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文芸の里コミュのコモドのオオトカゲの子〈第12回〉出陣後の流れ

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Rachmaninov Piano Concerto No2 Helene Grimaud, Abbado, LFO

     ☆

 コモドのオオトカゲの子〈第12回〉出陣後の流れ


 母親が電話で伝えてきた彼女たちの逃亡して行った全貌は、ざっと以下のようなものだった。
 まず警察に救助を求めて電話をした。
「被害は何ですか?」
 と警察官は訊いてきた。
「舌の割れた怪獣が出たんです」
 と母親の説得に来ていた連中の一人が言った。これはこの地区の婦人部班長のコケにつぐ、二番手の役員だ。当初Fの母親をさんざんやりこめていたが、実際に怪物に登場されてからは、がらりと変わっていた。
「ですから、どういう被害を受けたのですか。たとえば腕を咬み切られたとか、爪を立てられて深手を負ったとか」
「そんな」
 と二番手の婦人は言って、言葉が出なかった。まだ恐怖に震えていて、体がこんなにがたがた震えていることが、被害に当たらないとすると、彼女は答えようがなかったのである。
「あなたたちは一体、そこで何をしていたのですかね」
「私たちはYXの教団のものですから、真面目な話し合いを持っていたんです。そしたら怪獣が『ここにいるよ』って喚いて入って来たんです。襖を開けて」
「怪獣が襖を開けて入って来た?」
「そうなんです。私たちは何も悪いことなんか、していなかったんです。だから怪獣に攻撃されるいわれなんか少しもないのに、襲い掛かって来たんですよ」
「しかし被害は何もないんでしょう、命に関わるとか、強烈なダメージを受けたとかいう。今耳慣れないことを言ったね。怪獣が『ここにいるよ』って歌っていたとか」
「言いましたよ。そのとおりですから」
「君ねえ、怪獣が人間の言葉を遣って『ここにいるよ』って歌ったんだって?」
「だって、その通りですもの。本当に歌って現れたんですよ。赤い舌をチロチロ出して。それで私たちは、怖ろしくなって逃げ出したんだけれど、私たちさえ、信じられないくらいなんですよ」
「実害もなし、怪獣が出たかどうか、私たちも信じられない。そんなことで警察が出動できますか。国民の税金なんですよ。そんなことに無駄に遣っていられますか。動物園から猛獣が逃げ出したのなら、そういう情報も入るはずなのに、それもないし。夢を見るとか、幻を見るとかいうんなら、精神科に行くんだね」
 そう言って電話は切れた。みんなは恐怖に青褪めて、救済を待っていたが、二番目に偉い役員の暗い顔を見ると、何人かは自宅に携帯で履物を持ってきてくれるように頼もうとしたが、これもまた怪獣の話をして、信じて貰えなかった場合のことを考えると、自信をなくして仲間と顔を見合わせるだけになった。
 靴を履かずに逃げ出してきたFの母親の家は、四五軒先だが、一人として靴を取りに行く勇気のあるものはなかった。その家の主であるFの母などは、まだ誰とも話しもできずに唇を震わせていた。
 結局地区婦人部班長のコケが、夫に電話をして、履けそうなものをかき集め、車で迎えに来てくれることになった。細かなことは家に帰ってから話すと言った。コケの夫は、昨夜Fの母親〈キヌ〉が電話で怪獣の話をしているので、呑み込みは早かった。
「また出たって?」
 そう言って、彼は黙りこくってしまった。「あなた…」
 と心配したコケが携帯に呼びかけた。
「ふん」
 と返事があって、とにかくすぐ迎えに行くということになって、サンダルやらスリッパやらをかき集めて車でやって来た。一度では乗り切れず、二度ピストン輸送して、家に避難すると、コケが夫に一部始終を話した。
 コケの夫は康夫と言って、私立高校の事務長をしているが、激務がたたって精神を病み、現在休職中だった。
 この夫婦には、大学生の息子と高校生の娘がいる。この二人ともコケのいる新興宗教教団に加わっているが、夫の康夫だけはいくら説得しても、首を横に振るだけだった、精神を病んでいるのも、その祟りだと家族にやかましく言われても、夫は逆に、家族がつまらぬものに向かっているから、その皺寄せとして自分に禍が降り掛かってきていると言ってきかないのだ。
 そんなことから、Fの母親、キヌの今回の怪獣騒ぎは、人ごととは思えない大変興味のある事件であった。彼は昨日電話で伝えてきたキヌの話を、事細かにコケに説明を求めた。「私にそんなにしつこく訊いたって、分るわけないでしょう。見たのは私じゃないんだから。明日まで待ちなさい。彼女を説得して、痛いところを吐かせてやるんだから。そしたら、彼女悔いて、床に手をついて謝るから。さんざん教祖様のことを扱き下ろしもしたんだから」
「ふん、俺はその逆だと思うがね」
「あなた、その、ふんとやるのは止めて頂戴。子どもじゃないんだからね」
「ふん、それじゃ、他にどんな言葉があるというんだよ。ばかばかしい宗教話を、あっちこっち繋げて話すのに相応しい、接続詞とか間投詞とか言うのがあんのかよお。ふんばかばかしい」
「また、それだから。私が注意してから、もう二回目よ。それでは復職は当分お預けね。少しはしっかりしてね、あなたはそれでも、我家の大黒柱なんですから」
 というわけで、康夫は怪獣話の成行きに興味津津だったのである。彼が車での送り迎えを気持ちよく引き受ける腰の軽さにも、そのあたりの事情が窺えるのである。
 婦人たちが車座になった後方に少し離れて、康夫だけ肘掛け椅子に腰掛けて足を組んでいた。すぐ前にデスクがあったし、そこから椅子を引き出した感じで、日頃の生活態度の一こまに過ぎなかった。彼からはキヌがもっとも離れた位置に坐っていたが、離れているほうがよく観察できるというものだった。キヌは唇の震えこそ止まっていたが、青褪めた顔の色は引いていかず、開け放してきた家のことが不安になりはじめていた。といって、独りで帰っていくのは怖ろしくてできるものではない。息子のFに伝えたくても、携帯を持たない彼女には叶わず、電話を借りようにも、気兼ねが重なって言い出せずにいた。また息子に話すにしても、どう切り出したものか、話しようがなかった。そんなこんなで、成行きに任せて、今に及んでいるのであった。
 コケと二、三人の婦人が話した後で、康夫が言った。
「その怪獣というのは、たとえば今まで見た動物の中で、何に一番近いですか」
「毛がないから猿ではないし、痩せているので、カバとかサイとも違う。動物図鑑にあんなのいたかしら」
「怪物の中ではどうですか」
 と康夫が言った。「たとえば、コリンパンザウルス。そういっても、俺も分らないけど」
「あれはぬいぐるみとか、合成革でこしらえたようなもんじゃないわね。気味悪いよ、あの肌をすぐ傍で見たりしたら。それがいきなり、二倍以上高くなったのよ、私のすぐ前で。ワーッと襲い掛かられそうになって、私は逃げ出したんだから」
「私だって、そうだわ。はっきり身の危険を感じたから、逃げ出したんだもの」
「その身の毛のよだつような怪獣が、打って変わって「ここにいるからね」なんて歌を歌っていたんでしょう。俺はそこで分らなくなってしまうんだよね。そんなに生々しい肌をした獣が、それとは相容れないような歌を歌うというのは、一体どんな目的があるのかですよ」
 康夫が身を乗り出すようにして力を入れた。
「私もそれは感じたわ。昨夜お電話もらったときは、何かの勘違いくらいに思っていたんだけれど、さっきの歌声は本物よ。間違いなく、あの獣の声で歌っていたわ。独特の渇いたようながらがら声で、節はちゃんと「ここにいるよ」だった。何か必死に、その歌を届けようとしているみたいだった。そこがやっぱり相容れないわね。あの気味の悪さと、歌を届けようとする一途さ」
 と康夫の妻のコケが言った。「::キヌさんなんか二度目なんだから、もっと分るわよ。ねえ」
 コケはキヌを振り返った。キヌは間に二人挟んで、コケと同じ側に坐っていたのだ。
「あのときは私、他のことに気を取られていたから、はっきりはしていないんだけれど」
 とキヌは声をかすれさせて言った。長らく怯えに閉じ込められていて一言も話していなかったので、喉の渇きが酷かった。隣の婦人にすすめられて小瓶のジュースで喉を潤すと、話をつづけた。「扉の内側から、あの怪獣のギスギスした下品な歌声だけでなく、女性の声が洩れていた気がするんですよ。文雄の奴、CDを鳴らしっ放しで出かけた、なんて思ったんですから。でも圧倒的に響いてきたのは怪獣の歌で、CDの女性の声は、伴奏というか、カラオケのバックミュージックのようにして、歌っていたんだわ。そのときは家の中には怪獣のほかは誰もいなかったのだし、訪問者があるなんて、知っているはずはないから、あの怪獣はただ歌が好きで、特に「ここにいるよ」が気に入って、歌っていたんですよね。自分の口で歌って、自分の耳で聴いて有頂天になっていたんですよね。ところが今日現れた怪獣は、自分で歌うだけではなく、人にも自分の歌を聴かせようとしていた。
 私今になって考えるんですけど、あの怪獣を見て、気持ち悪いとか、襲ってきたとか言っているけど、実際に危害を加えてなんかいないんですよね。私は息子の住いと私の家と二度出会っているんだけど、一度も襲われてはいないし、攻撃されてもいない。それを一方的に悪者と決め付けてしまっている。そこに問題がある気がしてきたんです」
「そうよ、だからキヌさんが教団を辞める理由なんかまるでないのよ。息子さんが怪獣にされてしまうしるしだなんて、慌てふためく必要なんてこれっぽっちもなかったのよ」
 とコケが言った。
「そっか、そういうことになるのか」
 キヌは引け気味にそう言って、自分で語ったことと気持ちのそぐわなさを感じていた。
「一概に、そうはいかないんじゃないかな」
 とコケの夫が割って入ってくる。彼は自分だけ仲間外れにされたところにいて、昨夜キヌが電話で教団への疑問をつきつけてきたことを、味方が現れたように思って頼もしくさえ感じていたのである。それがまんまと丸く収まってしまうようでは、心もとないというより、この一件にはもっと深い洞察が秘められているように思っていたのである。
 康夫はつづけた。彼は私立高校の事務長ではあっても、教える立場ではなく、激務が祟ったとはいえ、今回精神を患い、休職して精神科に通院している身とあっては、誰も本気になって相手になる者はいなかった。そこに降って湧いたように現れたのが、キヌという未亡人の宗教上の迷いと足掻きだったのである。それは彼の置かれた現状を突き動かす問題でもあった。今退いてはならないと思った。今キヌから手を引くことは、自分を亡き者とするに等しかった。
「ここで注目しなければならないのは、何といっても「ここにいるよ」と言っている歌の内容だよ。その怪獣が何らかの動物の突然変異であろうと、霊的存在の幻であろうと、かまわないんだね。抱えているのは「ここにいるよ」っていう、まさにそのことを突きつけてきているからさ。それは何か。ここにいるよって歌う、その存在の根本は何か? 
 俺もこんな病を患って、人間の儚さ、人生のむなしさについてとことん思い詰めて考え込んでいたんだけどさ……」
「あの怪獣は、絶対に霊的な存在ではないと思うよ」
 と、この中ではもっとも若い女性が言った。「だって、手〈前足〉で襖を開けて登場したんだもの。霊だったらスーと突き抜けて、物を手で開けるなんてしないでしょう。それに声を張り上げるものだから、生温かい唾だってかかったわよ。あまりの怖ろしさに、手が唾で濡れたかどうかまでは見ていないけど」
「私もそう思う。絶対本物の動物よ、あれは。人間の歌を歌えるんだから、凄い天才よね」
 と若い女性の隣にいた婦人が言った。
「天才だわ」
 何人かがそれに和した。
「もし、その動物が人間で、それだけ天才呼ばわりされていると、まず自分を神に並ぶものとしてしまうだろうね。そこから神は手の届くところにあって、自分を神にしてしまうのは時間の問題だよ。自惚れ、自画自賛は一番悪魔の入り易い土壌なんだ。その点動物のほうが偉大だよ。犬の中には、あまりおだてると、天狗になって人間を自分の下に置いて家来のようにするらしいけど、それだって、その家族の中で一番偉くなるくらいのものさ。
 コケの夫は信仰心がないということで、グループの中で信用がなかったから、もっと話したくても、婦人たちの間で真剣に聞くものはいなかった。一人キヌだけは違っていて、群れの中から首を伸ばして彼のほうを見ていた。
 二、三人の婦人はそわそわして、自宅に電話をするものもあった。
「駒子、お母さんねえ、ちょっとトラブルがあって、少し遅くなるから、カレーライスで我慢してね。親子丼でもいいけど。お母さんもう少ししたら帰るけど」
 トラブルなどと語ったもので、その中味を訊いてきたらしく、「うん、それは帰ってから話すけど。どうせお父さんは遅くなるから、それで済ましていてね」
 他の婦人の電話も似たようなものだった。
「キヌさん、あそこに帰るの気が重いわねえ。もういないと思っても、あのまま逃げ出して来たんだもんね」
 コケが言った。ほんとにねえ、と他の婦人も、人ごとではない、といった風情である。
「息子に電話して、泊まりに来て貰おう思うの」
 とキヌは言った。そこまで言っても、電話を貸してくれとは言い出せなかった。
「僕が送っていくよ」
 この一言で、みないっせいに帰り支度をはじめた。
「キヌさんの方向に行く人、乗せてって貰うといいわね」
 とコケが声を張り上げる。乗せて行って貰おうかしら。二、三そんな声もあがった。ところで、履き捨ててきた靴のことはどうするつもりなのだろう。誰もそれを口にするものはいなかった。コケの靴も、そこにあるはずなのだが。
「あなた、鞄どうする?」
 とコケが一番若い女性に声をかけた。靴もそうだが、この一個の鞄もオオトカゲの子が窓から投げ飛ばしていたのである。
「大切なものはみんな家に置いて出たから、いいの。中味はティッシュとか、そのくらいのもので、あとは百均の安物ばかり」
「主人に持ってきて貰うといいわね。何でもなく、無事だったらいいけど」
 とコケが言った。危険な場所に踏み込んで行く夫を気遣う気色も、どこかにあった。それは当然、その家の住人であるキヌにもダブって言えることだった。地区の班長としても、気遣いは当然といえた。
 康夫がいよいよ立ち上がるとき、
「玄関に脱ぎ捨ててきた靴、お願いしようかしら」
「私も」
「私も」
 と続けさまにそんな声がかかった。
 間もなく外に車の停まる音がして、キヌと途中に家のある三人が出て行った。キヌが借りて履いて出たのは、来客用の花模様のスリッパだった。
 三人の婦人をそれぞれ家の前まで送って、キヌ一人になると、康夫は車をスタートさせた。キヌは助手席に坐っていた。
「みんなの前ではどうも話しづらかったんですが、これはどうも神がかりの感が強いですなあ」
 康夫はポツリと洩らした。
「と、おっしゃいますと?」
 キヌは聴き逃すまいとして、耳を澄ました。エンジンの低い唸りのなかにも、康夫の声を逃してはならないと思った。行く手には、怪獣が身を潜めているかもしれないのである。家に到着するまでの間に、今日持ち上がった出来事の結論を得ておかなければならなかった。家の前で三人の婦人たちを降ろして来たようにキヌも自分の家の前に降ろされて、康夫が帰ってしまう不安があった。
「怪獣が好んで歌っていた〈ここにいるよ〉に重い意味がありますね。怪獣自身は、その言葉の持つ意味を分っているのか、どうかは怪しい。しかしそんなことは、どうだっていいんです。この際注目しなければならないのは、いったい何がその歌を歌わせたかということが、問われなければならんのですな。私もこの病気を患い、休職扱いになってからというもの、あるいはその前からかもしれないのですが、ずいぶん悩んだものですよ。今も依然悩みの中にあるのですが、そのせいで、昨夜キヌさんから、家内にあった怪獣のお話は、私自身に向けて発せられたことばのように思えて、考え込みましたね。
 怪獣の歌った〈ここにいるよ〉ってのは、何と聖書の中にあるんですなあ。家内にあったキヌさんの電話の後、調べてみたんですが、あれは旧約聖書イザヤ書の52章6節に、こう言ってるんです『それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる、その日、「ここにわたしがいる」と告げる者がわたしであることを知るようになる』こう記されているんですよ。それを見たとき、これだなと直感しましたね。この鈍い男が、直感するなんて、それこそ前代未聞と言っていい。しかしその後、この思いは動かなかった。
 その結果が、本日のハプニングでしょう。当の怪獣が、その歌をひっさげて登場したのですよ」
 康夫はそこまで話して、ハンドルの上に項垂れて黙ってしまった。
「私も鎮まって考えなければいけない重要なことのようですね。昨日今日と、あまりにも事件に振り回されて、目先のことばかり考えていたような気がします。息子が怪獣にさせられてしまうなんて、浅はかなことばっかりに頭がいってしまって」
 キヌは言って、瞼の上あたりを押さえた。疲労が痛みのようになって残っていた。それが取れた後に、真理が啓けてくるような漠然とした思いがあった。
 キヌの家が迫ってきた。門の木戸が開いていた。玄関の扉は閉まっているが、それは自然に閉まったもので、当然鍵はかかっていなかった。
 康夫は車を降りてついてきてくれた。
「本当に申し訳ありません」
 車を降りるときも、謝して頭を下げたが、今度はありがたみが込み上げてきて、さらに深々と頭を下げた。
「いいえ、とんでもない。ご婦人の独り住まいを訪れるのは、芳しくありませんが、今回は場合が場合だけに、失礼させていただきますよ」
 康夫は言って、家の中まであがり込んできた。キヌは室内の灯りをつけて回り、はっと揺さぶられたように、玄関へ引き返した。
「靴がないわ、一足も!」
 キヌはたちまち怖れに突き落とされて叫んだ。「ここにたくさん揃っているはずなのに」
「まさか、怪獣が靴泥棒なんてはずはないでしょう」
 康夫もやって来て、驚いている。
「ええ、じゃ、どこへ消えたのかしら」
 彼女は怯えを引き摺ったまま、客間を覗いて「鞄もない」
 と絶句した。それから沼に面した窓を開けるなり、目を輝かせた。
「靴が光っている。あそこにも、ここにも。靴の花壇みたいに、すぐそこに鞄もある」
 キヌは胸撫で下ろすように言ってから、表へ鞄と靴を拾いに行った。康夫もついて来てそれを手伝い、車に積み込んだ。
「怪獣はいったいどういうつもりだったんだろう。臭いを嗅いで、キヌさん以外はみんな敵と見たんだろうか」
「いいえ、私の靴もありましたから」
「では、あの群れにいると、キヌさんも敵とみなされる」
 康夫は半ば冗談で言ったが、当たっていないこともない、そんな思いもどこかにあった。「もう少し、いてくださいね。私ひとりでは不安でなりませんから」
 とキヌは頼み込むように言った。
「承知しております。僕も一人で留守番をさせられたことがありますので。研修会だとか祈祷会だとかいって、一週間も出かけたままのこともありますしね。そんなときはカレー、カレーの連続ですよ」
 康夫は言って、キヌにつづいて家に入ってきた。
「どこか異変はありませんか?」
 彼は部屋を物色しながら訊いた。
「お菓子がきれいになくなっていますわ。このお皿には山ほど出しておきましたのに」
 とキヌが言った。
「すると、ロボットという線は消えますね。霊的な存在でもない」
 康夫も客間を覗いて言った。それからパソコンの置かれた書斎に来て床に目を留めた。
「襖というのは、これのことですね。ではこの部屋から、客間へ踊りこんだのですね。見てください。この床の絨毯が荒れて、そそけだっている」
 彼ははっきり足跡を発見したかのように、床を指差している。
「本当ですこと。私、今朝も掃除機かけたはずですのに」
 キヌも驚きを隠しきれなかった。
「相当爪の鋭い動物ですよ、これは。動物のシワザとは言わないでおきましょう。動物なのに彼等の品性を買われて用いられたのでしょうから」
 と康夫は言い、リビングのソファをすすめられて腰を下ろした。
 キヌは流しに立ってお茶を淹れている。
「静かですなあ。沼の畔だけあって」
 康夫はぽそっと洩らして、怪獣が歌を口ずさみながら現れるのを待ちかねているようでもあった。
「静かすぎて怖いこともありますのよ。でも皆さんがいるときでよかった」
「怪獣のことですね」
「ええ、でも先ほど車の中でうかがったお話、身に迫ってくるものがあります。他に理由が考えられないほど、真相に迫っているというか。それでしたら、生きた動物でなければいけないわけですし、しかも稀に見るような天才でなければ……」
「そうですとも、凡人の僕にもそれが閃いてから、退いていかないのですよ」
 康夫はキヌの出したお茶を啜りながら言った。
「もしお口に合うようでしたら、これ召し上がってください。怪獣が残らず食べていったらしいのは、この和菓子なんです」
 キヌが冷蔵庫から取り出した菓子を、康夫の前に置いて言った。
「おっ、それはまた、珍獣ならぬ珍菓子というところですな」
 彼は一個をつまむと、セロファンの包みをはがして、見つめていた。そして一口頬張ると、
「これはおいしい。贅沢なお菓子です。怪獣どころか、人間にとっても高級品ですよ。おっと、今の発言、怪獣を下等に扱っていましたね」
 羊羹をケーキで巻いた和菓子で、息子の文雄の好物でもあり、先日も冷蔵庫に入れて帰ったのである。オオトカゲの子の口にも入り、彼はその味を覚えていて、今日も婦人たちが逃げ去ると、真っ先に見つけて、目を輝かせたのである。
「ところで、怪獣殿の侵入経路と退路は、いったいどこなんでしょうな。婦人どもが丁々発止とやっていて、気づかれはしないとしても、玄関の扉を開けて入るには、力が要るでしょうし、まあ力なら出せるにしても、勇気ですよね。〈ここにいるよ〉を歌いだす前に発覚してしまえば、せっかくの苦労も水の泡となってしまうでしょうし」
「侵入口なんですけど、さっき調べてみましたところ、裏口が少し開いていました。昼間は裏の木戸は施錠していないんです」
 とキヌは言って、裏口の方へ身を乗り出し、場所を示した。
「ちょっと失礼して」
 康夫が立ち上がって来て、裏口の木戸を開いてみた。軽く開いて、閉じるのも容易にできた。「なるほど、これなら楽々ですね。しかしよく見つけたものだ。天才だけあって、嗅覚も抜群なんでしょう」

 康夫は間もなく帰って行った。そしてキヌは、車の尾灯が残っているうちに、息子に電話をしたのである。怪獣の怖れはまったくなくなっていた。したがって、息子のFに泊まりに来てくれなどとは言わなかった。


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