていた。その星と同じく、地上に青白い光り方をしているものがあった。崩れた丘の窪みに、六個の星が光っているのである。何だろう。
 猫はそれがタヌキの親子であると、匂いで見分けた。比較的高い位置の二つが母タヌキの目で、低い左右の四つが子ダヌキの目だった。
 猫は進路をそちらへ向けて歩いた。六つの星、つまり母タヌキと二匹の子タヌキの目が歓迎するように光を強めて輝いたからだった。 まず母タヌキが出てきて、猫と鼻面を合わせる挨拶をし、猫が咥えていた蛇の頭を譲り受けると、たちまちガリガリと音を立てて噛み砕いてしまった。蛇は電撃の痛みに耐えかねて猫に絡みついた長身をほどいて、地面をのたうち回った。容赦しないとばかりに母タヌキは蛇の皮を剥いでゆき、身を寸断しにかかった。子ダヌキもそれを手伝って、腹に収めていった。
 猫はタヌキと一緒に蛇の肉を食べる気にはなれなかった。間もなくタヌキの親子と別れて、自分の住む人間の世界へと歩き始めた。途中の小川に入って体を洗った。口を漱ぐと血が滲んだが、自分の血か蛇のものか判別できなかった。血が出なくなるまで口を流れに入れておき、最後に水を飲んで岐路に着いた。
 猫が蛇のしがらみから開放され、帰り道を歩いている夢に、赤子はにんまりとして、ようやく無邪気な赤ん坊らしさを取り戻して目を開いた。そうすればいつもの朝が、きらきらと白く輝いてレースのカーテンを揺らしているはずであった。
 ところが今、赤子の周囲を覆っている透明度を欠いた靄のようなものは何だ。霧に霞むロンドンならいざ知らず、ここは日本の一地方都市の郊外の住宅地である。雨の日以外で、空が青くなかったためしは、一日たりとなかった。彼は思わず指で目を擦った。周囲の輪郭がくっきりしてくるというものではなかった。むしろ失われていたものが目に飛び込んできたのだ。
 赤子の枕元に近く、猫が全身を投げ出すように横たわって寝ていたのである。その痩せさらばえた姿に、赤子はびっくりして、叫声を上げるところを踏みとどまり、パコと低く呼んだ。出なかった声が、しめやかにでも言えることを認めなければならなかった。
                         了 


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