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文芸の里コミュの十卵焼き

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               わが母の教えたまいし歌 ドヴォジャーク作曲


 ☆十卵焼き


 赴任地には夜着いた。空腹で腹ごしらえをしていこうと、食堂をさがして夜の街を歩いた。海辺の街で、海はぴったり寄添っているはずなのに、いくら歩いても海は見えてこなかった。食堂を探しているのだから、海は見えてこなくてもいいのだが、いくら歩いても海が見えてこないというのは物足りない。
 海に沿ってできたひょろ長い街である。そう聴いて来たので、海が見えてきてもいいのに、と不平を鳴らしながら歩いていた。そのくせ食堂が目当てなので、海はなくてよいのだ、そう自分に言い聞かせていた。また深夜になっているのだから、青い海など見えるはずもなかった。それでもまっすぐ海にぶつかっていくと実感できる灯台の灯りとか、港に映る灯とか、月光に照らされて揺れる海面とか、沖を横切っていく船の明かりとか、何でもよかった。しかし海を思わせるいかなる容も影も感じられなかった。とはいえ、体に当たってくる風だけは、これまでいた街とは違って、海から来ているのだなと感じ取れた。塩分を含んでいるせいか、重かったのだ。
 そうやって歩いているうちに、ようやく一軒食堂の看板を見つけて中へ入った。客はおらず、客を迎える店の人も奥へ引っ込んでいて、店に出てこなかった。それでも奥に人のいる気配はしていた。お馴染みのテレビ番組の声だけは、店のほうまで響いてきたからだ。
 自由にお茶をお飲みください、と貼り紙がしてあるので、彼はポットのお茶を湯のみに注いで、抱え込むようにして飲みはじめた。ちびりちびり飲むお茶が、たまらず空腹を刺激して、遠雷のように腹の虫が鳴いている。
 三十分近く流れた。相変わらず店の人は出て来なかった。奥に向かって叫ぼうにも、腹に力が入らなかった。また叫んだところで、声が届くとも思えない。
 彼は空腹を抱えたまま、お茶の湯飲みを手にして蹲っていた。夜が遅いせいか、通りを行く車の音も、聞こえなかった。また海が近いのだから、あってもいいはずの、海へ出て行く漁船のエンジンの音も聞こえなかった。
 そうか、ここはそういう街なんだ、と彼は納得しようとしていた。海辺の街を引き立てる何ものもなく、街の看板らしきものさえなく、食堂を見つけて入れば、店の人も奥へ引っ込んでしまって出て来ない。そういった普通の街から出てきた人間には考えられないような無愛想な、そういう街なんだな、と彼が自分を宥めていると、ふとカウンターに若いとも年増ともいえない女が立っていた。
 彼が彼女に気づくと、
「いらっしゃい」
 と迎えた。随分時間が流れていたが、彼女の応対には、悪びれた様子など一切なかった。彼はメニューの貼り紙に目をやって、
「ラーメン」
 と言った。すると即座に、
「お客さん、あいすみません」
 という声が高らかに降って湧いて、つづけた。「麺を切らしちゃったもんですから」
 彼は壁に貼られたメニューを見て、二番目に書かれたカツ丼に注目して、それを指差しながら、
「カツ丼」
 と言った。するとまた高らかな声が降って湧いて、
「お客さん、あいすみません。ごはんものも切らしてしまいまして」
 そう言って、また「すみません」をつけ加えた。
 困惑するのは客のほうだった。食堂に来て、麺も飯も切らせているとなると、他に何があるというのか。彼はそんな戸惑いを口に出して、
「じゃ、何ができるんですか。とりあえず腹ごしらえをするには」
 と言った。
「そうですね。卵焼きならすぐできますけど。卵を十個つかった十卵焼きっていうのは、如何ですか。卵でしたら、新鮮なのがすぐ手に入りますので」
 女がこう言ったとき、奥の方で鶏の寝惚けたような声がした。怪訝な顔をしている彼に、女は言ったものだ。
「鶏、飼っているんですよ。だから産みたて、新鮮」
「なるほど。何でもいい、とにかく腹におさまるものなら」
「旅の方ですね。さっきの列車で着いた。さっきといっても、もう二時間も前になりますけど」
「そうです。旅というより、赴任ですよ、この土地に」
「あらあ」
 と女が慌て顔に言った。赴任してこの地に住むとなれば、ぞんざいに扱い過ぎたと思ったのだろうか。長らく待たせてしまって、麺もご飯も切らしているというのでは。
 女はすぐ調理に取りかかった。笊に容れてある卵を次々と割っていき、割ってボールに入れた卵の殻を重ねてカウンターに並べていき、それが十重ね、並んだところで、二個おまけをつけた。
「行き届きません分、二個、おまけです」
 と彼に女は言った。
「うわあ、十卵焼きもはじめてだけど、十二卵焼きなんて、前代未聞ですねえ」
 彼は卵の殻を見るだけで、腹が満ちたような気になった。
「赴任って、この街のどちらへ?」
 女はボールに入れた卵をかき回しながら訊いた。
「Z高ですよ。もっと早く着く列車で来るはずだったんですが、後片付けに時間を取られてしまって」
「Z高校の先生ですか。この辺りにもZ高の生徒はいますよ」
 と女はガスコンロに火を点けながら言った。
 卵焼きなんて、男でもできるもっとも簡単な料理だ。女の手順から何から、手にとるように見て取れる。女で、しかも食堂のお上さんなら、もっと手っ取り早くやってくれないか。
 そう言ってやりたかったが、黙っていた。十卵焼き一つに誇りを持って打ち込んでいるように思えたからだった。


   ☆

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