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文芸の里コミュのコモドのオオトカゲの子・第9回 〈目覚めの巻〉

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         J.S. Bach~Wachet auf, ruft uns die Stimme BWV 140 (IV:Chorale)




コモドのオオトカゲの子・第9回〈目覚めの巻〉


 まず母親は膝の高さまでペンキのはがされた跡に目を留めて、
「これだわ、さっき携帯で、ドアを猫にやられたとか、言っていたのは。でも猫がこんな悪戯をするかしら。何のために?」
 Fは母親にいらぬ心配をさせてはならないと思い、前もって教えておいたのである。彼女が来る前に補修するつもりだったが、生来のものぐさもあって、延び延びになっていたのだ。職業柄、色を扱うのには馴れているものの、持ち合せのアクリル絵具に、扉と同じ色がなく、混色を作るにしても、斑になるのではないかと考えあぐねていたのである。
 母親が猫の爪痕を見て、不審に駆られている間、玄関の厚い扉をとおして何やら音響が洩れてくるのに気づいた。ほかの扉からではなく、どうしても目の前の扉から洩れ出てくるのだ。しかし息子は、これから編集者と会うと語っていたから、いないはずだが。では中にいるのは誰だろう。
 彼女は猫の引っかき疵にはじまって、疑心暗鬼のなかにいたから、まずブザーを押し、再度押し、扉に耳をすませる。やはり音楽は聴こえてくる。その中には歌声が入っている。この声は女性かしら。いや男性の声も混じっている。聞いたこともないがらがら声だ。二十秒待っても、三十秒待っても、人の近づく様子はなかった。CDを消し忘れて出たのかしら。彼女はたまらず、いつもするように合鍵を静かに回した。
 ドアを開くやいなや、耳とは限らず、顔面から手、ストッキングの脚へと、圧倒的に襲ってきた音響と歌の風圧……。
 母親はそれらに押し倒されそうになりながら、それに抗して室内に上がり込んでいった。CDプレーヤーの消し忘れなんてものじゃない。生身の人間の気配が濃厚にしている。あの息子め、母親を騙して、今までこんな悪さを働いたことはなかったのに、いったいなんということかしら。
 ベイビーボーイ/ここにいるよ/どこにもいかないからね/どこにもいけないからね/まってるうよ
 リビングに一歩踏み込めば、全開にしている隣の書斎は丸見えになっている。母親はそこで、あるまじき光景を目の当たりにすることになった。
 息子Fの見るも無残に変貌したあられもない姿である。この醜悪怪奇な光景は、何としたことだろう。あまりにも惨く、信じがたい、愛する独り子の、なれの果てともいえる姿なのである。彼女は錯乱状態に陥っていたが、それでも心の隅に理性が働いていた。その理性が母親に向かって囁きかけるには、彼女が新興宗教教団のYXに傾いており、二日後に生花のグループの慰安旅行というのは、まったくの出任せで、その宗教組織に新しく参加したものへの教育という意味合いが濃厚だったのである。
 今、目の前に展開しているこの光景は、彼女がこの新興宗教に手を染めたことへの祟りだと、単純にストレートに受取ることができた。その宗教に帰依しなければ、本人は勿論その家族まで、後の世にグロテスクな怪獣に生れ変わってくると教義に謳われているが、帰依した結果として、息子がトカゲじみた怪物にされてしまうとは、どういうことなのだ。
 ベイビー・ボーイ/ここにいるよ/どこにもいかないよ/いつもいっしょにいるよ/私はどこにも行かないからね/いっしょにいるよ/今までと同じく、いつまでもいっしょにいるよ/待ってるーよ/待ってるんーだよ/間違ったとこに行くんじゃないよ/私はここにいるからね/ベイビー・ボーイ/私はどこにも行かないよ/ここにいるよ/待ってるーよ/行かないよ、行かないよ、そんなとこに行けないよ/私はここにいるんだよ/待ってるんだーよ/
 インターネットでは、YouTubeの画像とソロの音声がけたたましく吠え叫び、それに合わせ、もっと大きく、トカゲの化物に変貌した息子が声を張り上げている。両手を振り上げ、腰を振り振り絶叫している。
 母親はあまりの息子の姿を受け容れがたく、気が遠くなっていった。と同時に、肉体の機能が失われて、立っていられなくなり、書斎のほうに足を向け、リビングの中央へ向けて倒れ込んでいった。そのとき、息子が普段食事に使っている木椅子の背凭れを撥ね退けるかっこうとなり、椅子は書斎へと単独で飛び込んでいき、母親は椅子のあった床へと崩れ落ちた。意識は断たれ、気絶である。
 転げ込んできた椅子によって、オオトカゲの子は、はじめて異変に気づいた。振り向くと、リビングに女が倒れこんでいる。
 何だ、この女は? いつ入り込んで来やがったのだ。猫なら分るが、人間の女に化けた猫など、何のゆかりもない。やりこめた犬どもでもない。女に近寄って顔を物色してみる。そもそもスカートをつけた犬なんて、ありえないし、覗いてみても犬の顔はしていない。
 そのうち、これがFの母親であると気づいた。彼女の手から合鍵がはみ出ていたからである。今日登場するなんて、約束が違うじゃないか。母親が掃除に来るのは、二日後のはずだった。
 あっ、とトカゲの子は自分の額を叩いた。さっきの二回の長い電話だ。Fが危急を告げるために、かけてきたのに違いない。賢い俺様ともあろうものが、何たるうっかりミス。
 トカゲの子は仰向けに寝ている女の顔に近づいて、鼻の動きから息をしているのを確認した。麻酔銃で撃たれた形跡もないから、動物の仲買業者が、自分の母親のときのように、体を運び出すためにやって来ることもないだろう。もしそんなものが現れたら、断固として阻止しなければならない。自分の母親を守れなかったトカゲの子としては、今こそ命をかけて守らなければならないと思った。
 トカゲの子はシンクに跳び乗り、かかっているタオルを一本引き抜き、蛇口をひねって、水で濡らした。冷やせば意識が戻ることを、体験的に知っていたのだ。崖下に転落して気を失った同族のトカゲを、せせらぎにつけて、元に戻していた例を思い出していた。
 蛇口から迸る水をふんだんにタオルに含ませることはできたが、絞るのは苦手だった。冷やすのは、水の冷たさであり、その水を切るのは邪道だ。まったく必要ないことだ。そう断定して、濡れそぼつタオルを母親の顔に載せた。
 これが、主人の母親なんだ。被せたタオルの端を摘まんで持ち上げ、覗き込んで呟いた。主人のFは、いい男なんてお世辞にも言えないが、この母親はけっこういかす部類だな。すると父親似ということか。オレの父親もあの一族の中にはいるはずだが、まったく見当もつかないのだ。おそらく父親本人も分らないのではないか。トカゲの子にとって、産むのが母親であり、父親など、あってないようなものだった。いや、そんな外面的なけじめなどつけなくていい。子どもの親は、母親だけなのだ。だからFにしたところで、父親は問題ではなく、目の前にいるのが紛れもなくFの親だった。それなら、大事にしなければならない。
 五分も経たないうちに、タオルを水で濡らしにいった。タオルを顔からはがすときと、水道の水で濡らすときの温度差で、母親には熱があると読んだ。その熱が冷めれば、母親は生き返るのだ。冷たくなった体はどうしようもないが、熱い体は甦る。そう信じていた。そう信じて、母親の脚や腕や腰を、爪を立てないようにしながら、擦ったり、揉んだりしていた。
 
 オオトカゲの子が懸命に介抱しているとき、玄関に荒々しく人の気配がして、Fが駆け込んできた。彼はいやな予感があって、編集者との仕事の手続きもそこそこに切り上げて帰って来たのだった。
 Fはトカゲの子には無言で、母親のタオルを引き剥がし、その母親の頬を二度三度、平手で殴った。
「母さん!」
 そう叫んで、手の脈を調べた。それから母親の肩に手をかけて揺さぶり、また頬に平手を浴びせた。母親の目許が痙攣し、ぱちぱちっと目が開いた。意識が戻ったのだ。
 トカゲの子は嬉しさが込み上げるのと同時に、パソコンを消しに走った。罪を隠そうとするのは、切迫した事態のさなかではない。少しく余裕の出たときである。
 トカゲの子はパソコンを消すと、浴室に駆け込み、浴槽の下に身を潜めた。オートカーンの歌声が微かに浮上してきた。ここにいるよ/どこにもいけないからね/と彼は口ずさんだ。

 Fと母親のやり取りする声が洩れてきた。オオトカゲの子は、はじめて耳にする母親の声を聴き取ろうとして、浴室の戸口に近づいて少し戸を押し開いた。声がしてきて、その中に自分が登場しているので、オオトカゲの子は、少し後じさりをした。犬の足に爪を食い込ませてから後は、悪いことなどしていないと思った。しかし無断で、パソコンを弄ったことが悪いことになるのなら、話は別だ。自分では悪いうちに入らないと思っても、人間の世界に踏み込もうとしたことが悪いというなら、悪いのだろう。それを言うなら、トカゲがはるばる空を渡って、成田に降り立ったそのことが悪なのである。根本が悪ければ、すべてが悪い。トカゲの子はどうもそのとば口からして、悪に身を染めているようだった。不法にこの日本に入り込んでしまったのである。
「母さんに言わなかったのは、確かに俺が悪かったよ」
 とFが言っている。何を言わなかったのだろう。トカゲをかくまっていることか。やっぱりこの俺のことだ。
「何を言わなかったっていうの? それより先に、濡れていて気持ち悪いから、文雄、お前の下着貸してちょうだい」
 と母親が言っている。
「そんなぐしゃぐしゃなタオルを、頭に載せるからだよ。ぜんぜん絞ってないじゃないか。床だって、この通り水が流れるほど濡れている」
「私は知らないよ。文雄、お前が頭を冷やしてくれたんじゃないの?」
「冗談じゃないよ、俺は今帰ってきたばかりで、母さんが倒れているのでびっくりしてしまって、頬を叩いたり、肩を揺すったりして、目覚めさせたんだよ。まったく呆れて物が言えないよ。いったい何があったんだい」
 Fは言って、書斎と襖で仕切られている奥の部屋に、下着を取りに行ったようだ。その奥の部屋は、浴室と廊下を挟んで、トカゲの子のいる前方に当たる。そこの洋服箪笥の引き出しを開け閉めして下着を探している様子だ。その文雄に向かって、母親が声を張り上げている。
「あっ、思い出したわ。文雄、お前は間違いなく、角崎文雄かい?」
 息子が間に合わせに母親の着られるものを抱えて、リビングに戻った。その息子に母親は、今しがたしたと同じ詰問をする。「お前は、本当に角崎文雄かい?」
「変なこと言うなよ。俺は母さんのことが心配になって、編集者との打合わせもそこそこに切り上げて駆けつけたんだよ。そうしたら母さんはのびていたんだ。一体どんなことがあって、倒れるまでになったのか、原因を説明してくれよ。風邪を引いたら困るから、すぐ着替えをして。上着も取り替えたほうがいいね。男物のセーターを出してくるから」
 Fは言って、また奥の部屋へ向かった。その前に書斎に跳ね飛ばされて横たわっている木椅子を起こし、リビングに運んで置いたようだ。
 母親が着替えをしながらぐつぐつ言っているのが、中味は分らないが聞こえる。トカゲの子はまだ自分が登場していないので、のんびりしているが、話の中心に上ってくるのは時間の問題である。それは覚悟していた。Fが最初からオオトカゲの子を持ち出さないのは、どういうつもりでいるのか、はかりかねた。できることなら、隠しておくつもりなのだろうか。そうした場合、母親の卒倒の理由が曖昧なまま残されるのではなかろうか。
 オオトカゲの子は落ち着かなかった。どうせ明るみに出されるのなら、早く決着をつけてもらいたかった。母親が怪獣を目撃して、びっくり仰天、卒倒するまでを再現するというなら、すぐにも出て行きたかった。パソコンからもう一度オオトカーンを呼び出し、歌って貰い、自分はそれに合わせて力の限り歌いたかった。先ほど熱唱しているので、うまく歌える自信があった。しかも今度は、独りで酔っ払うのではなく、観客が二人もいるのである。
 Fと母親の真相の究明がはじまった。母親は自分が、このアパートのFの扉の前に到着した時のことから語っていった。
「文雄から携帯で扉の引っかき疵のことは聞いていたから、何とか納得はしたわよ。猫が何のために、人の扉を疵付けなければならないのか、疑問は残るわよ。でもその疑問は、次に起こることの伏線にもなっていたのよね。実際扉を開ける前から、変な音楽が中から洩れて聞こえてきたの……」
 トカゲの子はドキンと鼓動が激しく打ち、浴槽の下へ避難しようとしたが、それを堪えた。
「それで……」
 Fはそう言って、母親の話を次の場面へと促しながら、やっぱりあいつめ、やっていやがったな、最悪だ、まさかそこまでやっていたとはな、そんな呟きをしていたのである。オオトカゲの子にもその辺りの空気は充分読めた。
「ドアを開けるやいなや、音響がふくれあがって、私を襲ってきた。でも、猫の引っ掻ききずに不審を持っていたから、私はそれほど怖れはしなかった。これは何かあるな、という思いに繋がった。そしてついに、次の場面よ、私を引き倒したのは。倒れはしたけど、私にはまだ冷静に観察してやろうとする理性が働いていた。それも最初に見た猫につけられた引っかき疵への不審よ。これは何かあるぞ、という予感というか、それに耐えるための備えというか、そういった覚悟を与えてくれたのよ、きっと。そうでもなければ、私はあの場面を見て、ショック死していたと思う。間違いなく、心臓麻痺を起こして死んでいたわよ。気絶はしたけど、また一時意識を失いはしたけど、今こうして文雄と話ができているのよ」
 母親はそう言って、手で額を押さえた。まだ遭遇した衝撃から完全には立ち直っていないらしかった。
「それで、肝心の大変な場面というのは、何なんだよ」
 Fは想像はできたが、母親に語らせる必要を感じて、そう言った。
「今話すから、少し待ってて」
 母親が喉の辺りを擦っているから、水が欲しいのかもしれないと思い、グラスに水を注いできて、彼女の横のテーブルに置いた。母親は水を一口含むと、かつんとグラスを音高くテーブルに戻した。
「文雄、お前が、怪獣にさせられ、声を張り上げ、手を挙げ、腰を振り振り、変な歌を歌っていたのよ。インターネットの画像からも歌が来ていたわね。女の歌が」
 Fはちらっと、パソコンのある書斎のデスクに視線をやった。デスクの下の暗闇に、浴室の腰掛が忘れて置かれている。コモドのオオトカゲの子どもめ、と苦々しく思ったが、母親が犯人を特定していない限り、言うべきでないと考えた。
「母さんは、夢でも見たんじゃないの? 俺は怪獣映画も好きじゃないし、ドラえもんだって見ちゃいないからね」
「ドラえもんみたいに可愛らしければいいけど、そんなもんじゃないのよ。見ただけでザワザワっとする、化け物だわね、あれは。青褪めた肌の色で、あの身の振りなんか、小生意気で、私はそんな化け物に文雄がさせられたと思ったから大変だったのよ」
「文雄!」
 母親は話の途中で息子の名を呼んだ。それからきっとした目で、文雄を見据えた。
「そんな気持ち悪い目で見ないでくれよ」
 とFは言った。
「お前本当にあんな化け物には、二度とならないね。お母さんにそう誓って頂戴。お母さんも誓うから」
 と母親は真剣に息子に頼んで言った。
「さっきから言ってるけど、俺は一度だって怪獣になんてさせられちゃいないんだ。それがどうして、二度させられることになるんだよ。それより母さんも誓うって、一体何を誓うんだよ」
 とFは言った。
「それなのよ。今回文雄が怪獣にさせられた第一の理由というのは。文雄に嘘をついて悪かったわ。お母さん謝る。二日後に行く生花のグループというのはね、本当はYX新興宗教教団の集会に出かけることだったの。その宗教というのは、帰依しないと、本人と家族が死後、グロテスクな化け物に生れ変って、この世に現れてくることになっているの。それで私は、できる限りの奉げものだってしているし、その会の会員になる意思表示をしているのに、文雄、お前が怪獣にさせられるなんて、おかしいでしょう。それでこれは、真逆の祟りだと考えたの。その宗教に入信しないから怪獣にさせられるんじゃなくて、逆にその宗教にのめりこんだら、文雄が怪獣にさせられるというしるしを、今回見せられたわけ。だからお母さんその宗教集団からは足を洗うし、二日後の集会もすっぽかすわ」
 母親は言って、また息子をしげしげと見やった。「ここにいるのが、本当の文雄だよねえ、また怪獣に戻ったりしないよねえ」
「母さんが、その新興宗教に染まったりしなければね」
 Fは釘を刺すためにそう言った。
「もちろんよ。きっぱりやめるわ。あれだけ自分のすべてを奉げて、これからは教祖さまだけを信じて生きていこうとしていたのに、まったくその逆の結果を見せられてしまうんだもの。ああ怖ろしい。あの生き物、背丈なんか私のお腹くらいしかないくせに、尻尾ばっかり太く長くて、口ばっかり達者で、先の割れたピンクの舌を出して腰を振りながら、得意然として歌っているのよ。ここにいるからね/どこにもいかないよ/どこにもいけないからね……」
 Fはここで、トカゲの子の間違いを正してやる必要を感じて口を挟んだ。
「そこ、本当に『どこにも行かないからね』じゃなく、『どこにもいけないからね』って、歌っていた?」
「おまえまさか、やっぱりあれは文雄だったの?」
 母親はようやく晴れ間を見せてきていた顔を、急激に翳らせて、そう訊いてきた。
「そういう歌詞の歌があるんだよ。そこだけ歌詞が違っているようだから」
「あんた情況に立たされたら、私だって錯乱状態で、詳しく覚えているわけないでしょう。私はただ頭に残っていたのを、そのまま言っただけだよ」
 母親はまだ胡散臭さを拭いきれない顔を残したまま、つづけた。
「お母さん、少女のときからあれほど一途に、専念していた時期はなかった気がするからね。文雄が怪獣なんかに、生れ変ったらどうしよう、その不安から、入信しようとしているのに、その気持ちには、これっぽっちもやましいものはなかったの。それなのに、あんな化け物を見せられたら、この道へ進んだらいけないと、きつく戒められたとしか言えないじゃないの。そうそう、さっき私が正気に戻ったとき、文雄が言っていたよね。お母さんに隠していて悪かったって。それっていったい、何なの?」
「ああ、そのこと」
 Fはことさら軽く言った。実際はコモドのオオトカゲの子を匿っていることだったが、ここまでくると雲行きが変わってきた。Fは少しく躊躇った後で、こう言った。そのことも母親に隠している重大事には違いなかったのである。
「実は俺、車で事故を起こしてね。人身事故にはならなかったけど、自分の脚を捻挫したのと、車が壊れて整備工場に出したけど」
「いつ?」
 と母が身を乗り出してきた。
「あれは半年前かな。酒も入っていなかったし、急いでもいなかったのに、前方不注意のうっかりミスだった。歩道に乗り上げて、車の前部が破壊したよ。車は整備に出したままで、それから車には乗っていないんだ。まったく俺らしくない、事故を起こしたものさ。歩道に人がいなくてよかったよ」
「車が壊れるほどの事故を起こしていながら、お母さんに言わなかったね」
「だから最初に隠していることがあるって、言ったじゃん」
「足の捻挫はどうなの」
「一週間ほどで治ったよ。病院にも行かなかった」
「半年前と聞いて、考えていたんだけど、その頃なのよ、お母さんがその新興宗教に誘われて、動き出したのは。今回の怪獣と繋げてみると、何かありそう」
「そうか、すると、隠さないで言うべきだったのかもしれないね。俺は母さんにつまらない心配をさせてはならないと考えて言わなかったんだけど」
 母親は携行したまま投げ出してあった食品を冷蔵庫に収め、有り合わせのもので、夕食の準備に取り掛かった。

 オオトカゲの子は、ビニール袋に入った食パンとソーセージを引き寄せて食べてしまうと、どっと疲れが出て眠くなり、こっくりこっくり船をこぎはじめた。こうなると、Fと母親の話も耳には入って来なかった。
 そこにトカゲの子が持ち出して、書斎に忘れてきた腰掛けを持って、Fが現れたのである。トカゲの子はしまったとばかり、悪びれていた。しかし今回は思いがけないことに、トカゲの子の不埒は善行とみなされ、見下ろすFの目には優しさがあった。そして慈愛の眼差しで口に指を立て、しゃべるなと緘口令を発した。トカゲの子は言われるままに、後退りし、浴槽の下へ潜り込んでいった。


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