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文芸の里コミュのコモドのオオトカゲの子第15回その1

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     弦楽のためのアダージョ Op.11/Samuel Barber:Adagio for Strings

 ついにその赤子が、Fのキャスターバッグを指さして、何やら訴えはじめたのだ。まさかと思うが、赤子には細かい目のネットの中が見えているのだろうか。そこにトカゲの子どもを見つけ、睨み合いをはじめたのだろうか。指さす赤子の目はたぎっているが、言葉にはならない。Fは靴先をキャリーバッグの底のほうに当ててつんつんと打ちつけ、トカゲの子に赤子に関わってはいけないと合図を送った。
 赤子は体を弓なりに反らしてFのキャスターバッグを指さすので、さすがの若い母親も困ってしまい、赤子を宥めにかかる。
「あれはおじちゃんのお荷物でしょう。人さまのものを欲しがったりしてはいけません」
 そう言い聞かせると、赤子を抱いたまま席を立って、これ以上Fに迷惑をかけるのはたまらないとばかりに、
「すみません」
 と頭を下げて、キャスターバッグに目の届かない次の車両へと移って行った。こうなると、数少ない他の乗客たちも、何事かとFの方を不審そうに見る。キャスターバッグではなく、Fを直接見るので、怪しい生き物がいると気づいているのではなさそうだ。もしこれがキャスターバッグの中が少しでも見えていて、昨日報道されたというスーパーの騒動と絡めて不審を抱くものがいたら、たちまちバッグの中身が暴かれ、Fはトカゲの飼主として通報されるにちがいない。
 Fは他の乗客たちのそわそわぶりが無性に気になりだして、赤子と母親が去ったのとは逆の車両へ移ろうとして、電車が次の駅へ停車したとき、すばやくこれを実行に移した。この車両でも胡散臭い目で見られるか、不安がないわけではないが、乗換駅までの七分足らずを、何とか無事に乗りこえなければならない。
 そうやって、はらはら、ひやひやさせられながら、電車からバスへ、バスからロープウエーへと乗り継ぎながら、ついに筑波女体山頂近くのロープウエー駅へ到着した。
 Fはキャスターバッグを引いて、旅行者の少ない方角へと歩みを進めて行った。風が強まり、周囲へ視界が広がっていると、肌で感じられた。しかしトカゲの子を無視して、一人だけで眺望を愉しむわけにはいかなかった。
 純粋に頂上、つまり筑波山の女体山の頂上、標高八百七十七メートル地点とはいえないが、ほぼそこに近い位置に、旅行者のいないベンチを見つけると、Fはトカゲの子のネットを外してやった。
 トカゲの子はキャスターバッグのチャックをこじ開けるようにして全貌を覗かせると、くるっと首をめぐらせて、口をパクパクやった。
「腹が空いたんだ?」
 Fはバッグのサイドポケットから、途中キオスクで買った駄菓子を取り出しながら言った。
「腹じゃないっす。空気がおいしいと思いましてね。これが山の空気なんですなあ」
 そう感嘆を交えながら、トカゲの子は明るく広がる視界に目を配った。折りよく空が晴れて、はるか先まで眺望が利いた。雪を被った富士がくっきり貼りついている。
「あれは?」
 とトカゲの子が、不穏なものを目の当たりにしたように訊いた。
「富士山だよ。日本の富士」
「では、この山は」
「この山は、筑波山。日本の名のある山の中では、最も低い山といってもいい」
「おいらはこれが富士だと思っていました」
「そう考えてもいい。あれは眺めるだけで、今は手に入れることのできない山。いわば神の国さ。それに対して、この山は実質的に手に入れることのできる山さ。現にあっさり、俺とおまえもその山の頂上に立っているんだ。ロープウエーに乗らなくても、徒歩で楽々登れる。そしてこの山を征服したものが、はるか先に光り輝く富士を、未来の山として思い描くわけだ。単なる夢じゃないんだ。この山に立つものが、確かな未来として、思い描けるといえばいいかなあ」
「分りましたで、今日ここに来てよかったですぜ。そういえばイスラエルというちっぽけな国がありましたなあ。地球上では目立たず、片隅に追いやられているような国だけれど、分るものには、そこがやがて来る永遠の国の型であるというような意味合いで、光り輝いている国。そんな印象の国ではなかったですかな、小国イスラエルは。するとイスラエルは、この筑波と富士を併せ持っているような国だ。そうじゃねえけえ」
 トカゲの子から急にこの土地の方言とおぼしき言葉が飛び出したので、Fはびっくりした。道中さまざまな言語が飛び交っていたが、その中から最小限の風俗のようなものを、彼は意識せずして取り入れているようである。
「それはまあいい。ところでおまえの国はコモドだ。そこでの自分の将来についても考えてくれよ。おまえは一介の爬虫類に過ぎないのに、人間の言葉を、場合によっては人間以上に操れるほどの傑物だ。そんな大物のおまえであってみれば、祖国に帰れば、やがてオオトカゲ中のボスとして、その国のトカゲのみならず動物という動物を支配するようになるだろう。
 これから先何年になるかは未定だが、必ずや俺はコモド島への旅を最優先にして出かけると思う。そのときには、やあ、風呂屋のご主人、ようこそお出でくださったと迎えてくれ。俺はその一言で、勇気づけられ、その後の人生を、どんなことがあっても、乗り切っていけると思うんだ」
 Fはぜひ言っておきたかった言葉を、いささか照れを交えながら語ることができた。
 トカゲの子はFの言葉をまるで歯牙にも掛けないといった口吻になり、長い口先で風を切るように言い放った。
「おいらは、故郷に帰ることなんかまったく考えておらんのでがーすよ。ご主人がどうしても送り出すというなら、ここでおさらばするまでですな。おいらがここ日本の、一スーパーで発掘したオオトカーンのみならず、そこまで導きのぼった作詞兼作曲者の青山テルマがどういう意図であったかはいざ知らず、おいらにはおいらに臨んだ使命というものがありましてな。それは日本のこの地で歌ってこそ、いのちのある歌なのであって、コモドで歌ったってはじまりはせんのですよ。コモド以外の国でもあきまへんな。気の抜けたビールみたいなもんですぜ。そんなの馬のしょんべんにも値しない。どだい、「ここにいるよ、ここにいるからね」っていうのを「あそこにいるよ、あそこにいるからね」なんて歌えますか。歌ったからって、どれほど耳に響きますか。
 この歌は、ここ日本で歌ってこそ、日本のみならず、世界のためにもなるってもんなんですぜよ。奇しくも筑波女体山の山頂で、旦那の口を通して明かされたばかりの富士の輝きに鑑みても、それは言えるんですなあ」
 トカゲの子はひとくさり自分の思うところを語った後、昨日スーパーで騒動を起こして逃げ出し、次なる訪問先で遭遇した目の覚めるような光景について、とくと開陳していった。
「何を勘違いしていたのか、スーパーを二本足で走って逃げましたぜ。人間に混じって行くには、そのほうが目立たないと考えてしまったんですな。ところが信号を渡りながら、隣りを進んでいた女性が、ぞぞぞぞっと、おいらと接する側の自らの腕をかばいながら、
蟹の横這いみたいに、横に逸れていくではありませんか。おいらが並んだ次の女も、横に逸れていくんです。次に並んだ女性が、きゃー! と奇声を発すると同時に、おいらも目が覚めましてね、四本足になって駆け出していったのです。
 すぐあのアパートに逃げて帰る気にはなれませんでした。スーパーでのことが、どう報道されたのか無性に気になりだしたのです。それでネオンの瞬きの増してくる繁華街の方へ、夜陰に紛れつつ忍び寄って行ったのです。
 大量の電気製品を扱う量販店があったので、そこに飛び込みました。整然と片付いている店より、安値で多く売る感じに、商品を乱雑に積んでいるような店のほうが目立たないという利点があるんですな。
 店には多くの薄型テレビが並んで、映像が映っていました。しかしおいらの姿はどのテレビの画面にも出ていないのです。スパーではオオトカゲの子の出現をあれほど騒いだというのに、こんなに多くあるテレビのどれにも登場していないとはどういうことだ。けしからん、そんな怒りにも似たやるせない思いで、トカゲの映像を探し回っていたのですよ。
 しかしこれは無理からぬことで、このときはまだ、報道されるようなものは収録されていなかったのですよ。何故かといえば、おいらがスーパーを逃げ出して表に出たとき、新聞社の車が駆けつけ、その車を尻目にして、おいらは駆け出して行ったわけですから。
 飛び込んだ電気店の、棚の下から棚の下へと移動しているうちに、PCのコーナーに来てしまったのです。そのディスクトップにオオトカゲの映像を発見して、おいらはすうーっと溜飲を下げていったのです。何らかの報道はなされたのだ。それでオオトカゲが注目を浴びることとなり、PCのYuTubeにオオトカゲの生態を求めた結果が、この映像なのだと納得がいったのです。映像のタイトルは、「キングコブラとオオトカゲの対決」でした。画面でも戦いに入ったところでした。トカゲが蛇の胴体の一箇所に噛み付くと、キングコブラも首をもたげてトカゲの体の弱いところを探して、空中をうねっていました。そのうちトカゲの前脚の付根の辺りに噛み付きました。コブラの毒を注入すれば、たちまち苦悶しはじめるかと思いきや、トカゲは咥えこんだ蛇の胴体をいっこうに放しません。それどころか、蛇を咥えたまま空中に持ち上げて振り回しはじめたのです。しかも振り回して勢いをつけた蛇の胴体を、地面に叩きつけました。こうなると毒を注入するつもりで咬みついた蛇の口も放れてしまい、再度咬みつく場所を求めて半身を立てていくという、コブラにとっては遅れを取った戦いとなっていきました。オオトカゲは大蛇の胴体を咥え込んだまま、空中に持ち上げて振り回し、地響きを立てて地面に叩きつける。蛇はみるみる力を失っていき、戦意を喪失し、頭をもたげることもままならなくなりました。オオトカゲはそこで蛇の胴体を食い千切り、飲み込んでいったのです。
 おいらはこのとき、世紀の勝負がついたと思いました。かつて一匹の蛇がエバを誘惑することで、我々爬虫類は長きにわたって浮かばれずに来ましたが、オオトカゲが大蛇を退治することで、この負目から解放されたのです。これからは蛇にならって、地を這い回るようなことをしなくても、胸を張って生きていけるぞ。場合によっては、空中を飛べるかも知れない。そんな思いがしましたね。
 勝利したオオトカゲは、大蛇の肉を喰らって満腹すると、食べ残しを血の臭いを嗅ぎつけて寄って来ていた小動物に与えて、堂々と立ち去りました。
 けれどもおいらは、同じオオトカゲの血を引きながら、鬱々としたものに閉じ込められてしまい、晴れて潔く立ち去るという心境にはなれなかったのです。確かに肉の戦いにおいては、大蛇を咬み砕き、地に叩き付けて勝利を収めた。それで永きにわたる怨念を晴らした。しかし過去、蛇が悪魔と組んで、人類に罪過を及ぼしてきた膨大な歴史に比すれば、何とあっさりした帰結だったのだろう。しかも人類の犯してきた大罪は日に日に膨れ上がり、今に至るも止むことなくつづいているのですよ。
 すると蛇一匹を退治したことは、爬虫類に連なる我々の怨念を、一時晴らしてくれたというだけで、依然片付いていない莫大な負の遺産があるのです。
 おいらがそこ電気製品量販店のPCコーナーの棚の下から、立ち去れずにいたのは、まさにそのような自覚が、むらむらと起こってきたからなのでありますよ。肉の戦いの勝利は、一時的な快感に過ぎないとね。
 そう気づくと同時に、このところおいらに迫ってきていた「ここにいるよ」が大きく立ち上がってきて、にっちもさっちもいかない状態に立ち至ったのですよ。息が苦しいというか、呼吸困難といったら、少し大げさになりますが、それに近い、肉体的な圧迫がありましたね。とにかく早急に解決しなければならない。そういう覚悟を迫りながら「ここにいるよ」が追いかけてきたのです。
 そうなると、おいらの進む道は自ずと決まってしまいます。それを歌うことです。オオトカーンがはるばる日本に来て歌っているように、おいらもそれを歌うんです。蛇のもたらした悪魔にずたずたにされ、希望なく打ちひしがれている人類に夢を与えるんです。それがおいらの使命だと思うんです。
 この託された歌がある限り、おめおめと引下って行くわけにはいきません。日本に渡った動機はどうであっても、ここに上陸したからには、ここでやらなければいけない」
 このとき一人の登山者がひょこっと顔を覗かせて、すぐ別の方角へ逸れて行った。トカゲの子はベンチの下に潜り込んで、見つかることなくすんだ。Fの脚の下に潜り込んだということは、トカゲの子がいくら強がりを言ったところで、Fに頼っていると思えて、いじらしさも戻ってきた。ついさっきまでは、二度と手も触れさせないところまで、態度を硬化させていたのである。それが今は、庇って貰うためにFの脚の下に避難してきたのである。Fはそのオオトカゲの子に向かって、
「もう出て来てもいいぞ。登山者は行ってしまった」
 と声をかけた。トカゲの子はもぞもぞ顔を出してきて、Fのすぐ隣りに腰かけた。
「今おまえがすばやく身を隠したのは、賢明だった。おまえはいまやお尋ね者なんだ」
「おいらは見つかることを、そんなに怖れていないっすよ。ただ捕まると、CDは没収されるでしょうし、歌を歌えなくなるので、それだけが心配なんですよ。歌は何といっても、おいらのいのちですからなあ」
「おまえはバカの一つ覚えみたいに、歌、歌といっているが、いったいいつまで、「ここにいるよ」を歌うつもりなんだ。歌だって流行というものがあって、時の流れには勝てずに廃れていくんだぞ。今や「ここにいるよ」も巷でははやらなくなっている。いくらおまえが特徴のあるがらがら声で叫んでも、時の流れとは無情なもんだ。いったいいつまで歌うんだよ?」
「捕まるまでさ。けれど彼が現れるまでは捕まらんよ。そう易々と、とっ捕まっていられるかってんだ!」
 トカゲの子は、いきなり怒りだしていた。トカゲの子の言葉に、「彼」が登場することで、風向きが不穏になってきたので、Fは注意を傾けないではいられなかった。
「ちょっと待った。おまえがたった今、口ずさんだ彼が現れるまでという、彼とは誰のことなんだよ」
 待ってましたとばかりに、一つ唾を飲んで、おもむろに語りだした。それはですなあ、とトカゲの子はもったいをつけて言った。もったいをつけたのではなく、言いづらかったのかもしれない。
「メ、メ、メシアのことですよ」
 と、トカゲの子はどもりながら言った。追い詰められて言わされた感じだった。
「メシア?」
 Fは突拍子もない言葉を浴びせられて、そう訊き返した。
「そうです。キリストのことです。しかしキリストを出すと、悪魔がいきり立って歯向って来るので、彼と呼んだわけでして、今はもう彼などと呼んではいけないのかもしれんですなあ。彼とは「彼方」とあるくらいで遠称の指示代名詞になりますが、彼つまりキリストはずっと近づいているのですからねえ」
「おまえはいったい、どこからそんな知識を導入して来るんだよ。まったく隅に置けないとはこのことだ。人間様の俺より先に進んでいやがる。単なる妄想路線を突っ走っているだけかもしれんがよ」
「妄想なんて、とんでもない。今はもう、世の終わりですよ。Fさんこそ、頭を冷やさないといけませんぜ」
 トカゲの子がこう言ったとき、一枚の枯葉が小刻みな回転をしながら降ってきて。キャスターバッグの上に載った。「この葉っぱが、世の終わりのしるしですぜ。からからに乾いていて、潤いなんてまったくない。よく今まで枝にしがみついていられたと思えるくらいのもんです」
「おい、トカゲの子よ」
 とFは遣ったことのない呼び方をした。それはトカゲの子が、ご主人さまと呼んでいたのを、最近旦那呼ばわりし、ついさっきは、Fさんなどと、呼び方を変えてきたからでもあった。
「えっ?」
 とトカゲの子は別のことを考えていたらしく、目を瞬いてFを見た。
「おまえは俺を呼ぶのに、ご主人さまから、旦那になって、ついさっきはFさんと言ったよな。その次々と変えているのはどういう理由からなんだ?」
「それはですなあ」
 トカゲの子はもったいらしい前置きをして語り出した。「二人の師についてはいけない」という戒めがあるからなんですよ。要するに先程から我々の間で問題となっておりまするメシアの到来とも深く関わって、そうお呼びしなければいけないことに気づいたからなんでありまするよ」
「そういうことでおまえは、俺と袂を分かつというわけなんだな」
「おいらのしようとすることを、認めてもらえないとすれば、そうする道しかないということですけどね」
「俺は認めないね。おまえをこんな物騒なところに残して帰るわけにはいかないよ。よーく頭を冷やして考えてみろ。おまえのその人受けしない面構えも加えてのことだ。どこにおまえの歌を喜んで聴くものが起こされるというんだ。そんな前世紀の遺物みたいな顔で。レッサーパンダとか、ラッコみたいな人に愛されるキャラクターでもあれば、また別の話だ。おまえの顔は人を気絶させたり、目をそむけさせたりするだけだ。顔ばかりか、体全体が忌むべきものだ。悪いことは言わない。母国に帰るべきだ。そこにはおまえの輝かしい未来がある」
 Fはそう言ってキャスターバッグのサイドポケットに入れてきた書類を取り出していた。一箇所獣医の診断書を求めているような記述があって気になっていたのである。送付先の検疫で済むような記述もあって、できれば煩わしさからのがれたかった。こちらで獣医に診せれば、ひとたまりもなくオオトカゲが発覚するのである。Fはこの際、そういうルートがあれば、闇の取引もやむを得ないと踏んでいた。闇を潜って侵入してきたトカゲであってみれば、それも仕方ない気もしていたのである。それには相当な出費もあるだろうなと覚悟もしていた。できるだけのことはして送り出してやろうと考えていた。
 トカゲの子はFが何を目論んでいるか読んでいるらしかった。隣から爪の長い手を伸ばしてきて、書類を奪い取ったのである。
「おい、何をするんだ。大切なものなんだ、返せよ」
 Fは立ち上がって、トカゲの手から書類を取り返そうとした。トカゲの子は返すまいとして、書類をFから遠ざけると、そこにもう一方の手を運んで、左右の手で鷲掴みにし、力を込めて引き裂いた。
「何をするか、バカヤロー」
 Fは叫びながら、もう言葉は通じないと思い、こうなったら力ずくででも港に連れて行くしかないと決意を固めた。トカゲの子にチョッキを着せたことは、今となっては掴むのに都合がよかった。
 Fは後ろからトカゲの子を持ち上げた。彼は宙に浮かんで蟹のように手足をばたつかせてもがいている。Fはそのトカゲの子をキャスターバッグの上まで運んで、中へ沈めこもうとした。
 トカゲの子はそうはさせまいとして、手と足を突っ張り、中へ押し込まれるのを拒んでいる。Fはこうなると力の行使しかないのである。トカゲの頭に手をやり、押し込もうとする。キャスターバッグの口を広げようとして、片方の手をやると、その手の甲に、トカゲの爪がかかった。トカゲの子はその自分の手をよけるどころか、逆に力を加えてきた。武器にするつもりだな。Fは爪の食い込んだ手を引き抜こうとして、ベンチの方へ体がよろけた。ベンチに手をついて難を逃れようとしたが、その手にトカゲの手が重なってきて、なお力を増し加えて押してくるのだ。何匹も犬をやりこめたのは、この戦法だと、Fは思い知らされることになった。まるで蛭のように手の甲に吸い付いて放れない。手に吸い付いているだけでなく、爪が食い込んでいるからだ。支柱を打ち込まれたようなものだ。手が重たくびくともしないということは、木のベンチまで爪が届いていると考えられる。一本の爪はFの指の間に刺さって薄く肉を咬み、もう一本の爪は、手の甲の中心辺りを抉って、そこから血が脹らんでくるのを目にすると、Fはトカゲを吊っている手を放して、その空いた手でトカゲの頭を殴りつけた。
 その一撃がきいて、トカゲは手を放して、ベンチの後方へ逃れた。
 Fは出血を止めるのにやっきになっていた。バッグからティッシュやらハンカチやらタオルまで引き出して、血を止めるのに懸命だった。
 そうしているうちに、ここへ来るときトカゲの子に言われた言葉を思い出した。バンドエイドと傷薬の携行である。まさかとは思うが、彼はこんなことになることを予感していたのだろうか。
 Fはバンドエイドと傷薬を取り出して手当てをしていった。バンドエイドを楯横に、何重にも貼って、その上に消毒の傷薬を滴らせた。血が薬の液体に流され、疵口を洗っているようなものだった。
 何はともあれ、これ以上の出血は食い止めることができた。もうトカゲの子を港へ連れて行くのは不可能だと、諦念が襲った。別れしかないと思った。
 Fは最後に教えるつもりで持ってきた充電用のコードを探り出し、ベンチに置くと、トカゲの子におもむろに話しかけた。
「ここに充電用のコードを置いていくぞ。そのCDプレーヤーもいつまでも鳴っているわけじゃない。電気が切れたら鳴らなくなる。そのとき電気を入れるためのコードだ。コンセントに差し込めば電気は入ってくる。洗面所とか売店とかには、差込口があると思うが、人に見つからないようにやれ。
 じゃ、俺は行くぞ。バイバイ」
 Fはトカゲの姿を見ないままそう言って、歩き出した。
「Fさん」
 トカゲの子の声がして、Fは振り返った。彼は充電用のコードを手にして、ベンチの前に立っていた。
「俺を呼んだか」
 とFは訊いた。
「またお会いしましょう」
 とトカゲの子が言った。以前バナナ男にそう言って「いい言葉だ」と褒められているので、もう一度遣ってみたかったのである。
「刑場に曳かれて行くのを見るのはごめんだぜ」
「そんなヘマはやらかしませんぜ。おいらの務めも、メシアが現れるときまでですからね」
「いつ現れるかな」
「間もなく現れますぜ。夜、Z星が明るくなったから、もうすぐですよ」
「そうしたら、トカゲの子はどうするんだ」
 トカゲの子が、Fさんを多用するので、Fもおまえと呼ぶ愛称をおさらばして、冷静かつ客観的にトカゲの子と呼んだ。
「おいらはここにはいないし、故郷のコモドにも帰りません。次元の違う国へ行きます。そのときは旧い衣は脱いで、その辺に引っ掛けて行きますから、すぐ判りますよ。そうしたら、あいつ使命を終えて行きやがったな、と考えてください」
「分かったよ。不思議なトカゲの子だよなあ、まったく。人間でもなく、トカゲでもなく」
 Fは言って歩き出した。いきなりトカゲの子の歌がはじまった。歌は一つ覚えのあの歌。「ここにいるよ」だ。
 /ここにいるよ/ここにいるからね/待ってるーよ/ 
 とトカゲの子の歌はつづく。その潤いのないがらがら声は、一度耳にしたものなら忘れはしないだろう。

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